心霊図書館雑誌総合案内> 「心霊と人生・第三巻

大坂行

憑虚

 時節はよし、松茸は盛りなり、久しぶりで関西の空気を吸ってはどうかとの龍田老、今井老はじめ、なつかしい人達のすすめに応じ、大急ぎで行李をととのへて鶴見をとび出したのは十月十五日の朝でした。

 横浜で汽車にのりかえたのが午前八時過ぎ、心も身も次第に西へ西へと走る。生憎空は雨模様で展望もきかずその上満員ときているので、せう事なしに原稿紙と万年筆を取り出して講演の草稿を作ることにしました。少々文字の書きにくいのが玉に疵だが、時間つぶしにはこの上なしの名案、読書するよりもこの方が遥かに車中の退屈を凌ぎ易いようでした。で、一と通りそれを書き上げた頃にはいつの間にやら躯はもう参河と尾張との境界辺まで来ていました。但しそのお蔭でうっかり浜名湖附近の風光を見落してしまいました。

 午後六時五十分大阪に下車、龍田老に迎えられましたが、今夜は神戸の飛田氏を訪ねる約束ができていたので、そのまま老と分れて阪急電車で更に西へと急ぐ。途中から、朝から催していた雨がビショビショ降り出しました。

 その夜は布引下の飛田氏邸で十二時頃まで話し込んで寝に就きました。翌朝は土砂降りでほとんど出るも引くもできません。とうとう市内の今井老、市外の関氏等を訪ねることは断念して、午前十時過ぎに大阪へ引きかえし、龍田邸に入ると、其所そこで丁度東京から着いたばかりという藤田西湖氏に会いました。

 当夜は尼ヶ崎在『大阪合同紡績会社』の倶楽部で講演並に実験をする約束が出来ていましたので、少し早目に晩餐をしたためて、私と藤田氏と、今井、龍田の二老と四人で宿を出ました。幸い朝来の大雨はすッかり止んで雲間から夕陽の光が漏れ、道路も東京とは違ッてほとんどきれいに乾上がっていました。

 浄光寺の停留場には会員の原義一氏がわざわざ出迎られていて万事の世話をして貰いました。講演はず今井老が一席、例の芸術と心霊との交渉関係を弁じ立てられ、そのぎに私が一席、約二時間許喋りましたが、昨日汽車の中で書きつけたところの半分も述べつくせず、彼方あつちを省き、此方こっちを飛ばし、はなはだ物足らぬものにしてしまいました。どうも私は元来講演者には生れついていないものと見え、いつも喋った後で『どうもうまく行かない……』と心ひそかに歎息せぬことはずめッたにありません。最後が藤田氏の忍術実験、例の肉と霊との軽妙無比な使い分けは正にこの人の独壇場、猿飛佐助を再び地上に喚び戻したかと疑わるるところがあります。所謂いわゆる普通の霊媒式実験とは頗る趣を異にしますので、うッかりすると奇術でも見物するような具合に、口をポカンと開けてただただ呆れ驚く丈にとどまる方もすくなくありませんが、しかし研究心に富めるものにはたしかに一の好資料たるを失いません。当夜の実験なども余ほど面白いもので、少なからぬ印象を来会者一同に与えたようでした。その晩私達が大阪に帰って寝に就いたのは午前一時頃でした。

 翌十七日は大阪を中心とせる会員の大会というべきもので、会場は天神橋通りの実業会館の二階、午後一時から夜の十時迄という素的滅法に長い時間、これをたった二人で持ち切ろうというのですからなかなか容易でありません。晩餐の一時間をぬきにして講演と実験、実験と講演、兎も角もできる丈の事はつとめましたが、済んだ時には相当に疲れを覚えました。しかしるわれわれよりは受身の聴衆の方が余ッぽど気根の疲れる仕事に相違なく、九時間あまりも坐を離れずに聴講せられた会員諸氏の熱心さは恐らく他のいかなる学会にも類例稀れなことであろうと感心されました。

 翌十八日は世話人の方で気をきかしての全休日なので私は朝からぶらぶら出掛けて二三ヶ所訪問したり、円タクを乗りまわしたりしました。午後会員の中村医学士を訪ねますと、ねてお話ができて居たものと見え楠氏夫妻、斎藤氏などが来集せられ、それから今橋の某料亭につれ行かれて久しぶりで口からも眼からも関西味を満喫したことでした。藤田君も招がれて後からそれに参加しました。が、九時頃龍田老からの使者が来て、新舞鶴の宮沢理学士その他多勢宿に待っているとの報知にびッくりして私は急いで帰りました。来会の諸氏と雑談の後寝に就いたのは又々十二時過ぎでした。

 翌十九日は午後六時から新交倶楽部に於ける講演の約束がある丈で、比較的暇があったので、午後二時頃から龍田、藤田の二氏と私と、二人づれで箕面へ遊びに行きました。平野町の心霊倶楽部に滞在中、一昨年の丁度今頃 つえを引いたことが記憶に残って居ますが、いつ行っても箕面という所は悪くない。音立てて流るる渓流、苔むせる奇岩、昼お暗き木の下道、とど登りきわめたドンづまりに白布をかける十丈の飛瀑――変化もあれば相当の深みも落付きも備わりて、都会附近にめッたにこれほどの勝地があろうとは思われない。すくなくとも東京附近にはその匹儔ひっちゅうがない。私は久しぶりで眼と心の良い保養をしたことでした。

 帰路は驟雨しゅううにせき立てられながら五時過ぎに山を降り、電車の厄介になって新町の新交倶楽部に駆けつけて見ると正に午後の六時でした。ここでは二度ばかり講演を依まれたことがあり、私に取りてお馴染の方もちょいちょい見受けられましたので、何となく気のりがしてとうとう予定よりも長く、二時ばかりも弁じ立てました。それが済んでから藤田君が例の実験なので相当時刻は遅くなってしまいました。

 会が果ててからも、蘆屋から来訪された霊光洞の關氏、日本エレベター製造株式会社の堀覚太郎博士、いつも関西に於ける心霊研究の元締となってくれる猪熊氏等と卓を囲んで雑談に時を移しました。堀博士はかつて厳父の死に際して心霊上の体験を有っていられる方なので、大変楽に心霊上の諸問題を受け容れてくれたのは愉快でした。

 以上三回の講演実験で、一とずこちらの責務は済みましたので翌日はいささか骨休めのつもりでゆッくり膝を延ばし、今井老龍田老等と閑談に時を移し、午後二時から高等工業学校の中尾良知教授を訪問しました。幸い時間が明いて居たのでゆッくり会談ができました。中尾教授のことは渡辺天囚氏の『浜寺行』(本誌九月号所戴)にほぼ尽されているからここに省略しますが、同氏のような人格と霊覚と学問の珍らしく合併した人物が現われたことは誠に荒涼たる日本の心霊界に於ける空谷の跫音きょうおんで私は切に同氏の自愛を望んで止まない次第でした。きけば教授は過去数年間に取扱った五千余件の実験の粋を選んでその顛末を記述し、一冊の書物として近く発表するそうで、これは心霊研究者に取りて恐らく有力なる参考資料となるであろうと思われます。日本の心霊界で一番遺憾なことは記録の貧弱なことで、そのまま立消えになってしまふ心霊事実がどれ丈沢山あるか知れないと存じます。中尾氏の今回の挙のごときは誠にその当を得たことと祝着に堪えません。

 翌二十一日は至極の快晴、私はなつかしい大阪を後に、午前十時の汽車で帰途に就き、午後八時には早くも鶴見に戻りました。(二十二日記)


底本: 雑誌 「心霊と人生」 第三巻第十二号

発行: 1925(大正15)年11月1日 心霊科学研究会

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準拠して、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、章毎にページを分け、箇条書きに改行を加え、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、強調表記に、置き換えました。

※ 入力:いさお      2008年2月28日

※ 公開:新かな版    2008年4月25日


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