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「心霊と人生・第四巻」
観方の相違
浅野和三郎
△物の観方に常に好意と悪意、表と裏との二た通りあることはいうまでもない。相対の世界には、絶対の善もなく、同時に絶対の悪もないから、善意を以て褒めようと思えばどんな事柄でも褒むべき点が必らず見出されるが、悪意を以て貶そうと思えば貶すべき材料はいくらでもある。
△その一番適切な実例は政党政派の争に於てこれを見出すことができる。与党の言う所をきけば、いかに尤もらしく、いかにも道理がありそうに思われることでも、これにつきての反対党の言い分をきくと、これほど下らない、これほど不都合なやり方は天下に綸を絶てるかの如く思われる。施設そのもの、方針そのものにかわりはないのに、観方一つでよくも斯う意見が違うものだと、つくづく感心させられる。
△男女の関係なども斯うした、観方の相違一つでうまい具合に成立するものだろうと思う。すべての人の観方が同一であったら、男と女も売れ残りばかりできて困るに相違ない。幸にも各自の選択方針が異なっている。標緻に重きを置くものもあれば、財産に眼がくれるものもある。才気に感心するものもあれば、体格に惚れるものもある。中には相手の不具病弱の点に同情を寄せたりする篤志家さえ現われる。
△世の中は斯うした善意と悪意と表裏の錯綜を以て複雑な模様を描きつつ一歩一歩に推移進展する。従ってわれわれは悪意を有つ人達から極度の非難攻撃を浴びせられたからと言って、さして悲観するには及ばないと同時に、又善意を有つ人達から一も二もなく推奨喝釆されたからと言って、あまり有頂天になることは考えものである。一利のある所に必らず一害の伴うことは古来からの通り相場で、これは万世不磨の真理であるから、今更かえやうがない。
△従って世間の毀誉褒貶のみを怖れていたら人間永久に何の仕事にも手出しがならぬことになる。厭世思想だの、引込思案だのはそうして生れたものであろうが、現世に生を享けた人間の執るべき途としては、それもあまり面白くない。少くとも日本人の伝統的精神には合わない。日本人のやり方は何処までも男性的、積極的、且つ常識的で、これを貫くに一道の道義的感情を以てするのである。われわれの祖先はこれを名づけて随神の道と言ったり、又日本魂と呼んだりした。
△が、日本国民は世界で稀に見る外来思想の吸収者であったので、この二三千年の間に印度思想の臭いもつけば、支那思想の臭いもつき、近頃は又ユデア思想、西洋思想の臭いも沢山附いて来た。その為めに日本思想は何れほど深味を加えたか知れぬが、又同時に妙にひねくれ出しても来た。まさか日本人の中身骨髄まで変った訳でもあるまいが、外面的にはこれでも日本人の頭から出た考かと疑わるるようなものもある。兎に角現在の日本ほど、ひねくれた小理窟の多い国土は滅多になかりそうに感ぜらるる。
△心霊研究などという仕事は西洋でも相当に翻弄攻撃の標的にされているが、日本と来ては言語同断で、正に気の弱い花嫁御が、多数の小姑どもに取りまかれている姿である。私の手許には日に幾通となく、いろいろの方面の人からいろいろの手紙が舞い込むが、殆んどめいめい勝手の異った註文をされるにはいささか呆れる外はない。自分ながらよくこれで生命に別条がないと感心する位である。
△甲はもっと詳しく欧米の心霊研究を紹介しろという。乙は日本種の心霊事実の紹介が足りないという。丙は議論や記事などは止めてしまって、西洋のに劣らぬ幽霊写真や直接談話の実験を早く見せろ、と仰っしゃる。丁は内容の貧弱な、オモチャ式の心霊実験などは何うでもいいから、早く天下国家を救済するに足るような立派な霊示霊告を発表しろと迫る。戊は自分は今不治の業病に悩んでいるから素晴らしい心霊療法の大家を紹介して呉れと申込んで来る。
△諺にも十人十色とある通り、各自の性質境遇次第でいろいろの註文の出るのは当然の話で、大抵の事には私も愕かぬつもりであるが、時として、こいつァ随分手きびしいナと、ひそかに肝胆を寒からしむるようなお叱言に接する場合もある。例えば、「汝の所の雑誌は読んでやるが、しかし無代で送って来い。苟くも精神問題に関係するほどのものが、営利事業式に金銭を請求するとは何事だ!」――一冊定価金二十銭也の請求がその人の見地からは悪魔の仕業としか見られぬらしい。
△中には又斯んな戒告に接することがある。「心霊の研究などとは烏許僣越の沙汰である。神の眼から見れば人間は蛆虫同然のものに過ぎない。その蛆虫に何の研究があるか! 人間は素直に無条件で神明の前に服従すればよい。霊的体験は与えらるべきもので、求むべきものでない……。」たしかに一面の真理の籠った言葉であるが、さてある程度まで求めたいのが人間の本性であるから困る。天則違反の慾求は無論悪るいにきまっているが、正しい祈願、正しい要求なら、私には別に差支なかりそうに思えるのである。
△これは私が直接の責任者ではないが、近頃組織された万灯山後援会の料金の一件――かねて予期したところではあったが、近頃ちょいちょいこれに関する抗議が申込まれる。曰く「祈祷料五十円は高過ぎる。伊豫田某は恐らく金儲主義の売僧に相違あるまい……」曰く「祈祷料の払えぬ病人は見殺しにする気か。そんな無慈悲なやり方で何の衆生済度か!」曰く「伊豫田某が加持料又は出張費用として金若干を請求するは面白からぬ仕打である。樹下石上に結珈趺坐し、托鉢でもして廻るのが真の行者の行為である。」
△こんな観方も決して成立し得ないとは私は言わない。殊に印度かぶれのした一派の僧侶の行動を最高の規準として考うれば、万灯山後援会できめた方針は不都合と謂わねばなるまいが、しかしそれは単なる観方の相違に過ぎない。若しも伊豫田氏の修法が全然無価値であるとか、又氏の人格が陋劣で、名利に眼がくらむようなことがあるとかいうなら無論問題にはならない。若しもそうであったら、不敏ながら私が率先して後援会の解散を唱え、不明を天下に謝するに吝ではないが、現在までのところで、私にはそうした弱点が見つからない。あべこべに私は有力なる反証に接しつつある。
△結局問題の要点は後援会の方針の可否如何というに過ぎない。後援会は最初から伊豫田氏をして、医師が見て以て不治の難病とするものばかりを引受けさせる方針を執り、同時に当分入会員の最大限度を二百名と限り、万灯山の全能全力を挙げてその救済に当らしむることにした。加持祈祷料金の如きも其処から割出されたものらしい。何となれば斯うした計劃を遂行するのには是非とも斯くせねばそれが成立せぬからであろう。
△尚お万灯山後援会が貧困者を見殺しにするものでないことは、同会が経費の許す範囲に於て現に若干の無料施法を行いつつあるので明白であろう。中には「何故もっと多数の無料施法を行はぬか?」と迫るものもあるか知れぬが、それは蓋し無理な註文である。同会が自滅を欲せぬ限り、そんな無制限な真似は到底できるものでなかろう。
△かく述べると私がいかにも万灯山後援会のみの提灯持でも、するように考えられるものがあるか知れぬが、幸にして今日の私にはそんな偏狭な考の持ち合わせがなくなっている。私は日本国の一小心霊研究者としての立場から仔細に考察して見て、これならば推薦に値すると思うものがあれば、誰でも推薦するのである。宗派の異同や、国籍の如何の如きは断じて頓着しない。万灯山に限らず今後良いものが見つかったら百でも千でもその後援に微力を尽すつもりである。
△私をして忌憚なく言わしむれば、近頃の日本人の一部には霊能者とか、神様とかに対して厭うべき乞食根性があり過ぎると思う。所謂蝦鯛式のやり方で、成るべく安価に、できることなら無代で、病気を治して貰ったり、幸運を授けて貰ったりしようと思う。これは決して日本国民の伝統的精神の発露とは言われない、正当なる報酬、純真なる感謝の観念の養成は何よりも大切である。
―(二・五・三)―
底本: 雑誌 「心霊と人生」 第四巻第六号
発行: 1926(昭和2)年6月1日 心霊科学研究会
※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準拠して、底本の旧字表記をあらためました。
※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ また、HTML化に際して、章毎にページを分け、箇条書きに改行を加え、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、強調表記に、置き換えました。
※ 入力:いさお 2008年8月14日
※ 公開:新かな版 2008年8月14日
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