幽界行脚

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四 無音無声

 それから三日経った五月九日の霊夢式れいむしき旅行でワアド氏は再び愛弟あいていのレックスにいました。その場所はガランとした岩石がんせきだらけのひくい荒地で、あたりには草や木がただの一本も生えていません。そしてところどころに不恰好ぶかっこうな丘だの、けわしいがけだのがニョキニョキとび出している陰惨な薄暗うすぐら地方ちほうでした。

 弟のすぐそばには例によりて叔父さんが腰掛こしかけていましたが、ワアド氏を見るとき上って挨拶しました。が、叔父さんの元気げんきのいいのに引きかえ、弟の方は一こうはえない顔をして兄の姿を見てもほとんど身動みうごきだにしようとしません。

 ワアド。『レックス、お前は一たいどうしたのかい? 気分でもよくないのですか?』

 レックス。『兄さんが来てくだすったのは大へんれしいですが、僕はさッぱり駄目だめです。情なくて情なくてドーしていいかわかりません……。』

 ワアド。『そりャドーしたわけかね?』

 レックス。『ドーしたと言って、これまで行って来た不正行為ふせいこういの記憶が頭脳あたまの中にこびりついて、それが一秒時間もはなれないのです。たまりャしません……。』

 ワアド。『ハハァ――して見ると例の過去の幻影げんえいを見ている最中さいちゅうらしいナ。』

 叔父。霊界れいかいで私が見せられたような、あんなはッきりした過去かこの幻影ではない。レックスのはどちらかといえば地上の記憶きおくと同一性質のものじゃ。幽界の居住者は純粋じゅんすいの霊魂ではない。従って私達のように思想の形態かたちを眼のあたり目撃もくげきするというようなことはない。しかし幽界ゆうかいのものでも地上のものにくらべると記憶力は遥かに強烈じゃ。過去に蓄積した一切の事件が後から後から一度に現われて来るので、頭脳の方ではほとんどヤリ切れなくなる。――可哀そうにこの男は今が一ばん辛いところじゃが、それが何時までもつづく訳ではなかろう……。』

 レックス。『それに一等ヤり切れないのは僕が過去に犯した不良行為ばかりがイヤにはッきり記憶に浮び出て、善良な行為と云ったらさッぱり想い出せないことです。いかに僕がヤクザ者だと云ってすこしは善い事もしています。ところがそいつはさッぱり消えてしまって、ただ欠点だけがイヤにはッきり頭脳の中に浮び出る……。しかもひどいのになると僕の眼にまで映るのです。全部でもないですが、一ばん性質のよくない行為に限って眼に映るのです。』

 叔父。『イヤ今にだんだん消えて来るよ。そうがッかりしたものでもない。自然に影が薄らいで来る……。そういう私なども一度はそんな目に逢わされて来たのじゃ。神様はいかなる罪でも悔い改むればかならずそれをるしてくださる。お前などはまだ年が若いだけに積み重ねた罪悪も沢山はない。お前がこの私ほど長命であったと考えて御覧。どんなに余計の罪造りをするか知れたものではない……。』

 レックス。『それなら僕が短命であったのは難有ありがたい仕合わせかも知れませんナ。しかし事によると僕だって年を取るに従って善良な人間になったかも知れないです。』

 叔父。『そうかも知れん。又そうでないかも知れん。そんな事は神様以外に知るものは絶無じゃが、兎に角お前の地上生活は終りを告げた。幽界では、若しお前が私の忠告をきいてくれさえすれば、この上間違のおこりようはない。現在の不愉快な状態もそのうち通過してしまう……。』

 三人の間にはそれからしばらく沈黙がつづきましたが、やがて又ワアド氏が言葉を切りました。

 ワアド。『だんだんお話を伺って見ますと、叔父さんの住んでいらっしゃる霊界とこの幽界との間には余ほど著しい差別があるものと見えますナ。』

 叔父。『そりャ有ります……。幽界の記憶はまだ薄弱なものじゃが、ぎの界に進むと、記憶というものが偉い働きを発揮し、われわれの過去の生活が細大漏らさず、ありありと眼前に出現するのじゃ。』

 ワアド。『そうしますと、ここに一人の霊魂が幽界の生活を終って霊界に進み入ったとする。その際矢張りおなじことを繰り返すものでしょうか?』

 叔父。『幾分かそうじゃが、しかしその時には幽界の生活が過去の生活の一部として眼に映ずる。故に若しかれの幽界生活が善良なものであったなら、地上生活において作った幾多の罪業を充分帳消しすることができるから大に楽じゃ……。』

 それから又話がとぎれて、不景気きわまる沈黙が久しくつづきました。

 仕方がないのでワアド氏は立って帰ろうとすると、レックスが重い唇を開きました。

 レックス。『お父さまやお母さまは近頃いかがですか?』

 ワアド。『イヤ皆達者じゃ。無論お母さんの方は達者と云っても例の通りでナ……。』

 レックス。『ブランシはうしています? 僕のことを覚えているでしょうか……。』

 ブランシはワアド氏の愛嬢で、当年七歳になるのです。

 ワアド。『あれは不相変あいかわらずピンピンしているよ。忘れるどころか所中しょっちゅうお前のうわさが出る。お前の戦死をきいたときなどは大へん力を落したものだ。朝夕の祈祷いのりにはきッとお前のことを想い出している……。』

 レックス。『その事は僕にもよく通じます。僕はあの児が可愛くてしょうがないです……。』

 それからレックスは又もや欝ぎ込んで黙ってしまったのでワアド氏も手のつけようがなく、成るべく晴やかな声で『いずれ又そのうちやって来る。』と言うなりその場を去りました。

 すると叔父さんが後から追いかけて来ました。

 叔父。『私もそこまでお前と一緒に歩こう。レックスは今こそあんな風だが、ナニあれでしばらくつとすッかり回復するよ。今が一番辛い最中で、生前の記憶が骨身に喰い込んでいるもののすでに幾分か良い方に向きかけている。精神がだんだんはッきりしかけて来た。その中この新らしい生活にだんだん慣れて来る……。』

 ワアド。『そうですかね。しかし今日はこれでお暇します。左様なら……。』

 その日はそれだけでワアド氏は地上の肉体に戻りましたが、弟の事が気にかかりますので、五月十三日の夜にも又見舞に出かけました。中間がたッた四日ですが、その間にレックスの精神状態は目立って改善され、元気がずッと加わっていました。例の沈欝が時々襲来はしてもその期間が次第に短かく、一のあきらめと云ったようなものが胸に宿りかけて来たのでした。『一且犯したことを今更いまさら取消す訳にもまいりませんから、今後気をつけて罪悪の二度塗りをせんようにしましょう――。』そんなことを言って、最近の戦況などを訊ねる丈の心の余裕が生じていました。

 越えて三日、十六日の晩にもワアド氏は又々無声界に住む二人を訪問しました。

 ワアド。『ドーかね近頃は? 大分元気がよさそうじゃないか……。』

 レックス。『イヤお蔭様でもう大丈夫です。精神も大へん落ちつき、先日のように気が滅入ってたまらぬようなことはありません。先達から僕に附き纏って居たイヤな記憶――あれも決して忘れたというのではありませんが、妙にキチンと整理がついてごッちゃになって人を苦しめるようなことがなくなりました。それに僕が生前に積んだ多少の善行、その記憶が戻って来たのでイヤな記憶を帳消しにしてくれます。

『それから又幽界生活の真相、それにつきては叔父さんからいろいろ説明して貰って居りますので大変勝手が判って来ました。慾望を満足させるめに人類に憑依することの罪深いこともいろいろ叔父さんから聞かされました。何事あっても僕はその罪悪だけは決して犯しませんから安心してください……。』

 それをきいて叔父さんは満足そうに微笑をもらしました。

 叔父。『この分ではレックスも大概大丈夫だからお前が来るのを待って現在の幽界まで戻って行こうかと思っていたのじゃが、別に急ぐにも及ばぬからお前が次回に訪問するまで待つことにしよう。少しでも長くこの閑静の場所で保養させる方がレックスのめには結構なのじゃから……。就いては今までレックスに聞かせて居た話のつづきをやるから、んならお前もきいて行かないかナ。』

 ワアド。『そりャ是非伺いたいもので……。』

 ワアド氏が腰をおろすと叔父さんは幽界の規則やら、その他いろいろの事を諄々と説明してくれたのでした。


三 過去の時代へ逆行

目  次

 五 帰路


"A Subaltern in Spirit Land"

底本:「幽界行脚」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

John Sebastian Marlowe Ward

J.S.M.ワアド著

淺野和三郎・粕川章子共訳

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビ と、入力者による振り仮名は、右の様に表示されます。表示事例ひょうじじれい、その他、難解な言葉遣いに対しては適宜、注記いたしました。

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。


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