幽界行脚

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十九 霊界の実戦

 七月二十四日訪問の際の幽界の状況ようすは日頃とは打ってかわって、惨毒さんどくをきわめたものでした。

 大気全体が血を流したように真紅まっかで、それがゆらゆらと波濤の如く動揺ゆすぶれ、見渡す限り一面の火の海です。

 ワアド氏はこれがめに一時全く眼がくらむを覚え、ドー考えてもその中に突入する気分にはなれませんでしたが、何やら眼に見えぬ不思議の力がどこかに働いて、彼のからだを前方に押しやるらしく、躊躇ちゅうちょしつつある間にいつしか紅蓮ぐれんの渦巻の中へとはいって行きました。

 しばらくすると、それでも視力が次第に回復して来ました。が、それは却って一層ワアド氏の意気を銷沈せしむるだけのことでした。見よ! 前後左右、東西南北、到るところにウジャウジャ隊伍を作っているのは醜悪無比、不気味千万の怪物ばけものばかりではないか!

『こりャヤリ切れない! 叔父さん早く救助たすけに来てください!』

 彼は狂気のごとく叔父さんを捜しましたが、何処どこにもその姿が見当らない。そうする中に早くも怪物の一人が、ワアド氏目がけて突進して来ました。其奴そいつは人間ではないが、さりとて又動物でもない。両眼は顔の一方にななめにくッついているが、それらは狭くて、黄色で、そして憎々しい光を放っている。からだの色は、灰色から樺色に、やがて赤色に、黄橙色にと順々にかわる。腕の数などは……イヤ腕ではなくて、むしろ章魚たこの足見たいなものが何本となく無数についている。姿はふくれ切って途轍もなくおおきく,ずちょっとした建物ぐらいのものがある。んなシロモノがあきらかに敵意を表して襲来したのだからたまりません。

 ワアド氏は逃げられる丈逃げようとしましたが、くだんの怪物はたちまちその猿臂えんぴを突き出して、ギュツとワアド氏を押えつけました。そうして置いて意外にもしゃべり出したのです。

 それまでワアド氏はくだんの怪物を、てッきり歴史以前の怪物の幽体とばかり考えていましたが、ここに至りてそれは大間違いで、いわゆる化生けしょう活神いきがみ――人間と動物との両性質をっている、っちつかずのバケモノであることに気がつきました。

『こりャ莫迦者ばかもの! 離すもンか!』と其奴そいつが言い出しました。『きさまは実に不都合な奴だ! まだ人間の分際ぶんざいで、俺達の縄張に這入はいって来るなんて飛んでもない生意気なまいきな奴だ! 立派な資格のあるものでも此処ここけて通るのが本当だ。覚えてれ! 此所ここは俺達の領分で、地上に住んで居た奴がやって来たと見るが最後、早速とッつかまえて、体中の生気を吸い取って餌食えじきにしてくれるのだ。俺達には汝達きさまたちが憎い。人間でも動物でも皆憎い。かつて体をっていた奴、霊魂をっていた奴ならことごとく憎らしい。俺達にはてんで霊魂なんてものはありャしない……。』

 ワアド氏は重ねて叔父さんの救を求めましたが、叔父さんはやって来ないで、そのかわりに一条の白い涼しい光線が、赤い毒々しい濛気のうちにパット輝きはじめました。すると件の怪物は、急にくしゃくしゃとひしゃげて腕の力がけ、いつしかワアド氏を放してしまいました。

 間もなく右の光は次第次第に定形かたちをなして、全身火より成れる偉大なる天使の姿が、ワアド氏のすぐ間近まじかに現われました。その崇厳秀麗なる威容の前にはさすがの怪物も、見る影もなく光彩を失ってしまいました。

 が、この二人の巨人の中間なかに板ばさみにされた、ワアド氏の姿ときてはまるで豆粒大!『これではとてもヤリ切れない!』――氏はおぼえず人間の力の微細なことを、今更いまさらの如く痛感させられたのでした。

 巨人と巨人との間にはただの一語もかわされず、単なる沈黙がしばらくつづきましたが、怪物はただそれだけですッかり往生おうじょうしてしまい、ひしゃげにひしゃげ、しぼみに凋みて、最後に跡方もなく消え失せてしまいました。

 ワアド氏は直感で、すぐ右の天使が自分自身の守護神であることを知り、首を垂れて恭しくお礼を述べようとしましたが、それを待たずに天使の姿は次第に消え、同時にワアド氏は俄かに眼がくらんで、一時何物も眼底から消え去ってしまいました。

 が、視力が少しづつ回復すると同時に、周囲には依然として赤色の霧がたちこめ、そして何所どこを見てもいやらしい怪物どもが歯をいて、あるいは嘲ったり、あるいは又おどかし文句を並べたりしていました。しかし、今度はさすがに懲りてワアドの身辺に押し寄せるものは、ただの一人ひとりもありませんでした。

 ワアド氏は構わず彼等の間をつき抜けて前進しましたが、行っても行っても、なかなか目的地点に達する模様はなく、赤い波濤の動揺はますます加わり、同時に妖怪どももそれに連れてゆらりゆらりと動いている。

 やがて前面に現われたるは、無惨にもまた大仕掛なる幽界の大修羅場! 一方は妖魅の大集団、他方は神軍の大部隊、――それ等が東西に相対峙して、しのぎを削るものすごさはとても地上の欧州戦場などの匹敵すべき限りでない。

 両軍の雌雄は容易に決せぬらしく、ある時は魔神が優勢となり、ある時は神軍の羽振りがよい。が、いずれも永くはつづかない。それに連れてワアド氏の身は、波にまるるの葉の如く、浮いたり、沈んだり、行ったり、来たりする。

 っちかといえば、この戦争は個々の将卒の戦闘というよりかも、むしろ白色の火の壁と、赤色の煙の壁との押しッくらと言ったようなもので、巨大なる戦線が前後にれ、それが上方にも下方にも蜿蜒えんえんとして、遠く視界の外に達するのであった。と、たちまちワアド氏は白色の火の壁の中にまきこまれた。――見渡すかぎり最早もはやイヤらしい怪物は一人もなく、いずれも全身火より成る高尚な姿のものばかり、どことなくなつかしい自分の守護神の姿を想い起させましたが、しかしそれほど崇厳ではなく、又それほど自分との距離が遠いものでもない。兎に角彼等は人間により近いものであったが、しかし幽界の居住者ではないのでした。

 彼等は毫もワアド氏には眼もくれませんでした。前面の魔軍を抑圧よくあつする。――ただその事ばかりに全精力を注いでるのでした。

 ようやくのことでワアド氏はこの恐ろしい戦場を脱出ぬけだして、最後に亡弟の住む村落へと辿りつきますと、叔父さんは心配そうに例の住宅の玄関で彼の来着を待ちかまえていました。

『今日は大分遅かったナ。わしは大変心配していたところじゃ……。』

『実は叔父さん、ういう次第です……。』

 ワアド氏は今日の途中の状況をくわしく物語りました。

『そんな事情じゃったか。』と叔父さんは初めて安堵の色を浮べて『実は幽界は目下大騒動の真最中で、魔軍の方が恐ろしい大活動を起し、最近に至りてよほど広い領地を侵蝕したのじゃ。しかも今度の戦いはひとり、地上や幽界に限られた訳ではなく、遠く霊界の奥までも波及し、地獄から繰り出した魔軍が目下半信仰の境を犯しかけてる。

私達わたしたちきに初めて陸軍士官に逢った例の地獄の闇の壁――近頃彼所あそこを通って来た者の談話はなしによると、闇の壁は光の壁を駆逐して、ずッと前方まえへ突出して来て、磊石ごろいしだらけの荒野の大部分をき込んでしまったということじゃ。しかも地獄の要所要所に置いてある、例の休憩所なども悪魔のめに強襲され、地獄で救済事業に従事している、高級の霊魂達の中には堕落したものが二三あるということじゃ。』

『今度の大戦いが、上と下とに何所どこまで波及してることやら、詳しい事は私にもよく判り兼ねるが、兎に角まだまだ鎮まりそうな模様は少しもない。悪魔の方ではたしかに死物狂しにものぐるいの大努力を試みている。――が、お前の守護神様が直接そのお姿を、お現わしになったということは何よりの吉報じゃ。どんな危険の場所でも、お前がいよいよ一本立ちであぶなげなしに歩けるようになった立派な証拠じゃ。――イヤしかし大分時間が過ぎたからそろそろ地上へ戻るがよい。多分帰路かえりには格別の目にも逢わずに無事に通れることじゃろう……。』

 ワアド氏は赤色の濃霧の中を大急ぎで――気味わるい妖魅の姿がおとんど眼にもとまらぬ位の急速度で――一気につき抜けて、難なく地上の自分の肉体のそばに戻りましたが、それからきは例によりて全然無意識になって、何の記憶も残りませんでした。


十八 陸軍士官の講話

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二十 地獄行きの溜


"A Subaltern in Spirit Land"

底本:「幽界行脚」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

John Sebastian Marlowe Ward

J.S.M.ワアド著

淺野和三郎・粕川章子共訳

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビ と、入力者による振り仮名は、右の様に表示されます。表示事例ひょうじじれい、その他、難解な言葉遣いに対しては適宜、注記いたしました。

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。


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