幽界行脚

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二十八 母の覚醒

 一九一六年十月九日ワアド氏が幽界へ行った時は、叔父さん丈その家にいました。

 叔父。『レックスはお母さんの処に行った。お母さんがようやく気が附いたのじゃ。私は病院にお前を連れて行こうと思って一人で待ってた処じゃ。さあ出掛けよう。』

 二人は直ぐに病院を目ざし、例の美しい庭を通って案内をい、応接間に通りました。やがて一人の看護婦に導かれて母の病室にはいりました。

 広い明るい一室の寝台の上にお母さんは休息してり、レックスはそのそばすわっていました。お母さんはワアド氏を見るや否や、不平らしく云いました。――

『お前は何故なぜレックスの死んだ事を私に話してくれなかったのです?』

 病中の母に弟の戦死はかくしてあったのです。ワアド氏は彼女に種々と申訳をして、やっとその機嫌を直す事が出来ました。

 お母さんは不審そうに、

『どうも判りませんね、レックスも私も死んでいるのに、お前は如何どうしてここへ来るのです?』

 ワアド氏は肉体を地上に置いて、霊魂丈で幽界へ来てる事を説明しましたが、彼女にはその事が判然はっきり腑に落ちぬ様でした。ワアド氏が死際の事を知ってるかと尋ねると、母はかく物語るのでした。――

 母。『お前が私の名を呼んだので、ハッと気が附いて見ると、夢の様にお前の顔がポーッと眼の前に浮びましたが、あの時はきっと未だ生きて居たのですね。それからは何も知らず、今度眼が覚めたら、レックスがそばでニコニコしているので、私はてっきりレックスが仏蘭西フランスの戦場から帰って来て一緒に家にるのだと思いましたよ。今だってだ死んだ様な気にはなれませんね。何だか夢でも見てるのではないかと思えますね。ただお前の躯が何処どこかぼんやりとしているのが少し変だけれども……。』

 此時このとき傍らに居た医者が注意しました。――

『御病人は未だ、常態になってられませんから、今日はあまり長く御面会わなさらぬ方がょろしい。しかし思ったより早く気が附かれましたよ。中には何ヶ月も眠り続ける人があります。此方こちらのは地上の時間だと何日になりますかナ?』

 ワアド。『今日は丁度十二日目になります。』

 医者。『経過は大層好いが、何にしても長い間のわずらいであったから、一気になおす事はむつかしい。』

 お母さんは急に可愛い孫の事を想い出して、

『坊やは丈夫ですか? もうお誕生日がすぐでしょう。』

 ワアド。『四、五日後です。丈夫でいますから安心して下さい。お母さんの死なれた時随分悲しんで、可哀想でした。お祖母ばあさんとレックス叔父さんの事を、いつもお祈りの時に申します。』

 母。『なんという可愛いい子でしょう! 何かお土産をあげたいけれどもね……。』

 レックス。『ああいい事がある。にいさん、お母さんと僕とにかわって何か買って坊やにやって下さいな。きっと嬉しがるにちがいないから。』

 ワアド。『そりゃいい思いつきだ、早速喜ばしてやりましょうよ。』

 医者。『如何です、今日は此位このぐらいで打切って下さいませんか?』

 ワアド。『どうも御心配かけました。ではお母さん、左様なら……お父さんに御用はありませんか?』

 母。『よろしく申上て下さいね。』

 ワアド氏は母に別れのキッスをして、三人でその病院を出掛け、同時に彼は他の二人とも別れて肉体に戻りました。

 此日このひから一週間目の十月十六日の訪問日には、幽界の二人はワアド氏の来るのを待設けてりました。レックスは兄の顔を見ると――

『三人でお母さんの見舞に行こうと思って待ってた処です。直ぐに出掛けましょう。』

 ワアド。『あれからお母さんの御様子は如何どうですか?』

 レックス。『何度も行きましたが、だんだん工合ぐあいがよい様ですよ。』

 皆なで戦争の噂話等をしながら病院へ出掛けました。お母さんはワアド氏の訪問を非常に喜んで、すぐ孫の噂さを始め、お土産はやったかと尋ねるのでした。ワアド氏は坊やがお祖母ばあさんやレックス伯父さんの贈物を嬉しがった事、いつでも二人のお祖母さんとこの伯父さんとのためにお祈りをしている事等を答えると、お母さんは驚いた表情をして、

『それでは叔母さんもくなられたのですか?』

 ワアド。『ええ、お母さんより先に。』

 お母さんは不審そうに叔父さん達の方を向いて、

『死なれたというのに、どうして又あなた方と御一緒に居なさらないのですか?』

 レックス。『叔母さんはHさんやE嬢などと一緒に、私達より上の世界にられますよ。』

 母。『ああ教会のお仲間ですね。私はあの人達の処へは行きたかありませんネ。』

 ワアド。『お母さんにゃ向きませんよ。類は友を呼ぶですからね。』

 母。『だけれども、一体私はどうしてこんな処にるのでしょうね? 死んだらもうお医者の手を離れてよさそうなものだのに、私は未だ医者だの看護婦だのに取囲まれて、まるで大病人の様じゃありませんか! ねレックス、今日はお前の処へ連れて行って下さいよ。』

 レックス。『もう少し御辛抱願います。もう少しくなられればお母さんをお連れ出来るのですから……。毎日だんだんとよくなって行くのですからね。』

 母。『だけど此処ここには月日なんてものは無い様ですね。私はんだか芝居を見たく成った……。』

 お母さんの嘆声を聞くとそばに居た看護婦が――

『芝居を御覧になりたければ、御案内いたしましょう。さあ運搬椅子にお掛け遊ばせ。』

 母。『椅子なんかりませんよ。歩いて行かれます。』

 起き上った彼女は鼠色のゆるやかな着物を纒っていました。床を出て歩こうとすると足が立たず、すぐ又床の上に倒れてしまいました。

 看護婦はワアド氏と二人がかりで彼女の躯を抱き上げ、再びベッドに座らせますと、彼女は生前の様に丸くならず、姿勢をただして座りました。床に落ちても別に怪我もせぬらしく、平気な顔をしてりました。

 看護婦。『矢張り椅子にお乗りにならなければ駄目でございますよ。』

 母。『そうですね、じゃ着物を着せて下さいませんか。』

 看護婦。『お召物はその侭でよいのです。』

 母。『あらこれは寝衣ねまきではありませんの。』

 看護婦。『はい、当分はそのお召物を着ていられるのです。』

 お母さんが看護婦と、医者とに援けられて、応接間に出て来た時、ワアド氏は医者に尋ねました。――

『どうして母は歩けないのですか?』

この前にたしかお話した筈ですが、母上のお病気は精神が源因げんいんです。生前極めて物質的であられた心が禍を残して、肉体の弱点を死後にまで持続けてられるのです。が、精神の中で物質的でも利己的でも無かった部分、即ちお子さん達に対する愛情、ことにお孫さんを思う情等は純真なものであったから、そうした方面の気は確かです。』

 看護婦。『ほんとにお孫さんの事は、毎日よくお話しになりますわ。』

 この話しを小耳に挾んだお母さんは涙を浮べて、――

『坊やはどうしてますかね。顔が見たくて仕方がありませんよ。』

 芝居の話で、やっとお母さんの気を引立てながら、一同打ち揃って出かけ、四五度道筋を変えると、たちまち芝居の建物の処へ出ました。

 看護婦。此処ここる劇は病院の患者向きですから、大したものはありません。高尚なものは病人達にはむずかしくてだめなのです。』

 劇場は地上のものと大差はありませんでした。ただ一階や土間は運搬椅子が入れる様に、席が広く取ってある事等が眼新しい位のものです。二階から上の席は歩行の出来る患者達の座る様に普通の席になって居ました。


二十七 母の永眠

目  次

二十九 レックスのオペラ見物


"A Subaltern in Spirit Land"

底本:「幽界行脚」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

John Sebastian Marlowe Ward

J.S.M.ワアド著

淺野和三郎・粕川章子共訳

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビ と、入力者による振り仮名は、右の様に表示されます。表示事例ひょうじじれい、その他、難解な言葉遣いに対しては適宜、注記いたしました。

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。


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