心霊図書館雑誌総合案内> 「心霊と人生・第三巻

頭、胸、腹

小松並樹

 

△人体に霊魂が宿っているという事は、理論から云っても、実験から云っても最早問題ではない。このきまり切ったことをあたかもそれが未解決の問題であるように取扱わんとするところに旧時代の迷妄が残る。科学に対する西洋の宗教裁判、開国進取に対する日本の鎖国政策、イヤ人生は兎角こんなことで騒がしい。

△ところで、この霊魂はんな具合に人間の体の内部なかで働いているか? その詳しい調査は今後幾年幾十年の精緻な研究に待たねばならないに決っているが、しかし大ざっぱなところは今でもよく判っている。判り過ぎるほど判っている。外でもない霊魂が体の内部なかで、頭、胸、腹と巧妙な三つの使いわけをやっていることである。

△同じ水でも使い方は一様ではない。飲用にも使へば洗濯用にも使い、又圧力のめにも使う。霊魂だってその使い方がたった一と色にきまって居る筈がない。目的に応じ、必要に応じて変通自在であるべき筈だ。果せる哉、それが頭に働く場合、胸に働く場合、又腹に働く場合で、同一物がうも相違するものかとほとほとびッくりさせられる位である。

△霊魂が頭に働く場合――それが十九世紀来一ばん流行の使い方で、就中ヨーロッパ人のお手のものである。心理学者はその働きを捕えて理性と呼んでいるが、これはつまり物の理否、善悪、利害、正邪等をきめるところの打算的、整理的の事務作用である。人間にこいつがなかったら当面現在の仕事がさッぱり手につかず、混乱雑沓を免れないことになる。頭の長所は其所そこに在るが、しかし短所もまた其所そこにある。現在の事はよく判っても現在眼の前にないものはさッぱり判らない。又余りに几帳面に過ぎる結果面白味やをかしみなどが味塵もない。

△日本の明治時代は正にこのあたまの象徴だ。お蔭様で鉄道ができる、電信電話ができる、憲法ができる、規則ができる、議会ができる、組合ができる、博士ができる……。誠に以て難有ありがたい話で、われわれはどれ丈その恩沢に預かっているか知れない。が、面白味からいうと余り結構な時代でもない。ちらを向いて見ても大概コツコツした学究だの、コセコセした事務家だのが居るばかりで、ゆとりとか、脱落気分とか、超越味とかいうものはさっぱりない。

△霊魂が胸に働く場合――それが感情の源泉であることは言うまでもあるまい。快不快、好き嫌い、恋いしい、憎らしい、悲しい、嬉れしい、うらめしい、恐ろしい、恥かしい………。ことごと此所ここの受持に属する。胸部の道具立は肺、心臓、胃その他いろいろあるが、中でも一番の花形は心臓である。胸といえば心臓、心臓といえば胸、両者の間にほとんどけじめがない位に取扱われる。人間がある程度感情の動物である以上心臓の多忙であることは大抵察するに余りある。

△人間の中で最も頻繁に心臓を虐使するのは婦人、殊に妙齢の処女であるらしい。ちょっとした事にかけてもすぐに心臓をときめかせる。一本の花を見ても心臓、一匹の毛虫を見ても心臓、一筋の半襟やリボンを見ても心臓である。いわんや若い、美しい異性でも見た日にはイヤ心臓を使う、使う。体中の血管に向ってさかんに紅い血汐の輸送を開始する。若い女性はほとんど胸だけて生きている。

△時代に就いて考えると、日本の平安朝だの、元禄時代だのというのは人間が主として胸で生きて居た時代のようである。んな時代は女性若くは女性式の人物の黄金時代で、文学だの戯曲だの遊勢だの詩だの歌だのというものが栄えるのに反して士気だの道義的観念だのというものは大に衰える。人種でいうとラティン系の民族だの日本民族だのは大体胸の人種らしい。

△よく侠客の親分などが、『万事は俺の胸三寸に納めてある』ことの、『のみ込んだ』ことのというようだが、これは、ただ感情に走るという意味ではないらしい。物事はそう理窟ばかりで行くものでない。そこには多少人情も加味して、七分三分の辺で納めてやらねばならぬということの意義らしい。所謂いわゆるいも甘いも噛み分けたさばきをやるのが本旨であって、これは余程の苦労人でなければ到底できる芸当ではなかりそうだ。

△最後に霊魂が腹に働く場合――これは普通直覚だの、インスピレーションだのと呼ばるるもので、霊覚と言っても霊感と言っても、その内容なかみには大した相違のある訳ではないようである。こいつ頗るヌーボー式で、せせこましい頭だの、ビクビクものの胸だのを尻目にかけ、まるきり途中の運算ヌキで一挙に答を掴もうという傍若無人の振舞をする。

△役者がこれをやると団十郎張の腹芸となる。剣術家がこれをやると塚原卜傳式の無手勝流となる。文学者がこれをやるとダンテ、李太白式の神品となる。軍人がこれをやると鵯越式の突撃となり、日本海戦式の大勝となる。まかり間違ったら大変な失策しくじりをやらかしそうで滅多に失策しくじりらないのがこのやり方の特長である。

△禅宗の坊さんなどがこの腹の鍛え方に着眼したのはさすがに見上げたものである。腹を拵えて置くことは丁度刀剣を磨いて鞘に収めて置くようなもので、イザという時に役に立つ。――が、磨くは磨いても鞘に収め切りの人が大部分を占め、従って一生涯ただ床の間の飾り物になってしまい勝ちであるようだ。少々どうも惜しいような気がする。

△以上頭、胸、腹と三通りの霊魂の使い分け、れも人生に処するのに必要のしろものばかりだ。頭ばかりが大切でもなければ、胸ばかりが重宝でもない。腹だっても単に飯や酒を詰め込む場所とのみ思うと大変な心得違いだ。必要に応じて自由自在にこの三つを使いこなすところに人間らしい人間が出来上る。(一五、八、三十)


底本: 雑誌 「心霊と人生」 第三巻第十号

発行: 1925(大正15)年10月1日 心霊科学研究会

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準拠して、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 入力:いさお      2008年2月29日

※ 公開:新かな版    2008年4月19日


心霊図書館雑誌総合案内> 「心霊と人生・第三巻

心霊図書館: 連絡先