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天啓てんけい

吉田作弥


 天啓てんけいとは、てんからの啓示けいじあるい黙示もくじをいうのであって、これは、天帝てんていとか、まことかみとか、慈愛じあいあるかみとか、また意識いしきあるかみなどの存在そんざい前提ぜんていとするものである。

 論者ろんしゃなかには、宇宙うちゅうあいだには、る一つのおおいなる勢力せいりょくがあるということをとなうるものがあるが、しかし、ただ一つのおおいなる勢力せいりょくといったところで、まだ吾々われわれがいうかみという観念かんねんらるるものではない。ただ世界せかいおおいなる精神せいしんおおいなる勢力せいりょくとのみでは、そこにまだ慈愛じあいまことなどの意識いしきしめさないのである。ただたんおおいなる勢力せいりょくだいなる精神せいしんがあるということ前提ぜんていとしただけでは、この天啓てんけいという観念かんねんおこすことは出来できないのである。

 なか学者がくしゃうちには、唯物論者ゆいぶつろんしゃごときものがあって、ただもののみが世界せかい万有ばんゆうもととなり、このもの混合こんごう集散しゅうさんにより、とき天体てんたいとなり、とき動物どうぶつとなり、またとき植物しょくぶつとなり、あらゆる現象げんしょうれにってしょうたるものであるというてる。またこの唯物論者ゆいぶつろんしゃ反対はんたいに、汎神論者はんしんろんしゃがあって、かみあるい精神せいしん宇宙うちゅうさい基本きほんをなすと主張しゅちょうして、唯物論者ゆいぶつろんしゃ言説げんせつ否定ひていし、ただ精神せいしんあるいかみのみを肯定こうていして、すべては其処そこからってってたるというのである。

 にも種々しゅじゅ哲学派てつがくはがあるが、上述じょうじゅつごと汎神論者はんしんろんしゃにしても、あるいはそのかみしんずる哲学派てつがくはにしても、そのかみなるものに意識いしきあり、あるい人格じんかくがあるということをみとめなければ、天啓てんけいということはしんられないはずである。

 この、かみ――まことかみ観念かんねんなるものは、人間にんげん固有こゆう本能ほんのうではない。かみなるものの観念かんねん推理すいり思考しこうによってるものである。種々しゅじゅみな事物じぶつあたって推理すいり思考しこうした揚句あげくついかみなるものの概念がいねんつくりあげてしんずるものであって、かみ直覚ちょつかくによってみとめられるものではないのである。し、直覚ちょつかくによってみとめられるものならば、ひとは一ようかみというものをしんずるはずである。しかし、ひと各自かくじ同様どうようかみしんじているものではない。かかるてんよりるも、かみ観念かんねん本能ほんのうではなく推理すいり思考しこうによってたものだということがうなずかれるとおもう。しかし、ひと各自かくじみな本能ほんのうそなえ、理性りせいそなえている。またおなじく各自かくじかんそなえているのである。そして、この五かんによりて万物ばんぶつより種々しゅじゅ知覚ちかく、そのたる知覚ちかくによって観念かんねんしょうじ、観念かんねんによって推理すいり思考しこうするのである。そして、この五かんにより知覚ちかく知覚ちかくより観念かんねん観念かんねんから推理すいり思考しこういた階梯かいていは、万人ばんにんことごとどう一である。

 しかし、今日こんにち世間せけんのこの方面ほうめん現象げんしょうると、ときせつおなじうしているものもあり、またときせつことにするものもあって、多種たしゅ多様たようである。これはその観方みかたなりかんがかた相違そういからおこるのである。かくて、ひとおなじうしてその時代じだい、そのところ如何いかんによってかみ観念かんねん相異そういたすのである。また、種々しゅじゅ観念かんねんをもった天啓てんけいについても、種々しゅじゅいろびてあらわれるのである。原始げんし時代じだいや、あるい今日こんにち下級かきゅうな、野蛮やばん人々ひとびといては、かみ観念かんねん粗笨そほんであり、また粗笨そほんであったのである。彼等かれらいては、かみというものはなかかわそこやまうえなどいたところ存在そんざいするかのごとおもっていたのであり、いまおもっているのである。しかし、文明人ぶんめいじんになるとかみ観念かんねん漸次ぜんじ高尚こうしょうになってている。推理すいりさい穿うがち、思考しこういたしているのである。かく、かみ観念かんねんいても、なお事柄ことがらけるがごとく、漸次ぜんじ進化しんか進歩しんぽ発達はったつたるものである。原始的げんしてき野蛮人やばんじんにあっては、木像もくぞうあるい動物どうぶつなどをかみとしたのである。それが逐次ずいじ進歩しんぽ発達はったつして、かかる観念かんねんたいして異説いせつてるようになり、かみはもっと高尚こうしょうなものであり、もっと至上しじょう存在そんざいかんがえるようになって、それが追々おいおい交通こうつうなどによって相知あいし相知あいしられて、らざるをたがいおぎない、ここに今日こんにちしんぜられるがごと至上しじょう存在そんざいとしてかみしんずるにいたったのである。すなわち、かみ至上しじょう唯一ゆいいつ存在そんざいであって、天地万有てんちばんゆう創造そうざうし、創造そうざうせる万物中ばんぶつちゅうにその意識いしき人格じんかくあらわれていること推察すいさつして、かみ慈愛じあいあり、また崇高すうこうなる意識いしき人格じんかくある存在そんざいであると思考しこうするにいたったのである。

 上述じょうじゅつごとく、かみ観念かんねんはやはり推理すいり思考しこうってするのであって、その推理すいり思考しこうによって、かみ性質せいしつ天地てんちあいだいて至美しび至善しぜんなる性質せいしつそなえているものとおもうのである。この、かみ性質せいしつや、かみ存在そんざい論議ろんぎは、元来がんらい天啓てんけい問題外もんだいがいのことであるからここにはべないこととするが、ただ、かみ至美しび至善しぜんなる存在そんざいであると推定すいていして、天啓てんけいはなしをすすめたいのである。

 人間にんげんかみによって創造そうざうせられたるものとする。そして、かみ非常ひじょう慈愛じあいがあり、人格じんかくがあって、そのこころ人間にんげんごとはたらくものであるとするならば、ひとかみであり、かみは一さい存在そんざいちちであるから、ひとがその啓発けいはつ教育きょういくするがごとく、かみもまたひと啓発けいはつ教育きょういくするものとわなければならぬ。これがすなわ天啓てんけいである。吾々われわれ教育きょういくにも種々しゅじゅあるごとく、この天啓てんけいにもまた種々しゅじゅあるのである。人間にんげん幼稚ようちなる時代じだいにあっては、天啓てんけいもただ概括的がいかつてきな、幼稚ようちなものにぎなかったのである。しかし、人智じんち発達はったつにつれ天啓てんけい観念かんねんさい穿うがってたのである。すべ如何いかなる原始的げんしてき幼稚ようち時代じだいにあっても、おしえなるものはけつして道義どうぎはんしたものではないが、しかしはじめからその薀奥うんおうおしえはなされないものである。これを天啓てんけいるもやはりおなじで、推理すいりかさね、思考しこうんで、ついにその極地きょくちさとりうるのである。

 この天啓てんけいあらわれる方法ほうほうは、大別たいべつしてつぎごとくなるのである。一は自然界しぜんかいいてであって、世界せかい大宗教家だいしゅうきょうかしくは大聖人だいせいじんなどによって、神意しんい――天啓てんけい存在そんざいしんぜしめられるのである。

 自然界しぜんかいほうからいえば、だい宇宙うちゅう天体てんたいしょう地球上ちきゅうじょう動植物界どうしょくぶつかいればすぐかみ非常ひじょうなる智能ちのう、または至上しじょうなるこころ現出げんしゅつみとめられるのである。この自然界しぜんかいあらわれたる種々相しゅじゅそうや、あるい天体てんたいあいだ存在そんざいする異常いじょうなる法則ほうそくいて、吾々われわれれるところは九牛きゅうぎゅうの一もうにもおよばないのである。人智じんち発達はったつれて、これら宇宙間うちゅうかん法則ほうそくや、この宇宙うちゅうつくれるかみ智能ちのうわかるようになるのであろうが、しかし、それをってしても、この驚異きょういすべき宇宙界うちゅうかい自然界しぜんかいつくったかみ全智全能ぜんちぜんのうのものとおもわなければならぬ。はなの一りんても、かみ創造性そうぞうせい如何いか至美しび微細びさいわたっているかがわかるのである。天地万有てんちばんゆう荘厳そうごんにしてなることをれば驚異きょういあたいするが、これはこの宇宙万有うちゅうばんゆう創造そうざうしたかみ精神せいしん表現ひょうげんなのである。

 しかるにここに一つ、自然界しぜんかいいては相殺そうさつおこな苦痛くつうあたえる行為こういがある。人間界にんげんかいもまたおなじで、相殺そうさつえずおこなわれ、犯罪はんざい行為こうい不倫ふりん行為こうい背徳はいとく行為こういえたことなく、また快楽かいらくたいする苦痛くつうぜんたいするにあくつね相闘そうとうがないことがない。かかることより、あるいかみ慈悲じひかみ全智全能ぜんちぜんのうをもうたがわれて、とき無神論むしんろんとなうるものさえで、またときに、かみひと苦痛くつうよろこぶかのごとえて、かみうらものさえあるが、しかし、かようなうらみや、かみ否定ひていは、かみ摂理せつりなるものをかんがえないことからおこ人間にんげん無智むちである。病気びょうき苦痛くつうって、かみ人間にんげんいましめるものであろう。かみのそのあいだ摂理せつり人間にんげんにはわからなくて、ただ一時的じてき苦痛くつうってあさはかにもかみうらみ、かみ否定ひていするなどはづべき態度たいどといわねばならぬ。元来がんらい人間にんげんには意志いし自由性じゆうせいがあって、善悪ぜんあくかかわらずおこな傾向けいこうがある。日常にちじょう生活せいかつてもわかることである、その行為こういぜんばかりではない。そしてまた、ぜんなる行為こういばかりでは、そのぜんれてしまって注意ちゅういおろそかにするものである。かかる意味いみから、 [#入力者注]  悪あくぜんをなさしむるためのいましめとして存在そんざいしているものである。あく人間にんげんすべきおこないではない、というてん修養しゅうよういたして、つとめてぜんをなさなければならない。それが、あくってかみ人間にんげんぜんみちび慈悲じひであり、おしえである。あくあくのために存在そんざいするのではない、ぜんさしめんがめに存在そんざいするのである。すなわち、人間にんげん試金石しきんせきであり、人間にんげんへのこらしめのために存在そんざいするのである。

 も一つの天啓てんけいは、宗教しゅうきょうおよ哲学てつがくによりてされることである。このことにいては吾々われわれ門外漢もんがいかんであるが、しかし、宗教しゅうきょう哲学てつがくというものは世界せかいいずれのくににも存在そんざいするものである。そのうちでももっともよくられているものは、宗教しゅうきょうでは印度インド仏教ぶっきょう、ユダヤの基督キリストきょう、マホメットの回々教フイフイきょうなどである。哲学てつがくでは、東洋とうようには孔子こうし儒教じゅきょう老子ろうし道教どうきょうなどあり、西洋せいようでも、プラトーン、ソクラテス、アリストートルなどかぞきたればかぎりがない。これらのおしえ、これらの人々ひとびとかみいたせる天啓てんけいである。しからば我国わがくににはこれら仏教ぶっきょう基督キリストきょう回々教フイフイきょうおよび上述じょうじゅつ人々ひとびと比肩ひけんする天啓てんけい人々ひとびとなりおしえなりがあるかとうたがうかもわからないが、しか我国わがくに我国わがくにとして彼等かれら比肩ひけんする神教しんきょうなり、じんおしえなり、およびそれぞれの人物じんぶつ存在そんざいし、また存在そんざいしたのである。

 こと上述じょうじゅつ基督キリストきょうや、仏教ぶっきょうや、儒教じゅきょうなどは地上ちじょうらし、人間にんげん光明こうみょうあたえる天啓てんけいである。釈迦しゃか基督キリスト、マホメット、孔子こうし孟子もうし、ソクラテース、プラトーンなどは人間にんげん救世主きゅうせいしゅであり、模範的もはんてき偉人いじんである。吾々われわれはこの天啓てんけいを十ぶんこころしてまなばなければならないのである。

 今日こんにち日本人にほんじんは一ぱんにまだまだ事物じぶつかんがえること浅薄せんぱくである、かみ存在そんざいや、その性格せいかく善悪ぜんあく見方みかた単純たんじゅんであるから、始終しじゅうその思想しそう動揺どうようがある。何事なにごと局部きよくぶへんして議論ぎろんしてるからはなは狭隘きょうあいである。どうかもすこひろふか思索しさく研究けんきゅうしてもらいたいとおもう。この天啓てんけいごときも、人間にんげんあらわれ、宇宙うちゅうあらわれ、日々ひび出来事できごと万有ばんゆう変化へんかあいだあらわれるところよりひろふかかんがると、じつに『げんまたげんみょうもんさけび、さらみちつう天地てんち有形ゆうけいほか』とうたいたくなるのである。一ごんこれうと、人事じんじ万有ばんゆう単純たんじゅんでなく複雑ふくざつであるから、その複雑ふくざつあいだより一かん理法りほう見出みだすようひろふか考察こうさつせらるべきを今日こんにち日本人にほんじん要求ようきゅうしたいのである。(文責在記者)


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底本 道会・機関誌 「道」 大正十三年十月号(No.196) 

発行 警醒社書店 1923(大正13)年10月1日

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準じて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 入力:いさお      2007年04月28日
※ 公開:新かな版    2007年12月22日


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