附録 長南年惠物語

2010/10/22

はしがき

 長南年惠女は明治時代の日本が生んだ稀代の大霊媒であり、同時に又珍無類の人間の標本でもありました。

 彼女は文字どおり絶食絶飲の状態を十四ヶ年間もつづけました。

 彼女には大小便などの生理作用は全くなく、又その生涯にただ一度の月経もありませんでした

 彼女が数分間神に祈願すると何十本もの壜の中に一時に霊水が充満するのでした。

 彼女は五十歳で死にましたが、その時尚お二十歳位の若々しい容貌の所有者でした。

 彼女は何の教養もないのに、一たん入神状態に入ると書に画に非凡の手腕を発揮しました。

 彼女は詐術の嫌疑で何度か投獄されましたが、奇蹟的現象は監獄の内部でも依然として続出しました。又裁判官の眼前で壜の中に霊薬を引き寄せたこともありました。

 彼女の半生に起った主なる事件のみを掻いつまんで見ると大体右のような事になりますが、普通の常識で考えたら、到底そんな莫迦莫迦しい事実がありそうには思われません。『冗談仰っしゃってはこまります。御維新後の日本にそんなバケモノが居てたまりますか!』多くの人はそう言われるでしょう。所が、一々証拠物件によりて精査して行くと其所に一点の法螺も掛値もない正真正銘の事実なのだから驚嘆されるのであります。

 私は不幸にして彼女の生時に於て直接相見るの機会を有しませんでした。彼女の能力が最高潮に達したのは蓋し明治三十二三年から同四十年頃のようですが、当時の私にはまだ少しも心霊問題に触れるべき機縁が熟せず、涼しい顔をして英文学などをひねくっていました。今日から顧みると残念至極に堪えない次第であります。明治時代に現われた霊能力者は他にもいろいろありますが、私が今日特に相見ることの機会がなかったのを遺憾に感ずるのは実に長南年惠その人であります。

 が、幸にして私は彼女の実弟長南雄吉氏に面会して、その人の口から詳しい話をきき、又その人の秘蔵してあった参考資料や証拠物件を閲覧するの機会を獲ました。比較的纒ったこの記事が作製されたのは実にその賜であります。

 忘れもせぬ私達の会合したのは実に大正十二年六月二十二日午前の事でした。当時氏は大阪市天王寺茶臼町三七〇番地に閑居して居られましたが、病臥中にもかかわらず歓んで私を迎え、初対面の挨拶もそこそこに、直ちに問題の中心――同氏の姉年惠女の事蹟――に突入しました。外にはしばしの小止みもなくしとどに降りしきる雨の音、内には病後の衰弱をも打忘れ、精神をこめて亡姉半生の奇蹟を物語る老紳士、いつしか四辺には俗悪なる現代とかけ離れた神秘的気分が豊かに漲りました。当時の光景は今も尚おありありと私の眼前に浮び出でます。

 が、惜しいことにこの長南雄吉氏も最早現世の人ではなくなりました。今日氏の談話を整理発表するにつけて殊に感慨が深いものがあります。(昭和五年七月十日しるす)


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


10 後記

2010/10/21

 これで幽魂問答はいよいよ終結であります。

 翌十三日になりて病人を見ると、全く元の通りの平々凡々の市治郎に復って了いました。彼は宮崎氏に向い、苦しげに次ぎのような事を述べました。――

『先月来私の病気は追々平癒に赴き、悦んで居りましたところ、一昨日から又々私の知らぬ間に例の武士の幽魂が取り憑いたそうで、今は手も足も痛んで耐り兼ねます。』

 余程痛いと見えまして、彼は顔をしかめ乍ら語るのでした。

『一体人も多いのに、何故私のことばかり斯く苦しい目に逢わせるので厶りましょう。貴下がたは彼を神に祭ると申されたそうに厶りますが、私には左様の心は毛頭も厶りませぬ。寧ろこの体が癒り次第彼様ものの墓を発きて恥をかかせてやりたい位で厶ります……。』

 そう言って、歯がみをして口惜しがりましたが、一応尤もな点もないではありませんでした。

 十三日の昼頃迄には諸事皆片付きました形づきましたので、宮崎氏は七ッ前に帰宅してそれより問答の手控えを取出し、原稿の整理に着手しましたが、翌くる十四日には又使者が来て、病人甚だ痛み強く且つ昨日以来余りに腹を立て過ぎたので疲労甚だしく危き由を告げますので、宮崎氏は久我浦の医師濱地玄央という人と共に岐志浦に赴きました。

 岡崎家には例の三木、吉富の両医師が己に病人の側につめて居りました。両人口を揃えて

『憑物は最早居りますまいが、いかにも大病で厶るから、今一応平癒の御加持をして戴きとう厶る。』

と申しますので、宮崎氏は早速加持を行いましたが、別に怪しき事もなく、ただ病勢がますます募り、危篤に陥るのみでした。

 十四日以後十九日頃迄の病状並に其間に起れる出来事は医師吉富養貞氏の記録が要領を得て居りますから、これをそのまま左に掲げます。――

『爰一両日は病人の痛み殊に強し。よりて桜井の医師美和鶏麿をも招ぎて五六輩の医家種々に心を尽せどもその験なし。十七日の夜には看病人も皆疲れて、前後不覚に眠り、病人の市治郎独りつくねんとして心細きこと限りなく、何れこの度の病気はとても癒るまじと観念し、腸を絞りてありたるに、不図そのまま睡気づき、ウトウトとなりし時、何所よりともなく、いとすずやかなる声にて、市治郎起きよ起きよという声聞ゆ。誰なるかと思いて臥ねたるまま後方を見れば、年齢二十歳余りにて色白く、髪は総髪にて眼光鋭く、身には黒羽二重の袷ようのものを一枚着したる人品卑しからぬ一人の武士佇み居たり。市治郎別に怪しとも思わず、其許は何人にやと問うに、頭を打ち振りて返事はなし。依りて市治郎は床の上に起き上り、右の武士に向いて坐れば、月一ぱいなるぞとの言葉なり。やがて件の武士は市治郎が背後にまわり、乱れたる市治郎の髪を掻き上げ、頭から肩先き、それから腰までも段々に揉み和げつつ、撫でて呉れる心地よさ、総身自ずと汗ばみて、ツイうつらうつらとする程に、又も起きよと言う。眼を開きて見れば、其人行燈の火にて莨を吸み居りしが、つと立ちて、此度は前の方に廻りて胸より腹、それから両腋下までも撫で和ぐることやや久しく、市治郎いよいよ心地よきまま、不図その人の背部を見るに、其所には①の形の紋所附き居たり。其人、長らくの間汝を悩ましたるは甚だ気の毒なり。されどこれにて身体は次第に本復すべしと、述ぶると同時に忽ち煙の如く消え失せたり。ここに市治郎初めて今見し姿が人間にてはなかりし事を悟り、余りに恐ろしくありしかば、妻を喚び起して薬を煖めさせて飲みたる頃、夜はほのぼのと明け亘りぬ。翌十八日の朝市治郎は父傳四郎、医師吉富養貞を呼びて夜中に起りし事を具さに語る。其朝より心地甚だ穏かなり。同人は頭痛が持病にて八月以来これのみは止まざりしに、今朝は洗い上げたるように気分宜しという。養貞脈を診るに、病殆んど平癒し居れり。九月十九日。吉富養貞』

 其後市治郎の病勢は日を追いて軽快に赴き、九月二十九日頃には平常に復し、十月一日には産土神に参籠し、同四日には下僕一人を召し連れて宮崎氏の所へお礼にまいりました。其時宮崎氏はかの『楽』の字の書を取り出して市治郎に見せますと、市治郎は驚嘆し『一昨日は父の不在の為めに私が触状を写そうとしましたが、手が顫えて字が書けませんでした。これは私の手を借りられたこととは言い乍ら、さても見事に書かれたもので厶る』と言うたのでした。

 その後岡崎家には何の凶事も起りませんでしたが、翌天保十一年正月霊前に元旦の供物を捧げることを失念したので、一寸気障りの事がありました。しかし後に改めてお祭りを行い、無事に治まったそうです。

 同年六月に至り、岡崎家では石工に命じて高さ二尺二寸の石碑を造らしめ、碑面には市治郎が見た紋所と『高峰天神』の四文字を刻し、尚お墓石の表には吉富医師の書いた年号と銘とを刻みつけました。又裏面には幽魂の自筆にかかる『七月四日』を刻し、全部落成したのは同年七月四日でありました。

 不思議な事には泉熊太郎の幽魂の予言は悉く皆的中し、七年の内に傳四郎は下浦の大庄屋役、又市治郎は浦庄屋役となり、家族が殖えて二十八人となったそうであります。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

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9 霊遷しの式

2010/10/20

 この時作次郎霊璽を収むべき白木の箱を持来り、又杜氏は海水で浄めた注連を運び入れ、何れも机上に並べました。幽魂の物語りはまだ尽きませぬが、夜半も余程過ぎましたので、いよいよ霊遷しの式を執行することに衆議一決しました。

宮崎。御箱も出来、その外の用意も調いたれば霊遷しの式法に取りかかるで厶ろう。

 山本神職は三方に神酒や神饌を載せて恭しく運び入れますと、病人の市治郎は忽ち威儀を正し三尺ばかりしざりて一礼しました。病人の左右には宮崎、山本の両氏が祭服をつけて坐に着き、三四十人の人々は程よき所に陣取りました。

幽魂。さてさて時を得て願望悉く成就し、此上の悦ばしさは厶らぬ……。

 病人は机上に安置されたる霊璽の前に拝伏し、涙を流し乍ら箱の内部を熟視してしみじみとした調子でかく述べるのでした。

宮崎。尚お御心に残ることあらば、何事にても申置かれよ。兎も角も計らい申さむ。

幽魂。イヤ別に心残しの儀も厶らぬ……。

作治郎。今後当家に凶事の兆もあらば、必らず誨え下されよ。

幽魂。当家に代々不具者の生れたるは、わが怒りに触れての事なれば、今後はさる類の事は決してなかるべし。その外些末の不幸災厄は免れぬかも知れねど、そは世の常の事なれば、深く思い煩うにも及ばじ。尚お以後この家に変事もあらば、我力の及ぶ限りは必らず守護に当るものと心得られよ。

傳四郎。毎年七月四日には宮崎、山本御両人の御苦労を願い、一家近縁の者共を集めて貴殿のお祭祀を営むことに致したし。

幽魂。そは願うてもなき儀、何分御法の通りに依み入る。さて更めて申すまでもなけれど、わが霊魂の鎮まる場所設定の件は、何卒世間に包み、別して公辺の御厄介にならぬよう取計らい下さるべし。

 そう言って拝伏したまましばらく頭を上げませんでした。乃で燈火を消して霊遷りの式を終り、拍手を打つと同時に病人の躯は左の方に静かに転ぶ音がしました。再び微かに点燈し、箱の釘を緊めさせてから式の通り送り出し、仮りに設けたる場所にそれを鎮めました。


浅野和三郎著

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8 帰幽後の状況

2010/10/19

山本。さて先刻の霊璽の箱もいよいよ出来したれば、それがし海水にて浄め置きたり。追々に遷り玉え。

幽魂。その儀はまことに御苦労に存ずる。――御法通り、万端の準備出来たる上は、即刻遷り申すべし。

宮崎。しばらく待たれよ、承り落せることあり。――すべて人霊帰幽すれば、多くの霊一所に集まり、一塊となりて万代同様に残るものか、それともそれぞれ別の形を備えて居るものか。又其形はいかなる形か。

幽魂。先月も申しし如く、幽界の秘事を白地に顕世の人に漏らし難き事情あり。問われて益なく又語りても耳に入るべきにあらず。耳に入らぬことは却て疑いの心を誘いて、害となるべし。

宮崎。予は幽事を疑う者の疑念を解かんが為めに質問は仕らず。ただ天地の真理を知るの一助にもと思うばかりなり。縦令耳に入らぬまでも一応誨え玉え。

幽魂。さらば一と通り語り申すべし。尋常に帰幽したる同気の者に限りて一所に集まり居れどそはただ居所が同一というまでにて多くの人々の霊が一つに成るにはあらず各人皆別々なりも志の同じき者は幾人にても集合して一つになることあれどそは一時の事にて万代までも一つになるにはあらず要は離合自在というまでなり又霊魂の形は顕世の人の若き時と老いたる時とに変りあるが如く折にふれて少しづつ変ることもありされど理は今述べ難し又現世にありし時忠孝その外の善事を努め誠実に心を尽し誉れ世に現われずして帰幽したるものは幽界にて賞誉を受け霊魂は太く徳高くなり又顕世に功績ありてその功績だけの賞誉を顕世にて受けたる者は幽界にて人並みの取扱いを受くるに過ぎず又顕幽後新たに功を立てて高く貴くなる霊もあれば現世にて善人なりしものが帰幽後怒に駆られて其地位の引き下げらるるもあり総じて生前死後ともにこれで安定ということはなき也。又人の霊魂中には主宰の神の御計らいにて再び人世に生れかわるもあり。それ等の事は、永く幽界に居れば次第次第に解るなれど、われ等の如き霊魂が幽界の事情に就きて知り得る範囲は極めて僅かなり。之を要するに顕幽ともに大本の道理は一つなれど事物の上に現わるる趣きは大に異なるものにて幽に在りては容易に顕の事を知り難く又顕より幽の事理は容易に弁へ難し現世の諸宗門又儒道などが兎や角幽界の事を説けどそは真実と思うは惑いなり


浅野和三郎著

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7 幽魂の揮毫

2010/10/18

宮崎。其許が切腹せられし年号は深く包まるるに由り重ねて尋ねまじきが、御存生の時の帝都は大和か山城か、将た近江なりしか。

幽魂。すでに山城に定りての後なり。延暦よりは遙かに後なり。

吉富。家康公治世の後か?

幽魂。家康公? その様なる事はまだきき申さず

吉富。頼朝公前後か?

幽魂。それ等は答えませぬ。前にも約束せし通り年号と君父の上は語れませぬ

宮崎。先日其許の揮毫を拝見するに、なかなかの名筆で厶る。然るにその時の書はただ姓名のみにて人に見せるに適せねば、別に人にも見せてよき字を五字にても三字にでも書き残し玉われよ。是非に是非に。

かく云う間にも傳四郎は墨を磨りて揮毫の用意をしました。すると大工の所から、霊魂の鎮まるべき霊璽の箱が出来たれば検査して貰いたいとの通知がありましたので、山本神職が大工の許へ出張し、其後で、宮崎氏がしきりに揮毫を迫ったのでした。しかし霊魂はなかなか承諾を与えようとはしませんでした。

幽魂。霊魂が、何の必要ありて筆蹟を顕界に遺すべきぞ。おかしくも面白くもなき事なれば、その儀は平にお断り申すなり。先月は書かねば疑惑を解き難き為め、止むを得ず書きもしたれ、今更それを望まるるは余りに物ずきに候わずや。

 老巧の吉富医師が傍から加勢に出ました。

吉富。イヤ其許の御剣が久我浦なる宮崎家に伝わり、その剣にて加持を受けられしさえあるに、今又その人より神号をも授けらるるとは、よくよく深き幽縁のあればなるべし。されば是非一字なりと筆を染められよ。それこそ宮崎家にとりて、こよなき紀念物なるべし。

宮崎。枉げて『剣』の一字なりと書し玉え。その他何字にても、御心のまま筆を染められよ。

幽魂。イヤ強い理責めじゃ。さらば是非に及ばず、一字なりと書き遺すことに致すで厶ろう。

 そう言って彼は筆を執りて、その尖を熟視しましたが、少しく毫の脱け出でたるを発見して指で摘み取りて紙に移しました。それから指を拭い姿勢を正しくして『楽』の一字を書きました。折から山本神職は大工の所から帰り、此書を見て感歎しました。

山本。さてもさても見事で厶る。まだ墨痕の乾かざる四五百年前の古筆を拝覧するとは世にも稀れな事柄で

 と言えば居合わせた他の人々も『成程その通りで厶る』と口々に囃し立てたのでした。その書は今も宮崎家に秘蔵されてあるそうです。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答 (附録 長南年惠物語)」 

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6 黄金十一枚

2010/10/17

 今迄宮崎氏は泉氏が生前通過したと称する博多附近の地理に就きて根堀り葉堀り問いただして居りましたが、爰に至りて、話頭を転じて、一層肝腎な所持品の問題に移りました。

宮崎。御切腹の砌御所持の品は大小ばかりにて、外には何物もなかりしか。

幽魂。一枚の茣蓙ありしが、外にはさしたるものなかりし。

山本。旅中の用金等も定めて有りしなるべし。

 かく言われて幽魂は暫く考えて居ましたが――

幽魂。イヤさしたる物もありませなんだ……。

 そうは答えましたが、何やら意味ありげに見えました。

宮崎。前の御話によりて、御切腹の時に所持されし御刀は拙者方の所蔵なる事は知れたるが、御指添は今何所にありや。それとも早く錆び腐りたるにや。

幽魂。されば死後顕界の事はなかなか明かに知り難きものにて、ただ魂を凝らしし事のみ知らるるものなるは、既に述べたる所の如し。今貴家に伝わる御剣は、われ父母の教訓を破り、私かに取り出でて旅中に帯したるものにて、父だに家に遺し置きたる程の大切なる一振なれば、申すまでもなく余は絶えず之に心を注ぎたり。も切腹の際はホンの暫時の間打忘れて居たりしも霊魂となりては愈々其刀の慕わしく余は幽界より其所在をつきとめ置きたり。貴所の所有となる前には、此所より南に当る、島の如き山の尾に一叢ある家の内の一軒に所蔵されたり。指添の方は高金のものなれど、わが為めにはさしたるものにあらざれば、露ほども心に係りませなんだ。されば今何所にあるかも知りませぬ

山本。旅中の手荷物、又路用の金子なども少しは所持されしならむ。

 と側から更に問いつめに係りました。

吉富。旅宿もあり、渡しもあれば、路用の金子も無くては叶わぬ筈なり。

宮崎。只今両人の申す如く、金子なども定めて所持せられしならむ。

幽魂。それは申したむなき旨も厶る。

山本。霊魂となりては金子の事は卑しきものと思われて、然か云わるるや。

幽魂。左様の次第では厶らぬ。

宮崎。所持された金子の員数は覚え居らるるや。

幽魂。国を出る時黄金十一枚所持せしが、六年の内に半ば使いて、切腹の時半額は所持し居たり。

 かく述べて険しい眼光で家の中を見まわしましたが、再び思いかえした様に『ああ惑えり』と言って、元の穏かな顔になって言葉をつづけました。

幽魂。すでにかく吾を神霊として祀り下さる上は、仮令以前われに対して無法の所為ありとて、今更何を怨みとせむ。過ぎつる事を繰りかえすは武士たるものの為まじき業なり。大刀だに貴家に伝え下らば、われに取りてこの上の悦びはなし。又当家の者も、吾を神として、怠らず祭りくれなば、つとめて家運守護の任に当るべし。

吉富。貴殿すでに神霊となられし上は、何事にても祈願の旨をきき届けくださるや。

幽魂。イヤ衆民が丹誠を凝らしての祈願を成就せしめ玉うは朝廷より重く御祭祀あらせらるる神々の成就せしめ玉う所にして、我等如き凡霊の与るべき事にあらず。四時の順逆五穀の成熟万民の安楽等の大事の成就するには量り難き深淵なる道理のあるものにて、世に吉事と凶事とのある条理は、今卿達に述べたりとて耳には得入らざるべし。されば今後若し我に向って祈願をささぐる者あらば、必らず差し止めてくだされよ。今迄故ありて当家に崇りたる罪深き身の、神と祀られしばかりに、その報いとして当家を守護するまでの拙き霊なれば、広く世の人を救わんことなどは思いも寄らず。


浅野和三郎著

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5 地理の穿鑿

2010/10/16

宮崎。さて前に戻りて問い申し度し。其許は先刻話されたる博多の津より、直ちに当地に来られしや。

幽魂。博多より当地に来る間には度々川を渡りたり。姪浜という地より此所に来る船ありとききし故に、出船の時刻に遅れじと急ぎたれば、途中の事は目に止まらず。地名とても尋ねざれば委しくは覚えず。

宮崎。博多の津と姪浜との間には家は無かりしか。

幽魂。道の側には無かりしが、遠くには四五軒も見えたり。

 この時山本氏が福岡という地は無かりしやと問いましたが、主人傳四郎及び吉富の両人が、側から、福岡は慶長後の市街なれば、泉氏通行の時には無かりしならんと注意し、その話はそれで止みました。

宮崎。姪浜はいかなる地にて家数は何程ありしや。

幽魂。塩焼きを業とせる貧しき里にて、家数凡そ三十軒ばかりもあらむと見えたり。其所の渡しを過ぎ、少しく来て又渡船に乗りたり。

宮崎。其渡しは川なりしか。

幽魂。イヤイヤ大河に似たる海にて、南北は山々なりしが、渡り終えて上陸せし所より此地まで一里半も二里もあらむと思いたり。

宮崎。その着船せし所より直ちに此地に来られしや。

幽魂。父の此地より唐津に渡らぬ内に到着せねばならぬと思うまま急ぎて直ちに着したり。

宮崎。先達てのお話しに、此地に家は無かりしと申されたり。今は新浦、本浦とて家居多く、又前に新町というもあることなるが、其許の来りし時には半里此方に人家は無かりしにや。

幽魂。此渡しの辺には家無く、前方の山の根には少しありたり。又津場あたりの山の根にも少し家ありて、其所にも小き渡しありたり。

宮崎。この次ぎに芥屋という村あり、御出ありしや。

幽魂。余は行かねども、さぞありしならむ、路ありたり。其辺には諸国の船の入る所ありて便船多き由をききたり。

宮崎。姪浜の渡しより此地迄はいかなる道路を通られしや。

幽魂。渡船より上りて後は山の根を通りしに、上にも下にも少しづつ家居ありたり。小さき渡しを越したる後は吹上の白砂地を通りたり。其吹上の沙原より西南の方を見れば、海を隔てて島の如き所ありて、白砂の州崎つづき、向いの山の尾にも人家数々見え、又此方の山の尾にも、通行せし道路の附近の山の尾にも、家屋少しづつありたり。

宮崎。吹上の州より渡しはなかりしか。

幽魂。渡しはなかりし。されど元は潮の満干せし地と見えたり。

 宮崎氏は爰に附記していう。大渡しというは今の中通なるべし。貝原氏が元禄十六年に著したる、筑前国風土記の中に『二百年前は今津より前原に海通り云々』とあれば、泉氏の此地に来りしは今より凡そ四百年余昔しの事なるべし。又小き渡しは御床と香月との間なる今のサヤという辺りか、さなくばワタ内よりアベヒの間ならむか。又吹上の沙原より西南に方り、海を隔てて島の如き所に白砂州の続きたりといえるは、今の久我浦船浦なるべし云々。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」 

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※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

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4 不浄と災厄

2010/10/15

山本。御語中なれど、茲に取立てて尋ね申すべきことあり。実は当家火難の運気至れる由をきき当家の主人いたく心を悩まし、吾等へ頼むにより、昨日より家運長久の祈祷をなしたるが、此祈祷にて凶運は消失するものか。若しその事協わずとならば、いかにせば此難を免るべきか。御存じあらば教え下されよ。

 作次郎、杜氏等も其義は篤と教えて置かれたしと口を揃えて依むのでした。

幽魂。貴殿方丹誠の御祈祷にてその凶運は免れ得べし。

山本、吾等の祈祷にて災厄を免るということは如何にして知らるるや。

幽魂。祈念に依りて災厄を免るる根元の道理は我等如き霊魂の未だ知る能わざる所なれど先月我等に神法御祓等を施されしがめに数百年間住み居たるわが墓地の頓かに穢わしくなりて再び住居し難きまで昇級したるを見れば其神法のいかに難有きものかは推して知るべし一家の凶運もなどて此法によりて消失せざるべき。且つ今は主人をはじめ、家内の者ども、心から過ちを悔ゆるの誠意あれば、開運の緒の開けむは確かなり。

山本。シテ此度の火災は神の怒りか、邪神の所為か、将た竈神の責罰か、祈念に就ての心得方あれば誨え玉え。

幽魂。世の禍は人の仕損じより起ることも多けれど、又神の御怒りに触れる場合もあり。又邪神の荒びより起れるもあり。或はいかなる故とも知れずして不図起るものもあり。時とすれば竈神を粗末になしたりとで、其怒りに触れぬこともあるなり。

山本。此度の事は竈の神の御怒りにてはなきや。

幽魂。されば之を竈神の荒びと言えば言われざるにもあらず。邪神は好みて人の害を為し、神明はつとめて邪神を除き玉う。ち竈の神の司り玉う竈に不浄を集め無法を働く事はこれ邪神の望む所にして神明の嫌い玉う所なれば凶事はこの辺より起るなり。宮崎山本の御両所より、当家の者どもに篤と此道理を教え玉われよ。誰も家業の忙わしき時は天地の大本の理にもとりて物事を粗略にし穢れを招き易きものなればよくよく心附くべきことなり


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


3 伝家の宝刀

2010/10/14

 先月幽魂が初め現われた時は何人も気味悪さが先立ち、一時も早く市治郎の体から幽魂を逐い出すことばかり考えましたが、人情は妙なもので、今回はそれと訣れるのが、むしろ名残惜しく感ずるのでした。が、さてあるべきにあらざれば、人々は霊代の箱を造るべき大工を呼びにやったり、又石碑を建つべき浄地の相談をしたりしました。すると吉富氏が、不図思いつきて、『今幽魂この肉体を立退くに於ては、再び幽事を尋ぬることは叶わざれば、暫くこのまま留め置きて、先月問い洩らした個所を尋ねようではないか』ということになり、乃で再び問答が始まりました。

山本。曩に宮崎の刀を見て、三振の中云々と言われし由なるが、そはいかなる故ありての事か。

幽魂。別に深き仔細ありての事にあらず。ただただ尊く思う余りに拝見せしまでなり。

吉富。イヤ其許が『さてさて三振の中がいかにして』と低声にて歎息されたる声我耳によく聞えたり。それには必らず意味あるべし。

山本。其許の所持されたる三振の中の一つという事ではなきか。

宮崎。いかに泉氏、其許は予が持てる刀に心を籠め、三振の中云々と言われしのみならず、いかにもその刀を慕わるる様に見ゆるは必ず仔細あるべし。さまで一念の籠れる品ならば吾れ何とて惜むべき。如何なる不吉の三振ならむも知れざるものを、永く我家に留むるも心許なし。望みとあらば、其許の石碑の下に埋めて進ずべし。

 かく述べても幽魂は尚お無言を続けました。暫くして『水をくれよ』といいますので、作次郎というものが水を汲みて出しますと、それを飲み干し、胸を撫り、ようようの事で口を切りました。

幽魂。右の刀は御家に大切に収め置きて下されよ。

宮崎。収め置けと言わるるからは、生前其許の所持せられしものか。

山本。其刀にまだ御心が残っているのでは厶らぬか。

幽魂。イヤイヤ今は刀に心残りは更に無し。さるにしても不思議に廻り廻りて来りしものかな。ああ如何なる由縁のありて斯くは……。

 と独語つつ俯きて考え込みました。

山本。いよいよ右の刀は其許の所有たりし事と考えらる。シテ其刀を三振の中と言われたるは如何なる因由 あることで厶るか。

幽魂。予の所持せし刀ということが判らばそれで宜しかろうに……。

宮崎。何事によらず、知れねばいよいよ知り度く思うものなり。兎角に言い兼ねらるるは必定不吉なる刀で厶ろうがな……。

幽魂。一を語れば二を言わねばならず。さてさて口は禍の門とはよくも言いたり。右の刀決して不吉のものにあらず。本国にて上様より余が父に賜わりし三振の中の一振なり。そを賜わりし因由 は今軽々しく申すべきにあらず。

山本。然ばかり貴重なる刀を何故に此辺鄙の地まで携え来られしぞ。

吉富。君父に係わる事ならばそを包み給うは御尤もに存ずれど、その外の事は語り聞かせ候え。刀を 此地に携え来りし因由 是非とも承り度きものなり。

宮崎。加賀に残し置きたる刀がめぐりめぐりて拙者の家に来りしか、それとも其許が佩きて此地に来りしか、委しく物語りてきかせ玉え。

 三人からかわるがわる問い詰められて、とうとう幽魂は語り出でました。

幽魂。今は包み難ければ物語らむ。余十七歳の時、国内に騒動起りしが、其時父は無実の罪に沈み、上様の御咎めを受けて国退きせり。その砌り、父が母に申し置かれしは、唯一人の伜なれば、必らず泉の家を再興させよ。して上様より下賜の中、此一振りは家宝として大切に彼に伝えよ、とのことであった。然るに余は父の御供申し度く、その旨を母に願うこと度々に及べどその都度母はたッて引き留め、父一人を偲ぶ為めに代々の祖先の家を亡ぼすことありては以ての外なり。若し国を出でなば、この母まで諸共に勘当ぞとの父の遺言なれば、必らず出国無用なりと、それはそれは母から引き留められまして厶る。

 かく述べて幽魂は数行の涙に咽びましたので、満座の人々も皆涙を催し、感歎の声を漏らしたそうであります。

宮崎。それで、其許は、十七歳の時に国元を立出で、何地にて父君とは面会なされしぞ。

幽魂。されば、余は母が引きとむるを聞き入れず、伝家の一刀を携えて国元を出で、諸国を廻り廻りて六年振りに藝州バタという所にて父に行き逢いたり。其時父は余を見て大に怒り、汝が母の命に背きて家出せしは、取りも直さず吾が命に悖りしなり。汝はただ一人の男児なれば、汝を措きて家を嗣ぐべきものなし。早く帰りて母を扶け、家名を再興せよ。我は濡衣の乾くまでは死すとも国には帰り難き身なり。コレよく承れよ。親として其子を思わぬものがあろうや。又子として親を慕わぬ者があろうや。されど今汝が吾の踪を慕うは、孝に似て実の孝ではない……。かく道理を責めて父に戒められ、それを押し切りて跡に随い行かれマセナムダ

 かくのべて長太息を漏らしました。

吉富。それでも其許は強いて随行されたるか。

幽魂。イヤイヤ父は其夜私かに出船し、終に行方知れずなりたり。附近の者に問い合せ候えば、九州小倉に行く船に便乗されしとの事にて、余も亦船にて小倉に着したるに、その時父はまだ小倉には着かざりし。それより余は九十三日小倉に滞留したるに、漸くにして父が着きたれば言葉を尽して随行を願いたれど、父は一言の返辞さえ為し玉わず、程なく肥前の唐津に向いて急がるるにより、余も後より慕い行きたり。

宮崎。小倉より当地までは何という所を通行ありしや。

幽魂。小倉より当地までの間には数ヶ所通行したれど、心にとめぬ所は忘れたり。ただ今も尚お覚え居るはコヤという地の川辺を通行せし事にて、此所には家居も多く、近傍の田圃中にも此所彼所に三軒五軒の民家ありたり。又一入目にとまりしは博多の津なりし。此津には旅船多く軒数も沢山にて、優れてよき所なりし。

 などと懐旧談をするのでした。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

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入力: いさお


2 火災の予知

2010/10/13

 家内の人々は又々大騒ぎを始め、ドーなる事かと気が気でありません。仕方がないので、主人傳四郎、作次郎、及び杜氏の三人来りて市治郎の前に座を占めますと、幽魂が市治郎の口を借りて語り出でました。

幽魂。当家此度の火難は七八日以前より其兆現われ、幽界の方にはよく知れ亘りたり。故に度々その兆を示して知らしめむとしたれど、一人も之を悟らず。その中火災の兆候はますます盛なるを以て、急に守護せむとすれど我魂を寄する所無きを以て、又々市治郎が体に憑き、今日火災の起る少し前より念力を凝らして漸くに消しとめたり。先日我等市治郎の体を借りて、いろいろ幽冥の秘事を説き聞かせたれば、少しは其道理を悟りたるかと思えるに、毫もさる事なく、却って幽規を犯して変を招げり。ず従来用いし大恩ある竈を不法にも打崩して取捨てたる上に夏の頃より積み置きし不浄の土をも忌まずそれを用いて新竈を築き浄めの式をも行わずして火を焚くとは余りに不法なり。世に水火ほど清浄のものはなし。特に井水と竈の火とは最も浄らかなるものにて甚だ貴く、殊に酒造家は火と水とを用ゆる事他に数十倍す。何を以て其恩に酬ゆるぞや。なべて神霊は清きを愛す之に従うは人たるの務めなり。然るに不浄の土を以て竈を築くはこれ人自ら災を招くものにして、神明のそを下すにはあらざるなり。知らざる事は是非もなけれど、既に土に不浄の入りたるを知りつつ之を用いたるは不届なり。曩の日わが誨え置きしにも係らず今斯くの如し。これ下世話の所謂喉元過ぎて熱さを忘るる類ならずや。凡そ火災洪水の類は即座に来るものにあらず。幽の方に然るべき理ありて顕に起るなり其事の原理は我が如き凡霊のよく窺知し得る限りにあらねど火災起らんとする兆ある時は予じめ之を知る事を得くも古法に由りて竈を浄め置けば縦令火難起るの時来るとも時運の荒びに誘わるることなし。この旨よくよく勘弁して向後を慎み、家運の長久を図るべし。

 と厳かに教えました。其問答の間、宮崎氏は鎮火祭執行中であったので席に居らず、後で聞いて記し置いたということです。そうする中に山本氏が使者となり、宮崎氏等を呼びに来たので、病室に行って見ると、家族は固より親族等悉く集まり、医師山崎玄明、三木道林などという人達も来会して居ました。

 宮崎、山本の三人が正服にて着座しますと、病人も坐り直しました。双方とも暫時無言のまま睨み合って居ましたが、やがて吉富医師進みて宮崎氏に向い、『市治郎の只今の有様は有り触れたる世の常の病気とは思われず、必らず憑依物ならむ。されど泉氏の霊にてはなかるべきか。そは泉氏の霊魂は再び人を悩まさずとの誓書を貴殿に差し入れてあるからであります。と申して、われわれの見る所にては、ドーやら泉氏の霊のようにも見ゆ。この辺篤と御糺しありたし』と申しました。宮崎、山本の二氏が口を揃えて『その儀いかにも尤なり』と申しますと同時に、病人は『御免』と言いさま、前にて結びし帯を後ろに廻わし、右の両人に一礼したので,両人も之に答礼しました。それから直に問答が始まりました。

幽魂。それがしは先月二十四日の朝、当家の一子市治郎が体を離れたる泉の霊魂で厶る。

山本。何故にかく再び帰り来られしか。

宮崎。先月当方に差入れたる誓文の手前もあるに……。

山本。武士に二言なしと承りたるに、かくては甚だしき食言ならずや。

 二人は気色ばんでかわるがわる詰問しました。

幽魂。イヤ其義は先刻当家の主人と吉富氏とに申したり。七日前より当家に火難の兆あるにより坐視するに忍びず、先日来当家の東西を徘徊して其兆を示せども、一人として之を悟り得るものなし。見るに見兼ねて已むことを得ず、復も市治郎の病後の体を借りて火難を救えり。先夜吾れ当家を守護して、七ヶ年の先に吉事を見せむと約し乍ら、今却って火災ありては、之が為めに建碑の約束も破棄さるるは必定なり。かるが故に今度来れるは万止むを得ざるものにて、以前の如く人体を悩まさむ為めにあらず。何卒此意を諒察されよ。

 と言い、更に語をつぎ

 今迄数百年の間墓所にのみ居りたれど、先般尊き神法に預かり、且つ神号を蒙り、正に帰することを得たれば、その後は墓に帰るも穢わしくてエイレマセヌ

山本。エイレマセヌとは如何なる義か。墓地に何者かが居て入り難しということか。

 と不審を打ちますと、たまたま列坐の一人桝屋善吉は曾て加賀の国に行ったことがありますので進み出でて、『上方でエイレマセヌとは入れぬことです』と通弁しました。

幽魂。そうさ、むさくて入る事が得出来ぬさ。

 と投げるが如く言って更に語をつぎました。

 さて各々に申入れたき儀あり。先月二十四日吾等当家を立退く時、公辺に願いて許しの出るまで、三年にても四年にても待つべき旨を約束したるが、いよいよ幽界に帰りて見ればわが霊位何時の間にか昇格して墓所は勿論その他すべて穢れたる場所が厭になり止むなく樹上などに居ることもあり希くば早く寸尺の浄地なりと与え玉え然らざればただただ旅心地して安き心地もせぬなり

宮崎。その儀ならば霊璽を新調して参らすべし。石碑落成までそれに鎮まり居られよ。上古には刀又櫛を霊代とする例もあるが、何ぞ其許に注文はなきや。

幽魂。兎も角も御法通りに為し玉え。其法に従いて遷り申さむ。

山本。白木の箱の中に霊璽を置きて魂を鎮むる法あるも、盛んなる霊は太かるべければ、小さき箱にては如何あらむか。八寸の箱にて宜しきか。

幽魂。イヤ其法に隨う時は一寸の箱にも鎮まり得らるるなり

 そう言われて両人も成程と首肯したのでした。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」 

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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。