逝く人への死の宣告

石亀 勢輔

 

神、仏、又個性をった霊魂が不滅で彼岸に生存して居るなどとは夢にも思って居なかった自分が、ある唐突とうとつの、ぬきさしならぬ体験からこれを信ぜねばならぬようになったとはいえ、霊魂研究唯一の機関である『心霊と人生』を拝見するようになってようやく一年になるかならぬかの私です、もとより御役おやくに立つ様な報告する資格も力もありません、が最近二十二歳になる長男をうしなうに際して、心を鬼にして死の宣告を与えて逝かしめたのでしたが、中西女史に依りて招霊の結果、誠に良い事をしたと思わるる事がありますので、其等それらの感想を述べさしていただいと思います。

亡児の名は精司と申しました、八月の末頃から病床にし、十月に入りてはよほどの衰弱を示しましたけれども、未だ致命的の病竃びょうそうを発見する事が出来ず、したがって周囲のものも、本人も真逆まさか不帰の人となろうとは想像をして居なかったのです、最も招霊の結果は、本人は七月頃から覚悟して居たと申しましたけれども、又間際まで生きようと思って居たと申して居ります、駄目かなあと思った事があるでしょうけれども、又治るかも知れんと思って居たのだろうと思います。

 変徴へんちょうきたしたのはく日(十月二十二日)の午前十一時頃でありました、呼吸困難を訴えるのでしたが、このうったえは数日前から時々起り一両日前からはやや激しかったのです。その頃は自分としては最早望なきものとあきらめて居り、その発作に対しては唯強心剤を与えて緩和せしむるの外途無かったのでありますが、この時の変徴へんちょうに対しても、矢張り同様にカンフルの水溶液及ヂキタミン一箇つつを皮下に注射したのですが、今迄いままでの様に緩和の効を示さないので、更にヂキタミン一箇を静脈に注射し、ようやく少しの緩和を見ましたけれども、最早もはや十分に言語を発する事が出来無い様になっていました。しばらくしてようやく『今何時ですか』と言葉を出しましたので、丁度十一時半だと返答するのに続いて私は死の宣告を与うる決心を致しました。

 が心中随分苦しみました。今日までの習慣として、いま命をおわる事が判って居ても、「大丈夫大丈夫の一点張りで、目を閉ぢさせるのが常例です。又コレガ人情です。理性からはソレデは不可とおもうても、なかなか容易でありませんでした。がついに思い切って、『事ここに至りでは死のむべからざる事、心霊の研究からえば、肉体が死しても永遠の生命は個性をって彼岸に生存して居る事、彼岸に到らば一層向上努力し、通信を送りて人生のめに尽すべき事、今は語るべき多くの時間を有せざるに至りたるが故に、来月初旬中西女史の来京の際、女史の御身体を借りて交語すべき事、安心して命を終るべき事など約三十分にわたりて説得しましたが、御存知の通り、五官の中で聴覚は最後まで最も確かなものとされて居ります。口は多くきく事は出来ませんでしたけれども、此方こちらから言い聞かした事に対する返事は、叩頭おじぎ又は手招てまねきで合図せしめた結果十分諒解したらしくいささかも悲愁ひしゅう苦悶くもんの状を示さず、最後に四周たたりの人々に握手を求め一々叩頭おじぎして、かすかに左様さようならを発語し、目を閉つると同時に心臓の鼓動が絶え、壮年者にく見る断末魔の苦悶くもんを示さず、ほとんど眠るが如くったのでした。

 越えて十一月の九日、中西女史の実験会にのぞみ、早速招霊しました。たしかに死を諒承してった積りではあれども、はたしてんな具合で現わるるか、経験の少ない自分としてはいささか懸念にえませんでしたが、幸に自分の予想を裏切らず、く臨終に際して説示された事を諒承して居り、自己の死を自覚して居ったのみならず、二日目に自分の遺骸いがいを見た事、葬儀にも列した事、友人の会葬多数にて感謝にえざりし事、遺骸の荼毘だびに附せられた事等を語り、法名で呼び出されたに拘らず、自ら。『僕精司です』と二回続けて名乗り、最先に浅野先生に向い、『先生ですか、浅野先生ですか』と呼びかけ、過般かはん御世話になった事(七月初旬中西女史の診察を受けた事あり)を謝し、更に浅野先生の問に対して霊界の状況を述べ、進んで通信を送りき旨をちんじたのでしたが、最後に弟や友人などから言葉をかけると、にわかに暗涙にむせびて言語を発するあたがわずなり、辛うじて『執着はないけれども、ソシテ言いい事は沢山あるけれども、胸がふさがりて言うあたがわず』とて交話が出来なくなりましたが十一日第二回の招霊では弟や友人を伴わず、父たる自分けでしたので、思う存分勝手な事を言い出し、修養の寸暇すんかなけれども、地上の学校生活より遥に愉快なり、第一小言を言わるる事もなく、悲しい事など一もなし、ただ日浅きゆえ通信材料いまあつまらず、せいぜい一ヶ月に一回位しか出来ざるべしなど語り、なお時々仏壇に供物は矢張り供えて貰わなくては……香はかぐんですから、など太平楽を並べて居るのでした。私は十五年前十歳の長女をうしない、今回また廿二にじゅうに歳の長男をうしないました。しかしてこの長女をうしなった時は、親としての悲嘆やる方なく、御恥おはずかしい次第ですけれども、しばらくの間は呆然として何事も手につかず、自分も一所に死んだ方がと言いたいようでした。死んだ者は再び帰らぬ、ソンナ理窟は百も承知なのだが、理窟では慰安にならず自分ながら呆れて閉口したので今度長男の死に会したあかつきはドンナ事になるだろう、又当分は仕事も何も手につかぬ状態にありはせぬかと、死ぬ前からソレガ気がかりでなりませんでした。

 ところが、今回は悲しいには悲しいが、前年に比べると其所そこに多大の慰安がありました。亡児が臨終に際し、少しの悲愁を示さず快く諒承してってくれたという事、ソレけで、吾等の悲嘆を非常に軽くしてくれました。同じ死んでも、悲嘆ひたんからホット一息つき得た様な心安さを感じ得た様でした。更に招霊にりて、彼が死を自覚して居ってくれた事、霊界に向上せんとして努力して居る事、彼が死をかなしんで居らぬ事、むしろ彼岸の生活を楽んで居る事などを聞きますと非常に悲嘆の荷が軽いような心地がするのです、二十二歳にもなった長男をうしなったのですから、もとより悲しく無い、喜ばしいなどという事は有り得べからざる事ですが、彼岸で立派に生きて居るのみならず、鋭意向上の途をたどって居ってくるるという事が分って来ますと、むしろ弱い身体を永く地上に置いて苦しむよりも、本人としては遥に遥に幸福であるかも知れぬと観じて来ると、いたずらに地上でかなしんで執着を残さしむるよりも、進んで執着を離れしめ、向上の手伝をしてやろうという気になり、したがって悲嘆を忘るるという気分になるのであります、十歳の長女をうしなった時の悲歎に対し、二十二歳の長男をうしなった悲哀は、その二分の一、三分の一の軽さだと言っては、あるいは人情に欠けた親心のように判断せらるるかは知らぬけれども、これは実際偽らざる告白であり、ソシテ自分はむしろ感謝して居るのであります。

 浅野先生そのほかに伺って見ると、ドウモ日本人の霊魂は死を自覚せざるもの多く、十人の内七人迄は死を自覚せずして眠って居る、これに反して西洋人の霊魂は十人の内七人迄は死を自覚して居るという事であります、これは恐く宗教と風俗との関係で、キリスト教法は習慣的に、死の間際には必ず牧師が来て御説教をし、天国に赴くべき様説示せつじするのでこれに依りて死の自覚けはあたえらるるのではないでしょうか、これに反して日本の習慣としては、今死ぬことが明白であっても、ソレを自覚せしむる事なく、何処までも大丈夫大丈夫の一点張りでその生を終らしむるのが常例で、したがで死んでも死なないつもりで居り、またただいたずらに眠って居るのだろうと思わるるのであります。

 人の死や悲しい、誠に悲しいに相違ありません。『お前は今死ぬのだとはドウシテも言い切れないのが其処そこであって、私自身としても、今日まではコレガ人情の自然だと思って居りました、が今回の体験、と申しては大ゲサかは知らぬけれども、今回出会した感じからいうと、今日までのやり方とは違って、しも死の間際になっても本人が自覚しなかったら、かたわらから自覚せしめてかしむるという事にいたしたらどうかと思うのであります。ソレガ今述べた様に決して悲を増すのでもなく、又与えるのでもなく、いな却って生き残る人の悲哀を軽からしめ、く人に安心と針路とを与うる事だと思われてなりません。ソレが必ずしも心霊に目覚めた人に限るのでなく、心霊を信じ無い人に対してもよい功徳になり得る事と思わるるのであります。現に私の長男にしても年の若いけ心霊を信じ切って居ったのでもなく、『有る様な無いような半信半疑でありました』と告白して居るのであります。行って見た処が如何いかにもその通りであったという程度だったのでした。


底本: 雑誌 「心霊と人生」   第7巻2号

発行: 心霊科学研究会 1930(昭和5)年2月1日

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力: いさお


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