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(下編) 陸軍士官の地獄めぐり
一 死の前後
下
見れば係の役人は卓に凭りかかって吾輩の来るのを待って居た。側の卓には書記も居た。仕方がないから吾輩は脱帽して首をさげたが、無作法な奴があればあったもので一向知らぬ顔の半兵衛でいる。
『私は契約書の調印をしにまいりましたが……』
吾輩がそう言って居るのに奴さん依然として返答をしない。次ぎの瞬間に書記の方を向いて斯んなことを言っている。──
『モー十分間待って見ても彼奴が来なかったら事務所を鎖めて了おう。』
『このつんぼ野郎! 俺はここに来て居るじゃないか!』
吾輩は力一ぱいそう叫んだが、先方では矢張り済まし切っている。いろいろ試って見たが、先方はとうとう起ち上って、吾輩が約束を無視したことを口をきわめて罵りながら室を出て了った。
吾輩も負けずに罵り返して見たものの、何うにもしょうがないので、あきらめて室を出た。
『彼奴は俺よりももッと酔って居やがる……』
吾輩は心の中で固くそう信じた。
再び玄関の扉を通り抜けたと思った瞬間に何やら薄気味のわるい笑声が耳辺にきこえたので振り返って見ると、むかし吾輩の悪友であったビリィが其所に佇って居た。さすがの吾輩もびッくりした。
『何んじゃビリィか! 夙に汝は死んだ筈じゃないか!』
『当り前さ!』と彼は答えた。『しかしお前もとうとう死んじゃったネ。容易にくたばりそうな奴ではなかったがナ……。』
『この出鱈目野郎! 俺が何んで死んで居るものか。俺は些しばかり酔っているだけだ。』
『酔って居る!』ビリィはキイキイ声で笑った。『酔って居る丈で扉を突き抜けたり、姿が消えたりして耐るものか! お前がただ酔っているだけならあの役人の眼にお前の姿が見える筈ではないか。』
そう言われて吾輩も成程と思った。同時に自分の屍骸を捜したい気になった。
次ぎの瞬間にわれわれはストランド街に行って居た。するとビリィは其所で一人の美人の姿を見つけた。
『何うだいあの女は?』
彼は無遠慮に大きな声でそう吾輩に言った。
『これこれ汝はそんな声を出して……。』
『莫迦! 先方の女にこの声が聞えるもんか! 俺は彼女の後を跟けて行くのだ。』
『跟けて行って何うする気なのだ? 彼の女はそんな代物ではない。』
『莫迦だナお前は!』と彼は横目でにらみながら、『お前もモ些しこの世界のことが判って来ればそんな下らない心配はしなくなる。俺は兎も角も行って来る。』
次ぎの瞬間にビリィは居なくなって了った。
吾輩もビリィに居なくなられて急に寂びしく感じたが、やがて自分の屍体が気になった。不思議なもので幽界へ来て見ると、犬のような嗅覚が出来て来て、自分の屍体の臭気がするのである。
臭気をたよりに足を運ぶと、間もなく傷病者の運搬車に突き当って、それに自分の屍体が積まれてあることがすぐ判った。車は病院に行くところなので、吾輩もその車の側について歩るいて行った。
やがて医者が来て吾輩の屍体を検査した。
『こりャモー駄目だ!』と医者が言った。『なかなか手際よくやりやがった。何うだい、この気楽な顔は!』
吾輩は若しも能きることならこの籔医者の頭部をウンと撲りつけてやりたくて仕方がなかった。
『可哀そうに……。』
と言ったのは看護婦であった。
すると跟いて来た巡査が言った。──
『ナニ別に可哀そうな奴じゃない。轢かれた時にすッかり泥酔して居たのじゃから責は全然本人にあるのじゃ。私は這奴をよう識つとるが、何とも手に負えぬ悪党じゃった。這奴が亡せ居ったのは却って社会の利益になる。』
その瞬間にケタケタと気味のわるい笑声がするので振り返って見ると、そこに居るのは世にも獰猛な面構の化物然たる奴であった。
『一たいきさまは何者だい?』
と吾輩が訊ねた。
『フフフフ俺の事をまだ知らんのか?』と其奴が答えた。『俺は何年間かお前に憑き纏って居るものだ!』
『何……何んだと……?』
『俺はお前の親友だ! お前の気性に惚れ込んで蔭から大に手伝ってやっている一つの霊魂だ。まァ俺の後について来い。少し方々案内してやるから……。』
その瞬間に病院は消え失せて了った。