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天啓てんけい(承前)

吉田作弥


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 前回ぜんかいには、天啓てんけい自然界しぜんかいあらわれたことにいてべていたが、今回こんかいは、天啓てんけい如何いかにして哲学上てつがくじょう、または宗教上しゅうきょうじょうおこなわれるかということにいてべたいとおもう。

 一、哲学上てつがくじょう天啓てんけい

 ひとがこのうまれるときには天帝てんてい吾々われわれ人間にんげん良智りょうち良能りょうのうさずけられたのである。これは、あたか世渡よわたりにける手引てびきひとしいものである。このさずけられたる良智りょうち良能りょうのうによって、みずからを反省はんせいしてことおこなったならば、自然しぜんてんみちり、またひとむべきみちをもるにいたるのである。

 この天帝てんていよりあたえられたる良智りょうち良能りょうのうによって、善悪ぜんあくべんじ、ぜんすときにはれぬ愉快ゆかいさや、悦楽えつらくや、満足まんぞくるのである。が、これにはんして、あくすときには、後悔こうかいや、苛責かしゃくや、はじらいや、苦痛くつうおちいるのである。そして、この良智りょうち良能りょうのうは、みずからの反省はんせい思考しこうによりて、なお愈々いよいよ発達はったつし、かくて善悪ぜんあく可否かひ弁別べんべつもなお益々ますます明瞭めいりょうとなってるのである。

 とくひらき、とくはまたすすむるものである。智徳ちとくみちすすむにしたがって、ひと愈々いよいよかみむかって向上こうじょうし、ついかみかみ愛子あいしとなるのである。かくてかみ天父てんぷとしてとうとまれ、したわれて、かみひととのあいだに、精神せいしん相流通あいりゅうつうして、神人しんじん相融化あいゆうかするのである。これがすなわ自然しぜん天啓てんけい極致きょくちあえ後段こうだんべんとする宗教上しゅうきょうじょう極致きょくちことなるものでない。

 いま、ここに、先哲せんてつ教訓きょうくんの二三をげて、そが例証れいしょうとなし、このせつあきらかにしようとおもう。

 孟子もうしいわく、「尽其心者、知其性也、知其性則知天矣。」またいわく、「道在爾而求諸遠、事在易而求諸難。」と。基督キリストいわく、「よ、かみくに汝等なんじらうちり。」と。いわく「志於道拠於徳、依於仁、游於芸。又曰吾嘗終日不食、終夜不寝、以思無益、不如学也。」と

 孔子こうし如何いかせいやしなうに努力どりょくしたかは、またつぎ言葉ことばによってあきらかである。すなわち、「十有五而志干学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲不踰矩。」と。しかして、孔子こうし自身じしんも、天性てんせいみずからを特別とくべつ道徳心どうとくしんんでいるものさなかったのである。すなわう「十室之色必有忠信如丘者、不如丘之好学也。」と。このてんよりれば、孔子こうし至聖しせいとは、がくこのむことによってなさるるものなのである。または、「有能一日用其力於仁矣乎、我未見力不足者、蓋有之矣、我未之見也。」とう。うまでもなく孟子もうし孔子こうし崇拝者すうはいしゃである、かれ天下てんかせい一人ひとりとして世人せじんこれを紹介しょうかいしているのである。かれまたこういうことをうている。「若夫為不善非才之罪也、惻隠之心人皆有之、羞悪之心人皆有之、恭敬之心人皆有之、是非之心人皆有之、惻隠之心仁也、羞悪之心義也、恭敬之心礼也、是非之心智也、仁義礼智非由外爍我也、我固有之也、弗思耳、故曰求則得之、舎則失之。」と。

 く、わずかに、孔子こうし孟子もうしの二三の例証れいしょうげたばかりでも、十ぶん心中しんちゅう天啓てんけいあるをることが出来できる、つね誠意せいい正心せいしんもっみずかかえりおもいをいたすときには、自然しぜん天啓てんけい心眼しんがん明々めいめいとして展開てんかいするをるであろう。

 二、宗教上しゅうきょうじょう天啓てんけい

 宗教上しゅうきょうじょうおい天啓てんけいがあるべきは、ひと期待きたいするところであり、希求ききゅうするところで、教主きょうしゅ修業しゅうぎょう、またそのおしえのなかふくまれた、神秘しんぴなるところとか、または神託しんたくをうけられるなどは、いずれの宗教しゅうきょうにもるところであるが、かみ自力じりょく啓発けいはつほかに、ことに、またひとえらんで、天啓てんけいけられるものである。ずそれにいて二三のれいげてみよう。

 外国がいこくことこここれき、我国わがくにでは、古代こだいには弘法こうぼう大帥たいしや、せい国師こくしがあり、くだっては、親鸞しんらん聖人しょうにん日蓮にちれん聖人しょうにん、そのおおくの高僧こうそう智識ちしきなどがある。また、雪舟せっしゅう如雪じょせつ周文しゅうぶん狩野かの正信まさのぶ狩野かの元信もとのぶごと美術びじゅつきょくたっして離脱りだつ心境しんきょうりたる画聖がせい、また其他そのた特殊とくしゅなる言行げんこう学問がくもん、または技術ぎじゅつのため、かみとしてえらばれたるものがある。しかして、古来こらい宗教しゅうきょう開祖かいそ、または高僧こうそうなかおいて、もっと卓絶たくぜつしたるものは、耶蘇ヤソ基督キリスト釈迦しゃか牟爾むにである。そして、基督キリスト釈迦しゃかも、とも亜細亜アジアせいけたものである。その教旨きょうし、その性行せいこうことにその天啓てんけいさずけられたる状態じょうたいおいて、両者りょうしゃ共通きょうつうてんがあるのは面白おもしろ現象げんしょうであり、興味きょうみあるところである。

 基督キリスト釈迦しゃかも、とも天性てんせい慧敏けいびんである。釈迦しゃか印度インド哲学てつがくつう娑羅門教バラモンきょうおさめ、当時とうじ宗教家しゅうきょうかもんあそび、幾多いくた苦業くぎょうめ、心意しんい練磨れんまして、かみ霊化れいかくるにるべき素養そやうを十ぶんそなえていたのである。基督キリスト幼少ようしょうから、父母ふぼともなん埃及エジプトけ、その進歩しんぽ発達はったつした文化ぶんかもと成長せいちょうし、その感化かんかくるのほか本国ほんごくのユダヤきょう精通せいつうし、生年せいねん三十にいたるまでくに内外ないがいいて、さずけられたる天賦てんぷと、努力どりょくと、熱心ねっしんとにより、その使命しめいはたすべき準備じゅんびをなされたのである。しかして彼等かれら釈迦しゃか基督キリストも、如何いかにして天啓てんけいけたか、このてんかんがえてるに、彼等かれら両人りょうにんとも、ただ熱心ねっしんに一向上こうじょう瞑目めいもく没頭ぼっとうし、虚心きょしん忘我ぼうが宇宙うちゅう神霊しんれい融合ゆうごうして、かみ感受かんじゅし、此処ここかみひとくだり、ひとかみのぼり、神人しんじんあいだ意想いそう相通あいつうじ、満々まんまんたる精霊せいれいあおけ、飽迄あくまでこれその心胸しんきょうおさめ、釈迦しゃかは六ねんにして雪山せつざんくだり、基督キリストは四十にちにして砂漠さばくでてとも人界じんかいはいったのである。

 ここにおい釈迦しゃか基督キリストまった霊化れいかひととなったのである。すなわち、釈迦しゃか基督キリストも、山上さんじょうまたは砂漠さばくおいて、断食だんじき祈祷きとうって修養しゅうようみ、ひかりとなり、教主きょうしゅとなり、救主きゅうしゅとなったのである。

 そして、基督キリストいたところ奇蹟きせきおこなった。種々しゅじゅ難病なんびょう治癒ぢゆし、なやめるものいたわたすけた。そのくちひらくにあたっては、「あらためよ、天国てんごくちかきにり。」とおしえ、そして彼等かれらすくったのである。基督キリスト釈迦しゃかともに、誠意せいい孜々ししとして、みちおしひとすくうや、幾百いくひゃく幾千いくせん人々ひとびとは、よろこんでかれしたい、かれしたがってその啓発けいはつけたのである。

 日蓮宗にちれんしゅう修業者しゅぎょうしゃ房州ぼうしゅう中山なかやまおいて、九十にち断食だんじきと、寒中かんちゅう水行すいぎょうて、おおいなるれいちから発揮はっきし、人々ひとびと難病なんびょう治癒ぢゆするとて、したわれうやまわれたということである。わたくしも、また斯様かよう霊験れいけんはあることしんずるものである。いわんや古今ここん絶倫ぜつりん教主きょうしゅ救主きょうしゅともうべき基督キリスト釈迦しゃかおいては、なお一そう、この霊験れいけんがあったこととおもわれる。

 上述じょうじゅつごとく、天啓てんけいは、偉大いだいなる聖人せいじん、または宗教しゅうきょう開祖かいそあるい高僧こうそう智識ちしきとうけたところのものであり、また異常いじょう事蹟じせき彼等かれらによっておこなわれたのである。しかし、天帝てんていはまた、我等われら親愛しんあいなる天父てんぷであることをしんずるものは、鋭意えいい専心せんしん天啓てんけいいのり、そのめぐみにあずかるべくいたしたならば、縦令たとえ彼等かれら絶世ぜっせい偉人いじん聖人せいじんのそれにおよばすとも、そのむくいのあることはうたがいのないところである。

 「もとめよ、さらばあたえられん。」とは、基督キリストおしえられしところである。我等われら凡夫ぼんぷであるとはいえども、まことこころささげ、つみしゃし、まどいはらい、邪心じゃしんり、清光せいこういのったならば、かみかならずそのこころたまい、てんめぐみひらけられるであろうとおもう。縦令たとえそこに大小だいせう深浅しんせんはあろうとも、天啓てんけい各人かくじん誠意せいいおうじて、かならずおこなわれるものである。霊界れいかい人間界にんげんかいも、とも実在じつざいである。ひとんだならば、かならず霊界れいかいるのである。そして、が人間界にんげんかい善悪ぜんあくべつがあるがごとく、また霊界れいかいにも善悪ぜんあくべつがあるは自然しぜんである。れいひとぜんみちびき、これにはんしてしきれいひとあくみちびくのである。日常にちじょう生活せいかつあいだにも、また修養しゅうようあいだでも、善霊ぜんれい悪霊あくれい交々こもごもきたり、善霊ぜんれい悪霊あくれい誘惑ゆうわくしりぞけて、ひとすくおうとするのである。この場合ばあいひとよろしくれい善悪ぜんあく区別くべつせなければならぬ。これすなわち、聖書せいしよにいう「れいをこころみる。」とのいいほかならぬのである。

 畢竟ひっきょう悪霊あくれい誘惑ゆうわく道理どうりそむき、道義どうぎはんするものであるから、一けんただちにその出所しゅっしょしきをることが出来でき、これを排斥はいせきしなければならないことがわかるのである。

 かくごとく、縦令たとえみずか平凡へいぼんなる人間にんげんであるとしても、誠心せいしん正意せいいつとめてかみ御心みこころたいし、その霊化れいかにいそしみ、ぜんつとめ、あくけて、みずか修養しゅうようおこたることがなければ、天啓てんけいよくることは、わたくししんじてうたがわないのである。

天啓てんけい方法ほうほう

 以上いじょうは、宗教上しゅうきょうじょう、または哲学上てつがくじょうおこなわれたる天啓てんけいいてべたのであるが、心霊学しんれいがくほうから天啓てんけいというものは、の二三の方法ほうほうによっておこなわれるものとおもう。すなわち、

 一、明視めいし Clairvoyance  二、明聴めいちょう Clairaudience

 三、声音せいおん direct voice 四、無意識むいしき書取かきとり automotiuewriting

 の四つである。

 一、明視めいし―― こはひと修養しゅうようみ、愈々いよいよ精神せいしん統一とういつし、虚心きょしんさかえ入定にゅうじょうするとき、自然しぜんかん鋭敏えいびんになるのである。他界たかいおよび霊界れいかいのことがその精神せいしんまなこすなわ心眼しんがんうつされるのである。そしてまた、この明視めいしによって、肉眼にくがんはいらないものをよくることが出来できるのである。ことに、ひとれい肉眼にくがんにはえぬが、明視めいしひとにはその心眼しんがんうつるのである。また、遠方えんぽうのことを透視とうしすることも出来できるのである。この明視めいし如何いかにして天啓てんけいめになるかというに、天外てんがいのことをひとしめすに、とき形容けいようってしめされることがある、そしてひとはその形容けいようさつして天意てんいるのである。そして、このことは宗教上しゅうきょうじょうには屡々しばしばおこなわれるのである。しかし、これをさとるのは人間にんげん智能ちのうおよ潜在せんざい意識いしきであるから、ときあやまちがないともかぎらないのである。

 二、明聴めいちょう――これは明視めいしているものであって、心耳しんじによって肉耳にくじきこえない事柄ことがらくのである。普通ふつうこえはっせられないでも、言葉ことばひとしめすようにひと心耳しんじ天啓てんけい言葉ことばきこえるのである。

 三、声音せいおん――これはてんからこえがあってひときこえることである。旧約きゅうやくにシナイさんにてかみこえきこえたということがているが、そのにはあまりないことである。

 四、無意識むいしき書取かきとり――これは、あるい他界たかいれい人間にんげんなんとか通告つうこくしたいという場合ばあいに、ひと自然しぜんと、ふでってきたくなり、れいなにかとかすのである。そのときは、なにいたかわからないが、あとむと、意味いみあることなのである。そして、れい普通ふつうのことを場合ばあいと、そうでなくて特殊とくしゅなことを場合ばあいとがある。これはひとおしえんがためにれいうてくれるものなのである。この無意識むいしき書取かきとりおこなわれるときは、そのひと非常ひじょう速力そくりょくうごくのである。(文責在記者)


 天啓が前述四種の方法の一に依って行わるるとして、これを受くる者は、誤解に陥り易き人間であるから、聖書と称し、又は経文と言っても、時代の思想や誤謬 ごびゅう、又は個人の特殊なる癖や潜在意識等が混淆こんこうやすかたむきあれば、充分真偽の識別を為す事肝要にして、折角天与の理性を、歿却 ぼっきゃくせざる様にせねばならぬ。

 =訂正= 前回口述の末段に、悪の存在に就いて、悪は善の為めに存在するものの如く、又悪を以って善を心すべき戒めと考える様に記しましたが、れはあやまりで、事物の善悪と行為の善悪はその意義において大差あるのである。事物の善悪とは病災禍等の如き苦痛である。苦痛の反対は快楽である、両者の悪の性質上の区別ある所以を掲げ読者諸氏に筆記者の粗漏を謝するのであります。


底本 道会・機関誌 「道」 大正十三年二月号(No.188) 

発行 警醒社書店 1923(大正13)年2月1日

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準じて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 入力:いさお      2007年04月28日
※ 公開:新かな版    2007年12月24日


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