1 火事騒ぎと幽魂の再出現

2010/10/12

 泉熊太郎の幽魂が首尾よく市治郎の躯から離れたのは八月二十四日の夜中の事で、家族のものはもとより、関係者一同もヤレヤレと重荷を降したような気がしました。就中歓んだのは悪霊退散の修法を引受け、見事にそれに成功した宮崎加賀守大門でした。『近頃になく骨は折れたが、しかしこの気持はまた格別じゃ……』彼は心ひそかに北叟笑みました。

 翌くる八月二十五日宮崎氏は唐泊浦下浦の大漁祭の施行を依まれ、そこへ出張中でしたが、二十六日同氏の許に吉富医師からの書状が届きました。それには市治郎の病状がやや軽快の兆あることを報じ、尚お筆末には、自分も今回の事実を記録にとどめる所存であるが、足下も是非そうして置いて貰いたいとの依頼が書いてありました。

 二十八日宮崎氏は大漁祭を終りて帰村し、二十九日に傳四郎氏を訪問して見ると、市治郎は夜具に凭れて床の上に起きて居ました。『ドーじゃ、七月四日以後の事を覚えて居るか』と訊ねますと、市治郎はまだ弱々と微かなる声で『七月四日祖父の墓に詣でし時、総身に悪寒を感じ、頭痛発し胸悪く、甚だ苦しかりし事までは記憶し居れど、帰宅後の事は一切知らず、唯夢に、甚だ大なる台閣ありて、その広庭の殊に奇麗なる中に公卿と覚しき人々の彼方此方に逍遙し居る状を見たり。此夢覚むると同時に心地我れに返りたり』と答えたのでした。

 市治郎は九月十日に至り、いよいよ快方に向いましたが、尚お骨々痛み、四肢の運動不自由なので、当人は大変口惜しがり、『いかなる武士の幽魂なれば、かくの如く吾を悩ますぞ。人も多きに、我れに何の過失ありてのことか』と毎日憤怨の辞を漏らすのでした。『全快の上は墓を堀り返えし恥をかかして呉れる』とまで言うことさえありました。そうする中に再度の憑依霊現象が起りました。其次第は斯うなのです。

 元来岡崎傳四郎は酒造を以て副業として居りましたが、醸造用の大竈を改築せむとて、天保十年夏の初め、土を集め水を注ぎて用意をして居る矢先きに、市治郎の大病騒ぎで暫時工事が中止されて居ました。が、この頃病人も追々平癒に向いましたので、いよいよ古竈を取り崩して其土を浜辺に棄て、予ねて用意の土で新竈を築き、それに大釜を掛けて古酒の火入に宛てました。元来竈の改築に当りては浄めの祓いを行いてから後之を使用する慣習なのですから、かねて山本神職の許に使者を遣わしてそれを依んだのでしたが、たまたま山本氏が馬場宮の遷宮に出勤して不在であった為めに、急ぎの場合、祓いを為さずに竈に火を燃やしたのは九月十一日の事でした。で、去年新造の大桶を竈の側に据え、先ず清酒一石五斗を煮てかの大桶に入れますと、忽ち桶の箍が弾け切れ、酒は悉く流れて竈の内に入ると見る間に、酒は一時に火焔となり、屋内一面に猛火となりました。されば一村の騒動一と方ならず、大鼓を打ち、鐘を嗚らし、東西南北から夥しき人数が火事場へ駆け寄せました。

 この時隣家の桝屋善吉という人が、役宅(即ち傳四郎の庄屋事務所)の方を案じて、走り行きて見ますと、血相を変えて神棚の下に坐し、火焔を睨み、歯を喰いしばりて居るのは例の市治郎なのです。変だナとは思いましたが、火急の場合ですから打ち棄て置きて、馳せ戻って消防に従事しました。

 そうする中に、不思議にも火事は格別大したことにならずに済み、七ッ時頃には全く鎮火して了いましたが、岡崎家では浄めのお祓をせずに竃を使った為めに崇りを受けたのであろうというので、例の宮崎大門氏を船で迎えに行き、竃浄めの行事と神慮を和め奉る御祈祷とを依みました。

 宮崎氏が到着した時には、山本參河氏が馬場宮の勤めを終りて同家に到り、既に竈浄めの式を了った所でした。主人の傳四郎は宮崎氏に向い『竈の方は御蔭様にて最早気づかいなけれど、ただ市治郎こと、今日の大変によりて頓かに頭痛烈しく、鎮火後直ちに打臥したれば、折角のお出ましを幸いに加持をお頼み申し度し』と言うのでした。

 乃で宮崎氏は乞いに任せて加持を修しましたが、病人はただ昏々と眠り居るのみで別段変ったこともありませんでした。其翌日又も宮崎氏、山本氏、吉富医師等が来会しました。吉富氏は市治郎を診察して『脈状甚だ悪しきが、幽魂再び憑くべき理なければ、此度は何症なりや不審なり』とて嘆声を発しました。医者が匙を投げた上はとて、宮崎、山本の両人が揃うて病人の側に寄りて祈祷に取りかかり、父の傳四郎も其席へ入って来ました。

 すると市治郎の態度が急に変り、言葉づかいも厳然として『傳四郎、養貞(吉富氏)杜氏の三人、此所に来よ』と言い放ちました。

 岡崎家に於ける再度の憑霊現象が始まったのであります。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


3 伝家の宝刀

2010/10/12

 先月幽魂が初め現われた時は何人も気味悪さが先立ち、一時も早く市治郎の体から幽魂を逐い出すことばかり考えましたが、人情は妙なもので、今回はそれと訣れるのが、むしろ名残惜しく感ずるのでした。が、さてあるべきにあらざれば、人々は霊代の箱を造るべき大工を呼びにやったり、又石碑を建つべき浄地の相談をしたりしました。すると吉富氏が、不図思いつきて、『今幽魂この肉体を立退くに於ては、再び幽事を尋ぬることは叶わざれば、暫くこのまま留め置きて、先月問い洩らした個所を尋ねようではないか』ということになり、乃で再び問答が始まりました。

山本。曩に宮崎の刀を見て、三振の中云々と言われし由なるが、そはいかなる故ありての事か。

幽魂。別に深き仔細ありての事にあらず。ただただ尊く思う余りに拝見せしまでなり。

吉富。イヤ其許が『さてさて三振の中がいかにして』と低声にて歎息されたる声我耳によく聞えたり。それには必らず意味あるべし。

山本。其許の所持されたる三振の中の一つという事ではなきか。

宮崎。いかに泉氏、其許は予が持てる刀に心を籠め、三振の中云々と言われしのみならず、いかにもその刀を慕わるる様に見ゆるは必ず仔細あるべし。さまで一念の籠れる品ならば吾れ何とて惜むべき。如何なる不吉の三振ならむも知れざるものを、永く我家に留むるも心許なし。望みとあらば、其許の石碑の下に埋めて進ずべし。

 かく述べても幽魂は尚お無言を続けました。暫くして『水をくれよ』といいますので、作次郎というものが水を汲みて出しますと、それを飲み干し、胸を撫り、ようようの事で口を切りました。

幽魂。右の刀は御家に大切に収め置きて下されよ。

宮崎。収め置けと言わるるからは、生前其許の所持せられしものか。

山本。其刀にまだ御心が残っているのでは厶らぬか。

幽魂。イヤイヤ今は刀に心残りは更に無し。さるにしても不思議に廻り廻りて来りしものかな。ああ如何なる由縁のありて斯くは……。

 と独語つつ俯きて考え込みました。

山本。いよいよ右の刀は其許の所有たりし事と考えらる。シテ其刀を三振の中と言われたるは如何なる因由 あることで厶るか。

幽魂。予の所持せし刀ということが判らばそれで宜しかろうに……。

宮崎。何事によらず、知れねばいよいよ知り度く思うものなり。兎角に言い兼ねらるるは必定不吉なる刀で厶ろうがな……。

幽魂。一を語れば二を言わねばならず。さてさて口は禍の門とはよくも言いたり。右の刀決して不吉のものにあらず。本国にて上様より余が父に賜わりし三振の中の一振なり。そを賜わりし因由 は今軽々しく申すべきにあらず。

山本。然ばかり貴重なる刀を何故に此辺鄙の地まで携え来られしぞ。

吉富。君父に係わる事ならばそを包み給うは御尤もに存ずれど、その外の事は語り聞かせ候え。刀を
此地に携え来りし因由 是非とも承り度きものなり。

宮崎。加賀に残し置きたる刀がめぐりめぐりて拙者の家に来りしか、それとも其許が佩きて此地に来りしか、委しく物語りてきかせ玉え。

 三人からかわるがわる問い詰められて、とうとう幽魂は語り出でました。

幽魂。今は包み難ければ物語らむ。余十七歳の時、国内に騒動起りしが、其時父は無実の罪に沈み、上様の御咎めを受けて国退きせり。その砌り、父が母に申し置かれしは、唯一人の伜なれば、必らず泉の家を再興させよ。して上様より下賜の中、此一振りは家宝として大切に彼に伝えよ、とのことであった。然るに余は父の御供申し度く、その旨を母に願うこと度々に及べどその都度母はたッて引き留め、父一人を偲ぶ為めに代々の祖先の家を亡ぼすことありては以ての外なり。若し国を出でなば、この母まで諸共に勘当ぞとの父の遺言なれば、必らず出国無用なりと、それはそれは母から引き留められまして厶る。

 かく述べて幽魂は数行の涙に咽びましたので、満座の人々も皆涙を催し、感歎の声を漏らしたそうであります。

宮崎。それで、其許は、十七歳の時に国元を立出で、何地にて父君とは面会なされしぞ。

幽魂。されば、余は母が引きとむるを聞き入れず、伝家の一刀を携えて国元を出で、諸国を廻り廻りて六年振りに藝州バタという所にて父に行き逢いたり。其時父は余を見て大に怒り、汝が母の命に背きて家出せしは、取りも直さず吾が命に悖りしなり。汝はただ一人の男児なれば、汝を措きて家を嗣ぐべきものなし。早く帰りて母を扶け、家名を再興せよ。我は濡衣の乾くまでは死すとも国には帰り難き身なり。コレよく承れよ。親として其子を思わぬものがあろうや。又子として親を慕わぬ者があろうや。されど今汝が吾の踪を慕うは、孝に似て実の孝ではない……。かく道理を責めて父に戒められ、それを押し切りて跡に随い行かれマセナムダ

 かくのべて長太息を漏らしました。

吉富。それでも其許は強いて随行されたるか。

幽魂。イヤイヤ父は其夜私かに出船し、終に行方知れずなりたり。附近の者に問い合せ候えば、九州小倉に行く船に便乗されしとの事にて、余も亦船にて小倉に着したるに、その時父はまだ小倉には着かざりし。それより余は九十三日小倉に滞留したるに、漸くにして父が着きたれば言葉を尽して随行を願いたれど、父は一言の返辞さえ為し玉わず、程なく肥前の唐津に向いて急がるるにより、余も後より慕い行きたり。

宮崎。小倉より当地までは何という所を通行ありしや。

幽魂。小倉より当地までの間には数ヶ所通行したれど、心にとめぬ所は忘れたり。ただ今も尚お覚え居るはコヤという地の川辺を通行せし事にて、此所には家居も多く、近傍の田圃中にも此所彼所に三軒五軒の民家ありたり。又一入目にとまりしは博多の津なりし。此津には旅船多く軒数も沢山にて、優れてよき所なりし。

 などと懐旧談をするのでした。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


続幽魂問答

2010/10/11

「心霊文庫」の刊行はたしかに時代の要求にはまったらしく、第一篇、第二篇とも従来心霊書として全く類例のないほどの熱烈なる歓迎を受けつつあります。この分で行けば日本国の心霊化もさして難事ではなかろうと思われます。本篇に収めた「続幽魂問答」並に「長南年惠物語」――これ等は共に近代日本に於ける心霊事実の白眉で世界中のどこへ待ち出しても決して恥かしくない、最も貴重なる資料であります。大方の識者の御援助によりできる丈斯うした文書を日本国民の間に普及せしめ、以て健全なる思想信仰の樹立に貢献したいと存じます。ああ日本国民の心霊化――凡そ日本国民に取りてこれほど焦眉の急務が何所にありましょう!

   昭和五年八月       編 者 誌


はしがき

 数百年前に怨を呑みて切腹した加賀武士泉熊太郎の霊魂が筑前国伎志浦の酒蔵家岡崎傳四郎の長男市治郎の躯にかかり、つぶさに幽界の秘事を物語ったことは心霊文庫の第二篇『幽魂問答』をお読みになられた方はすでに御承知の通りであります。本篇は右の後日物語ともいうべき性質のもので、不時の火災問題に関して、一たん鎮まりたる泉熊太郎の霊魂が再び市治郎の躯に憑り爰に一種別様の波瀾を捲き起したのであります。『幽魂問答』は『幽魂問答』としての価値があり、『続幽魂問答』は『続幽魂問答』としての興味があり、首尾連関して爰に掛値なしに稀有の心霊資料たる特色を発揮します。本篇も例によりて適宜に現代訳を施してありますが、原意を傷けぬ丈の充分の用意が払われていることは特に書き添えるまでもないことでしょう。――(編者)


浅野和三郎編

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


11 願望成就

2010/10/10

 今度は神職の山本氏が引き取り、上坐から下り、一礼して問を発しました。

山本。拙者は当地産土神社の神職山木參河と申す者で厶るが、承れば貴下は加賀の住人泉氏の御魂にて、ゆくゆくは社地に鎮まりたき御希望の由、いかにも理りあるお依みで厶る。市治郎の体よりお離れあるに於ては、及ばず乍ら拙者兎も角も図らい申すで厶ろう。

幽魂。御来駕の段御苦労に厶る。拙者の身の上を御耳に達し、誠に面目次第も厶らぬ。市治郎の体より立退くことは、今更申すまでも厶らねど、ただ社地に鎮まる事は偏に頼み奉る。尤も公辺に持ち出るは憚りあれば、人知れず内密にて図られたし。

 としんみりと依みました。委細承知して山本神職は一礼して退きました。之につづきては長吉が幽魂に対して謝り証文を書く滑稽な一条がありましたがそれは省きます。幽魂は長吉の不審に対し別段深き怒を挿める模様はなく、ほほえみ乍ら長吉を指し、

幽魂。この男愚痴にてはあれど、永々と市治郎を親切に看護せしは奇篤なれば、病気平癒の後はこの儀とくと市治郎に言いきかせるがよい。当人も定めて歓ぶことで厶ろう。

 などと述べるのでした。今度は宮崎氏が入り代りました。

宮崎。さてこれは一家の人々の依頼にて尋ねる次第なるが、此家に何にか障ることはなきや。御存知ならば誨え置かれよ。

幽魂。この家は三屋敷も四屋敷も合併して一つに成れるものにて住居としては甚だ悪し数ヶの屋敷を併せたるものは凶事の起るものなり、その事は広く世間を調べ見れば明白ならむ。又此椽の板に悪しき材木を用いてあれば早く取りかえるがよし。又此室は海中より直に夕陽の射し入るが悪しすべて朝夕の日光を海より直ちに不浄の室に受くるは憚るべきことなり。さるにても先刻お願い置きし拙者の鎮まるべき地所の御評議は決定したるや。

宮崎。山本氏と謀りたる所、産土神の社地に建碑の事は公辺の許可を得るの要あり。故に唯今の墓地に大きく石碑を造立し、周囲に石を畳みなどせば宜しからんとの議で厶る……。

幽魂。石碑を大きくし、石垣を築き繞らすなどの事はお謝り申す。墓ならば二尺二寸にして七月四日とのみ記して、遺骨の上に建てて貰えばそれにて充分なり。

宮崎。そのような無造作なことにては後年又崇ることなきや?

幽魂。されば、神号を受けねば元の人魂なり。崇らぬとも限るまじ。

宮崎。七月四日と祭日を定めて祭祀を行いても崇ることありや。

幽魂。神号なく、元の人魂のままならば、縦令従来の如く強く崇らぬまでも折ふしは崇りもすべく、又当家の守護も為し難し。若し又神号を受け清浄の地に鎮まることにならば今後は崇ることもなく却って当家の守護にも当るべし神号は墓地にては受け難し

山本。我社の相殿に鎮め申さはいかがで厶ろう?

幽魂。以ての外のことなり。その儀はたってお断り申す。畏れ入ったる業なり。

山本。末社に稲荷社あり、又仏閣も近き所に在り。何れが宜しきや。

幽魂。末社仏閣何れも好ましからず。他に清浄の寸地が欲しきものなれど、そは六ヶ敷き由なれば如何ともするに由なし、元の遺骨の上に建ててくだされよ。

宮崎。神号を受けたるからは、いかに墓地を清浄にすとも其所には居難きや。又石碑を大きくするのが悪しと言わるるは、何事か霊魂に差支ありての事か。

幽魂。いかに清浄にすればとて霊の位と其場所柄と相応せずば鎮まり難し又神号は墓地にては受け難く霊の位によりて其鎮る所各々異なるものなり社殿も石碑も相当せざれば居難きものぞ

宮崎。当家の主人も山本氏も御辺を神と斎ぐことには同意なり。されどしかするには公辺に願いて官許を受くること必要なれば、今後三年ばかりは御待ちあれよ。強いて事の早く運ぶようにせば、却って面倒とならむ虞あり。

幽魂。三年にても四年にても待つべし。かくて吾等を神に斎き、七月四日を祭日と定めくださらば、爾後は当家を守護すべし。其儀は重ねがさね依み置くなり。それはさて置き、先刻依みたる御剣行事を為し下されよ。

 斯く述べた時に夜もいたく更けて鶏鳴三度に及びました。

宮崎。折角のお依み承知致したり。宵には怪しき物と思いし故切りつけたれど、最早その儀は無用なり。さらば御免。

幽魂。辱うござる。

 とて一礼しました。乃で以前の如く御剣行事を為しましたが、此度は慎みて両手を膝の上に載せて居るのみでした。行事終りし時、暫時御免とて燭台の火光にて大刀の切先より鍔元まで熟視し了りて一拝しました。やがて一同に向い、

幽魂。さて各々にはいたく苦労をかけたり。先刻約せし通り、七月四日を祭り呉れなば、吾等いかでか悪しく酬いましょうぞ。市治郎も今日限り、次第次第に平癒し、かくて七年の後には当家に吉事出来せむ。それを見て吾等が幽界より悦びて守護し居る証とし、又神となりし徴なりと知られよ。――イザ出立せむ、各々門口まで送り呉れよ。

 斯く述べて席を立ち歩行する様は、血気盛りの若侍がヌサヌサと行くに異ならず、とても大病人の市治郎とは見えませんでした。列座の人々はゾロゾロと門まで送り出て、一礼しますと、彼は門前に立ち止まり、墓地の方に向いまして、

幽魂。吾等この体を離るる時、市治郎が倒れるやも計られねば、各々方にて彼を扶けて貰いたし。

と言うのでした。諸人その用意を為す間に、山本、宮崎の二人は神送りの秘文を唱え、又お祓など上げて居る中に、果して市治郎は左に倒れかかりましたので、多人数にて扶け抱えて家に入りました。幽魂の離れた市治郎は真に大病人で、吉富医師等が羽毛で薬を唇に塗ってやりますと、そのままスヤスヤ睡ったのでした。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


10 三ヶ条の疑問

2010/10/09

宮崎。更に問うべきことあり。先ず武士たる身が父の許に行かずして人を悩ますこと、又二十二日の夕に遺骨の許に一旦帰り乍ら再び言を食みて爰に帰り来れること、また山の芋を食い、又は一日塩の附きたる握り飯を却けたる事何れも不審なり。一々明かに申し開かれよ。

と、予ねて長吉と相談して置いた疑問を持ち出して質問しました。幽魂は少し考うる体にて

幽魂。武土たる身が父の許に行かれずして人を悩ます云々の件は宮崎氏の肚より出でたる言葉にてはなかるべし。父の遺言を果さずして切腹したる身が何とて父の前におめおめと行かるべきぞ。又二十二日の夕の事、山の芋の事、握り飯の事などは宮崎氏の知らぬことなれば、そを問わるる筈もなし。たとえ宮崎氏が知りたりとて、予を武士の幽魂なりと悟らざる前に問わるべき事どもなり。察する所こは一睡の間に傍より入智慧せしものあるべし。さらば今其許に詳しく答うるの要はあるまじ。入智慧したる当人を出されよ。直接語りきかすべし。

と図星を指しての返答に、宮崎氏も二言なく、長吉を麾ぎて、此所に進みて委細承れとすすめました。あまり長談議に亘りては病人の体に障りはせぬかと、心配する人もありましたが、主人は剛気の人で体に障っても構わぬと言い放つのでした。一座の押問答をきいて

幽魂。コレコレ各々方、声が高い、静かに致されよ。長吉の云う所も悪意からの言葉にあらず、我等よく諭しきかせむ。いざ近う近う!

 此時の幽魂の風釆威ありて猛からず、真に敬意を払うべき人物に見えたということです。長吉は其威に打たれて暫らくモジモジして居ましたが、しばしば促されて漸く市治郎の枕辺近くにじり寄ったのでした。

長吉。エー……此所でお話を承ります。

幽魂。されば長吉、汝の疑いは一応尤もなれど、ちと肚を大きく、耳を澄ましてよく聴けよ。前にも云えるが如く、凡そ山川に年経たる禽獣虫魚、又大樹巨石の霊など、皆人を悩ます力あり。又生霊とて、人の一念恨みある者の肉体に憑き、其人を悩ますこともあり。又死せし時の一念現世に遺りて人を悩ますこともあり。吾等は死ぬる時の無念やる方なく、其上死骸を打ち棄てられ、標示の石さえ建てられざる事の悔しさに、かくは市治郎の体を四十余日も悩ますなり。体を悩まされば其体を借り難く市治郎の魂の在るべき所に我魂を宿して其耳口等を借りるが故にかくの如く我が思いを人にも告げ得るなり。されどわれ等が邪鬼と疑われ、又野干と思わるるも無理なき次第にて、宵の間に宮崎氏の詰問に対し、わが怒りしは過なりき。其場の事情は汝も側からききてよく承知せる筈なり。汝は人を悩ますものは野干ばかりと思い居るが故に疑念が解けざるぞ。考えても見よ。野干が石碑の建立を望むものか。又野干ならば、神法もて加持を受くるに、退かずということあるべきか。吾に取りては大事の場合、又当家に取りても今後安否の岐るる所なれば、つらつら前後を考えてわが正体を見届け呉れよ。嘘詐は申さぬぞ。

 山本氏は最初からの事情を知らざるに係らず、此物語をきいて大変感動して了い、上座に居苦しかったと後に自白したそうです。

長吉。仰の通り貴下は武士の幽魂に相違あるまじ。ただ武士の幽魂ならばナゼに父上の許に行かれませぬぞ。

幽魂。イヤイヤ武士たるが故に行かれぬなり、父の遺言を果さぬ身が、行けるか行けぬか、よく考えても見よ。

長吉。当家の祖父並に市治郎が其許の遺骨を蹂みたりとて、祖父を殺し、市治郎を大病人となす事、武士の幽魂の仕業とは受取り難し……

幽魂。ワカラヌ奴じゃ。汝は人を助くるが武士の道なるに、人を殺しては道に外れる、故に武士の魂ではあるまじと言うつもりであろうが……。

長吉。その通りで厶る。

幽魂。前にも言えるが如く、縦令高貴の人たりとも無念に死しては世に祟ることあるものぞ。顕世の無念は顕世よりその道を以て解きて貰わねば霽らし得ぬものなり。されどかかる道理はいかに言葉を尽すとも汝などの耳には入り難かるべし。ただ当家の主人が、先刻、市治郎の体に障るとも不審の点は飽まで問えとのべたるは心地よき男子の言なり――さてさて汝が如きものを相手に言葉を交すも拙なき我身の運とあきらむる外なし。尚お何なりと疑いあらば問え。腑に落ちるまで諭してつかはす。

長吉。御侍の身にあり乍ら、山の芋はナゼに御食用ありしぞ。

幽魂は覚えずプッと失笑したのでした。

幽魂。サテサテ可笑しき問じゃ。汝の問う意は、武士の魂ならば何も食わぬ筈なるに、物を食えるは四足などの仕業と疑ふならむ。その儀ならば誨えてつかはす。他の方々には退屈なるべけれど暫らく許されよ。汝もよく知る如く、二十二日の頃市治郎殊に大病にて、一切食事を用いざるより、吉富(医師)をはじめ、家族のものどもが、何ぞ彼の好める食物はなきかと幾度となく勧めたり。然るに市治郎が腹内には四五年前より病ありて、左の腹の痛むことは吾等よく知りたれば、人々の勧めに任せ、腹に障らぬ山の芋をば態と食わせたり。此方より勧めて食わしたるにあらで、ワイラが勧めて食わせしならずや。又武士は山の芋を食わぬという掟があるか。無論吾等幽魂なれば物を食わない。山の芋は市治郎の為めに食わしたのじゃ。

長吉。ナゼ撮みてお上りなされました?

幽魂。コレコレ汝の問は、既に余を武士の幽魂と決めた上の問い様じゃ。武士が物を喰う法式に相違するとて無礼を咎むる意なのじゃナ。汝は定めて山芋の食法の宗匠と見ゆる。百姓町人は斯くして食い、又武士は斯くして食うものと一々その作法が定まりて居るものと見ゆる。先ずそれから聞くことと致そう。それによりて吾等答える旨あり、疾く言いきかせよ。

 斯く言って膝を乗り出しましたが、其隙のない舌鋒には満座感心して了いました。又長吉との問答中には言葉づかいも横柄で、国訛りが沢山混り「ワイラ」だの「ソイラの事もワカルメイ」だのと申したそうです。が、長吉は畢生の智慧を絞り勇気を鼓して、尚お追求するのでした。

長吉。それにしても、塩を附けぬ握り飯を食われたるは何故か。元来狐というものは塩が嫌いなものじゃが……。

 幽魂は再び笑い出しました。

幽魂。さてさて疑いの深いことじゃ。成る程われ等七月四日以来塩の附きし握飯をただ一度は食ぬこともありしが、それを証拠に野干なりとするは笑止の至りじゃ。何故われ等が食わざりしかは握り飯を吾が前に運べる女の事を考えて判断せよ。

 かく言って火入れを擦り乍ら済ましたものでした。

長吉。ハテ握飯を運んだ女……判り兼ねますナ。

幽魂。されば握飯を作れる女は、その時月経があったのじゃ――女にそれを尋ねて見よ。

 と意外千万な言葉に満座皆驚かされました、早速女を呼んで訊きますと、果してその通りで、今度は月経が長く、既に六日目だとの返答でした。

幽魂。幽魂となりては月経を不浄とするにて、塩の附きたるを嫌うのではない。若し疑うならば塩を持ちて来て見よ、眼の前で食って見しょう。さるにても七月四日以来今日迄四十余日の間に、塩を食わざりしはただ一度なるに、それを証拠に疑をかくるは余りに愚の至りじゃ!

 さすがの長吉もとうとう閉口して頭を下げて詑びました。

長吉。俺が悪う厶りました。

幽魂。イヤイヤ汝は元来疑の深きものにて、真実わが過失を悔ゆる趣はまだ見えぬ。最早夜の明くるに間もなけれど、汝の疑の晴るるまでは何時までもこの座を動くまじ。さァとく尋ねよ、とく!

 と言って火入れを持ち乍ら、吉富医師と山本神職との間に進み入り、御免と言いつつ、ドッカと坐りました。満座の人々は大に興を冷まし、折角幽魂が退くに決したものを長吉が引きとめたので、斯んな事になったと口々に罵りますので、長吉も大に恐縮して了い、畳に頭を擦りつけて詑び入りました。それで幽魂の気色もいささか和らぎかけました。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


9 暫時一睡

2010/10/08

 幽魂は自分の鎮まるべき石碑建設の場所の選定に就きて大変気を揉みまして、『国法もあることなれば、公辺の煩いを掛けることは不本意ながら、相叶う儀ならば、成るべく清浄なる社地に鎮まりたし』というのでした。其処で一同評議の上で当地の社家山本參河という人を呼びにやることになりました。其時吉富医師は気をきかせて幽魂に向い『斯く長らくの問答に退屈もあるべし。暫時休息ありては如何』と申しますと、幽魂もそれに賛成して、『我は宿望の叶う折なれば憩うに及ばねど、市治郎が体は長らく悩ましたれば、長座は宜しからず、社職の来るまで暫らく同人に一睡させたし。さらば御免』と申しまして、一礼して自から夜具を引きかつぎて熟睡しました。

 同人の寝たる間は全くの大病人で、威風堂々たる泉熊太郎の幽魂ではなく、ただの市治郎に成り切って了いました。暫くすると山本參河氏は浄衣に縞の袴を穿きて来着し、病人の上座に着きました。宮崎氏は傳四郎と共に前宵よりの概略を物語り、社地に鎮まり度き由云々の事を申しましたが、何にしろ山本參河氏に取りては寝耳に水の話ですから、しばらくの間茫然として兎角の返事も出来ませんでした。宮崎氏は山本氏に向い『貴殿の御不審は尤もなれど、拙者の査べによれば、これが正しく一人の武士の幽魂なることは最早一点の疑なし。それ故建碑の儀も承諾致したり。但し山本氏をはじめ、一座の方々に聊かなりとも疑いあらば腑に落ちるまで直接幽魂に問われて然るべし』と申しますと、満座の人々は異口同音に『誠に恐れ入ったる幽魂なり。一点の疑点なし』と申しました。

 ただ数十人の中で尚お不審の個所を有って居るのは例の看病人の長吉でした。右の不審というは、

一、武士たる者の幽魂ならば何故に其父の所に到らざるか。

二、武士たる者の幽魂ならば何故に二十二日の夕一旦其遺骨の埋もりし地に帰り乍ら、再び市治郎の肉体に帰り来れるか。

三、其の際山の芋を食い、又一日間握り飯に塩の付きたるを食わざりしは何故か。

の三ヶ条で、これは是非問いつめてくださいと宮崎氏に迫るのでした。宮崎氏は『成る程尤もの問である。左様の事は知らざりし故打棄て置きたれど、今度は改めて問うべし』と答えました。その中病人は眼を覚ましたが、忽ち元の通り威風凛々として起き上り『先刻迎いに行きたる社職は来られしや』と問いました。『其所に見えられて居ります』と座に居合わせたる一人が答えますと、チラと山本氏を見やりたるまましばらく無言、山本氏も兎角の言葉は出ませんでした。

 間もなく宮崎氏の開口をきっかけに問答が再開されました。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


8 幽魂の契約書

2010/10/07

 幽魂は日頃看病人の長吉から野干ではないかと疑われたことが余程無念であったと見えましてこの時宮崎氏との問答の少しの切れ目を見て、はったとばかり長吉を睨めつけた。

幽魂。長吉、汝はよくも、我を四足の類と言うたナ! 今も言う通り高貴の人の霊魂とても、無念に死しては時ありて人を悩ますことあり。よく覚え置きて以来つつしめ!

 恐ろしい権幕で叱りましたが、宮崎氏は引きとりてあべこべに幽魂をたしなめました。

宮崎。其許の立腹はさる事ながら、縦令神にもあれ何にもあれ、眼前に人を悩ますを見て、悪魔なり、野干なりと言いたりとて何の無理があるべきぞ。大切の御国人を悩ます上は吾が見る所も長吉と同じじゃ。

幽魂。(聊かたじろぎつつ)今われ不図誤れり……。我願望だけは何卒聴き届け下されよ。

宮崎。過を悔い、善を慕う心は即ち神なれば、われ其許の望みのままに御剣加持を行うべし。それを限りに当家を退散し、自今人を悩ますこと勿れ。石碑も建てて進ずべく、忌日には祭礼を行い、又諡号をも授くべし。

幽魂。(いと嬉れしげなる風情で)わが年来の願望漸く叶い、諡号をも授からば、今後人を悩ますことをせぬのみか、当家を守護し、又諸人をも救うべし。

宮崎。斯く誓いし後に、若し其許が重ねて人を悩ますことあらば、その時は容赦せじ。骨を堀り糞壷に入れて恥をかかせむ。

 と宮崎氏は強く言い放ちますと、

幽魂。武士に二言は候わず。

 と負けずに強く言い放つのでした。

宮崎。然らば後日の為めに、右の旨を記せる一通の証文を書きて渡されよ。

幽魂。証文とな? その儀には及ぶまじ。

宮崎。イヤすでに姓名を書きたる上は、定めて文字を心得つらむ。必らず書かれよ。

幽魂。さほどに申さるる上は致方なし。兎も角も案文を示されよ。

宮崎。案文も其許自から認められよ。

 斯く言われますと頷いて無言のまま筆を執りて左の如くすらすらと認めました。――

此度大門御剣ヲ以、拙者立退ク様、苦心仕趣ニ相見、

天保十年八月二十四日夜、御剣ヲ奉拝

此上仕合過分ニ存、同夕此家立退、

以来此家ニ不限、人ヲなやます儀急度相愼ミ候、

泉  熊 太 郎

幽魂。これにて宜しきや。

 かく言って、宮崎氏が宜しき旨を述べて返しますと、彼は右の草案を燭台の火で焼き棄て、更に清書して渡しましたが、其書風は至って古雅な書体だったそうです。宮崎氏は一見して、年号月日宛名等が書いてないと思い、其記入を求めました。

幽魂、それには及ばぬ事なれど、望みとあれば書き入れて進ぜむ。

 と言って右の一札を受取り、『天保十年亥八月大門主』と書き加えて渡しました。後に思えば文中に宛名、年号月日共に書いてあるので、幽魂のいう通り全く『それには及ばぬ事』なのでした。

宮崎。年号月日はいかにして幽界に判るものか。

幽魂。顕世の事は人の耳目を借らざれば知り難きことはすでに述べたり。われ先月より市治郎の耳目を借りて見るに、彼の通り帳面三つ掛けありて、共に天保十年正月と記せるを見れば、何れも同時の調製にかかり、今年が天保十年なること明かなり。又月日を知るは、七月四日がわが忌日にて、其日は幽界にても能く知らるるなりこは独りわれに限らず他の幽魂も皆其忌日をば知り居るものぞ

宮崎。其許が武士の幽魂なることは確かに認められたれば、今後諡号を贈りて神として祭るべし。永く鎮りてこの上は人を悩まし給うな。

幽魂。その儀は承知致したり。吾等に取て此上の悦びとてなければ、自今人の守護こそすれ、ゆめにも人を悩ますことは為すまじ。

 とて甚だ満悦の体に見受けられました。

宮崎。其許存世の時に何ぞ好めるものはなかりしや。例えば梅とか、桜とか、又玉石とか……。

幽魂。さる類の好みは無かりし。只存生の時、面白しと思いしは高山大嶽などを遙かに望むことなりし。

宮崎。然らば『高峰の神』と諡号せんはいかに?

幽魂。さる優雅なる号を与え神として斎き給わるとは、誠に難有しとも難有し。従来われ当家に崇り、世に害を為したれば、その罪滅ぼしのため、今後は力の限り清浄の神となりてこの家を守護すべし。『高峰の神』の神号は其許の筆にて書き給われよ。

宮崎。それよりは其許の自筆にて書き遺されては如何。

幽魂。諡号を自から書かんは異なるものなるべし。

宮崎。イヤ尤もの御意見――さらば神号は某書きて進ずべし。ただ七月四日の四文字は其許の自筆を碑の裏面に刻ることにすべし。

幽魂。いよいよ神号を賜わり、神と斎わるる上は、最早今の墓地には止り難し。又凡人の墓所に神号の碑を建てんもいかがなり。何所ぞ別に清浄の寸地はなきや。尚主人にも談合し玉わずや。

宮崎。野辺山という村有の山もあり、主人の所有地もあり、又社地もあり。何地に定むべきかは一家と相談の上にて決することとせん。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


7 秘中の秘事

2010/10/06

幽魂。儒仏の説く所を信ずるは、皆其道に侫する人の為すことにて、要するに其門に入りたる者を治むるの法のみ。

幽魂は儼然として説くのでした。

 儒仏の説は皆実説にあらず真に人魂の行く所は地上にありて空中にあらず尤も空中にも幽界はあれどそは幽魂の直ちに赴くべき所にあらず。大地の上の幽魂界の何所なりと云うことは今白地に告げ難し。

宮崎。さばかり漏らし難き事ならば、何故に豊前の彦山ともいうべき所なりとは言われしぞ。

 と宮崎氏は舌鋒鋭く切り込みました。

幽魂。イヤイヤ敢て彦山なりと取決めて言いたるにあらず。幽魂界は先ず彦山の如き人跡稀れなる清浄の地、或は磯辺或は島にもあるもの也。是等は魔所などと言いて人々の恐るる地なり。幽魂は此所にありて、容易に人々の行う祭祀を享くるものぞ。そは前にもあらあら述べたるが如し。

宮崎。極楽浄土につきての仏説の当否は如何。

幽魂。(微笑しつつ頭を振り、久うして口を切りました)極楽説は人の心を安んぜんが為めの手段方便のみ。前にも述べたるが如く。人の生前の考と死後の実際とは甚だしく違うものなり。死後の事は死後に知らば可ならむ。人間の顕世に処せむには、世の掟を守ればよし。幽事を知るは凡人の及ばぬことなり。

宮崎。貴答は極楽無しとの意ならむ。極楽なしとならば、何故に其許は去ぬる二十二日に、三部経を上げくれよとは言われしぞ。西林寺にて読ましめたる経文は極楽を説けるにあらずや。大地を離れて幽魂界なしと言い乍ら、大地を離れてありとする極楽を説きたる三部経を望みしはいかなる理由ぞ。

幽魂。敢て経が望ましとの業にあらず。我父の為めに読ましめたるにて、心ばかりの父への弔祭なり。弔祭には経を読みても何を用いても良くただ父の為めと思いて誠を尽せば自から通ずる理なり。元来経は空を説けるものにて、毒にも薬にもならず、ただ便宜のものなり。

 と幽魂の気焔は中々猛烈でした。宮崎氏は話頭を一転しました。

宮崎。一体墓所に鎮まる魂はいと穢らわしきものなり。然るに当家の神棚には尊き神々を祭り奉りてあるを、其許の如き墓所に鎮まる霊魂にして憚る所なく爰へ来るは如何なる故ぞ。

幽魂。新らしき墓にて、腐肉の臭気ある所に止まる霊魂は穢れあれども、我等の如く数百年を閲せるは、その骨肉既に大元の気となりて穢れなく、霊魂も清浄潔白なり。我等はただ人並みならぬ苦痛あるのみにて、清浄なる点はさまで神明と異なることなし。故に神棚の下にも斯くは居らるるなり。但し悪行の為めに相果てたる無念の霊魂は神明の前には到り難し。我等とて濫りに他家に行くことはならねども、当家には由緑ありてかくは来るなり。

宮崎。余は知らざる事なれど、今宵当家にて承るに、二十二日の夕に、其許が其夕に限りて墓所に居り難しと言われしとの事なるが、そは如何なる理由ありての事か。

幽魂。二十二日は郷祭なるが故に、古き神霊来臨の事ありて、家々に豊なる清浄の気を受け入るるなり。されば我等の如き無念凝りたる新しき幽魂は其所を避くるが法なり。この事には深き理りあれど人にきかして益なし。

 右の郷祭という言葉は一寸解りかねて宮崎氏が問い返したるに、『そは一郷の祭りなり』と答えたそうです。

宮崎。当家の祖父など祟り殺されし後は何所に居るや。

幽魂。彼等は同気相集りて、地上の一つの幽魂界に居るならむ。我は委しく知らず。

宮崎。神代の神霊と人霊とは幽府にて違いあるか。

幽魂。神霊は勿論優れたれど人霊とても中には百千人に優れたるものあり。無実の罪に罹り、無念に死したる霊などは、右に述べたる如き優れたる霊に添はれて一つの大霊となり、山をも鳴らし洪水をも起すなり。

宮崎。今其許の望みの通り、石碑を建てて七月四日を祭日と定め、祭祀を怠らずば、其許は其所に何時迄も鎮まるや。又は時ありて其地を離るることありや。

幽魂。我願望達しなば、永く其地に鎮まるは勿論なり。しかせば従来の苦痛も消失するに相違なく、又自己に苦痛なければ人を悩ますことの無くなるはいう迄もなく、却って人の苦悩を憐むの情起らむ。これ正法に依りて邪を正に帰せしむるの道なり。

宮崎。邪心を転じて正に帰せば,其許は社々に座す神々と同体にならるるか。

幽魂。祭事は幽と顕とが互に一致せでは効なきものなり。国主より国法に依りて神社と定められ人民も皆之に従えば、神社と同様にもなるなれど、其事なければ神々と同体にはなり難し。

宮崎。無念の事なくして死したるものの霊魂は、崇ることはなきものか。

幽魂。礼を以て葬られたる輩は人並みの幽魂なれば、人に崇りをなすことなく、又常に墓所にのみ居るものにもあらず。

宮崎。石もて畳み上げたる古き大塚などを見るに、何れも礼を厚うして葬りたること疑いなし。然るにたまたま農夫などが此等の古墳を堀り起すに、或者は忽ちに崇られ、又或者は之を発いてより三年も閲たる時崇りを受く。時には墓を取除けても何の崇りのなきことあり。そはいかなる理由なるぞ。其許の言えるが如く、礼を以て葬りたる幽魂が墓に居らずというならば、崇ることはいぶかしからずや。

幽魂。すべての幽魂常に墓に居らざれど、その来るべき時には来て居るものなり。又初より其墓に鎮まらんと思い定めたる魂は常に墓に居るが故に、それ等の墓を発けば忽ちに崇るものと知られよ。又墓を堀りたる時たまたま幽魂が其所に居らずとて、後に来りて其発かれたるを見れば、何人の業なるかは忽ちに知らるる故に、三年五年の後にでも崇りを為すものぞ。又幽魂にして終に貴き霊となり、清浄の境に入りたるもの、又上界の到るべき所に行き了ヘたるもの、或は主宰の神の御計らいにて人間界に再生したるもの、さては又悪事にのみ心を寄せ、獣類に生れかわりたるもの等は、皆墓所との縁を離れたれば其墓を発かれたりとて崇ることなし

 されば今我等とて道を以て神に祀らるれば神となりて長く人世を守護すべく、其暁には縦令墓を発かれたりとていかでか怒らむ。序でに教え置かん。人の霊を祭るは墓又は霊棚にするが享け易し。神々を祀るは神社又は常に定めたる祭場にするが享け易し。又墓所を発きて悩むことありとも、悉く之を崇りに帰せんは非なり。墓の穢れ、鬱滞の気に触れて発病することもありぬべし。

宮崎。幽魂が幽界の集合地より墓所に来ることは容易きものにや。

幽魂。(重複の質問にいささかむつとして)来らんと思えば何時にても来らる。

吉富。彼岸盆会には世俗皆霊を祭る慣わしなるが、かかる折に幽魂は実際来臨するものにや。

幽魂。彼岸盆会は世俗一統霊を祭る時と定めあれば、幽界にても祭を受くべき時と思い、又死ぬ人も盆会には必らず来るものと思い込みて死ぬるが故に、必らず現われ来るなり。されど我等の如く無念にして相果て、死して祭られざるものは、盆会などには臨み難し。ああ生前武士たる身にてあり乍ら、人体に憑きて人の疑惑を受けつつ石碑の建立を希ひ、忌日の祭を頼むとはさてさて口惜しき限りなり。この胸中推量し玉われよ。

宮崎。菅原道真卿、藤原廣嗣又は逸成、早良親王など、何れも高貴なるが、現世に祟り玉ひしことは実記の上に確証あり。儒者どもは之を信ぜず、世の変災は皆自然の為すところとす。いずれが真実なるか。

幽魂。いかなる高貴の人といえども無念骨髄に徹して死せむには世に崇りを為すこと必定なりそは之を世に知らせて無念を霽らさむがためなり。我等かく市治郎の体を悩ますも、其口を借りて積憤を漏らさむと思うが故なり。顕界にて受けたる無念は顕界より解きて貰わねば霽るることなし


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


6 幽界の秘事

2010/10/05

 幽界の事情につきての質問に会いますと、幽魂は屹として答えました。

幽魂。先ず爰に申し置くべき儀あり。そは顕界の事情を濫りに幽界に漏らし難きと同じく、又幽界の秘事を顕界には漏らし難し。幽界の事情は生前に思い居るとはいたく異なるものぞ。この事は各々にても一且死なば忽ちに暁るべし。我は今幽中の者なれど斯く人体に憑り居る間は幽の事いと微かなり之と同じく人体を離れて帰幽せば人界の事頗る微かにして心を籠めし事ならでは明かには知り難しすべて人生に漏らし難き幽界の秘密又人間の知りて却って害ある事は決して答ふることなければその心得もて問を発せられよ

 かく演べて威儀厳然として質問を持てる有様はとても病める市治郎とは思われず、あだかも傑れたる武士の座敷に居る心地して、看病人が湯など汲みて行くときも思わず平伏して捧げ、父も平素市治郎に対して使用せし言葉は口に出なかったそうであります。

宮崎。切腹の後は、其許は常に墓所にのみ居たるか。

幽魂。多くは墓所にのみ居りたり。切腹の砌は一応本国に帰りたれど、縁とすべき地なく、帰心切なりしが故に忽ち墓所に帰りたり。

吉富。本国に帰らるるには、いかにして行かれしぞ。

幽魂。飛行の法には種々あり。百里千里も瞬間に行くを得べし。されど其法はいかに説くとて生者のよく理解し得る限りにあらず。但し汝も死せば忽ち其理法を覚るべし。

宮崎。本国に帰りし外他所にも行きたることありや。

幽魂。七年以前に他所に行きて九ヶ月ほど滞在したれど、ただただ帰りたきまま還り来ぬ。

宮崎。その九ヶ月の間は、ただ一ヶ所に居りたるか。

幽魂。九州に幽魂の集る所あり

宮崎。九州外にもありや。

幽魂。何れの地にもあり。高山の頂点など幽静の浄地には集まること多けれど、其何地なりやは白地には告げ難し。

宮崎。其許の行きしは何地なりしか。

幽魂。白地には告げ難けれど、大凡は豊前国なる彦山ともいうべき地なり。

宮崎。いかなる縁因 にて其地には赴かれしぞ。

幽魂。一人の武士の魂と一つになりて行きたり。

宮崎。一ツに成るとは形を一つになすことか。果して然らばその二人一体となるは如何なる幽理に由るものか。

幽魂。五十にても百にても魂の一つに成る事は自在にて、集合して一体となりしものが、却って元の形よりも小くも成り得るなり。又一人の魂にても怒る時は百の魂より太く成り得る場合もあり。かかる幽理は人智にては解し難ければ言わず。

宮崎。一人の武士と一つに成りて行きたりと言われしが、その武士は如何なる人ぞ。

幽魂。予生前九州に来りし時、豊前国小倉に九十余日滞在せし事ありしが、その時件の武士と兄弟の如く交わりたり。この人予と別れたる後、猟に行きて山中に死し、その魂久しく死所の附近に留まりしが、ある時予は其魂とめぐり合い、誘わるるまま山中に同行せり。されど其所はわが心に染まぬのみならず、我身切腹して死したる故にや、人並みの場所には居苦しく、僅かに九ヶ月程にて辞し去りぬ。

宮崎。然らば其許は数百年間此地に住める筈なり。これより当時の事を問わむ。

幽魂。イヤ幽界に入りたる者は顕世の事には関係せぬものなり。顕世の事は見聞するも穢わしきのみならず、幽魂は顕事に与からぬが掟なり。ただ生きてありし時に心を遺し思いを籠めたる事は霊魂となりて後も能く知り得之を知るが故に苦痛は絶えざる也。凡そすべての幽魂は顕世の成行きは知らぬが常なり。されば予も顕世の委曲は之を知らず。ただ人体に憑きて其耳目を借り得る間は顕事のすべてを知り得らるるものぞ。さて斯く人の肉体を借るに当りて、其人を悩ますは如何なる義かというに、そは之を悩まさざれば人の魂太く盛んなるを以て我魂の宿るべき所なければなり。気の毒なれど予は市治郎を悩まして其魂を傍に押遣り、その空所に己れの魂を充たしぬ。されば市治郎の肉体は今見らるる如く大病人の肉体なれど、内実は我魂の宿なり。されば前にも述べたる通り幽界に入りては人事を知らぬが道なれど、ただ人体に憑きたる間の事は能く知り居れば、何事にても問われよ。又生前に心を籠めし事も知り居るなり。

宮崎。さらば顕世より弔祭などすとも幽界の魂には通ぜぬ道理ならずや。

幽魂。なかなか然らず。よく思われよ。神を祀り、魂を祭る事は、縦令顕世の業なりとも、そは皆幽界に関せずや。かるが故に祭祀は神にも通じ又幽魂にも通ず。金銭の取り遣り、又婚姻等一切の人事は穢はしければ幽魂は之が見聞を避くるなり。幽魂となりては衣食共に其要なきが故に欲しき物もなく、唯だ苦を厭い楽みを思うのみなり。さて祭事を行うに当り、人々俗事を忘れつつ親しく楽める心は幽界に通じ、祭られし霊魂に感応して之を歓ばしむ。歓べば自然に魂も大きくなり、徳も高くなり、祭り呉れたる人も幸福を享くるものにて、人より誠を尽せば其誠よく霊に通ずるものなり。

宮崎。人の幽魂は皆各自の墓所に鎮り居るものにや?

幽魂。常に墓地に鎮り居るは我等の如く無念を抱きて相果てし輩か又最初より其墓に永く鎮まらんと思い定めたる類にして其数至って少し。多数の幽魂の到り集る所は、幽事なれば言うことを得ず。

宮崎。墓地に居らざる総ての幽魂は何地に於て祭祀を受くるや。彼等は祭場にも来るか。

幽魂。顕世にて五百年の間も引続きて行い来れる祭事は幽界にても大体その如く定まれるもの也。されば不図祭りの月日を改め、霊魂に告げずして執行すれば、之が為めに却って凶事を招くことあり。そは霊魂が従来規定の祭日を思い出でて享けに来るに、その事なきが故なり。又顕世にて同時に数ヶ所にて祭祀を行うことあらむには、霊魂は数個に分れて、各々其所に到りて祭を享くべし。縦令百ヶ所にて祭るとも、霊魂は百個に分れて百ヶ所に到るべし。尤も我等の如き者の魂は一つに凝りてさる自由は得難し。

宮崎。墓地に居らざる幽魂は何地に居るものか、大凡にても承り度し。

幽魂。幽魂の到り集る所は此所彼所に多くあれど、そは現界に生を享くる者の知らでも済む事なり、只死後人の霊魂の行くべき所はあるものと心得居て可し。死したる後は生きたる人の考とは大に異なるものにて、幽事は生ける人の耳目の及ばぬものなり。耳目の及ばぬ事は言うだけ愚かなり。死すれば忽ちに知れるものぞ。

宮崎。その儀一応は尤もなれど、仏法にては死後行くべき所を人に知らしめて安心せしむるを主眼とし、儒道も亦之を説かざるにあらず。されば今日の所にては、之を世人に知らしむるの要なきにもあらず。右儒仏の唱うる所何れが実説なりや。

と宮崎氏の質問は次第次第に急所に向って突き込むで行くのでありました。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


5 武士道の意気地

2010/10/04

 宮崎氏は引き続きて質問をすすめました。

宮崎。其許はかかる美事なる文字を筆せる程の武士なれば、定めて文字も多く知りて居るべし。此白紙に、仕えたりし国主の禄高、その家老、中老の姓名、領分の内なる一二の郡村名等を記されよ。

幽魂。前にも申せし如く、私かに本国を立ち出でたる武士は、国内の事を包むが士道なりとの意をきき分けなきや。我姓名を名告るさえ、祖先に対し、又君主に対して申訳なき次第なり。われは武士道を破りてまで私願を遂ぐるを好まざれども、さりとて私願遂げざれば再び人を悩まし我苦悩の止む時なき事の悲しければ枉げてわが姓名のみは記したり。然るに尚お斯くの如く追窮の手をゆるめぬは、心中に疑念ありての事なるべし。凡そ天地の間に斯る事は必らずあるものにて、人間のみならず山川に住むもの又大樹大石の非情物だに時としては人を悩ますなり。されど人は之を疑う。今此疑いを解かざる限りは我願望も遂げ難かるべし。いざさらば何なりとも問われよ。国主に係らぬ限りは何事にても答うべし。

宮崎。さらば其許の主君に係らぬ郡名あるべし。四郡五郡にても宜し、それを告げられよ。

 かく追窮された時幽魂は聞きとがめ、『吾が本国のグンとな。』とて、いかにも訝かしき風情をして吉富医師に向い『グンとは何事にや。』と尋ねたそうであります。吉富氏が畳の上に『郡』の字を書き終らぬのに『コホリの事か。平生聴き慣れませなんだ。』と言い、更に語をついだのでした。

幽魂。わが本国には四郡あるのみにて、五郡なきことは知らるるならむ。若し知らぬが故に問わるればとて、ウカと記して人の前に差出してなるものぞ。皆君父の領内の事なるものを……。されど、さばかり地名を知りたくば五ッ六ッ書くべし。

とて極めて能筆で榎木村、榎木原、原江などと書き記し、更に言葉をつづけました。

 かかる事とも縦令百千書けばとて疑念は解けざるべく、又遠国の事なれば、吾れ之を知るのみにて、人々の疑念を晴らすの証とはなり難からむ。但し我本国の事を知り居らるるとならば書きもすべし。

宮崎。其許の言う所尤なり。さらば他事を問わむ。石碑の正面には、七月四日とのみ記せよとの望みなれど、同月日に死したる者は世に夥多あることなれば、年号をも書き添えられよ。その年号は何と云いしぞ。

と引き出しにかかりましたが、幽魂は容易にその手には乗らないのでした。

幽魂。年号を記さば、直ちに君父の事は知れるなり。記してよき事ならば何として包むものか。法に違い義を失う事は、いかに問わるるとても告げ難し。

宮崎。七月四日とのみ記して建立せむには、若し当家転住することもあらば粗末になること必定なり。又それ等の事なしとて、何人の墓なるかが不明ならば、自から粗略になるべき道理なり。さる折に魂は何地に行き、何地に鎮まるぞ?

幽魂。我は天地の無窮なると共に、永遠に石碑の建てられたる地に鎮まる心底……。

宮崎。単に月日のみを記し置かば行末粗略になるは必定なれど、それが望みとあらば致し方もなし。

 と言いますと、幽魂はやや久しく俯いて居ましたが、やがて低声にて『何とか別に致方は無きか』と独言ち、其気色いかにも荒立ち、物によっては祟りも仕兼ねまじき風情にて、暫く無言で居るのでした。宮崎氏は尚お追窮をつづけました。

宮崎。国主の名、切腹当時の年号、本国内の事。其許が飽まで秘せむとするこそ不審なれ。是非とも書かれよ。悪しゅうは図らわじ。

幽魂、アイヤよく我言を承れ。義を失い、武士道に背きて願望を遂げたりとて何かせむ。武士たる身の書くまじき事を書きて私願を遂げむより、義を全うして弓矢の神法にかかりて煙とならむことこそ本望なれ。イザ御弓矢の行事なされよ。さてさて無念を抱きて果てし身は、何処まで口惜しきものなるか。正しき道を述ぶれども人の疑念を晴らすよしもなし。

と言い放ちて痛歎の模様でしたが、暫時にして語を転じ、

凡そ幽界より霊界に言語を通ずるは尋常人の幽魂の能く為し得る所にあらず我れ数百年の苦痛に堪え難ければこそ斯く人に憑りて頼むなれ。いよいよわが望みの遂げ難しとならば市治郎の死せむは必定なり。若し我が望みだに叶いなば、四五日の中には病気を平癒せしむべし。病気の平癒を証拠に石碑の建立を依むことは協わぬか。若しそれさえ承諾あらば、われは幽界に帰りて石碑の建立されむ日を待つべし。顕世にて一代を閲る間も幽界にては須叟の間と思わるるものなれど十日は愚か瞬間の苦痛すらながなが堪え難きものぞ

宮崎。忠肝義胆の其許の一言一句をきけば、誠にこれ武士の魂なること今は早や一点の疑もなし。いで、これよりは幽界に係る事どもを問
わん。一々わが問に答えられよ。

 宮崎氏は爰に一転して幽界の消息を根掘り葉掘り問いつめにかかったのでした。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


2017年9月
« 11月    
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930  
小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。