見えざる手

粕川章子

 

 豊かな霊的天分に恵まれ、つ熱心な心霊研究者である現英のヴァイオレット・トウィーデル女史の体験には類の少ないものを多々見出す事が出来る。女史は其著そのちょ『私の見た幽霊』(ゴースツ・アイ・ハブ・シーン)中において、単にその霊視によってのみでなく、他の人と共にその肉眼によって看破した種々な幽体や地縛霊の活躍振り等を語って居り、の二三はかつて本誌に掲載した事もある。これから引用する一挿話もまた同書を読んだ時深い印象を受けたものの一つである。

 それは一九〇八年十一月のある静かな夕の出来事であった。ドンヨリと曇った晩秋の日没時、西の空がかすかな紅色を帯びて居る頃、それまで独り読書にけって居た彼女は、暫時しばし休息のため手にした書物を傍らの卓子テーブルの上へ置いた。

 その書はオリバー・ロッヂ卿の著書『人類と宇宙』(マン・エンド・ザ・ユニバース)であったが、の時丁度ちょうど第六章を読みしまった処で、その頁数は一三七頁に当って居た。彼女は今読んだロッヂ卿の言葉から深い瞑想に導かれて、約十分間は我を忘れて居たが、サラサラと紙の鳴る音にハッと気が附いた。

 風も入らぬ室内、コトリとの物音もハッキリ解るほどの静寂そのものの間に、音の出所は一目瞭然であった。読みさしのまま、卓子テーブルに開いてあった書物の頁がパラパラと動いて居る、あたかも人の手がそれを繰るかの如くに、次から次へと順序よく動いて行くのであった。

 眼に見えぬ手がその紙片を動かして居るに相違ない。驚きの眼を見張った彼女は、異常な興味に全く興奮してしまった。

 息をこらして見詰めて居る彼女の前で、その本は相変らず、あちこちと繰り拡げられて居る。その有様はあたかも誰かがある特殊な個所を探し求めるかの如くであった。トウィーデル女史の記憶に明確に残って居る一動作を示すと、カサカサカサと何枚かの頁が手早く方に反されたと思うと、次の瞬間には見落しでもしたかの如く再びそのページ数が反対の方向にパラパラと戻されるといった調子。こんな現象が約十分も続いた。もっとその間には時々合間があるので、始めの間はもう探索は終ったのかと思うと、又動き出す、恐らくその見えざる手の持主が時々何か面白い文句でも見附けて読んで居るといった工合であった。そしてその一人は男性に相違あるまいとは彼女の直感であった。

 本が全く動かなくなった。それは見えざる人の手に開かれたまま卓子テーブルの上へ上向きに置いてある。なお念のために五分の間というもの、妙奇みょうきの眼を光らせながら彼女は待った。いよいよ大丈夫、もうれも居らぬ事を見極めてから彼女は手を伸ばして、その本を取り上げ、そのまま窓近く運んで行った。薄暮の光線は未だ文字を読むには充分であった。

 その時開かれてあった個所は一七二―一七三頁であった。彼女は未だ一三七頁までしか読んで居らぬのである。

 勿論むろん彼女はそのページ面に何があるかを熱心に見廻した。文字を読む前にず紙面に眼を落すと、はたして! 一七二頁の欄外に今つけたばかりのマークを見出した。やや長目のXクロース、鋭い爪でギュウとし附けたものの様であった。

 このマークを附された一節パラグラフを読むと――

『実在した物は決して死滅するものではない。彼等は単に形体を変ずるのみである事を私は断言する。』


 のマークはその時限りでなく、いつまでもそのページ面に残るのだから、確かにそれが一場の夢でなかった事は明言出来る。

 トウィーデル女史は此事このことに関する穿鑿せんさくはこれ以上していないが、ただその書物を取扱った人物は明らかにあらかじめその内容を知って居り、前述のロッヂ卿の言がその通りである事を証するためにうした一場面を見せたのであろうとっている。

 眼に見えぬ幽体が出て来て、本を開けたでは一向説明にならないが、恐らくこれはある幽界人が紙という物質を操作し得る程度、しかし肉眼による視神経の振動には感応し得ぬ程度の物質化作用を利用したものと思われる。だからの時若しトウィーデル女史が御得意の霊視能力を利用されたなら必ずや見えざる手も見ゆる手になったに相違ない。


「見えざる手」 粕川章子

底本;「心霊と人生」第10巻08号

発行;心霊科学研究会 1933(昭和8)年8月1日


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