長南年惠物語補遺
浅野 和三郎
明治時代に於ける稀有の大霊媒長南年惠の事蹟は心霊文庫の第三篇に収録されて居るが、最近大阪の会員山本寅一氏からその補遺ともいうべき貴重なる資料を寄せられたので、いささか辞句に修正を加えて
爰に発表することにした。一部は原寅一氏の報告にかかり、他の一部は高野壽置氏の報告にかかる。両氏とも年惠女とは深き関係のある人達であり従ってその資料の出所が皆きわめて確実である。
長南家は元鶴岡町般若寺裏(最上町)矢場小路にありました。年惠女の父は早く死し兄の千代太郎というのが家を継いだが、産を治むるのが拙き為め、やがて家屋敷を売り払い同じ般若寺裏の小竹という人の家に一時間借りをして、母、弟、妹達と共にすむことになりました。
小竹氏の向側に千葉寛敬という人が居て当時巡査を奉職していました。職務の関係上不在勝ちなことが多いので、長南一家の三人達はやがてこの人の家に同居し、後家族のものが主人の勤務先きに全部移住するに及び全家を借り受け、程経て八日町に移転する時まで、千葉氏の家を根拠としていたということです。寛敬氏並にその妻女の初江という人達は共に七十一歳の高齢で、今尚お健在であり、年惠女の事蹟を知るには最も有力な生証文である訳です。左記は初江氏の実話にかかり年惠女の神がかりの発端を知るに足ります。――
『年惠さんが私の宅に来てから凡そ一年間ほど同居していましたが、最初の頃は肉体が弱く碌に食物を摂らず、一日に鶏卵一個乃至二個位を食べるのみでした。その後食物は一切摂らなくなったとききましたが、それは自分達と別れてからの事であります。
『年惠さんは睡眠中に他界へでも行くものか、覚めてからよく死んだ人達の状況を物語ったものです。従って、誰かが死んだ場合には、よく年惠さんに依んでその人の死後の模様をさぐらせたものです。
『年惠さんは又よく神のお告げを受けました。最初は格別信仰心があるようにも思えなかったが、いつの間にか堅い信心家になりました。『ある夜年惠さんは私に向い、今夜般若寺の木仏様からお授け物があるから一緒に行きましょう、と誘いまますので、同行しましたところ、一銭銅貨を紙に包んだのが二包ほど置いてあってそれを戴いて帰りました。倅の直操はその頃幼い小供でしたが、これも年惠さんに誘われて山王様(日枝神社)に参詣した時に筆を一本授けられました。その筆はお宮の奥の方から投げるようにして戴いたということです。年惠さんは時々善宝寺の池などにも、真夜中にたった一人で参詣に出掛けたりしたものです。』
小竹繁井女――この人は年惠女より十歳あまり若く、今年は五十一歳ですが、最初長南一家との人達と同居した関係もあり長南家が八日町に移ってからも再々泊りがけで遊びに行き、年惠女から非常に可愛がられた人だといいますから、その談話も甚だ貴重な参考資料であります。繁井さんの直話。――
『年惠さんは最初は鶏卵位食べたか知りませんが、私の知っている限りでは、水の外一切飲食物を摂らず、又便通も大小とも全然ありませんでした。私はよく一緒に歩きましたが、年惠さんは躯が軽いのか、足が迅くて追いつけないで困りました。
『年惠さんは自分の部屋に他人の出入を一切厳禁していましたが、私丈は例外で、よく遊びに行きました、平生は別にこれと言って変ったこともないが、やがて田圃の方から、(千葉氏の裏は北向きの田圃)風鈴の音のような音楽が聞えて来ると、今何の神様がお出でになられるから、と言って私は室から出されたものです。神様によりて音楽の音色が異るのだそうですが私にはその区別がつきませんでした。室の中では神様と年惠さんとが何やら談話を交えて居られたが、それは一切きき取れませんでした。ある時は大黒様がお出でになり、縁側で大黒舞を舞われました。姿は見ることができなかったが、さらさらという衣擦れの音は手に取るように聞えました。時とすれば又障子の孔から金平糖などが、部屋の内へバラバラ投げ込まれ私はそれを戴いて食べたことがあります
。
『年惠さん達が八日町に移ってからのこと、ある日善宝寺へ参詣すると言って、酒田の人と、私と、年惠さんと三人連れで出掛けたことがあります。池の奥の方に行くと其所には三つの小さいお宮がある。年惠さんは、私達をお宮の側に待たせて置き自分だけ一番奥のお宮へ入りましたが、やがてお宮の内部でドタンバタンという大きな音がつづいた。不図気がついて見ると縁の下から、大きな茶盆大の畸形の頭に金色の眼のついた、不思議な姿のものがチョコチョコと二三度頭を出しました。少時の後年惠さんがお宮から出て来て、今何か見なかったと申しますから、これこれの姿のものを見たと話しますと、それは神様がお歓びのあまり、あなたに姿を見せたのだ。内部でドタンバタン大きな音を立てたのは、矢張り神様がお歓びになり、私と相撲をとったのだと話されました。ただ不思議なことには、私の眼にあんなにはっきり見えた神様の姿が、酒田の人には少しも見えなかったことです。神のお姿というものは、見える人にのみ見えるものだと思われなます。
『年惠さんとは井岡の観音様にも一緒に参詣したことがあります。その時も矢張り私どもをばお堂の前面に待たせて置き、自分一人で内部に入り、何やら賑かそうな話声だけ聞えました。出て来てから年惠さんは、神様がお歓びだったと話されました。
『私が勝手元で働いて居る時、不意に今洗ったばかりのドンブリが見えなくなったりします。私が困っていると、年惠さんが勝手へ出て来て、何か困ったことがないかと訊ねますから、これこれだと言いますと、それは其所にあると、上の方を指します。見るとチャーンと棚の上にドンブリが載っています。これに類した事は他にもちょいちょいありました。
『年惠さんの神通力にはいつも驚かされました。部屋の内に坐ったままで何でも判るのです。親戚に不幸があるにも係らず神様に参詣するものでもあると、すぐにそれを指摘して追いかえします。又経水のある婦人なども即坐に譴められました。その外何も彼も見通しのようでした。
『不思議なのは年惠さんのやられたお手かざすという行法です。風呂に水を汲み込んで、お手かざすをやると、少しも薪炭を用いずに風呂の水が忽ち熱くなりました。私はよくこのお手かざすの風呂に入ったものです。又甘酒などもこのお手かざすですぐに出来ました。空瓶二本あれば美味しい甘酒がいくらでも戴けるのです。その結構な味は今でも忘れられません。そのくせご自分は飲食物の不用な方ですから、そんなものは一切他人に施すだけでした。
『神様の音楽は、最初は遠方に聞えますが、だんだん接近し遂に年惠さんの部屋の内部に聞えます。部屋へは他人の出入を禁じてあるので、どんな風にやっているものかは誰にも判りません。信者達はそんな場合には部屋の方に向って礼拝したものです。』
以上でほぼ前記二人の談話の要点をつくして居ります。かの患者の求めに応じ、空瓶に神授の水薬を出す話、監獄に投ぜられた話等は既に心霊文庫に報告せられたものと同一であるからそれは爰にかかげない。八日町の長南家は目下は安達某の所有に帰して、数戸に分割され、貸家になっています。又年惠女の墓は般若寺内にあります……。
年惠様の身体に異常現象を起したのは自分にははっきり申上げ兼ねますが、たしか明治二十五年頃最上町の千葉家に同居していられた頃かと記憶します。最初食物が胃に収まらぬので年惠様の母上は心痛のあまり星川医師の診療を乞うたというような事を耳にして居ります。その頃から夜間睡眠中に同家の祖先の霊が年惠様に憑り、その口をかりて、丁度寝言のように、いろいろ物語をするので母人は大へん驚かれたそうです。その話をきき伝えて次第に神仏のお告を乞うものが増加し、後には睡眠中でなくとも、一心に念ずれば容易にお告を受けるようになったそうです。
私が長南家に同居することなったのは明治三十年頃であります。私は他の信者達と一緒に、よく年惠様のお供をして、市内では三日町の本部皇太神宮、荒町の日枝神社、井岡の観音堂又は下川の善宝寺池畔の龍神社等に参詣しました。いつも徒歩でしたが、年惠様は身軽で足早で、誰でも遅れ勝ちで弱りました。下川の池には鯉を放したこともあります。
年惠様が神社に参拝される時には、私共は社の後方で拝していましたが、いつも龍神様その他の神様の姿がお現われになったらしく、私どもの耳にも笛簫等の楽声が、はっきりと社の上方と思われる所に聞えました。私はお供をしなかったが、鳥海山、湯殿山等の高山にも数回参詣され、その都度同行者の話によれば、年惠様の足の迅いには驚いたと申して居りました。
私が長南家に居りましたのは明治三十年から同三十四年までですが、その間近郷近在の難病者で救を求むるものは隨分沢山参り、母人はその応対にいつも忙殺されていました。病人が来ると、年惠様の躯には病人の病苦そのままの苦痛が起りましたので、実に並大抵の苦労ではなかったのです。又物忌がきびしく年惠様はこれにも絶えず苦まれました。心なき人達が汚れた躯でお願いに来ると、その咎を年惠様が引受けて了うのです。それでも一心に助けを乞う人達を不憫に思われ、厭な顔一
つせず、神様に願ってあげるので、いつとはなしに依頼者が集まり少き時も数人、多い時は二三十人に及ぶことがありました。
私は十四歳の頃胃腸が悪く、母はいろいろと手当をしてくれましたが治りません。当時私どもは酒田に住んでいましたが、不図年惠様の話をきき、母は身を浄め、物忌を厳守して鶴岡八日町の長南家に参り、例の神授の薬水を戴いて帰りました。これが私どもと年惠様との関係の初まりです。数回之を服用している中に、慢性の胃病がすっかり全快して了いました。右の神授の薬水というのは、御承知の通り、こちらから瓶を持参し、栓のまま年惠様にお渡しするのです。すると年惠様は十本でも二十本でも神前にそれ等の瓶を並べてしばらく御祈願をすると、一度に御神水が瓶の中に出現するので、薬水の色は患者毎に皆異います。私の持参した瓶は約三合入のもので、私自身戴きに上ったこともありました。年惠様は一人づつ患者を呼んで瓶を渡し、心得等につきてくわしくお話し下さるのでした。心掛の悪しきものは神水が下りませんでした。
年惠様が祈念さる時に出現されるのは神様と仏様と両方でした。その際上空に聞ゆる音楽は、天照大神は簫、古峰ヶ原金剛山様は笛、大日如来様は大きな音の鈴、弘法大師様は風鈴で、この風鈴が一ばん頻繁に現われました。
年惠様はよく突然姿を隠しました。今まで神前に居られたのが、いつの間にか見えなくなる。しばらくすると又いつの間にか帰って居られるのです。
食事をせぬこと、便通のないことは事実ですが、ただ極めて稀に梨林檎などを少量食べられることはありました。しかし信者の侍参したものは。あれもいけない、これもいけないで、殆んど手をつけることはありませんでした。
私が実地目撃した中で、今でも不思議と思っているのは、茅葺の物置小屋の突然の怪火でした。これは酒田町鵜渡川原の一信者の火難を爰に引き取ったものだそうで、小屋の内部は一面の猛火で、私は小供心にブルブル慄えながらそれを見物していました。火は今にも屋根裏に燃え移りそうに見えながら、やがて何事もなく鎮火し、そして小屋に格納された品物も何一つとして焼けなかったということです。
年惠様は機嫌のよき時は、よく戯れに腕相撲をとられましたが、筋骨逞しき農夫でも到底その敵ではありませんでした。又よく負っこをして遊びました。年惠様はどんな大男でも軽々と負われます。又御自分は重くなるも軽くなるも自由自在、軽い時は小児でも楽に負えるが、重い時は大男でも腰が切れない。そんな際の賑かさと言ったらありませんでした。
どんな大暑の候でも年惠様は汗をかかれません。又どんな酷寒の時でも凍えるということを知らない。躯には常に清香薫り、漆黒の材なす頭髪には一本の後れ毛も又一点の雲脂もない。肌の色は白く清く、掌など殆んど透きとおる位でした。
年惠様の慈悲深いのはまことに天稟で、あんな心の美しい方が現世に又とあろうかと思われる位でした。貧しき者には金品を与え、病める者には、御自分の躯をささげて病苦を引受け、毎日のように死ぬほどの苦みをつづけられました。衆生済度という言葉はよく耳にしますが、年惠様のように如実に之を実践躬行された方はめったにないのではないかと思われます。若い者に向ってはよく言葉短かに学問をすすめ、道を説き、不心得を戒められましたが、それが不思議にも深く深く聴く人を動かしました。
私自身の身の上話をするのも心苦しい次第で厶いますが、実は私が鶴岡の高等女学校に入学しましたのも偏に年惠様の賜なので厶います。明治二十七年私が十二歳の時酒田地方大震災の為めに私の家は全焼の厄に逢い、赤貧の中を辛くも小学校に通学するのが関の山でした。しかるに明治三十年鶴岡に高等女学校が開設されますと、年惠様は私の母に向い、『自分は食事をせぬ身であるから、自分の代りにあなたのお子さんを預かり、女学校に通学させます』と言われ、私の母は感泣してその厚情に甘えたのでした。
年惠様が他界されましたのは明治四十年十月二十九日のことでした。信者その他が集まりして後片附をし、家財全部を売却しましたが、すべてを他人に施して了ってあるので売上金額は僅々数十円にしか上らなかったそうであります。雄吉氏の兄板倉寅蔵氏がそれと位牌とを預って祀っていられるときいて居ります。般若寺内の石は後に雄吉氏が建てられたもので厶います。
因みに年惠様の母君(美惠子)も一と通りならぬ、立派な心懸の人でした。女の手一つで艱苦の裡に数人の子供を育てあげ、年惠様があのような身の上になられてからは、信者の取次やら、神様の奉仕やら、食事の世話やら、一切を御自分の手一つに引受けられ、明治三十八年四月八日帰幽の前日まで忠実に立ち働き、一同の敬慕の標的となっていました。美惠子刀自の墓は般若寺内の年惠様の石碑と並んで建っています。(終)
底本: 雑誌 「心霊と人生」
10巻7号
1933年(昭和8)7月1日発行
発行: 心霊科学研究会
※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。
※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。
入力: いさお
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