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ステイントン・モーゼスの犠牲的生涯

▼近代心霊研究中興の大霊媒▲

小松並樹

(一)その閲歴

 近代的心霊研究の創業時代に当り、真剣勝負でこの新原野の開拓に任じ、唯物的迷信の奴隷となってあたまから心霊的非常現象を否認せんとしつつある一般世間の悪罵あくばと疑惑とを事とせず、勇往邁進ゆうおうまいしん真理のめに自己の所有する一切のものを犠牲としてごう躊躇ちゅうちょする所なかりし英国の大霊媒ステイントン・モーゼス師の堅き生涯は熱心なる斯道しどう研究者の尊重措かざる所である。彼は真に近代心霊学界中興の偉人である。自分自身が学者であるので、他の霊媒が比較的無邪気で、呑気のんきであるのに反して、あくまで懐疑的、批判的態度を執り自己の肉体を通じて交通する所の霊界の人物を弁難攻撃、少しもこれに盲従することなかりし事蹟は特に讃仰さんごうに値するものがある。

 ステイントン・モーゼスは一八三九年英国リンカーンシャーのドンニングトン村に生れた。父はウイルレム、モーゼスとって同地の中学校グラムマ、スクールの校長であった。彼は父の学校で学び、次いで家庭教師の手を経、十六才の時にベッドフォードの中学校に入学し、 一八五八年十九才の時に牛津オックスフォードのエクゼタア大学に入学した。牛津オックスフォード在学中、たまたま彼は重病にかかり、保養のめに海外旅行に出掛け、其際そのさい露国に入り、エーソス山の希臘ギリシア僧院に六ヶ月も滞在した。二十三才の時に英国に帰り、翌年卒業して学位をた。

 一八六三年彼は英国教会に入りてアイル・オブ・マンのモーグフォールド村で牧師補の職に就き五年の歳月を送った。そのあいだに猛悪なる天然痘がその教区内に発生し、いかに彼が寝食を忘れて罹病者のめに精神的並に物質的の救助に努力せしは有名な話で、再三自分も感染の危険に陥ったのであった。伝うる所によれば彼は日夜病人の枕辺で看護の労を執ったばかりでなく、自から手を下して墓穴を掘ったり、棺桶を担ったりしたということである。

 一八六八年彼はダグラスのセント・ジョルジ教区に移り、ここでスピーア博士夫妻と会したが、その交誼は終生続いた。一八六九年彼はドルセットシャーのラングトン・マトラヴァースに移り、更にサイスベリ教区に移ったが、それが彼の牧師生活の最後で、咽喉を害しために一切の説教を廃すべき余儀なくせられて第二次静養時代に入った。一八七一年から八九年迄は龍動ロンドンのユニヴアシティ大学の講師を勤めて生計を支え、ついに一八九二年長い間感冒インフルエンザに悩んだ後で卒去した。なり多忙な生涯であったが、外形的にはすこぶる単調平凡な生涯であった。操觚者としては、『パンチ』『サタデイ・レヴュー』等に寄稿し、それから『ライト誌』の最初の主筆であり、又『龍動ロンドン心霊協スピリチアリストアライアンス』の創立者兼会長であった。しかながら彼の名声をして不朽ならしむるものはこんな事柄ではない。霊媒として異常の能力を発揮し物理的並に精神的非常現象を続発せしめて押しも押されもせぬ近代的心霊科学の基礎を確立するに成功したこと――それがこの人の身上である


「心霊界」第二巻

目  次

(二)諸種の現象


底本: 雑誌 「心霊界第二巻第一号」

著者: 小松並樹

発行: 1923(大正13)年12月1日 心霊科学研究会

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準拠して、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、章毎にページを分け、箇条書きに改行を加え、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ 入力:いさお      2007年2月20日

※ 公開:新かな版     2007年3月17日


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