責任の所在地

昭和八年二月二十六日大阪例会において――

浅野和三郎

 最近会員の一人から私に向って一つの質疑を寄せられた。それは各自の責任の所在地に関するものであります。質問の大要はうです。――

「幾多の信頼すべき霊界通信中に述べらるる所によれば、われわれの性格、思想、行動等の六七割はわれわれの守護霊のそれの反映であるらしい。これで見るとわれわれの言行に対して大部分の責任を負うべきはわれわれ自身よりもむしろわれわれの守護霊だという事になりそうである。若しこれが正しいとすれば人間自身の責任感を稀薄ならしむる危険はないか。道徳上由々しき問題だと思う。」

 まことにこれは重大な問題で、若しもうっかり穿き違いをした日には、それこそ飛んだ悪結果を孕むことになります。イヤ現に似而非えぜひ宗教者流の間には守護霊、憑依霊又は神のおおつげ等を悪用して、自己の責任回避をこころむる不逞ふてい漢が相当沢山発見されるから油断がならない。姓名丈はしばらくお預りにしますが、私の知れる某教団の首領などもその一人であると考えられます。成る時良家の一夫人と不義の関係を結んだことが曝露し、その良人並友人等からきびしく詰責された時に彼は例の図太い顔をして答えました。「これはわしの知ったことではない。わしはただ神様からそうせいと仰せられたから謹んで関係をつけたまでのことぢゃ」

 うっかりこれをきくと神様だの信仰だのというものはいたずらに弊害ばかり多く、却って社会人生の規律を乱す危険物のように考えられるか知れませんが、しかしそれはたまたま一般世人が心霊上の事実と理論とに充分徹底して居ない事に基因するものと考えられます。希臘ギリシヤの哲人の言葉に「汝自身を知れ」ということがありますが現代人類の大多数は強いて心霊事実に眼をつぶった結果、余りにも自分自身をらなさすぎ、その結果飛んでもない錯誤に陥り、知らず知らず神や霊をダシに使う山師の口車にものるのだと痛感されます。

 心霊事実の研究の結果として帰納された人生の指導原理は御承知の通りスピリチュアリズムの七綱領に結晶して居りますが、この綱領の中には儼として「各人には各個の責任がある」という一個条が掲げられて居ります。これで見ても心霊研究は決して各自の責任を稀薄ならしむる性質のものでない事が推定されるのであります。

 この事につきては私としてすでに屡々しばしば筆に口に説明を試みたものでありますが、たまたま前記の如き質疑が提出されたのを好機会として一つ纏めて私見を申上ぐる事に致しましょう。

 が、一と通りこの問題を解決するめには勢い相当複雑な諸問題に触れなければならんので大に頭脳を悩まします。成るべく手際よく纏まりをつけたいと考えます。


 説明の順序として私は

  自我とその運用機関

 に関して一考察を試みたいと思います。

 われわれは平生すこぶ呑気のんきな顔をして「私」という言葉を濫用しますが一体この「私」というものの正体は何か? 唯物説にかぶれた人に言わせると、それはつまり自分の肉体のことだという事になりましょうか、これは理窟から考えてもはなはだ腑に落ち兼ねるのであります。生物学者の指示する所によれば人間の肉体は間断なく変化を遂げ、約七ヶ年の歳月をけみした時に元の肉体はすっかり新規なものと変ってしまうというのであります。して見ると七年前の「私」と現在の「私」というものとは全然別個の存在であらねばならぬのであります。

 所が、事実は決してそうでない。三ッ児の魂百まで、という諺の通り、本人の個性、少なくとも個性の中枢は何年経っても決して変らないのであります。この一事を見てもというものは決して自分の肉体のことではなく肉体は寧ろというものの使用する一の大切な機関であらねばならぬ道理であります

 これは理窟であるが、心霊実験の結果から視れば、この事実は一層明白であります。肉体を棄ててしまった人間の魂が十年経っても百年過ぎても依然としてその個性を具えて死の彼岸に存続する事の確証はイヤというほど沢山挙げられて居る。心霊家の立場からすればこれは最早一点疑議を挿むことのできない科学的事実で、今更こんな判り切った問題に引っかかって、かれこれ議論をして居る遑はない位に考えられて居るのであります。

 それなら肉体を棄てた「自我」は一体どーして居るかというと、依然として何等かの媒体を機関として死の彼岸に働いて居るらしいのであります所謂いわゆる神秘論者は死後の世界を一ツ平に神秘の幕に包んでしまい、霊魂といえば単なる抽象的の不可思議的存在と説きたがりますが、これは余りに不究理ふきゅうり不穿鑿ふせんさくのようであります。

 調査すべき手懸りのない間は「神秘」とか、「不明」とか、「不可解」とか言って匙を投げるより外に致方いたしかたがありませんが、今日では最早そうではない。無論ギリギリのドンづまりは依然として人間にりて神秘であり不可解であるが、しかしる程度まで立派に手懸りがついた以上、何事も無理に一切を神秘の幕に包んでしまう必要はない。一分一厘でも神秘の領域を除かんとするのが科学的研究の立場である神秘主義などというそんな莫迦莫迦しい主義があって耐るものでない

 さてしからば自我は死後においてどんな媒体を機関として居るかというに、現在においてはっきりつきとめられて居るのはそれが極めて稀薄精妙なる一種のエーテル体であることであります。

 ところでこのエーテル体は死後において初めて出来上った機関ではなく、生前から儼として存在して居るらしいのであります。詳しくいえば肉体と重なり合い肉体の内部に滲透して居るものらしいのであります

 初めて物理学的にエーテル体の存在を暗示したのは英国の電気学者キルナア氏であります。デシャニンと称する一種の染料をガラス板に塗り、これを通して薄暗い室内の人体をのぞけば、肉体の外部にはみ出している一種の放射体、所謂いわゆる霊衣オーラを認むることができるのであります。

 が、一層明確にエーテル体の存在並にその性質形態等をつきとめ得る素晴らしい武器は何と言っても霊媒の発揮する霊視能力であります。優れたる霊視能力者の数は現在世界中に相当多数に上り、私どもの手元にも素晴らしいのが幾人か居ります。たった一人や二人の霊視者の述べる所ならば、学術的にさして価値あるものとは言われませんが、多数の能力者の研究の結果を集めて比較研究を行い、その一致点を見出すにおいては決してこれを無視する訳に参りません。

 エーテル体に関して多くの霊視能力者の一致する所は大体左の諸項であります。

一、エーテル体とは概称で、詳しくいえば幽体アストラル・ボディ霊体メンタル・ボディ本体スピリット・ボディ等に分れ、それ等が互に重なり合っている。

一、エーテル体は非常に意念の影響を受け易く、求心的静的状態においては主に球状をなし、遠心的動的状態においては主に生前の姿を執り、決して肉体の如く固定的でない。又その色彩も思想感情等の変化に伴いていろいろに変化する。

一、エーテル体は時空の束縛をくることはなはだ少なく、極めて神速自在である。

 神秘的観念論者に言わせると、かく霊魂の形態質量等を云為うんいするは唯物論的影響受けた結果であり、霊にはそんなものはないのだと主張したがりますが、これは第一義的の普遍的実在と第二義的の個性を有する霊魂とを混同したところの大僻見だと信じます。すでに個性があり、特異の思想、感情、嗜好、慾望等がある以上これを運用すべき何等かの媒体がなければならぬ事は理論的にも正当であり、又実験の上から言っても立派にその証明ができるのであります。

 見よ、心霊写真とはそも何物か? 畢竟ひっきょう一の観念がる媒体を使って乾板の上にる影像を印象せしむる作用ではないか。物質化現象とはそも何物か? 矢張り一つの観念が適当の媒体を駆使して死者の形体を作製する仕事ではないか。その他の諸心霊現象とても皆これを裏書きします。死後の霊魂を単なる抽象的存在と認めることはどこまで行ってもいたずらに人の思想を迷わせるだけの空夢であり、空想でありましょう。

 が、いかに追究して見ても「私」の本体、自我の出発点だけはつかめないのであります。肉体も、エーテル体もいずれも自我の運用する機関であって、自我そのものではないのであります。その出所ばかりは神秘不可思議の解けない謎で、強いてこれに定義を下せば、矢張り在来のとおり大我から分れ出でた小我とでも言って置くより外に致方いたしかたがないでしょう。


 右述べたとおり自我の窮極きゅうきょくの実相は、神秘不可解であるが、しかし

  自我の現世に生れ出づる手続

は心霊学上る程度まで判明して居るのであります。この問題の解決の鍵は所謂いわゆるかの再生説の上にかかって居ります。

 再生説につきては単なる純理論としては今尚いまなお賛否の二派に分れて居ります。賛成派の主張の要点は左の諸項に要約できる。

(一)現世ははなはだ不公平に出来上っている。これを合理的に説明するものは再生説以外に絶無である。

(二)同一家族でありながら、時として遺伝を超越せる変り種が発生する。これは再生説をる程度裏書きする。

(三)一部の人士中には自己の前世を記憶して居るのがある。これもある程度再生説を裏書きする。

 反対派の主張の要点は左の通りである。

(一)向上進化が宇宙の原則であるのに、現世に逆戻りして再び嬰児として下らない経験を繰り返すは不合理である。

(二)過去の記憶を有するものが、よし少しはあるとしても、その数があまりにすくなきに過ぎる。

 いずれも一応もっともな議論ばかりでちょっと理窟の上では勝負がつきかねますが、これはそもそも再生の根本観念を誤って居るからであります。私の提唱するのは所謂いわゆる部分的再生又は創造的再生と称するもので、在来の一山百文式の全部的再生とは非常に相違しているのであります。

 創造的再生とは取りも直さず或る霊魂の部分的派生即ちその分霊が現世に出生する事を指すのであります

肉体を棄てて幽界に入った霊魂が次第に修行を積むにつれ、地上生活から持ち越した物質的慾望、現世的執着の名残は当然その中心意識から離れて行きます。その必然の結果としてここに分裂作用が営まれます。それは丁度太陽から地球が分れ、又地球から月球が分かれたようなもので、浄化した中心意識はそのまま超物質界において向止の途を辿り、これに反して浄化しきれない副意識は再び物質界へ降る。即ち私の所謂いわゆる再生とは部分的の再生であり、自我意識の全部の再生ではないのであります。譬えて見れば両者の関係は丁度親と子の関係又は本店と支店との関係に髣髴たるものがあるのであります

 勿論むろん部分的再生と言ってもそれは霊魂のみの手ではできません。それは物質界に居住する人間の男女の生殖作用と相俟あいまちて初めて実現する所の、言わば現幽一致の協同事業であります。従ってくして新たに生れ出でたる自我は現世の父母の精神的並に物質的の感化を多量に受け、同時に生れ出でたる時代及び環境の影響をも強烈に受けますから分霊の性質はよほどその本霊の性質と相違することが当然でありましょう……イヤ幽明交通によりて私が直接に実験調査した所によりて観ましても、両者の間に相当大きな隔りを発見するのであります。すくなくとも現世で受持つ所の事業とか、任務とか、地位、境遇とか言ったような外面的事項に関しては両者の間にいる雲泥の相違を発見するのであります。例えば本霊の現世の業務は二本ざしの武士であったのに分霊の現在の仕事は腰の低い実業家であったりするの類であります。が、不思議なもので両者の性格の中心的骨髄、言わばその先天性と言ったようなものは非常に酷似して居り、その容貌風釆までも、時としてびっくりするほど似通って居るのを発見するのであります。

 まだまだこれに関して申上げたい事は山ほどありますが、私の今日の主題と直接関係の薄い事はしばらく省略する事として、兎に角この創造的再生説は理論として其所そこに少しも無理がないばかりでなく、又多くの有力なる霊界通信の均しく指示する所でもありますから、私はこれを人間出生の最も正しき仮説として世界の心霊学界に提唱したいと考えているのであります。世界の心霊学者中にすでに私とほぼ意見をおなじうするものも決して絶無ではない。例えばかの有名なるステッドの如き、又現代稀に見る篤学者の一人たるアーサー・ヒル氏のごときがそれであります。私は今後半世紀の中にはこの創造的再生説が恐らく天下を風靡するではないかと信ずるものであります。


 説いてここに至りてようやく守護霊問題に触れるべき順序になりました。何よりも肝要なるは

 守護霊とは何ぞや

という問題の解決でありますが、モーここまで説明した以上私のこれに対する解答は極めて簡単で済みます。私の所謂守護霊というのは先きに説いた中心意識つまり自分を派生せしめたる超物質界の居住者の事に外ならないのであります

 これで日頃間断なく私の所へ持ちかけられる幾つかの質問に対する返答がおのずから省ける訳であります。一番多く向けらるる質問の一つは「何人にも守護霊はありますか?」というのでありますが、以上の説明で無論各人に守護霊のある事は明瞭でしょう。自分を生んだ霊界の親が無かったらそれこそ不思議です。

 ぎによく向けらるる質問の一つは「守護霊というものは取りかえることのできないものですか?」というのですが、これもモー判り切った事柄になりました。勝手に守護霊が変えられるなら、同様に自分自身も勝手に変えられる訳になります。なかなか問屋で卸してくれそうもない……。

 く述べると世の中は余りに宿命的で、いかにも融通性、進展性がとぼしいように感ぜられるか知れませんが、決してそうでない事は最近数十年間の心霊実験が最も明確にこれを証明して居ります。一と口に言ったら人間の躯は丁度一のラジオ装置の如きものでこちらで波長を合わせさえすれば驚くべく沢山の短波長波が之に感応する装置になって居るようであります。流行心理、雷同心理などもその現われの一つであり、ここに又宣伝や広告の有効性も発生するのでありましょう。

 従って人間はその心の持ち方一つで、霊界のどんな良い影響にも接し得ると同時に、又どんな悪い感化にも応じ得るのであります。便宜のめにわれわれは通常人間に影響する霊界の居住者を二種類に分類して取扱って居ります。即ち

(甲)司配霊又は補助霊――その人の希望、目的を達成さすべく善意を似てその人に感応憑依するもの。

(乙)悪霊又はつきもの――その人の安寧幸福を妨害すべく悪意で憑依するもの。

 右の司配霊しはいれいの中にはシバシバ守護霊などの及びもつかぬ素晴らしく優秀なのが発見されます。例えば誠心誠意を似て国事に尽瘁じんすいする大為政家を助くるものは往々護国の神様であったり、粉骨砕身して学問、文芸、発明等にいそしむ者には時として偉大なる天使が蔭乍かげながら援助を与えたりするの類であります。要するに守護霊も大切だが、更に大切なのはその人の心掛であります。「求めよしからば与えられん」の格言は心霊実験の結果から見て必らずしも掛値のあるものではないようであります。

 心霊研究になくてならぬかの霊媒現象などもその大部分は先天的守護霊よりもむしろ後天的の司配霊しはいれいの仕業のようであります。欧米の霊媒達を蔭から助けているのが大部分支那、印度、イジプト等の霊魂であることは恐らく皆様のすでに御承知の通りであります。龜井霊媒にも印度人のモゴールというのが附いて働いている。

 心掛がよければんな具合に善良な補助霊がいくらでも附きますが、そのあべこべに若しも本人の心掛けが悪いとひどい奴に附きまとわれます。曰く亡者、曰く怨霊、曰く動物霊、曰く妖魅類……正にバケモノ屋敷そっくりであります。人間の不幸、災厄、疾病等の少なからぬ割合がたしかにその感応の結果である事は最近数十年にわたる東西各地に於ける心霊実験の明示する所であります。近頃識者達の頭脳を悩ます危険思想などと言ったところで、その原動力は矢張り幽冥の世界から出発するもののようであります。

 詳しい事は何卒心霊事実の記録等により篤と御調査を願います。お進んで親しく良い霊媒に就きて実験を重ねて戴けば結構であります。「万物の霊長たる人間に動物霊などが附いてたまるか! 迷信臭いにも程がある……。」よくそんな気焔を吐かるる方があります。これはたしかに一見識に相違ないにしても、人間の思想……つまりその波長が、たまたま動物霊の放射する波長に合って居る場合に少しもこれと感応共鳴しないとは何人が保証し得ましょう。心霊研究はあくまで冷静なる科学的事実によるものであって、感情から出発する気焔や気まぐれとは違います。


 準備的説明は一とずこの辺で切り上げて置いて、これから本題に入り、個々の責任の所在地につきて正しき解答を求める事につとめましょう。

 原則的にあっさり言ってしまえば

 個々の責任は自我にある

と言って、少しも差支えないでしょう。なんとなればすでに申上げたとおり、肉体から幽体に、幽体から霊体に又霊体から本体に、どこまでも奥へ奥へと追究の歩をすすめて行ったギリギリのドン詰りにおいて、最後に突き当るものが結局「自我」以外の何物でもないのですから……。

 が、翻って考えて見るに、自我は自我として決して独立的に存在するものではない。自我は常にそれ自身を表現するに適当なる何等かの媒体――肉体、エーテル体等と結びついて居る。

 自我を離れて媒体はなく同時に又媒体を離れて自我も無いのである

 その関係は丁度かね撞木しゅもく、表と裏、陰と陽の関係の如く到底両者を切り離して考えることはできないのであります。

 従って自我の責任は同時に又その媒体の責任でもなければならぬ道理になります。強いて両者の間に相違点を求むればただ主客の差が発見さるるだけであります。即ち自我が主で陽しかし責任は到底不可分――う断定するより外に致方いたしかたがないでしょう。

 一体この問題は霊肉の争い、と言ったような題目を似て古来論じ尽され、究め尽された事柄であります。現在のわれわれから視れば霊肉という表現法ははなはだ物足りない。霊と言った所でこれは普通の大霊の事かそれとも個性を有する小我の事か判らない。又肉と言った所で、それは物質的の肉体のみを指すのか、それとも超物質的エーテル体をも併せ指すのか不明である。これは矢張り私が現在試みつつあるように自我とその媒体と言った方がすくなくとも現代人にははっきりした観念が獲られます。

 が、うした途中の相違点をのぞけば、根本の結論においては私の下した見解と又古聖賢の指示した所とは全然同一であります。私のように自我とその媒体とは不可分だと言ったって、又霊肉一致、陰陽不二、空即是色などと言ったって、うまくこれを解釈すれば少しもその意味に変りはないようです。

 霊肉の争に関するはなはだ興味深い実話が猶太ユダヤ律法書タルマッドの中に書いてあるからついでにそれを御紹介致します。

 ある所に一人の王様があって、一の美しい果樹園をお所有もちになっていた。王様はこの果樹園の番人に一人の盲人めくらと一人の跂者びっことを傭い入れた。こうして置けば外来の賊もふせげるし、同時に内輪で摘み喰いの心配もあるまいとの思召おぼしめしであったらしい。

 するとる日番人の跂者びっこが相棒の盲人めくらに向って言いました。――

「兄弟、お前には見えまいが、あの樹には実に素晴らしい林檎が鈴生すずなりにっているぜ。――しかし駄目だな俺には歩けない……。」

 盲人めくらは少し考えていたが、やがて声をひそめて囁いた。――

「ちょっと耳を貸してくれ。うまい工夫がある。お前は俺の肩車に乗るのだ。二人で一緒になれば林檎はれる……。」

 とうとう番人達は二人懸りで林檎をって散々舌鼓を打ちました。

 程経て王様は林檎の失せたことを発見し、二人の番人を御前にびつけて訊問されました。――

「汝達が林檎を盗んだのであろう。」

 跂者びっこず弁解を試みました。――

「私ではござりませぬ、御覧のとおり私には歩行がかないませぬ……。」

 つづいて盲人めくらが申立てた。

「私でもござりませぬ。御覧のとおり私には眼が見えませぬ……。」

 しかし懸命な王様は跂者びっこを捕えて盲人めくらの肩に載せ、二人を一緒にして、処刑を申渡された。

 私が指摘するまでもなくこの寓話の中には個々の責任問題に関してはなはだ貴重な暗示を蔵して居るものと思れます。

 各自の責任問題の中枢は以上で解決された訳です。質問者によりて提出された守護霊の責任問題云々は全然お門違いのもので少しく考えればすぐにその解決はつく訳です。

 ず守護霊と本人との関係を考うるに、それは自我とその媒体との関係とは根本的に相違点があります。即ち――

(一)自我とその媒体とは相対表裏の不離の関係に置かれているが、守護霊と本人とは受持を異にし、又活動の舞台を異にせる別個の存在である。

(二)自我とその媒体とは同一価値の存在であるが、守護霊と本人とはそうではない。守護霊は比較的に浄化を遂げたよりよき半分であり、本人は肉に包まれて物質界の経験を積みつつあるより悪き半分である。

 従って責任問題からいうと、守護霊の責任と、人間の責任とは全然異っていることになりましょう。守護霊としては恐らくできる丈その受持の人間を蔭から保護誘導することがその重大なる責任の一つでありましょう。これに反して人間としては、できる丈地上の誘惑を排除し、精進努力して

  成るべく多く自己の守護霊と感応道交を試みること

がその最大責任の一つでありましょう。

 畢竟ひっきょうかの似而非えせひ宗教者流などが自分の碌でもない言行を自分の守護霊その他に転嫁せんとするのは、正に自己の独立的存在を放擲した自殺行為に過ぎません。……そうした堕落した人物ほど守護霊の保護からはますます遠ざかり、あるいは全く絶縁することにもなりましょう。これでは守護霊に向って責任を持ち込むどころの話ではありません。天に向って吐いた唾液つばきと同様、責は当然自身に戻ります……。


底本: 雑誌 「心霊と人生」 

発行: 心霊科学研究会

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ HTML化に際して、底本中の傍点表記を下線表記に、白丸傍点表記を太字表記にそれぞれ置き換えました。

入力: いさお


雑誌「心霊と人生」より

   

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