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(下編) 陸軍士官の地獄めぐり
二十一 地獄の病院
下
この長物語をきいて吾輩はニニィに向って訊ねた。──
『君は、ジューの事をあんなひどい目に逢わせて気の毒には思わんかね?』
『気の毒? 何が気の毒なものですか! あれ位の事をしてやるのは当り前だワ。──しかし何んぼ何んでもこの解剖室に置かれるのは真平ですワ。』
吾輩は今度は若い医者に向って言った。
『それにしてもあなたはこの女を苦しめて何が愉快なのです? そりャこの女は今は随分醜いことは醜い。犯した罪悪の為めにさっぱり標緻が駄目になっている。──しかしこれでも矢張り女です。個人として何にもあなたに損害を与えた訳ではないじゃありませんか。なぜこんなひどい目に逢わせるのです?』
『それでは』と医者が答えた。『この女の代りに君を解剖してあげるかナ。』
『吾輩は御免蒙る! それにしても君は解剖するのが愉快なのかね?』
『愉快なのかッって? 些っとも愉快じゃないさ。そりャ最初は他の苦しがるのを見ると一種の悪魔的快楽を感ぜぬではなかった。自分がつまらない時に他人をつまらなくしてやるのは何となく気が晴れるものでね……。しかし、しばらく行っているとそんな虚欺の楽みはだんだん厭になる。現在のわれわれは格別面白くも可笑しくもなく、ただ器械的に解剖をやっている。自分の手にかける犠牲者に対して可哀相だの、気の毒だのという観念は少しも起らない。われわれは死ぬるずッと以前から、そんなしゃれた感情を振り落して了っている。のみならず爰に居るもので憐憫に値するものは一人もない。何れも皆われわれ同様残忍性を帯びたものばかりだ。兎に角地獄という所は何をして見ても甚だ面白くない空虚な所だ。ここでは時間のつぶしようが全くない。イヤ時間そのものさえも無いのだから始末に行けない………。』
そう言い了って、彼はプイとあちらを向いて、グザと解剖刀をば婦人の胸部に突き立てた。
吾輩は覚えず顔をそむけてその室から出ようとすると、忽ち三四人の学者どもが吾輩を引ッつかまえた。
『今逃げ出した奴のかわりに此奴で間にあわせて置こうじゃないか。』
そう彼等の一人が叫ぶのである。
『冗談言っちゃ困る!』
吾輩は呶鳴りながら生命がけで反抗して見たが、とうとう無理無体に解剖台の上に引摺りあげ、しっかりと紐で括しつけられて了った。それから解剖刀で躯の所々方々を抉りまわされたその痛さ! イヤとてもお話の限りでありません。
が、そうされながらも吾輩は油断なく逃げ出すべき機会を狙いつめて居た。
間もなくその機会が到来した。二人の医者の間に何かの事から喧嘩が開始された。天の与えと吾輩は台から跳び降り、一心不乱に神様に祈願しながら玄関さして駆け出した。
一人二人は吾輩を引きとめにかかったが、こんな事件はここでは所中あり勝ちの事と見えて、多くは素知らぬ風を装おうて手出しをしない。とうとう吾輩は戸外へ駆け出し、それから又も荒涼たる原野を生命かぎり根かぎり逃げることになった。
が、しばらくしても、別に追手のかかる模様も見えないので、やがて歩調をゆるめ、病院に於ける吾輩の経験を回想して見ることにした。
吾輩が当時痛感したことの一つは、地獄の住民が甚しく共同性、団結性に欠けていることであった。しばしの間は仲よくしていても、それが決して永続しない。例えば吾輩の逃げ出した際などでも、若し医者達が、どこまでも一致して吾輩を捕えにかかったなら到底逃げ了せる望はないのである。ところが一たん逃げられると、そんなことはすっかり忘れて了って、やがて相互の間に喧嘩を始める。現に吾輩が病院に居る間にも一人の医者がその同僚からつかまえられて解剖台に載せられていた。
ある一つの目的に向って義勇的に協同一致する観念の絶無なこと──これはたしかに地獄の特色の一つである。
イヤ今日の話はこれで一段落として置きます。左様なら。──
語り了って陸軍士官は室外に歩み出ましたので、ワアド氏も叔父さんに暇乞いをして地上の肉体に戻ることになったのでした。