神道の創造的展開

J. T. メースン

JOSEPH WARREN TEETS MASON


※ 「心霊と人生」第十巻一号に掲載。

※青空文庫の 「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準拠して、底本の表記をあらためました。


 私はよく聞くことでありますが、一体神道は宗教であろうかということであります。神道は宗教以上であります。神道というものは、この人生そのもの、精神そのものであります。

 普通の宗教というものは、現在の生活に興味を持たないで、死んでから後のことに興味を持って居るようであります。それに反して神道は現在吾々の住んでいる世の中におこる所の、すなわち現代の世の中というものに、非常に注意を払って居るものであります。

 すなわち神道は、少し具体的にいうと創造的動作というものが客観的にこの世界にある一定の形をもって、現われたものと私は解して居ります。宗教のもっとも純なるものは、すなわち主観的に出ているものと思います。所が神道の歴史を読んで見ますと皇孫瓊々杵尊ににぎのみことが高天原から降下遊ばされた。すなわち今まで主観的なものから客観的に物の形にお現われになったと私は解して居ります。

 この神道の精神は、物質的に益々拡大せんと努力するのであります。それで神道はこの人間は、後から段々と世の中に現われて来るということを現わして居ります。それで現代の言葉で申しますとこの精神というものはすなわちこの吾々自身の形を通してこの物質世界に現われたものであると、私は思って居ります。すなわち天の霊があるものに現われたものであると思う。

 神道には所謂いわゆる全能の神のような他の宗教にあるような考えはないようであります。それで神道にしも他の宗教において考えられるように、全能の神があるとする、それは吾々人間は単なる機械のようになってしまうのであります。それが私は神道の中、信仰の中心であると解して居ります。すなわちこれを神道の創造的展開と申しましょうか、吾々個人が自分で創造して、そして発展して行く自由を与えられて居るのであります。すなわち神道は算術で申しますればゼロであります、ゼロの前に一を加えると十となるように、かように一方から霊という無形のあるものが人の魂になってそして形に現われて来るものと思うのであります。あらゆる努力を続けてあるいは失敗し、あるいは成功して吾々は現在の世界を築き上げたのであります。

 換言すれば霊そのものがすなわち物質というものを作り上げて居るのであります。それで私は前に申上げたように、この世の中に絶対的万能の力が人間にない限りは、すなわち吾々の霊なるものは失敗することもまた成功することもあると思います。神道はこのことをよく了解して居るようである。神道には他の宗教に考えられて居るような神々というものはないのであります。諸君御承知でありましょうが、神道の神々というものは荒い人もあれば、又非常に柔かい人もあるというようになって居ります。神道は吾々の霊が実際失敗もあり、間違いもある、それは決して恥ずべきものでない、当然のことであると考えて居るように思われます。日本ではこの神の霊は失敗しないと思います。この世の中において神のすべてのものはこの創造的力を発揮して居ります。神の霊そのものは物の選択権をもって居ります。諸君が伝来的の創造、動作、精神というものをお持ちになれば、如何いかなる困難が吾等の前によこたわって居ってもこれを排して、あるものを創造し得ることが出来るのであります。勿論むろん時間の経つ間には、成功も失敗もありましょう。そこで神道の精神の下に働いて居る者は、その失敗に依って決して失望しないのであります。すなわち神道においてはこの失敗というものは一の材料になるのであります。失敗にってこの道を行けば成功しないから他の道を行くがよいという過去の誤りを繰返さないという意味において、失敗にって成功の道に入るのであります。ですから、神道の根本的精神からいうときは、この世の中には本当の失敗というものはないと私は思います。すなわちもう少し具体的に申しますれば、創造的精神が、すなわち霊がいつも実験して居るのであります。実験というものは部分においては失敗しますけれども、最後は成功を収めるのであります。

 恰度ちょうど学者が自分の研究室に籠ってそして実験に実験を重ねてそして最後に自分の思って居ること、自分の非常に信じて居る所のものを作り上げるまで努力するように、日本の神道精神の下に働いている人はその同じことをやって居るのであります。すなわち日本のように偉大なる精神をもって居る国というものは世界広しといえどもあまりないのであります。何故なぜならば日本においてはこの神道精神というものが死んでいないからであります。すなわち日本人は実際的の国民であって、理窟りくつを言わない、物を分解しない。そして自分の動作に訴える点をもって居るからであります。

 すなわち直観的に自分達のものとするのであります。すなわち昔から日本歴史を読んで見るとアリアリとこの精神が見受けられるのであります。如何いかなる国難、如何いかなる新しい思想に出会でくわしてもそれを旨く納めて最後には自分のものにして、ついには新しいものを生み出して行くということが、アリアリと日本の歴史に現われて居ります。すなわち世界の如何いかなる国といえども日本の如く長い歴史は持っていないのであります。世界においてもっとも長い歴史を辿って行きますと、すなわち日本に於ける創造的神道の精神はどんな時代においても死んでいないのであります。神道的精神というものは打壊うちこわされることなしにそれが続行するものであります。

 崇神天皇の時代から二千年この精神をもって一貫して居る。すなわち崇神天皇は明治天皇の示されたことといろいろの点においてよく似ていると思います。

 霊的観念の進化の歴史を読んで見ますと、かならずある時に人間は自己自身を疑う、そして自己で解決の出来ない時には天に向って最後の判断を訴えるというように思われます。すなわちそれが如何いかなる宗教の進化においても、もっとも危険の時であると思うのであります。何故なぜなれば人間が全能の神の意思に従ってこの地上に実行するとそれは自分自身に対して何等の自信が無いめに、あるものをやるという勇気がないから、人間は進歩しないのであります。

 すなわち崇神天皇時代までは御剣や御鏡が霊の表現であった。それは宮城の中に奉斎ほうさいされてあった。しも日本人がそれをそのまま忠実に続けて行ったならば、日本という国は現代のような偉大な進歩はなし得なかったであろうと思います。何故なぜならば全智全能の神の命のままに従うからであります。それで私は崇神天皇は畏れ多い言葉でありますが、すなわち日本の神道の宗教の上においては実際的革命者であると申上げてよかろうと思うのであります。何故なぜならば崇神天皇は今まで宮城の中にあった御鏡というものを宮殿から出された。そして各地に神社というものをこしらえた。それで神の霊なるものは宮殿から神社に遷されたのである。そこで天皇は御自分の努力によってその他いろいろの意味において活躍されたのであります。例えばその時代から見れば非常なる科学的の進歩で、米というものを科学的につくるということも研究されたのであります。教育のこともお考えになりました。政治のことは勿論むろんお考えになった、その意味から言って崇神天皇はたしかに新しい日本の創造者であります。何故なぜなれば崇神天皇によって初めて吾々人間の力に依って自分自身の運命を開拓するという所の意思とそれを実行されたのであります。それ以来日本はその精神をかつて忘れたことはないのであります。そこで私はこの崇神天皇に心から敬意を表するものであります。すなわち崇神天皇こそ本当の神道信者であらせられます。そして又大なる拡張者であられた方であります。何故なぜなれば神道は常に創造的展開であります、すなわち神道は創造動作そのものであります。その精神は小さなものにって決して満足しない。つまり小さなものから発達して段々発達しようとするのであります。

 最近に起った所の満州に於ける日本の活動というものは、これは必ずしも軍国的あるいは国家的表現でなくして、むしろこれはそれ以上のものであります。もっと深い意味があると思います。神道の精神の真髄がそこに今現われて居ると思うのであります。外国人は今や日本神道の偉大なものであることが痛感されて居るのであって、満州には西洋文化というものが割合に威張って居ったのであります。今やこの神道精神が挑戦したのである、これは日本が他の一国に対して挑戦でなく、神道精神の他の所謂いわゆる機械的、そういうものに対する挑戦であります。すなわち機械的創造的精神の勝負である。最後のテストである。の時が来たのであります。もっと具体的に云うとこの小さい島国においては神道精神を発達させることが出来ないから、これをどうしても海外に求めなければならん、今までの国から出て行かなければならんのであります。日本に於ける伝来の創造的精神では少しも満足しない。すなわちその精神は今やアジア大陸に向って大いに進んで行かなければならんと要求して居るのであります。すなわち国際連盟とか、ヨーロッパに於ける認識不足という言葉が流行して居りますが、認識不足の原因はそこにあります。日本神道の精神の発達が破竹の勢いをもって大いに現われて居るということを知らないのであります、世界はこれを認めなければならんと思います。

 西洋の進歩というものは西の方に向って居ったのであります。すなわちヨーロッパにおいても北アメリカにおいても創造的精神は西に向って居ったのである。日本もこの西の方に向って行くのである。この西に向って行くということは創造的精神が進んで行くのであります。何ものもこれを抑えることは出来ない。すなわち西洋に於ける如何いかなる力といえどもこれを止めることは出来ないと思います。しかしながらこの運動はもっと進んで行くに従って非常に困難が出て来ると思う、しかながらこの神道の精神が過去においても、現代においても、如何いかなる困難があっても恐れないのであります。苦しいことはこれは苦しいことであるけれども、従来の経験から見ればの神道精神は決してそんなものに恐れないのであって、すなわち日本は過去において常に危険な所の生活をして来たのである。しかながらこれはすなわち他国の如何いかなる国といえども進歩的国家というものは必ずこの生活をやらなければ、危険を犯さなけれは本当のものには成り得ないのであります。で過去について見るとこの神道精神は段々と大きくなっていろいろの困難と危険に出会って、そしてある時代は成功し、ある時代は全然形を無くしてしまうこともあります。しかながらこの精神は必ず時期が来ると形が出来て、ある時は緩く、ある時は非常にテンポを速めて、その最後の目的に向って邁進するのであります。すなわちこの現代日本の国家の創造的精神の運動は今や日本から始まって、そして次第に西に向って進んで居ります。この運動もそういう形をとると思うのであります。

 神道には融通の利く性質をもって居ります。ある時には、他の宗教のように堅いことを言わずにある程度まで融通が利くゴムのように自由なる、同時に又創造的精神というものに依ってすなわ如何いかなる困難にあっても必ずそれを打克ってその目的を果すと思います。しかし、それは征服ではない。この西に向って行く生命というものはすなわち征服という言葉を使うと非常に誤解されるから使っては不可いけない。すなわち征服でなくして今までの創造的精神のない国に新しく日本から、この創造的精神が行くのであります。すなわち活用である、それを自覚しなければならんと思います。すなわち征服でなくして、実際の人間の状態、あるいは経済的状態、このアジア民族の人間としての権利を与えられてない国に向ってそういう状態をよくするめに、この日本の神道精神が進んで居るのであります。その行動の本当のドン底まで解することは吾々は出来ないのであります。ここに日本という小さな島国があります。そして海を渡って向うには日本の何十倍というような大きな大陸がよこたわって居ります、すなわちこのアジアという大きな大陸の中の沙漠さばくにある島と同じように、日本という創造的精神をもって人間の状態をよくするというこの精神をもって居る一つのオアシスであります。神道というものに全く根強く入って居ります。この精神が段々とアジア大陸に向って行くものであります。創造的精神が発達して行く、発達しなければ止まないというのが、この運動の始ったところの理由であります。この運動が成功すれは自分のみならず、他の国の人も同じように利益を得るのであります。現代の状勢を深く研究するとこの神道においてはすべてのものは霊と同じであるということを言って居ります。この日本において神の精神を他の国に植えつけようとする所のことがアリアリと見えて居ります。それで日本がこの精神を本当にモットモット深い意味において発揮し、そして本当に成功を収めようとする、夫には日本はもっともっと自己表現を上手にやらなければならんと思います。日本人は元来非常に自分の感情を押えるという国民であります。世界のあらゆる問題に対しても常に沈黙である、これでは不可いけない、もっと雄弁にもっと上手に表現術を習わなけれはならんと思うのであります。すなわち吾々が充分に過去において自分という者を説明しなかた為に西洋というものは未だ日本を了解していないと思います。日本の外交にはあまり禅宗の精神が多過ぎると思います。西洋の人が禅宗を研究して、そして日本の本当の精神を了解してくれるという暢気のんきな考えをもって居るように思います。諸君そんなことでは日本は駄目です。すなわち創造的精神においては日本人というものは実に驚くべき程エライと思います。それは昔のように非常に小さい島国に住んでいる時分には了解してくれるからかったでありましょうが、時代は変って居ります、西洋の人々は沈黙ということが本当に分らんのです。すなわち沈黙はやがて疑いを生み出す、諸君の中にもそういう経験を持たれることがあると思う、あまり黙って居る人を見ると疑いを抱く、これは日本だけではない、世界共通の人間性であります。本当に平和を求めるなれば、本当の平和はすなわち自己表現であります。この自己表現は現代においては実に驚くべきことをなし得るのであります。すなわち日本より劣っている支那は自己表現においては日本は及ばない。その術は実に発達している。そこで国際問題においても常に理のある日本よりも理のない支那の方がよく西洋では了解されて、支那は日本よりも同情を受けて居るのであります。この世の中というものはお互に物の交換をするのであるが日本は支那から表現術を習い、支那は日本から創造的精神を習うべきであろうと思います。支那を御覧なさい。始終内乱があって国は常に乱れて居る。武器をもって居るものがその地方を支配して居る、そして互にその勢力を争うて居るのであります。けれども自己表現が上手であるからいつも平和の国のように思われて居る。支那は自己表現がとても旨い、日本人はこの精神があって、そして自己表現が出来れば支那以上に世界に了解されることと思う。日本人は暢気のんきな考えを捨てなければならん、嘘というものは常に真よりも有効に働くものである。神道はこの意味からいうとそれは自己表現そのものであります。いにしえの日本という国は言葉に依って自己表現をした国であります、そこで、日本書紀古事記は言葉の書物です。神道の信仰者である諸君はそれを忘れない様にお願いしたい、すなわち日本の歴史をもっと興味をって御研究なさっては如何いかがですか、神道精神をあきらかにした歴史以外に何も求める事はない。それで結構であります、すなわちこの日本という国において昔から現代までの歴史を読んで見ますと、日本の国において十分に自己表現を習い得るのであります。外国に行って習う必要はない。それで日本に戻れと云う運動が起っているのではないかと思います。実に結構なことです。充分に諸君は諸君の歴史を御研究になることを切望いたします。そうするなれば必ずや神道精神というものは、よく理解されるのであります。すなわち動作のみならず言葉上にも自己表現を旨として行かれると思う。この言葉の自己表現によって益々発達させることが出来るのであります。

 私は諸君に申し上げたい。どうか諸君、諸君の未来に如何いかなる困難があっても決して心配にならないように、お願いいたします。日本は今非常に苦しい立場に置かれるかも知れません、けれどもそういうことについて悲観する必要はないと思います。未来にいろいろの困難と危険をもっている、けれどもそれ以上に過去において幾多の同じような経験をもっている、すなわちこの神道精神に依って諸君がおやりになれば、何ものも恐れることはありません。すなわち危険はないのであります。尾を抱いて逃るような危険はあらわれて来ないと思います、如何いかなる困難であっても『日本の創造的精神によって越えることの出来ないような困難は決して日本には現れて来ないと思うのである。そこでやがてはこのアジアにおいてこの日本の創造的運動は実に結構なものである。吾々はそれに依って非常に利益を受けるということがわかって来ると思う。すなわちアジア各国は日本に対して心から感謝する時が来ると思うのであります。神道精神は決していたずらに威張っては不可いけないということを言って居ります、又神道はこの世界すべてのものは如何いかなるものでも霊であるといって居ります。やがて日本には大なる未来が来ることでありましょう。


神道の創造的展開

J. W. T. メースン (1879年1月3日〜1941年5月13日)

JOSEPH WARREN TEETS MASON

底本 「心霊と人生」第十巻一号

心霊科学研究会 1933(昭和8)年1月1日発行

※青空文庫の 「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準拠して、底本の表記をあらためました。

※ 入力:いさお      2002年11月18日

※ 公開:新かな版     2006年5月28日


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