幽界行脚

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五 帰路

 一九一六年五月二十六日の夜又もや約束によりてワアド氏は幽界へと旅立ちました。例によって自分の肉体が寝床の中にすやすや睡っている状況を客観的に一瞥しながら虚空はるかに舞いあがる……。

 見渡すかぎり雲又雲の重なり合った混沌の裡に、新らしい風景が次第次第に定形をなしてくる。草木のえていない坊主山、石ころだらけの谷間、ところどころにニョキと壁立する断崖……。最後に弟のレックスと叔父のL氏とに行き合いました。

 レックスはび立つばかりに歓んで肉親の兄を迎えました。――

 レックス。『よく来てくださいましたネ。何時いつお出でなさるかと僕はただそればかり待っていましたよ……。』

すると叔父さんが側から、

 叔父。『まァレックスもこの通り元気になったから安心しておくれ。いよいよモー帰途に就いても大丈夫じゃ。それにはお前と成るべく一緒がよかろうと思って折角待っていたところじゃ。すぐに出掛けるとするかナ。』

 ワアド。『それが宜しいでしょう。』

 三人はただちに其所そこを立ち出でました。間もなく山国らしい景色はだんだん失せて見渡すかぎりの渺茫びょうぼうたる野原のような地方に移り、沼や沢には奇妙な恰好かっこうの樹木が隙間もなく生え茂っていました。

 叔父。『これが地質学上いわゆる夾炭層時代時代の樹木じゃ。この附近には恐らく太古において地上に棲息していた怪物がちッとは見かけられるかも知れん……。』

 言いもおわらぬ中にバシャバシャザクザクというもの凄い音がして泥濘の中から一疋の途方途轍もなく巨大なる怪獣がヌーッと現われました。そいつは幾らか鰐魚のようなところもあるが、さりとてそッくりそれに似てもいない。とに角すぐ又泥の中にもぐり込んでしまったので細かい点までの観察はとどきませんでした。

 つづいて現われたのは蜥蜴とかげのような、しかし蝙蝠モドキの双翼をそなえた畸形の小動物で、そいつが悲鳴を挙げつつ逃げて行くと、すぐその後から巨大醜怪、おとぎ噺の龍見たいな奴が非常な勢で追い迫って来ました。『あいつが所謂いわゆる翼手龍というものでしょう。』とワアド氏がたずねますと、叔父さんは黙ってうなずきました。

 するとたちま左手ゆんでの藪が左右になびいて、其所そこ後脚あとあしでヌーッと突き立った、巨獣がありました。頭はやや蜥蜴とかげに類し、さも何か喰いたそうな面容つらつきをしてこちらを覗きましたが、三人の姿が眼に入ると同時に疾風迅雷の勢で突撃して来ました。

 この不意打に、ワアド氏もレックスも共にいささか驚きましたが、そこへ行くとさすが叔父さんは慣れたもので、何やらこれに向って投げつけるような風をしながら、頭から叱りつけました。――

『シッ! けだものッ! 逃げないと命がないぞ!』

 それッきり右の巨獣はコソコソと藪の中に逃げ込んでしまいました。

 泥濘の中を辛くも辿り行く中にやがて附近の土壌がだんだん固まって行って、丈の高い草が密生している。その間を通ると、ぎに現われたのは岩だらけの谷間で、それもしばらくして通り抜けるといよいよ坦々たる平原に進出しました。

 んな塩梅に野越え、山越え、湖水を渉り、河流を横切り、幾百千里と数えつくせぬ土地を蹈破し、地質学上のあらゆる時代を縦断しましたので、しまいには時の観念がすッかり頭脳あたまの中から消え去ってしまいました。

 ようやくにして三人は今までとははなはだしく趣の異った一の平原に辿りつきました。其所そこに見出さるるのは短かいくさむらばかり、それには雪が真白にふりかかり、水溜なども皆氷結して居ます。行手は一面に氷の世界、一と眼見てさえぞッと悪寒さむけを催すような所をば得意気にノソノソ蠢動しゅんどうするのは巨象マンモスの群。こちらの方には馴鹿なれしかが草をみ、向うの方には一群の狼がゴロ石の間に、身を潜めている。

 すると獣皮に躯を包んだ一隊の蛮人どもが、何所かの物蔭からとび出して来て三人に襲いかかりました。叔父さんは直ちにレックスに呼びかけました。――

『コレコレレックス、野蛮人に襲撃された時に、ドーしていかはモーお前に判っている筈じゃ。今度は万事お前に任せる。』

 レックスは矢庭に、

『突撃!』

 と叫びながら猛然と蛮人目がけて打ってかかり、他の二人もこれにつづきましたので、蛮人どもは悲鳴を挙げながら雲を霞と一目散に敗走しました。その悲鳴に愕かされた馴鹿どもももそれに劣らず、周章狼狽して逃げました。

 右の氷結した沼沢の面積はイヤに広く、いつそれが尽きるのかしらとウンザリする位でしたが、それでもとうとう蹈破してしまい、今度は山脈の起伏した地方へ出ぬけました。

 そこでしばらく腰をおろして休息する間に叔父さんはワアド氏に向い、――

『お前はモーこの辺で地上へ戻ったらよかろう。私とレックスとはこれからだんだん開けて行く地方を通り抜けて近代までの_長い長い旅行をつづけなければならぬ。』

 ワアド。『それからきにドーなさる御計画で?』

 叔父。『ナニ、レックスもこの通り頭脳あたまがしっかりして来たから、一歩一歩に現代まで戻るのじゃ。いよいよ現代まで戻ったら根こそぎ地上の慾情から解脱げだつして善行を積むように努力せんければならぬ。そうせんと進歩することができないばかりか、いよいよ幽界の生活を切りあげて霊界へ移る時にその霊体がッぽけで仕方がない。』

 ワアド。『それはそうと叔父さん、私達を呼びとめたあのローマの百人長という人物は、何故なぜローマ武士の軍服を附けずにあんな普通の服装をしていたのでしょう?』

 叔父。『私にもそんなことは判らんよ。けれども軍人だから軍服を着なければならんという理窟もなかろうじゃないか。英国の武官の中にも商人服を着て居るものが沢山ある。あのローマ人なども死する前に商人服を着て居たか、それとも死後わざとそれに着かえたか、大ていそんなことじゃろう。私はそんなつまらぬ穿鑿せんさくのお相手にはあまりなりたくないナ。それよりかお前は早く地上へお帰りなさい。時間が大分過ぎてしまった……。』

 そこでワアド氏は二人に分れを告げて地上に戻る気になると、たちまち四周は雲霧に包まれ、今までありし幽界の山河は烟のように消え去って、一気呵成に自分の眠れる肉体に戻ると見て、眼を開けば其所そこは地上の寝室なのでした。


四 無音無声

目  次

六 レックスの死後の体験


"A Subaltern in Spirit Land"

底本:「幽界行脚」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

John Sebastian Marlowe Ward

J.S.M.ワアド著

淺野和三郎・粕川章子共訳

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビ と、入力者による振り仮名は、右の様に表示されます。表示事例ひょうじじれい、その他、難解な言葉遣いに対しては適宜、注記いたしました。

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。


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