心霊図書館雑誌総合案内> 「心霊と人生・第四巻

心霊家の立場と目標

― 四月十八日大阪心霊研究会春季大会において講演 ―

浅野和三郎

 半歳ぶりで皆様に御目にかかる事がきましてはなはだ光栄に存じます。さて本日は朝鮮金剛山の崔基南氏、岡崎万灯山の伊豫田英照氏、その他二三の講演者が御控えになって居られますので、私の講演は余ほど急がねばなりません。此度このたび大阪へまいる時に私は時間の都合で汽車の三等特急を捕えましたが、講演はうやら三等特急式になりそうで……つまりお粗末であって同時に迅いのであります。

 私の本日の演題は「心霊家の立場と目標」ということになって居ります。心霊研究もいいが、単なる道楽や好奇心からこれをるのははなはだ感服できない。自分の立脚地何処どこにあるか? 又自分の研究の目標は何であろか? ずそれをあきらかにして進まないことにはきへ行って大に魔誤つくことになるばかりでなく、その場その場の鼻元思案で一向下らないものに感服して見たり、又案外立派なものを排斥して見たり、はなはだ見苦しいことになると同時に、世道人心を誤まるような結果に陥り兼ねないと存じます。一枚の写真をうつすに当りましても、何より肝要な点は

 写真機をしっかり据えつけることと目標をしっかり決めること

であります。その点の用意が足らない時にはとても碌な写真の撮れる筈がありません。心霊研究だって、その他のいかなる仕事だって、めったにこの理窟にかわりはありません。んなことは三尺の童子も知り切って居る事柄であるに係らず、さて実地に当って見ると、なかなかその通りに行って居ない。現に日本の政界の近頃の有様などを見ましても、立脚地も目標も絶えずグラつき通しではありませんか。最初政友会と政友本党とが立場を同うして、憲政会を向うにまわして朴烈問題其他そのほかを提げて大に闘うらしく思われたが、僅に二三十分間の三党首の会見の幕を境として、相互の立場がすっかり変化したと同時に、政争の目標までが全然別物に早変りをしてしまった。政治問題などは私どもの論議すべき限りではありませんが、すくなくとも日本の心霊研究の畠においてはんな陋態を演ぜぬことにしたいと痛感します。

 しからば日本の心霊家はその立脚地を何所どこに置くべきであるか

という問題から論じて見ましょう。今更いまさら申上げるまでもなく、心霊研究の対象は超現象の世界、霊魂の世界であります。幼稚不窮理な時代には超現象世界即絶対の無差別界と、勝手に想像し、今でもこの妄念に捕えられて居るものが相当多数に上るように見受けられますが、これは大誤謬であります。現象世界が差別の世界相対の世界であると同様に、霊魂世界も又立派な差別の世界、相対の世界であります。絶対の無差別界というのは、つまり思索想像の窮極、理想の極致に向って命名した一の名称であって、その境涯は到底個性をった人間の手には永久に掴めるものではない。印度思想にかぶれた僧侶などは、兎角無念無想の入定状態を以て早計にも絶対と一致した境涯のように考えたがりますが、それは単なる頭脳の休止、人間意識の蕩尽した丈の話で、つまり一の自己催眠であります。その間に霊魂の働きが休止して居ない証拠はザラにあります。人間意識の蕩尽という点からいえば、夜間熟睡中の人間は立派に絶対と合致した筈でありますが、に図らんや、絶対どころか、睡眠中の人間の霊魂は多くは幽界辺をぶらついて居るに過ぎません。それ等の消息は私の飜訳紹介したワアド氏の「死後の世界」でも御覧になるとよく判ります。

 さて超現象の世界、霊魂の世界が相対的の差別界であるとしますれば、われわれはその世界と交渉を試むるに当り何は措いても、これに向って

 正邪善悪のモノサシに当てて取捨を加えること

を怠ってはならぬと考えます。死後の世界を否定する唯物主義者だの、又死後の世界を認めることは認めても、これを一切空の平等世界を考えたがる自己催眠者流だのの一番けないのはこの点の用意に欠くるところがあるからだと痛感します。死を以て一切の責任の解除とした日には何所に道徳の規準が立ちましょう何所に向上進展の意義がありましょう。天下に異端邪説は沢山ありますが、これ等の異端邪説の総元締ともいうべきは確かにこの穿き違えた一切空の無差別思想並に霊界の否定思想でありまして、その弊害のいかに激しいかは現代の世相を観れば思い半ばに過ぐるものがありましょう。

 さてしからば正邪善悪のモノサシとはも何か? 実はこれは今更いまさら事珍らしく説き立てる必要のないもので人間には天賦に一の良心、直日なほひみたまと言ったようなものがそなわって居て、それが直覚的に正邪善悪を教えてくれます。昔のウブな時代にはそれ丈で日常の行動に何等の不便をも感じなかったのであります。が、理窟っぽい今日のわれわれは何やらそれのみではアヤフヤに感じます。何やらもすこし立ち入りて分析的に定義でも下して見たいように感じます。生憎私は専門の倫理学者でないからんな仕事は下拙へたですが、下拙へた下拙へたなりに御参考までに愚見を述べて見ることにしましょう。

 私の流儀で定義を下せば所謂いわゆる正とか善とかいう事は、つまり大自然の法則に遵ふことであり、邪とか悪とかいう事は取りも直さず大自然の法則に逆うことであると考えます。更にこれを他の言葉で言いあらわしたらんな事になりましょうか。

  (甲)――――大我的――建設的――協調的――向上的

  (乙)――――小我的――破壊的――利己的――堕落的――(

 いう迄もなく右の正邪だの、善悪だのという言葉は電気のプラスマイナスなどと同様に全然抽象的相対的のもので、所謂「正」そのもの「邪」そのものの存在する訳のものでないことはここに申上ぐるまでもありません。正神と言ったところで何所かに欠陥があります。悪魔と申したところで、どこかに美点長所がない訳ではありません。ただ比較的に善い方が勝っているか、又悪るい方が勝っているかの、問題に過ぎないのであります。

 お右の二つの性質は本来相対的のものでありますから必要という点から観れば何ちらも必要であります。即ち正あっての邪、又邪あっての正で、一方のみの存在は到底許されません。個人の内部にもこの正邪善悪の戦は間断なく行われ、同時に現象世界の一切万有の内部にも、更に進んで超現象の霊魂世界全体にもこれが行われつつある訳であります。ですからわれわれは魔を圧し、若くは魔と離れることはできますが、しかし魔を滅ぼすことは永久にできないのであります。神に対しても亦同様であります。神に附くべく努むるかそれとも魔に附くべく努むるかは全然吾人の自由裁量に任されて居ります

 一体この心霊研究は一の学問でありますから、他の一切の学問と同じく、それ自身悪でもなければ又善でもない。只これに従事するものの態度如何、立脚地如何いかによりて、それが善良の武器ともなれば又邪曲なる用具ともなります。丁度正宗の刀が、これを使う人次第で、殺人剣ともなれば、又活人剣ともなり、同時にその切れ味も使用者の腕次第でよくもなれば又るくもなるようなものであります。で、心霊研究に志す者は御同様この

 出発点に於ける立場の確定に向って最大の注意を払うこと

を忘れてはならぬと考えます。真の心霊研究家はうあっても最も厳蕭なる道義的標準の上に立脚すべきであります。少しでもその点の用意に欠くる所があったら、たちまちにして魔神の乗ずる所となり、看板丈はいかに立派でも内実は魔道周旋業者に堕すること請合であります。私はこの十数年来そうした気の毒な連中に沢山遭遇して居りますから特にこの点に向って皆様に御注意申上ぐる次第であります。

 私がう申しますと、中にはそれに抗議を申込まるる方があるかも知れません。「心霊研究というものは一の科学である。従って魔界と交通してその真相をきわむることも立派な任務の一つではないか。道徳的には魔との交通はけないかも知れないが、科学的には少しも顧慮するに及ばぬ………」これは一応尤もっともな説のようにも聞えますが、しかし実際は矢張り駄目であります。魔の真相を探ろうと思えば魔と交通することによりてその目的を達することはず困難であります。何となれば魔は何所まで行っても矢張り魔で、大々的嘘吐きだからであります。正しい神の側から観察して見て初めて魔の正体がつかめます。ですから真の心霊研究は矢張り道義的立脚地の上に立つべきものであります。万々一これがめに魔の真相が充分に掴めなかったとしても、それは止むことを得ないものとしてあきらめるより外に致し方がありますまい。

 これでず心霊研究家の根本の立場はまった訳ですが、しかしこの道義的標準は宇宙万有を右と左とに真二つに分けた丈で、随分荒っぽいモノサシであります。われわれが実際仕事をして行くめにはモすこし細かいモノサシが欲しくなる。非道義的の悪の立場につきては、しばらく問題外に放り出して置きまして、専ら道義的の善の立場のことに就きて申上げますが、私の観る所によれば、道義的立脚地は当然これ

 (甲)世間的――楽天的立脚地

 (乙)出世間的――厭世的立脚地

の二種に分割すべきだと思います。つまりこの両者は人生観の相違から必然的は発生するもので、前者は現世の生活に重きを置きて来世を軽く視たがり、後者は来世の生活に重きを置きて現世を重要視せぬ傾向があるのであります。大体においてこの性質は人種的特色というべきもので、日本人、又は欧米人の大部は前者に属し、印度人などは後者の代表者のようであります。後者に言わせると「現世の生活は仮有であり、まよいであり、穢土えどであるから。これに執着するのははなはだ詰らない。われわれの真の郷土は無差別平等の世界である。一切の衆生は本来空である……」んなことを考えながら、全然世事と絶縁して、多くは深山幽谷などに遁れ去るのであります。

 無論この説にも部分的真理が宿っていない訳ではない。寸刻の休みなしに流転する物質世界に極端な執着を感ずることは間違に相違ありませんが、しかし極端な出世間的遁世主義にも随分不徹底な個所ところがあります。市街地から山林にのがれ、錦繍の代りに木の葉で造った襤褸つづれを纒って見たところで、それが真の遁世でも何でもない。依然として空気も吸えば水も飲む。日光にも浴すれば地面ちべたも蹈む。これでは只五十歩を以て百歩を嗤うだけの話であります。

 それなら真の厭世主義者は自殺でもすればその目的を達し得るかというに、これもまた駄目である。死は万事の終りでもなければ差別界からの離脱でもないことは最新の心霊研究が科学的に実証するところである。いたずらに人間としての責務を果たすことを嫌って自殺することは、学校生徒が無断欠席をやり、又囚徒が破獄を企つると同様生前に倍して一層嚴重な束縛なり、制裁なりを受けるだけにとどまる。

 要するに出世間的厭世主義というものは、これ自身において頗る不徹底で、余り面白いものではないが、ただ極端な我利執着、換言すれば非道義的悪魔主義の解毒剤として、人間の社会にその生存を許さるる価値は充分にありと考えます。現に日本国民などはこの思想の感化を受けた御蔭でよほど

 小供じみたる遊戯気分から離脱して相当の深みを増した

と言い得ると考えます。

 右述べたような次第で出世間的厭世主義の立場は、辛うじて人間社会にその存在を黙許さるるという程度のもので、これを常道として推薦することは到底できないと考えます。健全なる心霊研究者の立脚地はあくまでこれを現世的楽天主義の方面に求むべきだと愚考しますが、現世的と申しましてもその間に格段な等差がありますから、これも又当然二種類に区分して考えることが必要でありましょう。即ち

  (甲)理想派

  (乙)実賤派

であります。

 右の理想派は出世間的厭世主義者ほど極端ではなく、る特殊の人、特殊の社会とは進んで関係をつけますが、どちらかといえば現世よりも来世に重きを置き、一般世間とは隔離せんとする傾向があります。その代表者としては私は古来の宗教的人物中キリストを推そうと思います。彼は「天国は近けり」と叫びましたが、その天国は地上の天国ではなくして、心の中の天国、霊の天国であります。キリストに取りて地上の境遇のごときはほとんど問うところでない。迫害の真中においても平和と喜と幸福とを見出し、牢獄を以て楽園と心得、十字架を負うことを無上の光栄と考えるのです。キリストの常住の世界は第三の天国で、からだは世の中に居ても、たましいは世の中の者でないのです。

 この境地は誠に羨むべく、誠に立派なものですが、生憎この境地に安住し得る人間は、現在の文化の程度では千万人中に只の一人もむずかしい。キリスト直属の徒弟でさえもが、キリストの後に追随することは至難とするところであって、少なからぬ落伍者と勘違い者とを生じました。いわんやその他においておやで、キリスト歿後ここに二千年になりますが、この間キリストが認めて以て善となす信徒ははたして幾人に上ったでしょう? 所謂キリスト教徒を以て標榜する民族の九分九厘九毛までは実はことごとく極端な反キリスト主義者で、弱肉強食優勝劣敗の渦巻の中に浮沈するものばかりであります。自から僭して伝道者だの、宣教師だのと称する連中でも矢張り同じことで、多くは侵略的帝国主義の走狗となりて、猫撫声で乱離動揺の種子を蒔くに過ぎざる魔の徒弟ばかりであります。

 かくキリストの教は余りに高邁、余りに理想主義に傾き過ぎて、普通人の歯ぶしが立たぬ嫌はありますがしかし全くその追随者がないではない。直属の徒弟を別にして考えても時に立派な真のキリスト教徒が現われます。昔ではバンヤン、フランシスのような人々、現代では印度のサンダア・シングのような人……んな無慾高潔な、んな犠牲的精神に燃ゆる、んな霊的体験に富める人物はキリストの教壇以外にはめったに見られません。われわれはこれ等に向って満腔の敬意を払うことを辞せざるものでありますがただそんな人達のみで十七億の世界の人類を救い得るものとも思うことはできません。「われにつづくものはつづけ!」いかにそう言われて見ても、悲しい哉大多数の人類はあれよあれよと大空を仰ぎ見る丈で、依然として泥足を地面ぢべたにくッつけて居るのであります。理想派ばかりで人類の救済指導の目的を完全に達し得ざる所以ゆえん其所そこにあります。

 キリストの蹈んだ途とは自からちがいますが、仏教の所謂いわゆる聖道門、それから東洋の仙道――此等これらも大体理想派の部類に編入して宜しいかと考えます。詳しい事はこれを他日に期しますが、兎も角も今日この席に御見えになって居られる崔基南氏の仙道修行の真相を御ききになられると、どなたも恐らく私の所説に御賛同くださると思います。崔氏は求むるものには幾らでも体験談なり、修養談なりを試みられるのですから、決して出世間的ではないが、しかし何人にもその真似はできないのでありますから立派な理想派です。但し仙の行き方はキリストの行き方とは大に趣を異にし、彼の犠牲的なるに対してこのは享楽的高蹈的であります。禅僧などとなると又一種特有の持味もちあぢがあり、何やら独善的悟入的と言った趣をそなえているように見える。仔細に理想派の内部に立ち入りて分析を試みたら面白いと存じますが、今日はしばらくそれ等の問題には触れぬことに致します。

 飜って今度は実践派に就きて一応考察して見ますに、それは大体左の種類に大別し得るでしょう。即ち――

  (一)真理追窮――科学的

  (二)感激陶酔――芸術的

  (三)思想善導――倫理的

  (四)衆生済度――祈願的

  (五)地上経綸――実行的

の五つであります。無論この分類法は頗る大ざっぱのもので、私自身に於きましてもこれが最後の断案とは決して思考致しませぬが、実践派の人々の立脚地を説明するにはほぼんなところで通用しそうに思うのであります。

 ず第一の真理追窮――これこそは近代人の最も愛好する貴践的立脚地であります。古代人は何事にも戸惑いし、何物にも怪訝の眼をみはり、地震、雷火、疫病、飢饉、何一つとして不可解の怪事と思惟せぬものはなかった。ところが近代人の所謂いわゆる科学的方法によりて自然界の秩序と法則とを発見するに全力を挙げ、大概の現象を見ても、それはこれこれの理由から起るのだと、一と通りの説明を施すようになりました。その結果、一時すべてを凡化し、又俗化してしまい、浅く人生を解釈する不思議ヌキ、信仰ヌキの時代を現出するに至りました。これが物質科学の発達の途上に於ける最大の危機で、その影響は一部浅薄な学究の間に今宵ほ残存して居りますが、最近科学の研究が更に一段の深刻味を加うるに及び、ようやく深遠奥妙なる大自然の神秘に触れ、殊に約半世紀以前から物質科学と相並んで心霊科学の研究が開始さるるに及び、物質的現象世界の奥に広大無辺なる超現象の霊魂世界の存在することが実証され、ここに人類の視野が無限に拡大さるる機運に向ったのであります。無論人間の能力には限りがありまして、到底一切の疑問、一切の未知数を除去することはできませんが、今後において科学的真理追窮はますます健全なる発達を遂げるものと見做みなすべきであります。ここが人類と他の動物との最も顕著なる相違点であります。非道義的悪魔的霊術は唾棄すべきであるが、

 道義的科学的心霊研究は今後人類の指導上最も神聖なる学問の一分科

であることは断言して宜しいと思います。退嬰無智の既成宗教家、排他自尊の霊術家輩が兎角心霊研究を煙たがって、悪声を放ち勝ちなのは誠に憐むべきで、うっかりすると彼等はそのまま魔道に堕ちて行く虞があります。

 ぎに第二に挙げた感激陶酔――これもはなはだ尊重すべき立派な立脚地であります。極度の歓び、極度の悲み、又自然の美と不可思議と無窮とに対する極度の詠歎、それ等のものは発して音楽となり、詩歌となり、絵画となり、彫刻となります。高尚な芸術の無き人生は一の砂漠であります。ダンテ、ウァーズウァース、ラスキンブ、レーク、西行、芭蕉、陶淵明……。私どもは此等これら古人の大名を挙げるにつけても、現代芸術界の寂漠を歎くの情に堪えません。

 ぎに第三の思想善導――この仕事もまた非常に重要であります。但し真の思想善導をやるのには単なる徳目の羅列や、巧妙なる修養談、修身講話の受売ではしたる効果はありません。それも敢て無益というほどでもないか知れぬが、真の思想善導をるのには夫子自から実賤躬行、身を以て人を率いるの慨がなければ駄目であります。説法は説法、行為は行為、両者をバラバラに引き離して、切り売りをやるのでは、一の商売としてはあるいは成立するか知れませんが、はなはだ心細い話であります。西洋でも日本でも職業宗教家、職業教育等の多くは滔々としてこの弊に陥っているように見受けます。そんな連中よりは真剣な科学者などの方がどれ丈間接の感化力が強いか知れません。現代のような人心のすさみ切った世の中では、もって余ほどの決心覚悟を以てこれに当るものでないと、得て床の間の飾り物、思想善導業という一の商売人に終りそうです。

 第四に挙げた衆生済度――ヘタにこれを解釈すると純然たる功利主義に陥ります。所謂鰕鯛えびたい式の御利益信心は弊害こそあれ、決して利益はない。私のここに言うのは決してそんなものを指すのではありません。仏教徒などは他力主義だの自力主義だのと言ってさかんに論争に耽りますが、私の観る所によればんな莫迦らしい話はないと思います。人間は立派な躯も有って居れば又立派な霊魂も授かっている。大概のことは自から進んで最善の努力を払い、成るべく他の御厄介にならぬことを心懸くべきは当然の話であります。その点は自力で行くのです。が、人間の力には限りがあります。過去の宿命に縛られ、不時の疾病、災厄に襲われ、ことに現代のような道徳的の危機、悪魔との戦の熾烈を極むる時代には百計尽きて人力でいかんとも難いことが度々あります。

「そんな連中は見殺しにするばかりだ。何事も自業自得だ……。」

 若しもんなことを言って突放す人ばかりであったら、世の中はんなに暗い、みじめなものでしょう! 平時の人間、得意時代の人間は意驕り気たかぶりて、神力とか仏力とかの難有味ありがたみを感じますまいが、一旦周囲の状況が変るが最後、案外弱いのが人間です。不治と名のつく病気一つにかかってもモー足元のぐらつくものばかりです。

 霊界と現界の中間に立ちて挺身して衆生済度の聖業に当らんとする行者

の必要はここにあります。各人皆神仏からの直接加護に浴し得れば何より結構ですが、悲しい哉心身共に穢れ抜いている人間にはこれができない。霊界と現界とでは規則が違う。波動が違う。神でも仏でも救わんとして救い得ない。あたかも受話器なしにラヂオの放送をきかせることができないと同様である。かかる際には霊界と人間界との間に是非とも高徳の仲介者が必要で、その仲介者の力によりてのみ不幸な人間は初めて恩沢に浴し得る。

 禅僧などの一部には、祈祷などは他力だと言って、これを擯斥する傾向があるが、考えて見ると何という融通のきかない、同時に何という無慈悲冷酷な仕打でありましょう! そうなるとモーそろそろ魔のお弟子入りをしかけて居る……。

 衆生済度の行者として何より必要な資格は蓋し慈悲博愛の念に燃ゆることでありましょう。同胞の苦難を見るに見兼ねて、理窟ヌキ、打算ヌキで、これに代って至誠を以て神仏に祈願する……。ここに何物にもかえられぬ貴重なる生命があります。私は現代において正にこの必要を認めます。本日ここに見えられている岡崎万灯山の伊豫田英照氏ごときは日頃敬服して居る一人です。お引続きて第二の伊豫田英照氏、第三、第四………第十第百の伊豫田英照氏がわが日本国に出現することを希望して止みませぬ。

 最後に挙げた地上経綸――これなどは恐らく実践派中の実践派で、日本の古神道などはその代表者とって宜しいと存じます。もちろん神道には真理を求むる所もあります。芸術的要素もあります。その他倫理的要素、祈願的要素も多量にそなえています。その精神骨髄は現世の経綸であります。この事は日本の古典古事記、日本書記等を繙いて御覧になれば思中ばに過ぎましょう。日本国で何より大切な霊告は地上の経綸に関するものであります。天照大御神様が皇孫へ賜える御神勅というのは何誰どなたも御承知の通り、「葦原の千百秋の瑞穂国はこれ吾子孫のきみたるべき地なり。宜しくいまし皇孫就いて治らせ。行矣。寳祚の隆まさんことまさに天壌と窮りなかるべし」というのであります。キリスト教の理想的なるに対比して、何という実際的な教でしょう。少しも地面ぢべたを離れた個所がなく、爪先上りに一歩一歩向上の途を辿るやり方ではありませんか。果せる哉古来日本国には実際的偉人は生れましたが、所謂宗教家若くは道士くさい偉人は一人も生れません。神武天皇さまがそうです。日本武尊がそうです。武内宿彌がそうです。頼朝がそうです。大閤がそうです。西郷隆盛がそうです。この後とても恐らく同様でしょう。日本国の代表的人物は少しも霊覚じみない経世家、霊肉一如の、少しも人間ばなれのしない人間ばかりであります。

 以上申上げました所はホンの粗枝大葉で、不完全を極めますが、道義的標準の上に立脚せる人間の仕事をざっと測定すべきモノサシとして多少の御参考にならば幸福と存じます。人間の向うべき方面は大へん広いのでありますから、くれぐれも襟度を大きく持ちて、猥りに排他独善の弊に陥らぬよう、ともどもに手を引き合ってこの多事多難なる現代を首尾よく乗り切るよう切望の至りに堪えません。念のめに只今まで述べた所を一括して表に致します。

 本日の私の題目は心霊家の立場をあきらかにするのでありましたが、だんだん喋っている中に案外だだッぴろいものになりました。右の表を見ても判る通り、人間の仕事の中で心霊研究は非常に大切なものに相違ありませんが、しかし単にそればッかりが大切だと思うと我田引水に陥ります。頭から心霊研究を罵るがごときは言語同断ですが、しかし矢鱈にそればかりを持ちあげて、心霊文化だの、心霊主義だのというのは考えものでしょう。日本人としては科学的の純心霊研究よりか、むしろこれを裏んだ人生経綸の方にその国民的特長が発揮さるるのではないでしょうか。心霊研究の立脚地に就きてはこれ丈にとどめ、簡単にその目標につきて一言します。心霊研究の目標は至極明白で、真理の追窮から、引きつづいて確乎不動の真信仰の樹立、つづいて世界平和の将来であるべきは申すまでもありますまい。これは世界の名ある心霊家のことごとく一致するところであります。もちろんこの目標は独り心霊研究のみの占有物ではないに決っていますが、しかし現代において心霊研究を度外視してこの目的を達することは余ほど困難………ほとんど不可能ではないかと愚考する次第であります。何となれば、真理の追窮は、思想善導の基礎でもあれば、又衆生済度の根抵でもあり、ことに地上経綸の遂行のめにはこよなく有力な武器であるからであります………。


底本: 雑誌 「心霊と人生」 第四巻第六号

発行: 1926(昭和2)年6月1日 心霊科学研究会

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準拠して、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、章毎にページを分け、箇条書きに改行を加え、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、強調表記に、置き換えました。

※ 入力:いさお      2008年8月14日

※ 公開:新かな版    2008年8月16日


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