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中尾教授の霊能

――中尾氏の近著『透視と其実例』を読む――

一 自覚せる霊能者の出現を待つ現代

 大阪高工の教授中尾良知氏の霊媒能力がそろそろ具眼者の注目を惹くようになったのは、この一両年来のことで、その端緒はけだし大朝の記事から開けかけたようであります。本誌の昨年九月号にも渡邊天囚氏の『浜寺行』と題する同氏訪問記事が掲げられて居り、爾来じらい本会々員並に読者の脳裡に中尾氏の姓名がよほど強く印象せられて居ることは、間断なく私の手許に同氏につきての問い合わせの手紙が来るのでもほぼ推定されます。

 かかる際に当りて、先般中尾氏自身の著述にかかる『透視とその実例』が出版せられたことは、時機から言っても誠に当を得て居るものと言って宜しいと考えます。

 私の観るところにして誤らずんば日本国民は心の底の底からすっかり唯物的に化石し切って居るとは考えられません。もちろん日本の学者という学者の大部分がまだ痛切に心霊問題に触れて居ないことは事実であります。たまたま触れるものがあるかと見れば、約半世紀ばかり時代におくれた不窮理ふきゅうりな材料に拠りて、驚くべく幼稚不徹底な僻説へきせつを振りまわす位のものであります。又日本の職業宗教家の大部分が、古典の釈義、抽象的の空論等に耽るのを畢生ひっせい能事のうじとして居ることも事実であります。死後の世界の有無、三世因果の実際等に就きて追窮ついきゅうして見ると、多くは小供こどもだましの寓言や比喩譚などを持ち出してお茶を濁すことばかり考えます。日本民族を唯物的に教育することにかけては随分努めたりというべきであります。うした教育法がある程度まで効果を収めたことは疑われません。日本人の大部分、就中その教養ある者の日常生活は現世的思想にかぶれ切って居ります。すくなくともかぶれ切るべく最大の努力を惜みません。私などもそうした生活を味読して来ましたから、充分その真相が判って居る筈と思います。――が、明治以来の教育というものは、主として理智からのみ入ったものであるから、言わば一の附焼刃つけやきばで、人間の本性までも根本的にまげげ切るところまでは達して居ないようです。『理窟りくつではそうかも知れぬが、うも何やら腑に落ちない……。』何人の心の奥の奥にも大抵そうした不安の囁きが聴えて居るようです。『一年有半』を著わして唯物的現世思想のめに万丈の気焔を吐いた中江兆民先生でさえもが、いよいよ死期の迫った時には極度の煩悶苦慮はんもんくりょに捕えられたということであります。

 んな具合ですから、案外日本人は人知れず心霊のかてを求めつつあるのが事実らしいのであります。殊に近年物質科学並に物的思想の長所と共に短所がだんだん判って来るに従いてその傾向が顕著であるように見受けられます。かの静座法がさかんに流行したり、気合術めきたるものが喧傅けんでんされたり、何々師などという敬称が多くの霊術者によりて愛用されたりするのを考うれば思い半ばに過ぐるものがあるかと推定されます。おそれ多い話ではあるが 明治大帝又先帝陛下の御崩御に際して湧然ゆうぜんとして族出ぞくしゅつせる幾多の社会現象から察しても、人心の奥にひそめる宗教的感情又は霊魂思想と言ったようなものは案外に根強いところがありはせぬかと想像さるるのであります。

 遺憾いかんなことには明治大正を通じての従来の日本国には唯物的思想の跋扈ばっこを阻止するに足るほどの優れた心霊現象があまり起らなかった。優れた心霊現象が起らなかったということはつまり優れた霊媒が出現しなかったということであり、優れた霊媒が出現しなかったということは、つまり道義的に見てすぐれた人格者がその方面に居なかったということであります。人格的霊媒の無いこと――これがこれまでの日本国の致命的大欠陥であったようであります

 物質科学者でも人格の下劣なものは到底真の大を成すことは困難であります。いわんや心霊上の問題となると、それが直接に仕事の上に響いてまいります。ここがその一番困難な点であります。人格の下劣な悪霊媒ほど世に始末のわるいものはありません。悪霊と小人とが合体してグルになりてイタズラをやられては実に危険至極厄介千万で、これほど社会人生を毒するものはありません。

 無論人間はんな人でも何かのハンディキャップを仕負って生れて来ていないものはありません。第一に遺伝的の体質なり、又癖なりを先天的にそなえたる肉体を有っている。こいつ多くは叛骨稜々はんこつりょうりょうたる我侭者わがままもので間断なく霊性の指示を無視しようと試みる。第二に自分の置かるる環境がきまっていて、それが何かしらの繋累けいるいとなる。富貴には富貴に伴う拘束があり貧賎ひんせんには貧賤ひんせんに伴う束縛があり、更に大きく見ると国民的、人種的、風土的其他そのほかの拘束がある。それ等がつまり宗教家の所謂いわゆる罪で、まさしく人間は罪の子に相違ないと思われます。罪があるから人間なので、罪がなかったら人間などに生れはしません。直ちに神であり、仏であり、天使であります。

 結局人格者といい、非人格者といい、又善人といい、悪人といい、共に罪の子であることに大差はない。いずれも欠点だらけの人間でありますが、ただ両者の間に顕著なる相違点が一つあります。外でもない、それは自覚の有無如何であります。即ち人格者というのは自己の欠点の自覚を出発点として精進の道を辿るものであり、非人格者というものは自己の欠点を全然棚に上げ、どこまでも自己慾望の満足に腐心するものであります。ですから最初は両者の間にそう大した懸隔もない筈なのですが、しばらく過ぎてから振り返って見ると実績の上に東西万里の相違が生じてまいります。

 明治から大正の日本国は余りにも自己慾望の満足を出発点とせる無自覚的霊能志望者の多いのに悩みました。口頭丈ではそれぞれ殊勝らしいことを呼号していますが、結局それは皆信者集め、又は愚者集めの表看板でありました。物質的に行詰を感じた日本国民はうっかりして一時それ等に迷いましたが、モー今日ではそれ等の売薬式無自覚の霊能者に愛想をつかし、ひたすら純真なる霊能者、換言すれば自覚せる人格的霊能者の出現に向って、あこがれて居る時代のように見受けられます。

二 中尾氏の態度 

三 信仰に入った動機

四 霊感を得た動機とその性質

五 実例の分類


底本: 雑誌 「心霊と人生」 第四巻第三号

発行: 1926(昭和2)年3月1日 心霊科学研究会

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準拠して、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、章毎にページを分け、箇条書きに改行を加え、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、強調表記に、置き換えました。

※ 入力:いさお      2004年2月07日

※ 公開:新かな版    2006年2月7日 (改訂2008年5月4日)


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