心霊図書館雑誌総合案内> 「心霊と人生・第四巻

伝統的日本思想と心霊研究

――十月十七日大阪心霊研究秋季大会において講演――

浅野 和三郎

 今更いまさら事新らしく申上げるまでもなく日本国には古来伝統の日本思想があります。同時に心霊研究には学問的に一分一厘枉げられない何ヶ条かの主張があります。で、この両者の間にどんな関係が存在するか、今の内に充分の考察を遂げて置くことが

    焦眉の急務

だと私は痛感するものであります。何となれば両者とも頗る骨ッぽいもので、いい加減の情実や御都合で苟合こうごう妥協することは絶対に不可能であり、従って若しも両者の間に根本的に相容れざる個所でもあった日には他日恐ろしい結果を生むことになるからであります。前者は日本国民の精神骨髄にしみ込んだもので牢乎として根抵が深いても焼いてもめッたに滅亡する訳のものでない同時に又心霊研究というものも最近八十年にわた俗論と闘い権力と闘い慾得離れて研究に研究を重ねた揚句血と涙で一歩一歩に築き上げた学問でありますから学術的に根拠のある反対事実を提げて来て之に向う以外に一分一厘之を憾がす力はありません殊に研究も調査もしたことのない軽薄者流若くは偏狭者流が多数を依み俗論に媚び鉦や大鼓で囃し立てて見たところで何の効能のあるものでない事は明かでありますつまり日本思想が不動の大磐石なら心霊研究は百錬の鉄鎚――この二つのものが正面衝突をしたならそれこそ大変です烈々として天を焦がすような火花が散らすには済みますまい両者の関係は一時も早く今の中に充分の調査を遂げて置くことです

 つらつら考うるに、日本思想の中心骨髄は、これを一言にして尽せば、

   敬神崇祖

の一語に帰着するようであります。これが出発点となって日本の建国も、忠君愛国も、義勇奉公も、何も彼も出来上って居るのであります。敬神崇祖をヌキにした時に日本の建国もなければ、その他の何物もない。つまり地上から日本国並に日本国民は消滅し去るのであります。

 勿論むろん長い年月の間にはこの日本の根本思想に向って多少の衝突を試みたものが絶無ではありません。儒教でも仏教でも但しは基督教でもそのままでは何所どこかに少しづつ日本思想と喰い違った個所があります。喰い違った個所があるから印度は印度らしい歴史をち、支那は支那らしい歴史をち、又猶太ユダヤ猶太ユダヤらしい歴史を有って居るのであります。日本国が此等の諸国とまるきり異った歴史を有って居るのはつまり日本思想が一個独立せる存在であることを物語るものでなくて何でありましょう

 日本思想は何所まで行っても日本思想で、従来輸入された一切の外教のめにその根抵を動かさるることはなかったのであります。

 ところがこの大磐石の日本思想も、最近に輸入された唯物思想のめにはほとんど

   土崩瓦解の運命

を辿らんとしました。従来日本思想に衝突を試みた一切の思想の中で恐らくこいつが一番の豪の者でした。第一唯物思想なるものは無神無霊魂を以てその生命とするので、敬神崇祖を生命とする所の日本思想と全般的の正面衝突をる。加之しかのみならず唯物思想は最新の科学を背景とし一の学説としての仮面を被って居るから、伝統的主観的基礎しか有たぬ日本思想はこれに向って対抗の途がない。丁度弓矢を以て速射砲や機関銃に対抗するような悲運に陥ったのであります。これではいかに有力な日本思想でも大刀打ち不可能であります。

 元来思想を破るには思想を以てし、学問を破るには学問を以てする――これは千古動かすべからざる原則であります。日本思想がいかに立派な思想であっても、それが単なる思想として残る間は到底学説としての唯物説を打破することはきません。「敬神などと言ったところでさッぱり駄目だ。神だの霊魂だのというものの存在は学問的に否定されて居る……。」そう一蹴されてしまいます。二の句がつげません。果せる哉唯物思想の横行跋扈ばっこは実に深刻を極め、万遍なく日本国の上下に行きわたりました。われわれとても一時は立派な不可知論者として去就に迷ったのであります。

 このままで今後半世紀も続いた日にはいかな日本思想でもついには滅びない訳には行きません。一たん日本思想が滅びたとなればその必然の結果として日本国は滅びます。亡国としての日本国は残っても、組織されたる日本国体、統一されたる日本国民は地上から影を絶ちます。若しも敬神崇祖を中心観念とせる日本思想がはたして単なる迷信の所産であり、学問的に到底成立し得ない思想であるのなら、そうした運命を辿ることも致し方がないことか知れませんが、問題はそこです。日本思想の根本観念ははたして学問的に到底成立し得ないものであるか?

   此の重大なる問題の科学的解決の責務

 を帯びて出現したのが実に近代の心霊研究なのでありますが、今日において公平に観察しますと、心霊研究は完全に唯物説の根抵を覆し日本固有の敬神崇祖の観念に新たなる意義新たなる生命を与える結果になりました。唯物説という藪医者の手にかかって一時生命危篤を報ぜられた伝統的日本思想は、心霊研究という押しも押されもせぬ名医の看護を受けてここに大々的若返り法を行いつつあるのであります。

 兎に角根本観念において日本の伝統的思想と近代の心霊研究とが

   固い固い握手を行った

ということははなはだ愉快な現象で、日本思想は心霊研究を得てますますその威力を発揮し、又心霊研究は日本思想によりていよいよ光彩を添えることになるのでありましょう。――が、これ丈ではホンの概説に過ぎて不徹底であります。私はモすこし突込んで日本思想と心霊研究との内容に立ち入り、比較研究を遂げて見たいと考えます。

 さてしからば近代の心霊研究は結局いかなる結論に到着したかといいますと、枝葉の点に就きてはまだまだ大部議論がありますが、肝要な主張に関してはすべての研究者が皆一致して居るのであります。所謂いわゆるスピリチュアリズムの七大綱領――これは十九世紀末に制定発表されたものでありますが、爾来じらい三十余年の研鑽討究を経てますますその真価が認められ、世界の有識階級は次第次第にその傘下に集まりつつある現状にあります。中にはまだ え切れないことを言って居る学究輩もあるにはあるが、しかしさすがにかの浅薄不徹底なる唯物説を真向から振りかざして呼号するものはそろそろ人間界に品切れになりかけました。大衆文芸界の最近の風潮を観ても思い半ばに過ぐるものがありましょう。いかに妖怪譚とか因果物語とか言った種類のものが巾をきかして居るでしょう。これは西洋でも日本でもほぼ同様があります。無論それ等の多くは低級不穿鑿ふせんさくなシロモノで、われわれの理想を距ることはなはだ遠いが、しかしそれでも唯物思想の衰頽を物語る一資料ではあります。

 てスピリチュアリズムの七大綱領といえば(一)神父の共同、(二)人類の同胞、(三)永遠の生命、(四)霊の交通と天使の守護、(五)個々の責務、(六)永遠の因果関係、(七)永遠の進歩向上、――以上であります。私はこれから一ヶ条づつを抜き出して、それを日本思想と比較対照して見たいと存じます。第一条の

    神父の共同 The Fatherhood of God.

これは文句がいかにもバタ臭く出来て居るので一寸耳触りですが、これは僻見をすてて善意に解釈しなければけません。西洋には西洋の慣用語法があり、印度には印度式、日本には日本式があります。昔はそんな誤解から詰らぬ感情の争いなどをして居たものですが、そうした幼稚な争は廿世紀の世の中には通用しません。右の文句をもッと通俗的に言い直しますと、つまり人類はもとより有形無形の一切万有は大我的一元魂の顕現である、という意味でありましょう。この思想は仏教にも、儒教にも道教にもことごとく通有のものであり、近年長足の進歩を遂げた物質科学の方でも正当な推理の結果同様にこれを認めることになりました。日本思想とても勿論むろんその選に漏れません。即ち日本古典の天之御中主神――その名称から観ても大概察せらるる通りこれが即ち大我的一元魂であり、無限絶対の大実在であります。これが即ち基督教徒のゴッドであり、儒教の天であり、仏教の仏であります。即ちスピリチュアリズムの綱領の第一ヶ条は移して以て日本思想の第一ヶ条と見做しても毫も差支ないのであります。日本人が、超物質界の優れたる居住者を指してことごとこれを神と呼ぶので、日本を単なる多神教視するは余りに不穿鑿ふせんさくであります。そうした場合に神という文字を避けて天使エンゼルという文字を用いればそれで万事が解決してしまいます。ぎにスピリチュアリズムの第二条は

    人類の同胞 The Brotherhood of Man

というのですが、第一条が認めらるれば、第二条はその当然の帰決として直ちに認めらるべき性質のものであります。何となれば宇宙の万有が大我的一元魂の顕現である以上、すべてが同一原則に司配しはいさるべきは自明の理で、従ってもッと嚴密に言ったら独り世界の人類が同胞的関係に在るばかりでなく、禽獣、虫魚、草木に至るまで皆広義の同胞的関係にあるのであります。仏教などもその点において非常に徹底した教を立てて居ますが、日本思想とても決してこれに劣りません。古事記を繙いて御覧になるとよく判ります。神々は国を生み、島を生み、山川草木五穀等を生んで居ることが書かれてあります。そして現に日本では山の霊、川の霊、木の霊などを神として祀ってあります。薄ッツペらな物質科学者達はこれを嘲笑の材料に供して居りますがそれが迷信であるか正信であるかを決するのは心霊科学者の任務で、彼等の容啄すべき限りではないのであります。イヤこれは別問題に属しますが、兎に角人類の同胞ということは日本思想の極力主張する所であり実際叉その実現に努めつつあるのであります。「四方の国皆同胞と思う世になど波風の立ちさわぐらん。」明治大帝の御製がいかばかり海外の識者の心胸に徹したかは万人周知の事実であります。日本国の理想はあくまでも王道の普及であって、覇道の樹立ではないのであります。

  ぎにスピリチュアリズムの第三条は

    永遠の生命 Continuous Existence

というのであります。これは唯物説を正面の敵としてドシンと打ッつかった痛快な大鉄案で、非常に大切な一ヶ条であります。むろんいずれの宗教でも教理としてこれを主張しないものはなく、伝統的の日本思想とても同様であります。が、唯物論者からその証拠物件を請求された時にいずれも眼を白黒しろくろする丈でその答弁にはほとほと困ったのであります。古経典には永遠の生命を証するに足る、立派な記事が沢山あります。民間信仰も一般にその事実を認めます。が、活きた、確かな事実の持ち合わせが一つもない。そこで、苦しまぎれに永遠の生命とはその人の血統が子孫に伝わることを指すのであるの、又は、その人の記憶が後世に残ることを意味するのであるのと、当座しのぎのコジツケ説を捏造して唯物論者の鼻息を窺いました。莫迦莫迦しいとも片腹痛いとも、全く以てお話になりません。しかるに心霊研究の方ではあくまで科学的実験実証を以てこの問題の解決に当り、とうとう死後の世界、超現象の霊魂世界の存在を実証することに成功しました。本日は時間に制限があるのでその細説に立ち入る余祐がありません。又さしてその必要もないでしょう。実験から入っても又理論から進んでも、いかに死後の世界の存在、永遠の生命の存続という事が確乎不動の真理であるかはこの数年来私どもが間断なく皆様と共に討究に討究を重ねつつある事柄です。私の目下執筆しつつある「心霊講座」―――頗る簡単なものではあるが、あれ一つを御覧になった丈でも恐らく大概の見当はつくかと存じます。お今日では、単に永遠の生命という事実が判明して居るばかりでなく、更に一歩を進めて、霊界の内容装置、裏面の真相を窺うことも可能になりました。私は来年あたりからボツボツそちらの方面に微力の限りを捧げたいと考えますが、喋り出したついでに一言「死」に関する簡単な説明を試みて置きましょう。大体において述べると、活きて居る人間はスピリットソールボディとの三要素から成立し、そして霊にも魂にも肉にもそれぞれの体、換言すればそれぞれの活動機関が備わって居ります。私は便宜のめにこれを「霊体」「魂体」「肉体」と命名しようかと考えて居ります。右の中物質的に有形なのは肉体のみで、他の二つは物質的に無形なものですから、鼻元思案で動く人達からその存在を否定され勝ちですが、これは取るに足りません。捕えるに道を以てすればかならずしも捕捉し難きものではありません。ところで所謂「死」という現象ですが、これは肉体という機関が弱った結果、霊体並に魂体から置いてけぼりを喰わされる現象にほかならずであります。即ち今迄の三国同盟が二国同盟に変るのであります。地上に残された肉体はもちろん間もなく崩壊してしまいますが霊体と魂体とはお協同関係を続けて、物質界よりはずっと構成分子の微細なる世界、心霊家の所謂いわゆる幽界アストラルプレーンに残り、其所そこで幽界相当の任務に服します。幽界の状況は近年霊媒を用いて幽界通信を受け取ることによりて次第次第に判明して参りましたが、無論まだ十分という所までは進んで居ません。これまでの人類は地球上の辺境、例えば南北極の探撿たんけんなどに全力を挙げて居ましたが、これもどうやら品切れになりかけましたので、今後の探撿たんけんは次第に幽界の方に移るのが順序でしょう。一と口に幽界などと言ったところで、ほとんど際限もないほど広大な世界ですから、当分探撿たんけん材料の不足を憂える必要はなかりそうです。

 右の幽界生活にももとより際限があります。人間一度死んだからと言ってそれで安心はできません。更に第二の死があります。換言すれば「霊体」と「魂体」とがやがて又分離作用を行い、「霊体」から置いてけぼりを喰った「魂体」は往年の「肉体」同様崩壊してしまい、後に残った「霊体」は幽界よりもずッと構成分子の微細霊妙なる世界、心霊家の所謂いわゆる霊界スピリット プレェーンに進んで其所そこで霊界相当の任務に服するのであります。即ち今までの二国同盟が破れて一個の独立国が出現する訳で、この世界の状況もまた霊媒を用いて通信を受取ることによって次第次第に判明してまいりました。が、霊界となりますと物質的現象世界との懸隔が一屑大きい丈それ丈なかなか見当が取り難くて困ります。幽界まではまだ余ほど物質臭い所があるが、霊界にはそれがない。之を一言にしてつくせば霊界にありては思想即形態形態即思想思想と形態との間に殆んど区別がつかないようです。ですから外面如菩薩、内心如夜叉などということは主としてゴマカシのく物質世界又は幽界での話で、霊界では菩薩は菩薩、夜叉は夜叉と、形の上でも立派に正札が附いて居るらしいのです。これではうそやお上手じょうずはできません。従って霊界の居住者はイヤでも道義的に秡い浄められ、不知不識向上の途を辿るよりほか致方いたしかたがない訳で、昔の宗教家の所謂いわゆる言心行の一致というような事も、そんな辺から割り出されたものでしょう。兎に角今日の心霊家の唱える永遠の生命ということは斯うした意味で唱えるもので物質かぶれのした論者の所謂血統の伝達や記憶の残存の意味ではないのであります。日本の伝統的思想が全然これと符節を合するはここに細説の必要もないほどあきらかな事実で、唯物思想によりて危機に瀕した日本国は、心霊研究によりて初めて復活の曙光を認め得たと称して決して過言でないと信じます。

 ぎに第四条は

   霊の交通と天使の守護 Communion of Spirits and Ministry of Angels

であります。この一条もまた前条に劣らぬ重要無比の項目ですが、不相変あいかわらず文字の用法が西洋式なので、うッかりすると真意義を取り損って水掛論をり兼ねないと思います。

 ず霊の交通から述べます。すでにしばしば述べた通り、近代の心霊研究の楔子は人間中の極端なる敏感者霊媒という一の活きた機械を捕えて、昔のようにこれを偶像視又は活神視することなく、あくまで着実に、あくまで学問的に取扱った点に存じます。霊媒の種類性質はいろいろありますが、大別して二つに分れます。即ち物理的心霊現象の製出せいしゅつに堪能なる霊媒と、主観的心通現象の実行に堪能なる霊媒とであります。前者は卓子浮揚、霊の物質化、直接談話、心霊写真等の諸現象、後者は思想伝達、霊言、霊視、霊聴、自動書記等の諸現象でありますが、両者の間に直接間接の差こそあれ、いずれも交霊説を肯定する所の有力なる資料でないものはありません。心理学者の唱える潜在意識説、暗示説、人格分裂説等皆部分的の真理を有って居り、従ってある特殊の変態現象を浅く説明することはできますが、しかしドウしても交霊説を以て臨まなければ二進にっち三進さっもも行かない心霊現象が踵を接して続出するのであります。その事実は皆様が先刻御承知の通りであり加之しかのみならず今日では交霊に関する内面の装置までがる程度判明して居るのであります。今更いまさらその真理を揉み消そうとしたところで余りに時代遅れです。

 しからばこれに関する日本の伝統的思想は如何というに、この事はほとんど日本国民の生命であり、理想であり又希望であると称して宜しい。「神のまにまに」 「神かけて」、「神に祈願する」、「天祐と神助とにより」、「神罰が当る」、「祖先の霊に申訳がない」、「伊勢まいり」。「産土まいり」、「お百度を踏む」。「神さまの申し子」、「神託を受ける」、「夢のお告げ………」此等これらは日本人の常 套語であります。又日本歴史を繙けば、天照皇太神の下し玉える建国の御詔勅、神武天皇その他歴代の天皇の行われた数々の神事、三韓征伐に際しての神功皇后の神懸り、宇佐八幡の神託、伊勢の神風………此等これらは実に日本歴史の中堅を構成する重要事項であります。して見ると日本国では古来顕幽交通をばほとんど自明の理として取扱い、これむかって何等疑議を挿さまなかったことがはなはだ明瞭であります。日本人が無神無霊魂を唱え出したのはホンの明治から大正にかけての一時的変態現象に過ぎません。これも格別深い研究の結果そう考えたのでも何でもなく、西洋の物質文物に眩惑してうッかり雷同したというのに過ぎません。実に下らない話であります。

 ぎに出て来る「天使の守護」――この文句がいかにも耳触りに感ぜられますが、事情をしらべて見れば何でもない事です。基督教を信ずる欧米人が「神」という言葉をたッた一つに限って使用することは前にも申した通りであります。即ち彼等の所謂いわゆる「神」とは宇宙独一真神、無限絶対の大実在、日本の所謂いわゆる天之御中主神のみを指すのであります。その他に対しては「天使エンゼル」又は「悪魔ディウル」の名称を用います。単にそれッきりの話です。ですから欧米流にいえば日本古典の高皇産霊神たかみむすびのかみも、神皇産霊神かんみむずびのかみも、伊邪那岐命いざなぎのみことも、伊邪那美命いざなみのみことも、その他の神々も皆天使であります。恐れ多くも 天照皇大御神とても天使中の大天使なのであります。神といい天使というも単なる用語の相違にとどまり、意義さえ通せば何も争う必要はない訳です。一部の基督教徒がナザレのイエスを尊重のあまり特別に「神の子」などと呼ぶこそ可笑おかしなもので、んなのが贔屓の引き倒しであります。「神」が宇宙独一真神なら宇宙間の万有の何者が神の子でないものがありましょう。悪魔だッても消極的の仕事に使用さるる神の子であると言わねばなりますまい。

 それは兎に角、近代心霊研究は霊媒を機関として無数の実験を重ねた結果、各人にはそれぞれ守護の天使が附いて居ることを認めねばならぬことになりました。心霊現象の中でその内容が一番深みのあるのは自動書記であると思いますが、いやしくも気のきいた自動書記で一として霊媒の守護霊の産物でないものはありません。時とすれば単に個人の守護霊のみならず、しばしば社会又は社稷しゃしょくを守護する天使からの通信であると認めらるるものもあります。ステーントン・モーゼスの「スピリット・ティーチングス」のごときはたしかにそうした傾向を有っています。ただ霊界の事は奥へ進めば進むにつれていよいよ幽玄微妙を極め、高級の天使を捕えて人間の学問の俎上にのぼせることが至難とせられます。心霊研究が今后どこまで此方こちら面に向って探討たんとうの歩を進め得るかは誠に興味ある問題たるを失いません。

 飜って日本の方をしらべますと、この点に関して日本思想と心霊研究とは全然同一方向に向って居りますが、ただ日本思想の方が遥かに奥深く進んで居ります。日本では守護の天使の職責 分担が整然と幾通りにも分れて居ります。即ち――

(一)個々の守護神

(二)家族、郷土の守護神(氏神、産土神)

(三)国々の守護神(一の宮、国魂神)

(四)国家皇室の大守護神(伊勢の大廟)

(五)社会民衆の守護神(明神、八幡、天神、金毘羅、観音、稻荷、不動、水天宮、弁天等)

(六)幽界の守護神(出雲大社)

等であります。これは単なる口頭又は書物の上の信仰でなく、日本国民の日常生活に喰い込んで居る生きた信仰である。イヤ信仰でなくて実行である。日本からこの思想を除り去ると同時に日本国がくなり、又日本人が亡くなります。私は日本の思想の堅実性は主としてこの点に存するものと信じます。ここに規則が生れ、組織が生れ、真正の統一が生れるのであります。

 一体宇宙の万有はことごとく規律と組織と統一とを以て成立します。どんな微細なものでも、又どんな偉大なものでもことごとく一貫不動の天律によりて司配しはいされます。人生とても同様であります。しかるに人間は兎もすれば目前の利害得失、又は個々の嗜好感情に司配しはいせられ、たッた一つの偏狭な主義主張に捕えらるる傾向があります。曰く個人主義、家族主義、社会主義、国家主義、共産主義、平等主義、芸術至上主義、恋愛至上主義………。実に賑かなことです。が、深く考えて見ると、何故なぜそう一方にのみ偏しなければならんのか、さッぱり訳が判りません。どれも皆大切であるが、しかしただ一つ丈では決して充分でないからであります。人間社会の単位は個人であるから個性の完成は人間としてイの一番の仕事であるに異存はない。が、人間は決して単独で生活し得るものでなく、個人が集まりて家族が出来る。家族が集まりて郷土が出来る。郷土が集まりて国々が出来る。国々が集まりて国家が組織され、同時に社会が組織される。う交通便利な世の中となりては必然的に国際的関係が生れ、又世界同胞的関係が生れて来る。丁度電子が集まりて原子を作り、原子が集まりて分子を作り、分子が集まりて元素を作り、細胞を作り、最後に四肢百体を構成するのと何の相違もない。すでにすべての物が斯の筆法で成立して居る以上何も一つの主義に拘泥して事々に青筋を立てて相争うにも及ぶまいと思考されます。

 兎に角日本思想が神々の職責分担を明示して居ることは甚だ意義深き事で、それが人間の世界に反映して爰に世界に優秀なる日本の国家社会組織が出現して居るのであるかと思考されます。つまり渾然として統一され、決して一方に偏しないのが日本思想の特色であり、しかしてその思想の出発点は日本の霊界の優れたる組織の上に存するかと考えらるるのであります。今の所で欧米の霊界の組織を批判することはやや早計に失する嫌いがありますが、ドーも日本の霊界ほどすッかり整理され、組織されて居ないのではないかと想像さるるのであります。彼等はず根本の「神」を認め、そのぎには直ちに個人の守護神(所謂守護の天使)を認めたがります。其所そこに多少の例外はあるが、ドーも日本のように整然たる職責分担を明示して居ない。これではドウしても悪平等に流るる筈であります。印度も支那も大体これと似たり寄ったりの趣があります。霊界と現界との間に密接不離の関係が存在する以上、霊界の組織がやがて現界の組織の上に現わるるは当然であらねばなりますまい。果せる哉此等これら諸国の過去幾千年の歴史はそうした傾向を如実に物語るようであります。私どもは不敏ながら日本国民の一員として日本神霊世界の真相を世界に表明して公平なる批判考察を求むるの義務があるように痛感します。これは決してお国自慢や手前味噌のような感情上の小問題でなく、宇内の安寧幸福、人生経綸の秘奥に関する純学問上の大々的問題であります。

 以上列挙しました四ヶ条は実にスピリチュアリズムの七大綱領中の中心眼目で、これにつづく第五、第六第七の三ヶ条は、必要は必要であるが、結局その余派であります。即ち――

  個々の責務 Personal Responsibility

  永遠の因果関係 Compensation and Retribution for good or ill done on earth.

  永遠の進歩向上 A Path of Endless Progression.

の三ヶ条は、いずれも直接心霊研究に関係あることでなく、むしろ心霊研究から生れ出でた哲学であり、又教義であります。欧米人には珍らしい学説か知れませんが、日本人に取りてはいずれも皆米の飯に味噌汁の観があります。個々の責務、御尤千万干万であります。「山行かば草むすかばね、海行かば水づくかばね」の昔から、近くは明治大帝によりて下された軍人勅語、教育勅語等、一として個々の責務の教訓でないものはありません。だだその実行に至りては万人のことごとく難しとする所、就中ヘタに霊術かぶれのした人間ほどその点の用意が不充分であるように見えるのは大に警戒せねばならぬ点であります。すべての人間には生時には生時の責務がある。死後には死後の責務がある。下らぬ自殺などは地上に於ける人間の責務を無視した所為で大々的罪悪であるのに、近頃知識階級にまでそうした無責任者の頻出する観があるのは慨歎に堪えません。伝統的日本思想で肯定する自殺は、個々の生命よりもより大なるものを生かすめに止むことを得ずして行う所の犠牲的自殺に限ります。不幸にして有島の自殺も芥川の自殺もその点においてカラキシ駄目です。

 第六条、永遠の因果関係、第七条永遠の進歩向上――この二つは唯物説の真向上段から否定する所で、その結果が当然亨楽主義となり、自暴自棄となり、詐欺となり、収賄となり、労働争議となり、殺人となり、動乱となり、破壊となることは現世界の大勢が赤裸々にこれを裏書きして居るからここに多言を要しますまい。従ってこの天下の大勢を逆転し、理想の国家社会を地上に出現せしむべき根本思想が何であるかは言を俟たずしてあきらかであると信じます。人間は生前死後を問わず厳密なる因果律によって縛られる。善因善果、悪因悪果、何所まで行ってもこの天律からのがれ出ることはできない。在来の宗教家は一足飛びに地獄だの極楽だのをかつぎ出すが、これは子供だましの囈語たわごとで、人間死んだからとて急にえらくなるものでも何でもない。着実に階段的に一歩一歩向上進歩の途を辿る。器量次第で個人又は社会の守護の役目をも引受けることになる………。そう教えるのが心霊研究でありますが、それと全然同じ事を教えるのが実に日本の伝統的思想であります。日本の神々(西洋の天使)は仏教や基督教で教えるようなバケモノでなく、あくまで人間味たっぷりなしかしあくまで人間の弱点を超越した、立派なる方々であります。私は心霊上の実験を重ぬれば重ぬるに従うてますます日本思想の謳歌者ならざるを得ません。

 以上説きました所はいかにも大ざッぱで不充分な個所だらけでありますが、いかに日本思想と心霊研究とが密接不離の関係を有って居るかが明白ではないかと存じます。何所に一点背馳の個所もなく、前者は後者を補い、後者は前者を生かし、正に唇歯輔車の関係にあります。伝統的に古るい古るい歴史をつ国民精神と万難を排してようやく基礎を築き上げた新興の学問との提携は、この大行詰の現代に深い深い意義を有するものと私は痛感します………。     (二・十・十七)


底本: 雑誌 「心霊と人生」 第四巻第十二号

発行: 1926(昭和2)年12月1日 心霊科学研究会

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準拠して、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、章毎にページを分け、箇条書きに改行を加え、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、強調表記に、置き換えました。

※ 入力:いさお      2008年10月09日

※ 公開:新かな版    2008年01月10日


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