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神霊主義の側面観

――十一月十三日大阪心霊講演会にて――

浅野 和三郎

 先月の大会において私は『伝統的日本思想と心霊研究』と題して、いささか両者の比較対照を試み、この両者の間に少しも背馳の個所がなく、しかも肝要なる諸点においことごとくピタリと合致して居ることを申上げました。この点が明白になった上は、われわれは大に安心して、ますます斯学の研鑽に全身全霊をささげて宜しい訳で、つづまる所日本国では、明治維新以来唯物思想のめにその国体を破壊されかけて居たのが、今日心霊研究が現われて日本国体の有力なる擁護に当ることになったのであると思えば宜しいのであります。われわれは今更いまさらながら自己の責任の重大なることを自覚すると同時に、

  生を日本国に享けたことの幸福

を痛感せずには居られませぬ。

 さて心霊研究の結果、ここに「神霊主義スピリチュアリズム」が発生し、これが現在七つの綱領に結晶して居ることは前に申上げた通りであります。私はこの七ヶ条が今後天下有識の士の精神的大目標となるべき性質を有って居るものと信じます。苟くもそれが天理人道に合し学術的研究の結果に合し又世界の平和万民の福祉の増進と合し何所にも一点非難の個所がない以上末来に於て全世界の思想界信仰界を風靡すべきものがこの神霊主義でなくて果して何でありましょう。基督教にも結構な個所があり、仏教も偉大なる真理を蔵して居り、儒教にも容易に棄て難き長所がありますが、「神霊主義」はそれ等のもののあらゆる短所を棄てて長所を集め、しかもそれ等のいずれもがっていない、

  学術的並に実行的威力

そなえて居るのであります。ただあの七ヶ条が最初基督教畑の欧米人士の手に起草されために、日本人には何所やら異様な感を伝えぬでもありません。これははなはだ面白くありませんから、私は今の中に成るべくあれを日本式の慣用語法に直して置きたいと考えます。むろん順序も意味も少しも変らせないで、ただ言葉丈を少し日本化したいのです。まだうまく行きませんが、ついでですから御参考までに私の草案を申上げて置きます。

  神霊主義の七大綱領

 一、われ等は一切の万有が宇宙大精神の顕現なることを信ず。

 二、われ等は四海のもの皆同胞なることを信ず。

 三、われ等は各自の個性が死後に存続することを信ず。

 四、われ等は顕幽互に往来し神人相合一することを信ず。

 五、われ等は各自報恩の責務あることを信ず。

 六、われ等は各自因果律によりて支配さるることを信ず。

 七、われ等は永遠に向上発歩の途を辿るものなることを信ず。

 ざっとう言ったものであります。私の案文に不穏当若くは不完全な点があったら御遠慮なく申上げていただきます。んな仕事は一人の力には及びません。是非ともお互に協力して成るべく完全なものに仕上げないとけないのであります。兎角日本で古来惟神の大道と呼びなれて居るところのものも、その根本まで溯って見れぼ大体んなところに帰着するかと痛感されます。各国民がそれぞれ枝葉の問題を担ぎ出して争った日には永遠に議論の一致する気づかいはありません。細かい所はそれぞれの国民内部で纒めることにし世界的には根本的大綱に於てのみ一致点を見出すべきであります。日本国民はその点に関して、

  世界各国民中有利な立場

 に在ります。何となれば右の七ヶ条中にはただの一言半句も日本の伝統的思想と衝突するものがありませんから……。

 しかしながらいかに結構な「神霊主義」だって、何の弊害も起らず脱線もせぬように、立派な活用を遂げるめには余ほどの警戒を要します。綱領は要するに綱領で、運用の妙は各人に存します。われわれはうっかりしてこれを悪用するような陋態を演じてはなりませぬ。で、本月私は転ばぬきの杖として、私自身が平生心懸けて居る所の

  三無主義

を申上げたいのであります。私の所謂三無主義は同じく神霊主義の精神を説かんとするものでありますが、ただ前記の七ヶ条が正面からその要綱を道破して居るのに反し、これは側面からわれわれの厳守すべき心得を説かんとしたもので、其所そこに積極と消極、肯定と否定との相違があります。これが幾分たりとも皆様の御参考になったら望外の歓であります。

 さてしからばその三無主義とは何かと申しますと、

 一、本尊がないこと

 二、終点がないこと。

 三、秘伝がないこと。

であります。無論これ丈では何やら意義不明の点が多いと思われますから、これから順々に簡単な説明を加えて行くことに致しましょう。

 第一の本尊のないこと――これを他の言葉で言い現わすならば、つまり一切の宗教、宗派、又は学説等に超越すということであります。「神霊主義が今後に於て生命があるか将た無いかは先ずこの一事でほぼ相場が決ると言ってよいと思います。そもそも吾等の居住する、又認識する相対の世界、動の世界は陰陽二元の交渉から出発します。陰は陽でなく、陽は陰でない。動あればかならず静あり、進あればかならず退あり、常に相関的存在を必要とします。従って陰を本尊とすることもできなければ又陽のみを偏重することもできません。すでに斯く万有のイの一番の出発点に於て何等の本尊もないのにうしてその末の方に本尊が出来ましょう? 阿弥陀さまだって、エホバだって、釈迦だって、イエスだって、世界人類の唯一本尊たるべき資格が何所に存在しましょう? それ等が多くの優れたるものの一というのなら承認されますが、たった一つを持ちあげることは禁物で、それはその人のみに通用する勝手な独断であり、自分免許であります。われわれは断じてそうした金箔附の偏見に陥ってはならないのであります。この点において日本古神道の

  八百万神の思想

は正に天下一品であります。八百万の神々がそれぞれの職責分担を厳守し、秩序整々として秋毫しゅうごうも犯すところなきは、正に「神霊主義」の神髄と言っていでしょう。

 が、んなことは理窟の上ではチャンと判って居りながらイザ実行となると情実にとらわれたり、利害に眼がくらんだりするから全く油断はなりません。現にそうした一適例が昨今英国神霊主義者間に起って居ります。外ではない、それは神霊主義の七大綱領のほかにもう一ヶ条加えて

  ナザレのイエスを神霊主義者の本尊と認めたい

というので、この案の提出者は例のコナン・ドイル氏なのであります。私は日頃同氏の人格力量を敬重する一人でありますが、右の意見のみには到底賛意を表し兼ねます無論同氏の意見は一般の所謂いわゆるキリスト信者よりは遥かに進んで居ます。普通のキリスト信者はイエスを特に神の子と崇め、不染妊娠イマキュレエト コンセプションで生れた、まるで別誂べつあつらいの人間であるかの如く取扱いたがります。若しイエスが普通の人間でなく、そうした一種のバケモノであるなら、無論そんなものは人間の亀鑑かがみにはなりません。丁度ちょうど瓜の種子が唐瓜の種子の標本とするに足りないと同様であります。さすがにドイル氏はその種の迷信気分からは脱却し、イエスを人間中の最大傑物、つまり第一の理想的人物として取扱おうというのですが、しかしそれでも矢張り無理ができます。そんな事は単なる一家言に過ぎません。単なる一家言を天地の大道、宇宙の真理と同格に認めようとしたってそれは到底駄目です。いかにナザレのイエスが偉くても、要するにただの人間である以上、其所そこに長所と短所との存在することは免れません。例えば理想を追う者は自から実際にうとく、天国にあこがるる者は自から現世に遠ざかるの類で、これが

  相対世界の動かし難き規則

だから致方いたしかたがない。イエスにも明にそう言った傾向がありました。彼の所謂いわゆる「天国は近けり」のごとき、理想としては真実であり得ますが、現実としては果敢はかなき一片の空夢であります。

 果せる哉ドイル氏の動議に対して反対論者が四方に蔟出ぞくしゅつしました。御参考までに、有力なる反対説の一つを紹介しましょう。それはビーバースルイス氏の意見であります。――

「私の反対理由は四つに分れる。第一の理由は基督教と神霊主義とが全然その出発点を異にして居る事である。基督教はナザレのイエスの生涯を骨子とし、彼を神の独り子と認めるのである。これに反して神霊主義は一般的幽明交通、霊界通信を基本とし科学的に成立したものである。即ち神霊主義と基督教とは互に無関係に存在し得るのである。第二の理由は神霊主義がすべての宗教、すべての国民に対して一視同仁的態度を執ることである。基督教でも、回々教でも、猶太人でも、印度人でも、清教徒でも、旧教徒でも、そんなことに少しも頓着しないのが神霊主義である。故に若し今日神霊主義の綱領中にナザレのイエスを師父と仰ぐ旨を挿入すれば、その必然の結果として猶太教徒、回々教徒、印度教徒、仏教徒等を除外することになる。第三の理由はイエスの経歴がはなはだ不明で、間断なく議論の種子となることである。福音書中の彼の物語ははたして事実譚かそれとも空想か? イエスははたして生きた人物だったのか、それとも単なる理想の人格化か? ただの人間なのか、それとも一の神人か?――そうした議論は引っきりなしに起って来る。んな厄介な問題を何の必要ありて神霊主義の綱領の中に加うべきであるか? 第四の理由は既成の七ヶ条が過不及なく神霊論者の信念を言い現わして十分だと思わるるからである。イエスの教などはあの中の第一条と第二条の中にすっかり包含されて居る。しかも神霊主義の綱領は霊界の啓示其他そのほかを基礎として学問的に組織されたものであるが、イエスに関する基督教徒の信仰なるものは到底これを科学的に証明し難く、単なる信仰の問題である。右のような次第で、吾人はドイル氏の提論に向って同情はするが、これを第八ヶ条として採録することには不賛成である……」

 私も大体右の意見に賛成でありますが、皆様とても恐らく御同感かと存じます。要するに神霊主義は、ある一人を本尊と祭りあぐることは大々的禁物なので、若しそんな真似まねをすれば、その瞬間から神聖なる神霊主義ではなくなり、そしてそうした謬説の当然辿るべき紋切型の道筋――つまり争論、疑惑、排他、瓦解、破滅の運命を辿るのであります。

 欧米人士がナザレのイエスに対して陥り易き誤謬は、やがて東洋人が

  印度の釈迦支那の孔老等に対して陥り易き誤謬

であります。就中仏教信者中に見苦しき釈尊崇拝がある。前記の論者がイエス本尊説に就きて述べた苦言はほとんどそのままこれを移して釈迦本尊説に適用し得るのであります。われわれが釈迦の高邁なる思索を尊重するはよい。しかし真理は釈迦以上に尊重せねばならぬ。同時に古の経典がいかに優れて居ても、活きた事実、活きた実験の前には顔色がありません。爰に在来の宗教宗派と活きた神霊主義との間の大相違点が存在します

 すでに世界開闢以来の大賢聖者さえもが、これを本尊として認めてはならぬという以上、それ以下の人物が本尊面をぶらさげることのいかに不合理であるかは押して知るべきでありましょう。ところが広く現世界を見渡しますと、性懲りもなくそうした誤謬を繰り返して居るものが、相当多数に上るのだからいささか呆れざるを得ません。ここで不思議なことは古来世界の大聖者中、ナザレのイエスの経歴が特に似而非えせひ野心家を発生せしむる原動力となって居ることである。イエスの再生復活ということは、単なる一の心霊現象……つまり物質化現象に過ぎないのですが、はしなくもそれが神秘的な別の意味に解釈せられました。即ち世界が大行詰の頂上に達した時に第二の救世主が出現して万民を塗炭の中から救い上げるのである、と言ったような途方もない意味にコジツケられたのであります。これが取りも直さず昔から首をもたぐる

  基督再臨説の正体

であります。実に莫迦々々しい迷信でありますが、これが不幸にも多くの野心家、似而非えせひ予言者醸造の不健全なる醗酵素となり、時々人騒がせを演ずるのは何とも嘆かわしい次第であります。イエスの霊魂はさぞ他界で片腹痛く感じ誠に困ったものだと歎息して居ることでありましょう。

 今の世の中で再臨のキリストとして信者仲間の喝仰の標的まととなって居るのはセオソフィの畑に生れたクリシナムルティと称する青年であります。彼は相当立派な学歴をち、又霊的天分にも富んで居り、十三才にして既に天啓的名著を出して居りますから、たしかに余ほどの傑物には相違ないと思われますが、しかしこれを本尊として担ぎ上げる所にその一派の末路が予測されます。たった一人を本尊として盲従これ事とする所に何の進歩何の生命がありましょう。若しその本尊が死んだら、その瞬間に

  一切の希望、目的、その他すべて

がシャボン玉のように消散します。世の中に何があぶないと言って、んな危っかしい軽業が何所どこにありましょう! そばで見てさえ冷々します。

 セオソフィの規模をモ少し小さくし、この品位をモ少し低級にし、世間知らずの少数者の入るべき特殊部落を組織して歓んで居るのは現在の綾部の大本教であります。彼等の最初の目標はいつしかあらぬ方面に吹き飛んでしまい、出口王仁を再臨の基督と号し、他の一切の研究にも学問にも全く眼を瞑りて千篇一律の囈語たわごとばかり倦きもせず繰り返して居ります。開祖時代の大本教には相当買ってやらねばならぬ真剣味がありましたが現在の大本教に至っては腐った日本の社会が生める亡者の掃溜という以外に殆んど何の取柄もありませぬ

 これを要するに神霊主義には第一の要件として本尊のないことを認めるのでありますから、お互に夢寐の間にもこの原則を見失わぬよう注意し合うことに致しましょう。たった一人の本尊などを看板に担ぐことなく、あくまで公平な学術的の態度で各人の長所を採り、短所を棄て、互に一致協力して一歩一歩にシッカリした発達を遂ぐることに努力する………。これは何事を行うに当りても成功の秘訣と考えますが、思想信仰上の問題においても決してその選に漏れないことと信じます。

 三無主義の第二条は終点がないこと、というのですが、これは当然第一条と連係して居るのであります。本尊をえつけると、兎角その本尊が一切の終点となりたがります。孔子を本尊とする儒教に孔子以上の大人物なく釈迦を本尊とする仏教に釈迦をしのぐ覚者が出ないのを見ても判りましょう。して見ると本尊というものはたしかに進歩の妨害物であります。人類間からこの陋習を掃蕩したのが、つまり近代学問のやり方で、学問の畑にはまるきり本尊がない。従って際限なく進歩する。ニュートンは近世学問界の偉材であるが、しかし本尊ではなかった。ニュートンの学説に誤謬又は不完全の個所を否見すれば誰でも構わず、何の遠慮会釈もなくこれが修正補充を試みる。何所まで行ってもこれで完全無欠ということがない。ちょっと考えると、うしたやり方はいかにも心細いようであり、同時に又いかにも辛気くさいようでありますが、退いて考うれば、これが取りも直さず

  差別世界の相

であるから何とも致方いたしかたがないのであります。差別世界ではこの際限がない所、流転窮りなき所に生命の萌芽が発生し、希望の光が放射します。

 近代の心霊研究は御承知の通り、その開始以来前後約八十年にわたり、その間においれ丈多数の人々が、いずれほど多種多様の実験を重ねたか知れません。しかし霊界の分野はこれを窮むれば窮むるほど奥が深く、何所まで行っても際限がないのであります。程よき所で止めたいにも止める訳に行かないのであります。私などは心霊問題に手を染めてから僅に十幾年かにしかなりません。従って霊界の事は判らぬことばかりであります。これが楽しみであります。私は今後優れた霊媒、優れた心霊事実が見つかり次第、際限なく皆様に提供する決心で居りますから、皆様の方でも何卒際限なく研究の歩を進めて戴きたい。「霊媒の紹介はモーこれで沢山だ………」などと仰っしゃってはけません。そういう世迷言が出る時は、つまり皆様が精神的に生命を失った時であります。

 ぎに三無主義の第三条は、絶対に秘伝がない、というのですが、これが又神霊主義者に取りて、非常に大切な座右銘であります。伝授料を捲き上げて何かの術を伝授する……。およそ世の中にこれほど世渡上手な、しかし同時に又これほど卑しいやり方が何所にありましょう! しかるにうした陋習ろうしゅうが世の所謂いわゆる霊術者間に行われて居るのですから驚き呆るるほかありません。彼等はよく口癖のように、物質科学者を罵り、自分達はずっと一段も二段も高い人格者のような顔をしたがります。が、考えて見るに、何所に

  伝授料をマキあげるほど堕落した学者

がありますか? 無論何人も労力に対する正当な報酬はこれを受けて差支さしつかえない。私がけないというのは無法な報酬の事であります。

 私の知れる仏教の僧侶に某寺の住職があります。先年ある薬草を秘密に栽培し、それを原価の約十倍位に売って居ましたが、その言い草が振って居ました。「私は人助けのめにこの薬草を売っている……。あなた方も成るべくこれを諸方に宣伝してください。人助けになります……」私はそれをきいて唖然として口が塞がらなかった――が、右の住職の商略(?)はホンの一二年で失敗しました。彼が秘密に栽培した薬草の話がいつしか世間に漏れ、その真似をするものがゾロゾロ現われましたので、薬草の市価は急転直下的に下落してしまったからであります。

 丁度右の坊さんの薬草栽培に酷似した実例が、霊術界にもあります。ある霊術家が私の所へ来て、しきりに宣伝を依みますので、私は早速その霊術家に向い、一二度その方面に興味を有する人達の前で

  無料実験

を勧告しました。するとその人は顔色をかえて「そんな真似をしたら私の術が盗まれてしまいます」と言いました。私は覚えず失笑して、「一度や二度の公開で盗まれる位の霊術なら、いつそあっさりと、初めから盗ませてやったらいかがです?」と言ってやりました。

 伝授したいにも伝授し得ないので困るのが真正の術であり、真正の芸であり、又真正の学問であると私は考えます。摂津大椽の浄瑠璃をきいた聴衆は無数であるが、摂津大椽はたった一人しか居ない。橋本雅邦の画は年々展覧会に出品されたが、橋本雅邦は二人はなかった。要するに真正の秘伝は他から盗み得ないからそれで初めて秘伝なのであると信じます。世間でいう所謂秘伝は実は秘伝でも何でもない。

 以上神霊主義を横から眺めた三無主義――私はこれを以て平生の指針として居るものでありますが、若し私の説く所に間違がありましたら遠慮なしにそう云って戴きます。至極大切な問題と信じますので、虚心坦懐に、腑に落ちる所まで論じつくして見たいと考えます。

――(二、十一、十二)――


底本: 雑誌 「心霊と人生」 第五巻第一号

発行: 1927(昭和3)年1月1日 心霊科学研究会

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準拠して、底本の旧字表記をあらためました。

※ 入力:いさお      2009年2月15日

※ 公開:新かな版    2009年2月15日


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