明道会問題一束

◇雑誌「国教」の主張を難す

浅野正恭

 

 私は長い間、明道会機関雑誌『国教』の寄贈を受けて居り、の好意を謝すると同時に、の主張に対しては、何とか一言なかるべからずと考えていた。が、通り一遍、外交的辞令の如きものを寄するのを不本意とするところから、遂に今日迄其までその運びとならずに過ごして来た。しかるに今回本誌で、同会に対し心霊学上から公正な批判をしようということになり、ここに私として意見を発表する機会が得られることとなった訳である。

 私はあえて明道会に対してとはいわぬ。唯雑誌『国教』に掲載されある主張に対する批判を試みるばかりである……。同誌の主張が縦令たとえ明道霊児なるものを通じて、平田篤胤氏霊魂の意見に基くもので有っても無くても、あるいは又う所の八意思兼大神の神示にるものでろうと無かろうと、私はソンナ事に一切束縛さるることなき自由の立場に立ち、の内容価値のみの批判に任ぜんとするものであることを、もってお断わりして置く。

 願って世間一般の様子を見るに、儒教、仏教、基督キリスト教等の信者達は。各の教主たる孔子、釈迦、イエス等に対して絶対服従の態度を執り、さほどに思われない片言隻語へんげんそうごでも、金科玉条として遵奉する風がある。明道会の信者達も、恐らく明道霊児なるものを通じて得たところの一切の消息に、絶対服従の態度を執らんとすること、あたかも儒者、仏者、基督者の如きものがあることであろう。従っての主張に対して批評を加えるなどということは、同信者からは奇怪の業とも見えることであろう、が、仏者ならざるものが釈迦を批判し、基督キリスト者ならざるものがイエスを批判し得るが如く、明道の信者ならざるものが、自由に明道霊児の媒言を批判したところで、何の不思議もないことであるのである。私は大本教の信者達を知って居るが、同信者達は、自分を棚に上げて、好んで他を邪神悪霊扱いにする悪い癖がある。明道会の信者の方々は、惟神かんながらの大道を宣揚公布せんことをつとめで居らるるという以上、まさか大本信者のひそみなろうて、愛憎の念に駆らるる放言などはされようとは考えられぬ。

 前提が少し長過ぎたが、れから『国教』掲載の主張に対して説を進めることとしよう。あたかも『国教』所説の全般という訳には参りかねること勿論であるから、の主眼とする第一巻『明道会趣意書』中に載せてある点にのみ問題を限らう……。

 岸氏はう『惟神かんながらの大道、即ち四魂具足の道』と。又う、『道とは「ミチ」の義であって、即ち「満ち」である。円満具足の意である。一霊には必ず奇荒和幸の四魂が過不及なく、具足して居るという意味である。』と、「道」を「満ち」とのみ解するは可なり思い切ったコジツケであり、又の「満ち」とは四魂の過不及なき具足であるというに至っては、益々ますますのコジツケのはなはだしさに驚かされる。案ずるに邦語ミは即ち体ということであり、チは血即ち霊ということである。世界の万物ことごとく霊と体とにより成るにあらざるはなしであるから、霊の陽に対する体は陰。即ちミチとは窮極陰陽という意味となる。易の繋辞伝に『一陰一陽之これを道という』とあるは、たしかに道の根本定義を道破したものとなるのである。ここおいて「道」は「満ち」であるということが、縦令たとえ神示でも何でも、コジツケとなるより外はなくなるではないか。若し「道」は「満ち」なりとコジツケんとするならば、なまなか「四魂具足の意味」などといわずに、宇宙に遍満するところのものを道というとでもする方遙かに優って居る。

 およ惟神かんながらの道なるものは、天地万物にあまねく通ずるところのものであらねばならぬ。しかるに、それを四魂具足などという一つの見地にのみ局限きょくげんしてしまうから、二進も三進も行かぬものとなる。惟神かんながらの道ということについては、私は本誌で既にの一端を述べて置いたから、ここに再び繰返すの要もないことである。彼の原子の構成を見よ。既に道に従って居るではないか。禽獣虫魚草木土石に至るまで、ことごと惟神かんながらの道にって生じもし、存在もするのである……。

 さて岸氏の四魂の説であるが、岸氏は従来学者の説とは大いに異なるよう説いて居るが、私から見れば五十歩百歩の差に過ぎず、氏の言を拝借すれば、一つの観念遊戯でしかあり得ないようである。の四魂の説なるものを掲ぐれば、『奇魂くしみたまは敬神の傾向と神通の力、荒魂あらみたまは社会奉仕の行、和魂にぎみたまは和合親愛の情、幸魂さちみたまは利用厚世の術』であるという。の解釈が如何にも当世向きに出来て居るようであるが、何が故にソンナ解釈となるのか、説明はなはだ抽象的で曖昧を極め、根拠となるべき何物をもそこから発見し得られない。

 四魂の性質については、ぜひまた本誌上で、古事記論の序論として、私は比較的委敷くわしく述べて置いたが、要するに人も神も四魂具足などということではなく、唯一魂の幸魂さちみたまを発揮すべきであるという事に帰着するのである。四魂の中の荒魂あらみたまは肉体をいうから、人が現身を有する間においてのみ、荒魂あらみたまを具足するの要があるので、死んで霊魂となれば、荒魂あらみたまは既に委棄いきされた無用の魂となり、霊魂は唯三魂丈しか持っていないのである。

 三魂のみとなれる霊魂が、執着煩悩等の別名たる和魂にぎみたまより解脱すれば、幸魂さちみたま奇魂くしみたまの二魂のみとなってしまう。の二魂が本当の魂であるところから、古来真魂まみたまと呼ばれて居る。古典に八尺勾玉やさかにまがたまと記されてあり勾玉は、実は真魂まみたまの転訛に過ぎない。ヤサカはイヤサカで愈々いよいよ栄えるということ。マガタマとはマナタマの転訛であることを疑わない。マナは天之真名井とある真名と同じく真のということであって、肉欲、煩悩等から解脱せる。若しくはそれ等の無き魂、即ち幸魂さちみたま(幸魂の内容には自ら奇魂が含まる。故に、単に幸魂という。以下同じ)を真魂まみたまといい、それがマガタマと訛り、曲玉などと書かれるようになり、曲れる玉を造ってこれを表徴せんとするに至っては、の本来の意義が失わるるも既に久矣ひさしうするといいたくなるのである。いわんや岸氏の如く、真魂まみたまの幸福を、何々の術などと解するに至っては、少しく激語となる恐れがあるが、全く以て沙汰の限りである。

 仏教の害儒教の弊、これなりはなはだしいものでありしことは疑うべくもない。さればというて、坊主憎ければのたとえの如く、の一切を排斥するにも及ばない事である。私は今たまたま幸魂さちみたまを云々するに当って引用したいのは、孔子の『心の欲する所に従ってのりえず』という語である。の語の意味は、極めて平易で、何人も解釈に苦しまないが、更にこれを解説すれば、身も既に七十の頽齢たいれいとなっては、肉体附随ふずいの慾望、即ち荒魂の累から脱し、又世の煩悩執着ぼんのうしゅうちゃくたる和魂にぎみたまかさねからも離れ、ほとんどんど天賦てんぷの特性たる幸魂さちみたまを充分発揮する境地に到達したので、の特性を奔放ほんぽう自由に発現するも、決して天地自然の規矩きくに外るるようなことはないというのであってれはたしかに至理を語れるものである。

 真魂なる各人各個の特性幸魂が、欲望や煩悩などの累を受くることなしに、十全に発揮し得るならば、れ程結構なことはないのである。何となれば、是等これらの特性は天賦てんぷままの心であるからである。天賦てんぷままの心を発揮して、それが所謂いわゆる道に 忓うものとなる筈はないのであるが、の心が動もすれば荒魂あらみたま和魂にぎみたまの影響を受くることの多少により、勝手気侭かってきまま放縦無頼ほうとうぶらいの心と誤まられ易い傾向に在ることは至大の注意を要する。惟神かんながらの道が会得され難いのも、主として幸魂さちみたまの諒解なきためである。しかして幸魂さちみたまの真趣が理解されざるは、四魂に独断的解釈を試みるところから来る……。

 私は世道人心のため反正はんせいを待たんとして、ここ忌憚きたんなき評言を試むることとせり。言辞げんじあるいは礼を失するところあれば、じょせよ。


明道会についての一考察

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