念力につきて

――昭和九年二月二十五日大阪心霊科学協会に於て――

 

浅野 和三郎

 今晩の私の演題は「念力につきて」というので、時間の許す範囲で、ず念の種類、性質をきわめ、それから念の合同性、念の感応性、又念の養成法等にわたりて一と通り所見を申上げたいと存じますが、何分にも問題がそこぶる広汎なので、あるいは駆足で素通りする個所が自然発生するかも知れないと心配して居ります。その点あらかじめ御断りして置きます。

 さてこの念力という用語であるが、御承知の通りこれは元来仏教畑の熟語で、平たく言ったら一心に有形無形の何物かを思いつめる力を指すのであります。他にも仏教ではさかんに念という文字を使います。曰く念仏、曰く念願、曰く念誦、曰く入念、曰く失念、曰く妄念、曰く無念、曰く観念、曰く懸念、曰く疑念、曰く道念、曰く執念……その外まだ沢山あります。仏教から「念」という文字を削り去ったら仏教は恐らく破産してしまうかも知れません。これを観てもいかに印度民族、そして一般に東洋民族が、「念」というものの働きを重大視しているかを推定するに足ります。そこへ行くと西洋民族は大分勝手が異います。試みに彼等に向って、あらゆる力の中で、最も強力なものは何かと訊ねたら、その大多数は電力とか、水力とか、機械力とかを挙ぐるでありましょう。所が、印度人や日本人ならば、「それは念力である」と即座に答えるものが、百人中に一人や三人は必らず見出されるかと考えられます。メンタル、テストの材料としてちょっと面白いかも知れない。

 それにつけても想い出さるるのは、現在印度で躍起となって民族運動に没頭しているかのガンヂのやり方であります。あれなどは正に念力応用の好標本でありましょう。彼は口には平和主義だの、無抵抗主義だのと叫んでいるらしいが、はからんや、それは真紅まっかな嘘であります。ガンヂの執りつつあるのはあらゆる抵抗主義中の大々的抵抗主義つまり強烈なる念力を応用するところの大抗争運動でなくて何でありましょう。その趣旨目的の是非善悪は別問題として、いかにも印度人がりそうな対抗策であると痛感されます。


 不取敢とりあえず、私は心霊学徒の立場から、ず念の種類性質を分析的に考察して見たいと思います。概念的にただ「念」などと言ったところで現代人には満足できない。在来の思想界宗教界はこの点の詮鑿せんさくすこぶる足りなかったように思う。その結果しばしば念の活用に対する指導方針を誤り、飛んでもない弊害を醸成じょうせいしたのではないかと考えられます。そこへ行くと近代心霊研究は、正確なる事実と、三段論法式理論とに拠りて一歩一歩着実に進んでいるので何所にもあぶなッ気がないのであります。

 御承知の通り心霊学徒は意識の階段を認めている。その階段の分類法は人によりて繁簡精粗の別は免れないが、根本的のかんがえに何の相違もないのであります。私としては、いろいろの理由からして意識を四階段に分けて居る。即ち(一)慾望、(二)感情、(三)理性、(四)叡智の四つであります。念力とは要するにこの四つの意識が他物に向って働きかける精神作用に外ならぬものでありますから、従って念力も矢張りこれを四大別するのが正当であります。便宜のめに私はぎの名称を附することにします。

(一)慾念――主として肉体を機関として働く。

(二)情念――主として幽体を機関として働く。

(三)理念――主として霊体を機関として働く。

(四)正念――主として本体を機関として働く。

 従来は心と物、念力と媒体、とを別々に切り離して抽象的に取扱う傾向がありましたが、そんな不窮理な、そんな非論理的な考え方は一時も早く中止すべきであります。両者が常に陰陽不離の相対的若くは平行的関係にあることは、今日ではすでに科学的事実として承認されている事柄であるから、これに反対すべき何等の理由もないのです。オーラの研究は何をわれわれに教ゆるか? 霊視能力の活用は何をわれわれに指示するか? 数ある霊界通信は何をわれわれに説明するか? この際負け惜みを言っては良けない。取るに足らぬ事実と理論とは勿論むろんこれを排斥せねばならぬ。が、取るに足る資料は常にこれを尊重するの雅量を発揮せねばならぬ。学者としての、又思索家としての生命の有無は全然その態度いかんにかかります。

 兎に角念力がかく四種類に大別し得ることを考える時にわれわれは今更ながら日本の古神道の教理の深くて、そして又正しいのには、つくづく恐れ入るのであります。御承知の通り古神道では人間の魂を四種類に分類して居ります。即ち荒魂和魂幸魂奇魂であります。四魂の事は日本の古典の中に所々散見して居ますが、遺憾ながら従来の神道家も国学者も一人としてこれを正解する力量を有っていなかった。いずれも字義の上から安っぽい当推量を下すにとどまり、中には抱腹絶倒に堪えないような愚論愚説をさえ唱えている。現在でも下らない四魂の解釈を試み、もっぱら古神道の体面をきずつけることに熱心な学者、宗教家もあるようですが、まことに聖代の汚辱であります。心霊科学の見地から観た時に日本の四魂説は初めてその真価を発揮します。荒魂の荒は「あら」であり、又「あら」であり、要するに四つの媒体の中で、一番粗末な、そして一番新らしい肉体を機関とする欲念の事を指すのであります。荒魂という文字の使い方が何と巧妙的確を極めて居るではありませんか。私どもは内容の説明をせねばならぬ必要から欲念だの、肉体だのという、俗悪千万、不愉快極まる文字を使用しますが、成るべくなら早くその必要がなくなり、単に荒魂と言った丈で、すべての意味が完全に通ずる時代になってくれれば助かると考えて居ります。ぎに和魂の和は「にぎ」でやり「にぎ」であり、又「にごり」でもある訳で、要するに仲が良くなったり、又悪くなったり、玉石混淆式、キマグレ式の感情及び幽体の働きを遺憾なく言い表わした、実に含蓄の深い言葉であると考えられます。そのぎの幸魂、これも実に巧妙な用語であると思います。「幸」という字は古事記に、海幸うみさち山幸やまさちなどとありまして、深義にこれを解すれば、畢竟その人の特って生れた天分を指すものらしい。人間には名々そのさちがあり、天分がある。文芸のさちを持つ人、数理のさちを持つ人、哲理のさちを持つ人、等、等一人として何等か天賦的の特殊の使命を有たない人はない。万能は決して人間に許されないが、同時に又無能も許されない。要するに各自には先天的に所謂いわゆる個性の中枢とも称すべき高等意識が備わって居り、こればかりは後天的の教養感化位ではなかなか動かし難いものなのであります。私どもは致方いたしかたがないので、この個性的高等意識に理性だの、才能だのという文字を宛てはめますが、含蓄風格共に幸魂という熟字に劣ること五十歩や百歩の差ではない。ぎに最後の奇魂くしみたま――このくしはもとり宇宙の玄妙不可思議な神秘力を表現するに用いられたもので、安っぽい奇術の奇とはちがう。これが人間にそなわる最高意識であることは勿論で、完全に時空を超越すると同時に又個性をも超越し、小我にして同時に又大我でもある。要するにそれが人間として狙いつめる最高の理想なのであります。これを表現すべく、われわれは叡智だの、直覚だの悟りだのという文字を使いますが、いかに試みても奇魂という言葉を圧倒するという訳には行きそうもない。矢張りわれ等の祖先達はうまい事を言ったものだとつくづく感歎する次第であります。


 思わず四魂の説明に時間を費してしまいました。まだこれにつきて申上げたいことは沢山ありますが、しばらくこれを他の機会に譲り、今度は人間の四種類の念と人生の四種類の仕事との関係につきて一考察を遂げて見ることにします。人間の心の動きが決して一筋縄に行かないと同様、人生も亦決して一筋縄には行かない。即ち、科学道徳哲学宗教――この四つの方面の要素が揃わなければそれは決して完全円満なる人間生活とはなり得ないのであります。明治以後の日本国には科学はある道徳もある又哲学もある惜い哉宗教がない。よしやあってもそれは識者、為政者の考慮の外に放り出された野生のままの宗教である。これでは自然に迷信も発生し、又良心だの、敬虔の念だのという、最高の人間意識が自然に荒癈こうはいに帰しもする筈だと考えられます。何にしろ四本柱の中の肝腎な一本が腐ってしまっているのですから屋台骨がぐらつく筈です。

 所で、右に挙げた四方面の区別ですが、これは矢張り人間の念の使い分けが四方面に分れている所から天然自然にそうなったものと考えられます。即ち横着面な物質に即しての研究が科学を生み温かな人情に即しての研究が道徳を生み冷かなる純理に即しての研究が哲学を生み飽まで鋭き叡智直畳に即しての研究が宗教を生んだのでありますこれを日本流に当てはめれば荒魂あらみたまの受持が科学、和魂にぎみたまの受持が道徳、幸魂さちみたまの受持が哲学、奇魂くしみたまの受持が宗教、ということになります。私はこの配列ばかりは容易に動くまいと考えます。

 ここでちょっと考えると、此等これら人生の四方面の仕事の中で、科学が一番安っぽいように見えるか知れませんが事実はむしろその正反対であります。人間の構成要素は、御承知の通り、肉体、霊体、本体の四つで、右の中肉体丈が現世の人間のみの有する専用の機関であります人間は何をやるにも常にこの肉体を通過せしめなければならない若しそれがうまく行かなければ所謂地面ぢべたに足が附かない空中楼閣式の仕事になります。従来地上の人間は何と長年月にわたりて、そんなヘタな真似ばかり行って来たことでしょう。人間が充分にその本分を自覚し、一々正直に肉体意識を通過せしめて、堅実な足取りで仕事を進めるようになったのはホンの昨今の事で、それが取りも直さず近代科学の発達であります。道徳、哲学、宗教等の開拓は超物質界の居住者にもできる。イヤむしろ超物質界の居住者達の方がその専門家であるかも知れない。が、物質に即して仕事を進める科学の研究は物質界に居住する人間のみに与えられたる一手販売業でありますそこに科学が人間生活に取りて何よりも重要無比である理由が存在します。科学を無視した仕事は幽界や霊界では成立するかも知れないが人間界では到底成立しないのであります。これは過去幾千年にわたる人類の歴史が極めて露骨に証明して居ります。道徳だって、哲学だって、宗教だって従来はただ水掛論ばかりたたかわし、人間は遂にその適従てきじゅうする所を知らなかったではないか。この欠陥を補充し、確乎かっこ不動の指導原理を樹立するにはドーあっても物質科学並に心霊科学の大成が先決問題であります。それが人生の苦労の種子でもあり、同時に又希望の源泉でもあります。

 およそ人生において何が大切だと言って、少しのゴマカシをもらぬほど大切なことはない。所が、一意専心それのみを狙っているのが取りも直さず科学であります。しかも遺憾いかんなく科学的研究を行うには無論荒魂のみでは到底できる仕業でない。和魂が働くので相互協調ができ、幸魂が働くので井然せいぜんたる理論が成り立ち、奇魂が働くので堅い堅い神秘の扉が開かれる。要するに四魂ことごとく揃って可不及かふきゅうなく働く時においてのみ初めて人間の科学が成立する訳で、就中なかんずく心霊科学の研究においてこの感が最も深い。私どもが今日人生の指導原理として神霊主義を提唱するにつけても、何より重きを物質並に心霊科学に置き、科学と背馳はいちする所の一切の道徳も、哲理も又宗教的教義も断々乎だんだんことして排撃する所以ゆえんであります。それでなければ人間界は到底収まりがつきません。

 幽界居住者となれば、既に肉体を棄てて、主として幽体を機関としているのであるから、従ってそこでは科学の代りに、もっぱら道徳の完成に全力を挙げる訳です。で、物質界の人間はすべからく道徳の標準を幽界に仰ぐべきであります。更にその一段上の霊界となれば、そこでは主として霊体を機関としているから、哲理の研究はここが恐らく本場に相違ない。更にモー一つ上の最高の理想界に達した時にここで初めて真の宗教ができ上る。ここではすべてが直覚、すべてが悟入、所謂いわゆる無為にして化す、と言った境涯に相違ない。老子などはひたすらそれを狙ったのでありましょうが、肉体だの、幽体だの、霊体だのという重荷を背負っている人間には無論最初からできない相談で、うっかりすると猿の人真似にしてしまい、却って人生の壊滅を招くことにもなります。人間が最高の理想をそこに置くのは良いが、どこまで行っても自分の足元を忘れない心懸こころがけが肝要であります。

 これを要するに現世人の受持は科学の完成、幽界人の受持は道徳の完成、霊界人の受持は哲理の完成、神界人の受持は宗教の完成――大体そう思えば大過ないかと考えます。イヤわれわれの前途もまた多事多望なる哉であります。矢鱈やたらに慌てないで、着実堅固な足どりで進むより外ありません。


 さて念の四大別は以上の説明で大体御判おわかりになったと思いますが、無論これは単なる基本的分類であって、細別すればどんなにも細かくなります。慾念の中で最も顕著なのが「食慾」「性慾」「財慾」の三つであります。以上の三つはいやしくも肉体をっている以上到底免れないもので、一部の禁慾論者の主張は畢竟ひっきょう一の空想に過ぎない。人間は無制限に自我を肉体の奴隷たらしむるのがわるいので、生存に必要なる慾望の満足はこれを肉体に許さねばならない。われわれ日本人は禁慾的若くは肉体無視的な印度思想又は仙道思想にかぶれた結果うっかりするとこの点の考慮に欠けている傾向がある。かく申す私なども少々金銭に対する考慮を誤ったように思う。少しも収入を計らないで支出ばかり余儀なくされた結果、赤手空拳せきしゅくうけんで戦場に臨むような感が深い。われわれの心霊事業が、その内容の比較的充実している割合に社会を動かし得ない最大の理由は、これに要する資力にとぼしいのがたしかにその最大源因げんいんであります。資力さえ充実したらほとんど天下無敵と言っても決して過言でない。近頃マイヤースの霊界通信を読んで見ると、さすがに苦労人だけあってうまい事を言っている。「人間は適度に金銭を尊重せねば駄目である。必要な金銭がなければ第一栄養不良になって、その肉体が魂の立派な殿堂たることは望まれない。又相当な金銭がなければ書物も買えないし、落付いて研究もできない。」云々。全く親切な、思慮深い忠告と思います。幽界に行ってしまえば自分自身に衣食住の心配がないので、誰しも金銭に関する忠告などはめったにしてくれないのが通則であるのに、よくもマイヤースはここに気がついたものだと思います。無用の贅沢は悪いにきまっているが、同時にその日暮らしの乞食生活も一向感心できない。「衣食足りて礼節を知る」矢張り孔子の常識は素晴らしいものであります。

 今度は情念の一考察を試みます。情念の特色は変化自在で相互にこんがらかり、そして極端と極端との両面が常に顕著なる対照を為して居ることであります。即ち喜と怒、楽と哀、愛と憎、安心と恐怖、信頼と猜忌、愉快と憂鬱、慈悲と残忍、楽天と厭世……と言ったような塩梅であります。人生は人間にこの情念がそなわっているばかりに、面白くもあれば同時に又うるさくもあり、千種万様の複雑な因果関係が後から後から発生するのでありますが、この情念は決して人間世界の特産物ではありません。うっかりすると一部の人士は、人間が肉体を棄てて幽界に歩み入ったが最後、色も香もない枯木寒巌、つくねんと悟り済ましてでもいるように考えたがりますが、これは慾念と情念とを混線した誤解であります。理論から言っても、又心霊実験の上から観ても、幽界こそ寧ろ情念の本場で現在生活で漸く慾の泥土の中から芽を吹き出したばかりの感情があちらへ行ってから初めて大成の域に達するのであります。既成宗教の所謂いわゆる地獄、極楽などというのも畢竟ひっきょう主として幽界に於ける情念の両極端の境涯を指したものに相違ない。ワアド氏の「死後の世界」などは大へんよくその間の消息を伝えて居りますから、初めての方は是非あれなりと一読して戴きたい。私がここで抽象的な、煩瑣はんさな説明を試みるよりも遙かに手取り早く概念がつかめると思います。

 ぎに第三番目の理念――これは全然前者の正反対を行くものと思えば大体宜しいでしょう。理念はどこまで行っても一本調子で、自己の与えられたる筋道をば、側目わきめもふらずにただきへきへきへと前進するばかりであります。従ってそこには混線だの、衝突だののうれいが全くない。人間の個性の中枢は、前にものべた通りこの理念の方向如何いかんによって決します。大別すればそれは二種類に分れます。すなわち甲は形而下けいじかの世界に向って進むもので、ここに理化学を生み、天文学を生み、生理学を生み、心霊科学を生み、その他百般の学問技芸を生みます。乙は形而上けいじじょうの世界に向って進むので、ここに哲学を生み、論理学を生み、審美学を生み、又数学を生みます。かく向う所はそれぞれ異なりますが、あらゆる理念がひたすら組織を求め、統一を求め、真理を求めんとすることには何の相違もありませぬ。故に若しも人間が単にこの理念のみで動くとしたら、人生は何と平静恬淡な秩序の世界、平和の世界でありましょう。そこには何等衝突や葛藤のおこるべき余地は全然ないでありましょうが、その境涯は到底地上の人間には望まれないと覚悟すべきであります。何を申しても人間には慾望の機関たる肉体があり、又感情の媒体たる幽体が備わり、それ等が時に応じ、機に臨みてさかんに自己の存在権を主張するのであります。在来の道徳、宗教等は矢鱈にこれを頭から抑えつけようとしたから案外に効果がとぼしかった。慾念や情念が常規を逸した場合において理念が臨機に出動して合理的整理を施すのでなければとても収まりはっきそうもない。神霊主義が大自然主義をその四大綱領の一つに数える所以であります。若しそれ第四の正念――これは組織を超越し、分野を超越した普遍性の最高意識であるから、ここには勿論むろん分類や分析を施すべき余地はない。何にしろ人間が有する取って置きの伝家の宝刀であるから、日常の台所用にはならないが、しかし大死一番の境において電光石火的に去就を決するというような時に驚くべき威力を発揮するものはこれ以外にありません。心ある人士が平生から成るべく奥へ奥へ奥へと深く自己を掘りさぐる工夫を凝らす所以ゆえんで、神霊主義の四大綱領の中に敬神崇祖を標榜してあるのも、要するにこれに導くめの標的を指示したものであります。


 以上説明の便宜上私は四種類の念を個々別々に取扱って来ましたが、しかし実際問題となれば念というものは通例互に合同する性情を帯びて居り其必然の結果として念の現われは非常に複雑微妙を極め殆んど無尽蔵に近いのであります。それは丁度易の卦が変化自在、遂にそのきわまる所を知らないのと同一であります。

 ず慾念につきて考える。貪慾、性慾等が単独的に働く場合も絶無ではないらしいが、しかし多くの場合、それ等は他の念、例えば情念、理念などと合同交錯して働くのであります。一体慾念そのものは極めて単純で刹那的で、一たんその目的を達すれば直ちに満足してしまうのであります。これは動物の生活状態を見ればはなはだ容易に判ります。ところがそれが一たび情念と合併すると、途方途轍とてつもない強猛無比なものと化し、時として万丈の波瀾はらんき起さぬとも限らない。念と念との結合はたしかに単なる混合作用でなくして一種の化合作用であるらしい時として飛んでもない爆発性沸騰性を伴います。例えばあの壮烈鬼神を泣かしむる肉弾戦――あれは肉体的自衛本能と愛国的熱情との合体でなくて何でありましょう。例えば又あの家を滅ぼして、身を焼き尽すことを辞せざる、青春男女間の情痴沙汰――あれは燃ゆる愛情と荒れ狂う性慾との結晶でなくて何でありましょう。以上はホンの例証に過ぎないが、いかに多くの場合において慾念と情念との合同作用が、良い方面にも、又悪い方面にも驚くべき威力をたくましうし、現世生活に葛藤と変化とを与えつつあるかは言を待たずして明白でありましょう。

 が、慾念と情念との二つ丈ならば、まだその現われが盲目的、発作的で原始民族的色彩を帯びているが、更にこれに理念がわりますと、俄然としてその働きに貫禄と持続性が加わり、所謂いわゆる計劃けいかく的運動となりて往々世界史上に偉大な足跡を残します。試みに現在世界の表面において、この種の運動中何が一番代表的であるというに、私は資本主義共産主義との二つを挙げることが正当であると考えます。どちらも慾念と情念と理念との三つの念の合成体であって、そしてどちらもがつちりした、挺でも動かぬ堅実性を帯び、一気に天下を風靡ふうび席捲せっけんせずんば止まないと言った風格を備えている。無論他にもいろいろの運動はありますが、前二者の前にはちょっと歯ぶしが立ちそうもない。かのファッショ運動の如き、情念の動きはすこぶる熾烈を極めるが、遺憾ながら充分にこれを合理化する丈の理念の動きが伴わない。これではあまり永続性はないと思われます。

 兎に角現代において最も強力なのは何と言っても資本主義と共産主義とにとどめをさしますが、しかしそれ等がはたして最後の勝利者であるかというに私は断じてそうは考えない。何となれば両者に正念という一番大切な要素が全然加味されていないからであります。正念の加味されていない運動に永遠の生命がないことは世界の歴史が繰りかえし繰りかえしこれを証明している。支那では古来正念の有無によりて王道、覇道などという区別を立てて居るが、この筆法で行くと資本主義も共産主義も共に覇道であって王道でないことは明瞭であります。覇道の生命は時として頗る長く、幾十年、幾百年にわたりて跳躍横行することもある。が、その末路はいつも酸鼻を極めて見る影もないのが通則であります。資本主義も共産主義も今やあきらかに老衰期に入りつあるらしく、自分自身の内部でしきりに崩壊作用を開始して居ります。その全壊滅期がいつ到来するかは軽断を許しませぬが恐らくここ五七年が断末魔のもがきの時代で、そしてそれが全世界の人類の大なる悩みの時所謂超々非常時でありましょう

 ここで何人の頭脳にも必らず一つの疑問が浮んで来なければならぬ筈だと考えます。他にあらず、それは今の世の中にはたして正念の加味された立派な運動があるであろうか? ということであります。これに対する私の答は極めて明白であります。正念の加味された運動が全世界に唯一つある。それは外でもないわれ等の所謂神霊主義運動であると

 われ等の神霊主義は、すでに述べた通り、科学、道徳、哲学、宗教の四方面をそなえ、四つの念の合同的活用を眼目としている。故にいずれの主義、主張、学説、教理、宗教等でも神霊主義の全面の敵は一つもない。共産主義や資本主義の短所は無論これを棄てねばならぬが、その長所は何の躊躇ちゅうちょもなくこれを受け容れる。そこに何の僻見へきけんわだかまりもない。要は大自然の姿そのままの包擁性、摂取性、又淘汰性を備えて居るのが神霊主義である。人類の発揮し得る念力の中でこれほど合同的であり従ってこれほど持続的であるものは恐らく他には一つもないと信ぜられます。神霊主義の名称はあるいは変るかも知れない。又現在の神霊主義者はいずれ死ぬる時が来るでしょう。しかし神霊主義の精神は人類の存在する限り決して滅びることはないと考えられます。(つづく)


底本: 雑誌 「心霊と人生」  第 11巻 第4号

発行:心霊科学研究会 1934年(昭和9)4月1日 

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ HTML化に際して、底本中の傍点表記を下線表記に、白丸傍点表記を太字表記にそれぞれ置き換えました。

入力: いさお


雑誌「心霊と人生」より

   

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