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主張と告白

その一

――信仰問題心霊問題を中心として――

浅野 和三郎

一、私の執筆の趣旨と態度

 主として自己の経験せる活きたる事実に即して造らず、飾らず、一切を披瀝ひれきし、自分が間違ったと思う点は男らしくあやまり、ドーしてもげられないと信ずる所はどこまでも主張し、心身ともにすがすがしい気分になりて皆様にお目にかかり、有形的にも無形的にも真に容易ならざる現代に善処して行きたいというのが私のいつわらざる衷心ちゅうしんねがいであります。同じ天日の下に時と国とをうして生れながら、お互に言いたいことも言わず、ききたい事もきかず、にらもしくはさぐりいの姿でその日その日を空費するようなことでははなはだ面白くありません。何にしろ信仰問題心霊問題に関して日本国の平静無為な思想界の空気に一の衝動――その善悪可否はしばらく問題として――を与えたのはかく申す私の仕業に相違ないのでありますからもってて私のほうから切り出して何とか御挨拶を申上げるべき道徳的責任が確かに存在するものと痛感致されますこの際私として是非とも守らねばならぬことは自他に対して詐りを言わぬことであります私は能るかぎりその覚悟で筆を執ります。大方の諸賢もまた公正な眼と広い度量とをもって不敏なる私の言説をきいて戴きたい。現在の世界の全人類就中なかんづくわが日本国民の頭上に落下しつつある大難局大試練を切り抜けるべき何等かの手がかり何等かの端緒が或はこんな折に見出されぬとも限りませぬ何となれば最近約十年来私の思想行動の中核となれるものは信仰問題心霊問題でありまして之をヌキにしては到底腐り果てたる旧世界の残骸を棄てて生気と光明とに充ちたる新世界の建設を夢むることは絶対に不可能であるからであります。かく考えますと私は今更いまさらながらこれから発表せんとする言説に対して重大なる責任を感じ、最も厳粛なる気分で筆を執る次第であります。

 信仰問題心霊問題を対象とし事実に即して詐らざる告白をなすにつけては私の筆は必然的に綾部の大本教に言及せざるを得ませぬ。大本教は私が此等これらの問題に接触すべき手がかりであり、又修行場であり、私に取りては実に重要無比の意義を有して居ります。若しも明治から大正にかけての日本国に綾部の大本教なかりせば、私の如き鈍根どんこん劣機れっきの者は今尚いまなお依然として信仰上心霊上の諸問題に対して風馬牛ふうばぎゅうであったかも知れません。すくなくともこれめに数年乃至ないし十年位の遅延を来したであろうと信じらるべき理由があります。この点において私と大本教との関係は極めて密接であります。

 しかしながら私と大本教との関係はむしろ過去に属し現在においては全然没交渉と申してよいのであります。心霊問題、信仰問題に関して心眼を開いて貰った時代の私は飢えたる者が食を択ばずの流儀で、大本の神啓、教理、又その施設方針等に対してほとんど無批判的に一も二もなく受け容るる有様でありましたが、次第に心の平静を回復するに連れ、私は次第次第に大本の長所と同時にその短所とを痛感するに至りました。

『大本はこのままでは駄目である。』

 私がそう気がついたのは大正七年と八年の境の頃であります。そして何とかしてその根本にわだかまるところの欠点弊所を除き得ぬものかと努めたのでありますが、私の微力をもってしてはそれが到底不可能であると気がついたのは大正九年の末でありました。

『自分はいよいよ大本を去らねばならぬ。』

 そう決心して、私は大正十年の一月中旬大正日日新聞社長、大日本修斎会総裁等、大本関係の一切の公職を辞しました。善いと感じてこれに就き悪いと気がついてこれと離れる――私の心事に何等なんらやましい所はありませぬがただ何とも申訳のなかったのは私の軽々しく発表した大本の紹介的宣伝的言論文章であります。大本教は決してすべてが悪くもなければ間違っても居ないと同時に、又決してすべてが善くもなければ正当でもない。真に思慮あり、又経験ある人であったならず仔細にこれを審査究明し、しかしてのちおもむろにこれを天下に発表したでありましょうが、当時の私はその用意にはなはだしく欠くる所がありました。そして心弱くも周囲の大勢に引きずられ、概念的に大本の長所美点を羅列して、世の非難者疑惑者に対抗せんとしました。日本国のほとんど総ての新聞雑誌から概念的に邪教呼ばわりをされたのは、今日から翻って考うればまことに正当なる報復であって、罪は全然私どもにあって全国の新聞雑誌にはありませぬ

 兎に角自分の誤謬ごびゅうに気がついた私は大本と離るると同時に、第三者としての公平なる立場からおもむろに信仰問題、心霊問題の攻究に当り、今までの玉石混淆ぎょくせきこんこうせる言動に対し大修正を加えねばならぬと覚悟したのでありましたが、御承知の通り同年の二月に大本の裁判事件が起りました。裁判事件はほとんどすこしも私の企図せる攻究の障害とはならず、る意味においては却って反省と思索との絶好の機会を私に恵みましたが、ただ之がめに、皆様と私との間にる程度のへだたりを生じたのは是非もない事でありました。

『大本教に対し又汝の信仰につきて早くいつわらざる告白をしてはドーか。』

 この意味の督促が大本信者からも、信者以外からも、知人からも、未見の方からもこの両三年来間断なく私の手元に到着しつつあったのは事実であります。る者は私を目して優柔不断とののしり、又る者は私を以て責任観念に欠如せるものと責め、又る者は私を以て大本と不即不離の関係を持続しつつ巧みに世間の耳目を糊塗ことせんとする策士であると臆測おくそくしたことも事実であります。私の私情としては一日も早く自己の立場を天下に釈明して山積せる道徳的負債を幾分たりとも償却したいとの念慮に駆られぬではありませんでしたが、沈思ちんし熟慮じゅくりょの結果、私はしばらくこの問題に関して一切沈黙を守ることに決めました。大正十年の初から今日に至る足掛四年の沈黙の歳月は、私に取りて相当長いものに感じられました。私の如き未熟な者が曲りなりにもこの沈黙に堪え得たのは心霊の研究がもたらす無限の歓びと尊き教訓又利害得失の打算の外に立ちて前後左右から奨励保護の労を執られたる知己の賜に外ならぬものと痛感致されます

 が、今日となりては私をして沈黙を守るべく覚悟せしめたる主なる原因が次第次第に消滅しつつあるを感ぜしめます。主なる原因とは一は主観的のもの、一は客観的のものであります。即ち

自分は果して一点の歪みなき言説を試むる丈の心の平静を回復したか。』

自分の言説が必然的に言及せねばならぬ個人又は団体に何等の累を及ぼすことなきか。』

 細かに穿さぐれば他にも一二の理由は見出されましょうが、私をして四年の星霜を沈黙の裡に送らしめた主要なる理由は、右の二ヶ条に要約することがきるのであります。弱いと笑うものは笑ってください。愚なりと叱るものは叱ってください。私は甘んじてそれをお受け致します。不束なる私として、それが精一ぱいの努力であったのですから………。

 が、今日いよいよ筆を執りて一切の真情を天下に披瀝ひれきするのが正当であり、又必要であると覚悟をきめた以上、私はあくまで忠実にその目標に向って驀進ばくしんいたします。私は自己の陥れる過失誤謬を摘出して天下に謝するに卑怯であってはならぬと感ずると同時に、縦令たとえ恩師親友の間柄なりとも、その他いかなる種類性質の地位関係に置かれたるものの主張言動でありましても道に照らして腑に落ち兼ねるものは、正直に腑に落ちない所以ゆえんを発表して天下具眼の士の指教を仰ぎたいと決心して居ります。何誰どなたもお気がつかれて居ります通り、われわれ日本国民は今や精神的にも物質的にも又対内的にも対外的にも、真に一大危機に臨んで居ります。平穏無事の世の中ならば、心静かに書斎に籠り、又は山林に隠遁して、悠々自適の別天地に自分一人をまっとうすることも一策でありましょうが、今は決してそんな時節ではあるまいかと痛感されます。さればにや政治に、経済に、軍事に、貿易に、産業にその他すべての方面の方々が最善をつくして向上進展の実をあぐべく努力されて居るのでありましょう。私どもは幸か不幸か物質的施設経営とはすこぶる縁の遠い精神界の諸問題に没頭しつつある身の上ではありますが、それだとて決してその選に漏るる事は許されないと考えられます。イヤ私の主張としては日本国民は何よりも先ず信仰上心霊上の諸問題を解決してかからねばとても現在の難局に直面することは覚束ないと感じて居る次第であります。不敏私の如きものが他の一切の誘惑、一切の情実を排斥して微力の限りそのめに心血をそそがんと決心した所以ゆえんであります。

 繰り返して申上げますが私は主として自己の経験せる事実に基きて叙説をすすめます。すぐれたる頭脳の所有者は抽象的に高遠なる哲理を談ずることも結構でありましょう。又豊かなる学識の所有者は古今東西の資料を整理塩梅して啓蒙の労をとらるるもよいでありましょう。又秀でたる観察力想像力の所有者は戯曲小説の体を借りて深刻なる教訓垂示を生みつけらるるも妙でありましょう。不幸にして私にはそんな結構な能力の持ち合せが一つもありませぬ。私にあるものはただ最近十年の活きたる体験――苦悩失敗煩悶静思等の交互に錯綜せる半生の歴史のみであります。私はこの十年間の精神的生活の収支の総決算をするつもりで筆を執りますから、何卒なにとぞ大方の識者諸氏に於かれましても、そのおつもりで御閲読を賜わり、すくなくともこれによりて私の陥りたる失策を再び繰り返さるることのなきよう蔭ながら希望致します。私の記録は他に全然取柄とすべき点がないとしてもただこの点――他山の石としての価値のみは多少存在するのではあるまいかと考えられます

 既に私の執筆の目的が信仰問題、心霊問題を中心として自己の体験を告白するにありますから、何所までもその中心を離れぬように心懸け、従って個人の私行に対する批判や、感情上のいきさつなどには全然触れない決心で居ります。従来世にあらわれた大本関係の評論批判にはとりわけこの弊が多く、大ざっぱな概念上の論難ろんなん庇護ひごや感情上の上げおろしでほとんどその全体を占領し、識者をして眉をひそめしむるような傾向が顕著であったかと感ぜられますが、私はできる限りその弊を繰り返したくないと痛感して居ります。若しも私の言説にそんな不純の分子が微塵も混入して居りましたなら、御遠慮なく御叱りを願いたく存じて居ります。

 最後にくれぐれも皆様にお断りして置かねばならぬことが一つあります。他でもないそれは私の書く文字が兎角粗枝大葉的一気呵成的で辞句の上に多量の欠点が存在することであります。私としても充分この弊を感知せぬではなく、できる丈それをめるべく心懸けて居りますが、もって生れた性分は容易く直りません。何卒なにとぞ読者においその点は幾分大目に見て、私の趣旨の那辺に存するかを大観され、余り言葉尻のとがめ立てをなさらぬようお願する次第であります。


 

目  次

大本教の神懸現象


底本: 雑誌 「心霊界第一巻第八号」 

発行: 1923(大正13)年9月1日 心霊科学研究会

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準拠して、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、章毎にページを分け、箇条書きに改行を加え、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、強調表記に、 黒丸傍点表記を、下線付き強調表記に、置き換えました。

※ 入力:いさお      2006年7月28日

※ 公開:新かな版     2006年9月30日


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