明道会事件の学術的批判

(四) 明道会の主張

 最後に私は明道会の主張言説につきて簡単なる一考察を試みて置きたいと思います。

 明道会の会規の第二条を見ると「本会は惟神かんながらの大道を闡明せんめいし、国教を確立することをもって目的とす」とありますから、その目的の那辺なべにあるかははなはだ明瞭で、その抱負やすこぶる遠大、その趣旨やはなはだ結構だと謂うべきでありましょう。その信条などもなかなか立派なもので「神人感合の力を得て皇国に奉仕せんことを期す」とか、「義勇奉公の行を果し社会に奉仕せんことを期す」とか、何処にも申分はないようであります。世間には羊頭をかかげて狗肉を売ると言ったような手合も決して絶無でないときき及びますから、単なる表面の宣言のみで感服するのは勿論むろん早計でありますが、私どもは岸博士の人格を信じ、その動機に対してはいたずらに疑惑を挿みたくないと思います。日本の一般社会はまだまだ封建時代のるい癖がけ切れず、何ぞ人が少し耳新らしい新奇の仕事でも始めると、直ちにこれを陰謀団扱いをして、ヤレ「一味」だの、「徒党」だの、ヤレ「正体暴露」だのという、極度に野卑な、低級な用語を浴びせかけて、理が非でもその抑圧に狂奔きょうほんしたがりますが、これははなはだ感服し兼ねます。縦令たとえその手段方法の上にいかなる手落ちがあっても、これがめにその趣旨目的までも没却する法はどこにもないと信ずるものであります。

 兎に角明道会の創立の動機は決してるいものではなかったと思いますが、いかにせんたった一人の不完全なる朝鮮霊媒を神人感合の楔子とし、その啓示の前に絶対服従の首をさげたという所に、すでに出発点から取りかえしのつかぬ欠陥を孕みました。これでは動機がいかに善良であっても、その結果からいえば、かの社会の裏面に潜んで害毒を流しつつある幾多の淫祠邪教とほとんど選ぶところがなくなる訳で、かえすがえすも明道会のめに惜しいことでありました。従って明道会の主張やヤリ方の中には学術的に見て到底承認し難き個所が数々あります。それ等の中ただ主要なるもの一二につきて簡単に卑見を加えることにします。

(一)明道会の氏神奉斎の批判。

 明道会では霊児を介して所謂氏神しらべなるものを行った上でこれを奉斎し、これを以てほとんど国教樹立の根本義となさんとしたようでありますが、これにはあきらかに二つの誤謬がひそんで居ります。第一は明道霊児に氏神査べができると思ったことの誤謬第二は氏神査べが必要だと思ったことの誤謬でありますであります。心霊科学の指示する所によれば神人感合という事はつまり思念の波の感応共鳴にほかならない。神社やお厨子は決して神の住居ではない。ただ人間をして心霊と感応冥合せしむるに適当せる一の神聖な装置に過ぎない。人間がその前に坐って邪念妄想を一掃して清浄な気分になれば、その人に相当した、ある神霊との感応ができるまでの話で、従って肝要なのは寧ろ清浄な気分であって神社やお厨そのものではない。いかに立派な神社やお厨子の前に坐って礼拝したとてその人の心身が濁って居ればせいぜい亡者か狐狸の霊と感応する位のものである。これに反して若しもその人の心身が清浄であれば、どんな場所で祈願したとて氏神様その他の立派な神霊との感応がいくらでもできるのであります。要するに神社とかお厨子とかいうものは幾分ラジオのアンテナに似たもので、神様がその中に居るとか、居ないとかいう事は全然問題にならないのであります。無論私どもとしては氏神の存在を確認し、又其またその奉斎を必要とするものでありますが、奉斎の手続においても又その目的においても明道会のヤリ方には全然賛成できないというのであります。

 (二) 明道会で説く四魂具足云々につきての批判。

 明道会ではしきりに四魂具足という事を強調し、「本会は四魂具足の神祗のみを国家宗祀の神社として奉仕せしむることを期す」などと言って居ますが、その説明は徹頭徹尾独断的であるのみならず、そんな説き方では日本の古典のブチこわしにもなりそうです。岸博士の説明によれば「奇魂は敬神の傾向と神通の力、荒魂は社会奉仕の行、和魂は和合親愛の情、幸魂は利用厚世の術」とあるが、何故にしかるか一向に学術的の根拠がないので、要するに岸博士の一家言、ツマリその単なる観念遊戯と見傲みなす外はない。この分類法は丁度智仁勇、又は智情に意などの分類法と同じくただ平面的に心の作用を分析したもので、それもたしかに一つの分類法たるを失いませんが、つらつら考うるに日本の所謂四魂はドーもソーしたものではないらしい。何となれば日本の古典では一つの魂を一つの独立的存在として取扱って居るからであります。例えば日本書紀の一節――

 時に神光海を照し、忽ちに浮び来るものあり。曰く吾もし在らずんば汝何ぞ能く此国を平げんや…………この時大己貴神問いて曰く、然らば汝はこれ誰ぞ。対へて曰く吾はこれ汝の幸魂奇魂なり。大己貴神曰く、然り、すなはち知りぬ、汝はこれ吾の幸魂奇魂なることを。今何所に住まんと欲ふや。対へて曰く吾は日本国の三諸山に住まんと欲ふ…………。

 これはただ一例で、その他にも和魂をいつきまつるとか、荒魂を先鋒に使うとかいう事がチョイチョイあるのであります。これはドーあっても四魂を本質的に縦に区分するより外に説明がつきません又ソー分類する時に初めて心霊科学の分類法とピッタリ一致するのであります即ち四魂とは互に独立せる心の働でそしてそれぞれ独立せる媒体を有って居るのであります。四つの媒体とは肉体、幽体、霊体、本体の四つで、それぞれ荒魂、和魂、幸魂、奇魂の働きを分担して居るのであります。ですから生きている人間には当然四魂が具わって居るのですが、ただ肉体が跋扈ばっこし過ぎるので普通荒魂が勝ち、幸魂だの、奇魂だのは兎角下積みになり勝ちです。肉体放棄後は三魂となるのが当然であり、だんだん向上浄化するにつれて、二魂となり、一魂となり、最後の奇魂一つだけになった境涯こそ所謂神と一致した時で、それが向上の極致であります。尤も一部の心霊論者間にはプラトンの分類法に拠り、肉体バディ霊魂ソール精霊スピリットの三つに区分するものもありますが、中央の霊魂ソールというのは幽体と霊体とをひッくるめて一つに取扱った丈で内実は同様と見做みなし得ます。実地の取扱からすれば矢張り四つにけるのが最も合理的でつ便利であるようです。

 斯く考えた時に明道会の所謂四魂具足の神祗云々の如きは全然意味を為さず学術的に無価値の説かと考えられます


 明道会の主張なり、又そのヤリ方なりに就きてはまだまだ言いたい事が沢山ありますが、すでにその中心点に触れたように考えますので、しばらくここ擱筆かくひつすることにします。多忙の際措辞そじ用語がはなは蕪雑ぶざつに流れ、不用意の間にあるいは礼を失したような所もありはせぬかと懸念されますが、何卒私どもの真意の存するところを察し寛大公平な心で味読さるる事を切望にえませぬ。(六、一、三)


(三) 明道霊児とは何者か?

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明道会問題一束


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