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餐松崔基南氏の仙道修行

浅野和三郎

崔氏の閲歴並に修行

――三月五日学士会にて浅野和三郎講演――

 今回餐松居士崔基南氏の来朝を機とし、一夕の講演を請うことになりましたにつきて、御紹介かたがた心霊研究の立場から少しく卑見を述べさせて戴きます。

 崔基南氏の事に就きては『心霊と人生』誌の昨年十一月号に木村鶴城氏の寄書が登載されて居りますから大体は御承知になって居らるる方がおありと存じます。崔氏は明治八年九月七日の出生だといいますから、今年は数え年で五十三歳になられる訳であります。幼にして漢学詩律を専修し、十六歳で進士に及第したというのですから氏が元来非凡の秀才であったことは想像に難くありません。旧韓国時代には内部書記官兼警視庁警視を勤め、日韓併合後は総督府警視として大正六年の春まで奉職し、正七位勲六等に叙せられたそうで、つまり氏の前半生は一見何の奇なく怪なき、頗る月並な経歴を踏んで来られた訳でありますが、後年の崔氏の素地はすでにこの間に築かれつつあったのであります。

 これはいずれの思想家にもかならず見受けらるることですが、崔氏にもあの儒教――支那人、朝鮮人、日本人を通じての一の国民的規範ともいうべき儒教に就きて、深刻なる疑問が起ったのでした。儒教は人倫道徳の指針としてはなはだ結構ではあるが、ただうもその取扱うところの範囲に制限が置かれてあって肝腎な前後を切りすててある。換言すれば儒教は現在丈を取扱って、過去と未来とを閑却した教である。従って宇宙人生の大切な問題に対して不徹底な憾がある。一例を挙ぐれば、誰しも気づいている人間の運命の不公平なこと――儒教はこれに就きて何等の解決を与えていない。われわれの或者は生れながらにして富貴であるが、或者は生れながらにして貧賤である。又われわれの或者は生れながらにして身体強健であり、才気喚発であるが、或者は身体虚弱であり、脳力低劣である。これは一体うした訳であろう? 天は公平であるというが、それは必だしも事実でない。天道是か非かと言いたくなる………。

 うした疑問が崔氏の頭に宿ったのは今から三十三年前だと言いますから、つまり氏が二十歳前後のことであります。藤村操などという青年はうした煩悶はんもんの結果、いわゆる巌頭之感を残して華厳の瀧に飛び込んでしまった。他に事情もあったか知らぬが随分性急短慮な話であります。崔氏がとの疑問に逢着した時に、仏仙の教に志したいというのははなはだその着眼が良かったと考えられるのであります。いたずらに頭脳に依って思索に耽って見ても到底判らない以上、一つ全然ヤリ方を更えて、頭脳ヌキ、理智ヌキの方法で進んで見よう……。これは近代の心霊家のヤリ方と同一轍に出でたものであろうと信じます。

 親しく崔氏に就いて訊きただして見ると、氏の方針は、これを一言にして尽せば、

仙より仏に入る

 ということのようでありますが、これははなはだ結構な方針であると私は信じます。つまりず仙道によって心身を改造し、心霊上の体験を重ね、修行を積んだ上で、悟道の妙境に入ろうというのであります。心霊家の最大眼目もつまりこれに出でないのであります。

 仙道だの仏道だのというと、一方神道の考え方に慣れ、他方において西洋式の学問に親んで来た現代日本人には何やらちょっと縁遠いもののように考えられますが、これは単なる用語の相違から一時戸惑いするに過ぎないものと考えられます。世界の人類は従来れ丈この用語の相違のめに幼稚愚劣なる争闘に耽ったか知れません。仏教徒は真如とか、阿弥陀とか言わなければ承知ができず、キリスト教徒はゴットとか、エンジェルとか称えねば気が済まず、神道家は天之御中主神、八百万神でなければ夜も日も明けない。哲学者は又哲学者で、大自然とか、大精神とか、絶対とか、相対とか、無差別とか、差別とか言いたがる。皆一応もっともであるが、だんだん考究して見ると、結局同一物を異った名称で表現して、額に青筋を立てて居るに過ぎない場合が多い。われわれ心霊研究者としては、一時も早くこの陋習ろうしゅうを打破して、世界全体、すくなくともず東洋全体を一視同仁の神聖なる学術的基礎の上に据えつけるべく最大の努力を払わねばならぬと信じます。

 私見にして誤らずんば、所謂いわゆる仙道というものは、つまり東洋式の心霊的修行法に外ならざるものと考えます。決してこれは眉唾式の不思議な術でも、又気まぐれ式の道楽仕事でも何でもない。立派に純学術的又人道的基礎の上に立脚して居る、意義深長なる実行的修養法の一つと考えられます。この修養法につきては崔氏から詳述さるる筈でありますから、それがいかに規律整然たるものであるは充分に首肯し得らるると信じます。

 仙道においもっとも肝要なる点は、それがあくまで人道主義を背景として居ることであります。即ち仙道においては

 一切の個人的慾望から離脱すること

を先決問題として居るので、これがはなはだ面白い点であります。現代の霊術家の大部分が欠如しているのはこの点の用意の足らざることであります。彼等が唯物主義を罵るのは一応もっとも千万でありますが、しかし彼等の大部分が厳密なる人道主義の規格に当てはまらず、あるいは権勢の奴隷となったり、あるいは名利の奴隷となったり、はなはだしきは女色にあこがれたりするので――換言すれば個人的慾望から離脱することがきないので、相率いて魔道に陥るものが多い。仙道と魔道――これは共に同じ心霊畠の中に属しますが、両者の間には天地雲泥の相違があるのであります。これは斯道に志すものの寸刻も忘れてならぬ重大事かと考えます。

 仙道に就きての私自身の知識はまだはなはだ未熟でありますので、ここでは仮りにその概念だけを述べるにとどめ、他日研究の出来るに従って私見を発表し、皆様の御高教に接したいと存じて居りますが、兎に角仙道が心身修養上の極めて重大なる一法であることは断言して差支さしつかえないと思います。但し仙道修行はむしろ悟りに入るめの一の準備行動であって、人生終局の目標でないことは崔氏の述べらるる通りであると思います。崔氏の所謂いわゆる仙より仏に入るとはこの間の消息を道破したものでありましょう。

 すべて何事によらず準備が必要であります。数学にしても算術の素養なしに、代数、幾何、三角は判らず。代数、幾何、三角の素養なしに微分積分等の高等数学は判りません。人間最終の目標が、真信仰の獲得、大悟徹底、安心立命であるにしても、一足飛びにその境涯に入ることは、すこぶる至難、ほとんど不可能と言わねばなりますまい。釈迦にしてもキリストにしても幾年の準備時代、つまり仙道修行時代があったのであります。

 ところが既成宗教の多くが、兎角この準備をヌキにして遮二無二最後の大目標の達成にのみあせる傾向のあるのははなはだ面白くない点かと考えます。知識ヌキ、体験ヌキ、実験ヌキの信仰鼓吹は、結局

 迷信の扶植に終る

ことは事実が立派に証明して居ります。その証拠にはそんな人間がイザという場合に碌なことをしないので判ります。現在の世界の大動揺、大争闘、大不安も、つまり人類の胸に確実堅固なる真信仰が宿っていない証拠でなくて何でありましょう。

 この際崔氏のごとき誠実な人格者が現われて、献身的に最後の目標にすすみ入る準備として、鋭意仙道の体験を積みつつあるというのは何たる慶賀すべき事でありましょう。無論各人性質が異なり、境遇が異るので、一図に崔氏の真似はできますまいが、しかしの体験ははなはだ有力なる学問上の基礎的資料であり、真信仰樹立の糧を供給するものとしてはなはだ尊重すべきであります。お日本にも、せめて此種このしゅの純真なる修道者が、この際五七人は出現して欲しいと存じます。霊術を看板にして飯を食おうとあせるのみが、決して能事ではありますまい……。


底本: 雑誌 「心霊と人生」 第四巻第四号

発行: 1926(昭和2)年4月1日 心霊科学研究会

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準拠して、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、章毎にページを分け、箇条書きに改行を加え、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、強調表記に、置き換えました。

※ 入力:いさお      2008年5月13日

※ 公開:新かな版    2008年6月25日


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