心霊図書館雑誌総合案内> 「心霊と人生・第四巻

光と闇

浅野 和三郎

 △心霊研究が幼稚であった時には、すべての霊魂論者はひたすら自己の立場を築くことに忙殺され、唯物論者を共同の大敵として闘わなければならなかった。例えばロシアが当面の大敵であった時に、日本の資本家も労働者も、長閥も薩閥も、官僚派も民間党もことごとく一致団結してこれに当ったようなものである。所謂いわゆる兄弟内にせめげども外侮りを防ぐの筆法である。

 △かく一致団結することは表面的には至極結構なようであるが、もともと内面の主義主張、利害得失の相違が除かれたがめに一致した訳ではないから、一旦外部の圧迫が消滅した暁には早速元の黙阿弥に返って再び争闘を開始する。丁度これと同様の事が霊魂論者の間にも起る。今日では浅薄な唯物説などというものはすでに生命を失ってわずかにその余喘よぜんを頑冥不霊な学徒の間にとどむるのみである。の必然の結果としてここに霊魂論者の内部分裂が始まる。

 △で、単に霊魂論者だの、心霊主義者だのと名告なのることは、今日ではそろそろ意義を為さないことになりかけて来たようだ。そんな大ざっぱな用語は唯物識者と対立せしむる時にこそ必要であったろうが、うやら時代おくれになって来た。『あなたの霊魂論者であることは判って居ます。ただ霊魂論者のの部類に属する方であるか、われわれはそれを伺いたいので……』――う言った質問がそろそろ発せらるる時代になって来た。

 △霊界、死後の世界をひたすら一列平等の無差別界と見做みなした幼稚不穿鑿ふせんさくな時代は最早うの昔に過ぎ去った。実験から言っても、又理論から言ってもこれは確定された事実である。すでに霊界が差別界である以上、これに対して差別的待遇を下すべきは当然過ぎるほど当然の話で、従って単なる霊魂論者だの、心霊主義者だのというのはあまりに内容が無さ過ぎることになる。日本人から、『私は日本人です。』という答を得ても、一向不得要領であるのと何の相違もない。

 △ず主張の深味若くは範囲から考察すると霊魂論者はこれをざっと三通り位に大別し得ると思う。第一は純心霊研究者で、これは科学的研究の領域外には一歩を蹈み出さない連中である。人間に霊魂作用が存在することが判ったからそれを認める。卓子が物理的接触なしに空中に浮揚したからそれを認める……。う言ったような、単純で、そして極度に用心深い人達である。

 △第二はけだし憑霊論者である。心霊研究の実証の結果を取り入れることは前者と同様であるが、更に一歩をすすめ、心霊現象の原動力は主として死者の霊魂の実証の活動であると信ずるものである。西洋の所謂いわゆるスピリティストである。これはあきらかに純心霊研究者よりも一歩も二歩もすすめている。何となれば間接には死者の霊魂の存在を肯定しそうな実証は無数に存在するが、直接にはただの一つもないからである。われわれは死者の霊魂そのもののアルコール漬もって居なければ、又その実物標本もっていない。従って憑霊説を信奉するには是非ともの人の主観を必要とする。恐らく今後いかに心霊研究が進歩しても、この主観的要素をすっかり除き去って憑霊説を樹立せしむるところまでは達せぬであろう。

 △第三は恐らく宗教的霊魂論者とでも命名すべき連中であろう。心霊研究の実験の結果を自家在来の信仰に結びつけ、これを活用して聖書バイブルの真価を説いたり、仏典の難有味をのべたり、又神道の長所を鼓吹したりして、結局自己の信仰を普及宣耀せんようしようと努める。この場合にありては、つまり、自己の信仰が本体であって、心霊研究はその附録であり、衣裳であるに過ぎない。欧米にはうした団体が殊に多い。所謂基督教的霊魂論者クリスチャンスピリチュアリスト』などがそれである。思うに東洋にもこの種類が今後ますます簇出ぞくしゅつすることであろう。

 △霊魂論者を捕えてうした分類法を試みることは今後において余ほど必要であるとは思うが、しかし私はそれよりも一層痛切に、すくなくともわが日本の現状で痛切に必要だと思う分類法は、んな深味や範囲によりての分類法でなく、専ら道義的標準に拠りての分類法だと思う。ずそれから決めてかからぬと日本国の心霊研究は取かえしのつかぬ難局に遭遇するに相違ない。

 △道義的標準に拠りて差別的霊界を分けると、根本において必然的にそれが二つに分れる。名称などはうでもいいが、仮りに一方を光明界とすれば他方は暗黒界である。一方を真善美の世界とすれば他方は俗悪醜の世界である。宗教くさい名称にしたら一方は天国又は神界で、他方は地獄又は魔界であろう。その他何と命名しようがずは似たり寄ったりである。

 △無論この分け方は単なる抽象的の分け方で、実際には双方の混合であろう。即ち比較的光明の要素が多い世界と、比較的暗黒の要素が多い世界との対立であるべきは人間世界の実状に照らして見ても想像に難くない。ヤソ教ではよく、理想の世界を形容して神と共にある至善至美の境などといい、仏教ではしきりに七宝の宮殿、百味の飲食おんじき、三十二相。八十種好、その他いろいろ巧妙な形容の詞を用うるが、そんな文芸上の遊戯はうでも構わない。要するに死後の世界は人間の世界と同じく、道義的に見て比較的に善い世界と比較的にるい世界で、無数の層又は境域を形成して居るに相違あるまい。近代交霊実験の結果もことごとくこれを説かないものはない。

 △さてうなると、一山百文式に霊魂論者だの、心霊主義者だのと呑気な顔をして居られないことになる。霊魂世界の存在を信ずるのはいいとして、霊魂世界の何の部分の、んな性質の霊魂達と交通接触するのかが判らなければ、ただ霊魂との取引をする人間だからと言って迂濶うかつには気が許せないことになる訳だ。不幸にしてそうした実例は西洋にも日本にも実に多い。

 △西洋の近代心霊実験で手を焼かせられた連中はよくく歎息する――『霊魂というものは大虚言家グレート、ライヤーズだ! うっかり信用すると飛んだ目に遇わされる……。』これは東洋でも決してその選に漏れない。当るも八卦、当らぬも八卦の売卜者、死者の声色こわいろを使う巫婆口寄せ、数え立てたらほとんど際限もない。

 △の種の連中でもそれが立派な霊魂論者又は心霊主義者であることに相違わない。在来の日本霊術界はあまりにもの種の手合いが多きに過ぎた。霊界の『比較的に善い世界』との取引者でなくして、『比較的にるい世界』との取引者ばかりウヨウヨして居た。私自身もこの十余年以来彼等のめには少なからざる犠牲を払った。やさしくすればつけあがる。きびしくすれば化けて出る……。化けて出ないまでもすくなくとも反噬はんぜいする。なかなか始末がわるい。

 △幸にして宇宙間には万代不易の一つの鉄則が儼存げんそんしている。他にあらずそれは同種同質のもののみが親和することである。これは人間界に住む霊媒と霊界に住む霊魂との間にも誤りなく適用される。従ってわれわれは霊媒の人格を規準としてその霊媒を通じて出現する霊魂の性質をほぼ忖度するに難くない。嘘吐きの霊魂が憑るのは要するにその霊媒が嘘吐きであるからである。不逞思想をのべる霊魂が憑るのは要するにその霊媒が不逞思想の所有者もちぬしであるからである。そう考えて決して誤謬がないようである。

 △日本の心霊研究が今後いかなる方針で前進せねばならぬかは以上のべた所でほぼ明白であると思う。繰り返していう――現在の日本は最早単なる霊魂論者だの、心霊主義者だのと言って済まして居るべき時でない。第一要件として霊媒も研究者も共に確乎たる道義的標準の上に立脚して居るか否かの検討から始むべきである。霊魂論者としての主張の深さと広さとの検討のごときはそれが済んでから後の問題である。


底本: 雑誌 「心霊と人生」 第四巻第五号

発行: 1926(昭和2)年5月1日 心霊科学研究会

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準拠して、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、章毎にページを分け、箇条書きに改行を加え、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、強調表記に、置き換えました。

※ 入力:いさお      2008年6月27日

※ 公開:新かな版    2008年7月30日


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