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真信仰勃興の機運

浅野和三郎

一、宗教と真理

 哲学、科学等の学問研究にありては主として理智の活用を必要とするにとどまりますが、宗教にありてはあきらかに理智の活用と同時に感情の活用を必要とします。理智の活用が充分でない時に宗教は迷信に堕し、感情の活用が伴わぬ時に、宗教ははなはだ実行力の乏しい、空疎くうそなる形骸けいがいと化します。

 『信仰は各人の自由』『いわしの頭も信心から』――古来んなことわざが一般に唱えられ、それがほとんど信仰に対する一の不文律となって居る観があります。これはあきらかに理性の活用を抑えて、もっぱら信仰心という熱情の必要を高唱したものに相違なく、実用的にはる程度まで有効なすくなくとも調法な規格かも知れませぬ。兎角人の信仰には小うるさい僻見や小理窟がつきもので、一々それを取上げそれにかかわり合って居た日には到底やり切れたものでありません。そこで高飛車にんなことを言って、手取早く形付けてしまおうというのが、右の如き諺の生れた理由でありましょうが、しかしヘタにこれを解釈すると相当に危険害毒を伴います。富士山の絶頂を窮めるがめには、途中の登路は幾条もある。何も御殿場口に限るとか、吉田口でなければならぬとかいう規則がないと同様に、信仰の彼岸に到着するがめにも、進むべき途は幾らでもある。アーメンでも、南無阿弥陀仏でも、南無妙法蓮華経でも、惟神かんながら霊幸倍坐世たまちはえませでも、事によったらいわしの頭の信心からでも、その境地に到達し得ないとは限らない。すなわち途中の手段方法ただしは形式等はさまで八ヶ釜やかましい詮議立てをするには及ばないというのが、信仰の自由という言葉の意義であると解釈すれば格別弊害も起らずに済むと考えられます。しかながら宗教の本質、例えば宇宙観、人生観、倫理観等の根本観念までも勝手放題に捏造ねつぞうし去っても構わぬというような事にこの諺を解する時に、それは確かに量り知られぬ危険害毒を伴います。途中の径路は何所を取るにしましても、宇宙の真理、人生の基本的要素を無視することはきないので、これを敢てする時に人生の大破滅、大混乱を醸成する所の悪信仰と化します。

 従来世界において最多数の人類を司配しはいした教は、キリスト教、仏教、儒教、道教、又は回々教等でありますが、此等これらが長年月にわたりてさばかり大勢力を占めて居た最大原因の一つは、いずれも相当に理智的に優れて居た点であると思います。すなわ此等これらの教が大体において宇宙の真理、天地の大道を捉え、修身斉家さいけの規範としても、又治国平天下の標準としても、又生前死後、その他百般の事物に対する人間固有の智識慾ちしきよくを満足せしむる点においても、他の多くの主義学説等に比して遥かに優れて居たがめに命脈が長かったことは確実であると思います。人間は感情の動物であると同時に理性の動物であります。前後矛盾、自家撞着どうちゃく辻褄つじつまの合わない、まとまりのつかない、出鱈目説やコジツケ議論をいかに多量にならべて、甘言をもっ押売おしうりを試みたところで、最後には誰でも相手にしなくなります。バイブルやコーランの中などには無論吾々の理性が首肯し兼ねる相当多量のドクマや臆説を混入して居り、又四書や老子の中には吾人の抱懐するすべての疑問に対する解答を発見し得ぬ不満があるにしましても、さすがに其等それらいずれにも永久の生命の道脈が流貫して居り、そしていずれの経典においても中心眼目はほぼ一致して居るやに見受けらるるのであります。万代不磨の真理の把持はじ――これは確かに優れたる経典の一大要素であり、又力ある宗教の生命の一大源泉であります。


二、宗教と科学

三、時勢と人物


底本: 雑誌 「心霊界第一巻第一号」 

発行: 1923(大正13)年2月1日 心霊科学研究会

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に準拠して、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、章毎にページを分け、箇条書きに改行を加え、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、強調表記に、置き換えました。

※ 入力:いさお      2006年5月28日

※ 公開:新かな版     2006年6月11日


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