因果律の検討

――昭和八年十月十六日飛行館において――

浅野 和三郎

 今から一二代以前の日本人はほとんど全然無条件に因果関係を承認して居たらしい。しかし、彼等は主として通俗的仏教思想をそのまま鴉呑うのみにして居たまでのもので、別に独自の深刻な思索又は精緻な学術的研究の結果これを信じたものではないらしかった。概して昔の仏教の坊さん達の説教というものはすこぶる他愛のないものでした。人間は悪い事をしてはいけない。善因は善果を生み、悪因は悪果を生む。しかも因果応報はただ本人だけ、又現世だけに限るものでない。子孫の代までも持ち越すものであるから何と恐ろしいではないか……。ざっとそう言った調子で、そしてその証明として薄気味悪い因果物語をきかせたり、嘘とまことをつきまぜた地獄極楽の状況を物語ったりするものでした。

 勧善懲悪の趣旨はまことに結構だったに相違ないが、おしかなその手法があまりに方便的、又その内容があまりに非学術的であったので明治維新と同時に擡頭だいとうしかけた唯物的合理思想の前にこの種の因果説は次第にその威力を失ってまいりました。そしてその代りに最も力強く現代の人心を司配しはいするに至ったのは大体において現在的功利主義とでもいうべきものでした。これにも勿論むろん幾多の長所はあります、そのお蔭で物質的には日本は多大の進歩を遂げましたが、しかし他方精神的、又道徳的には失う所も莫大で、人心のすさみ方は年一年とはげしくなり、今日のような険悪な世相を描き出すことになりました。

 で、現代の日本はたしかに因果説の再検討を施すべき必要に迫られて居ります。そしてその仕事は当然われわれ心霊学徒の責任に帰すべきものと考えられるのであります。うまくできるか、できないか、兎も角も今夕は一つそれを試みて見ることに致します。

 ず第一に私は因果の法則が物質の世界においはたして真実であるか否かを一瞥いちべつして見ることにしますが、幸いこの方面においては一向骨が折れない。だ一つの例外もなしに因果律は立派に成立するのであります。源因があれば必らずその結果がある若しこれに例外があったら大変で物理化学をはじめ殆んど一切の科学は立所に破産して了います。もちろんこれを証明することはちょっと面倒で、われわれ素人のたった一夕の講話ではいささか手に負えない。私はただホンの片鱗をのぞいて見る丈で御免を蒙らなければなりません。

 御承知の通り近代の物理学界で最も重要な法則の一つは所謂いわゆる勢力不滅の法則であります。これによれば物体並にこれに潜在する例のエネルギイはいろいろに形を変えるが、しかし人力をもっ寸毫すんごうもこれに増減を加えることはできない、というのであります。言うまでもなく物にはいろいろの形態がある。大別すれば気体、液体、固体、そして或物あるものは有形、或物あるものは無形、又ある時は動き、ある時は止まる。エネルギイにも約十ばかりの種類がある。即ち引力、惰力、熱、光、電力、磁力、筋力、化合力、凝力、放射力等で、いずれも皆一の形から容易に他の形に変るが、いかに形は変ってもその本質の消滅することは絶対にないのであります。例えばわれわれが紙を燃すとする。若しも熱さえ強ければ一切は眼に見えない瓦斯体ガスたいに変ってしまうが、しかし紙の組成分には一分一厘の増減もないと同時に、紙を構成するに必要なる凝力だの、化合力だのも更に熱という別のエネルギイに変ってしまう丈の話に過ぎない。例えば又る物の運動を阻止したとする。するとその運動力は直ちに熱に変り、これによりて発生した熱量は、阻止された運動量にぴったり一致する……。

 んな事柄は皆様の方が却ってくわしい位のものでありますから、一とずこの辺で切り上げますが、兎に角勢力不滅の法則は、現在の科学が一の例外なしに承認する所のものであり、そして近代人がこの法則を把握したばかりに、殖産工業が異常の大発展を遂ぐるに至ったことは争われない事実であります。かの水力電気事業にしたところでこの法則の応用以外の何物でもない。高い場所に貯えた水の力で発電機を廻し、これで作った電気で熱を作り、光を作り、機械の運転を行い、電気鍍金メッキを行い、その他さまざまの仕事をする。そしてこれ等に使用さるる電力の総量は、これによりて発生する熱、光、磁力、化合力等の総量とぴったり一致する。

 すでにこの勢力不滅の法則が成立したとすればその必然の帰結として爰に因果の法則が設立しない訳には行きません。何となれば両者はむしろ一心同体、単に同一事象をば少しく異なった角度から観測を下したというに過ぎないからであります。

 で、私は物質界に関する説明はここで打ち切り、ぎに因果の法則がはたして人事上、道徳上の方面にも例外なく当てはまるや否やを考えて見ることに致しますが、うなるとはなし何ぞ容易ならんやで、人事問題の性質が段違いに複雑であり、多岐であり、又隠微であるめに、その間に発生する因果関係を的確に辿ることは極度に困難であります。で、東洋にも、又西洋にもこの問題を取扱った学者、宗教者等は相当多数に上りますが、公平に観て何やらそこに多少のゴジツケがあり、ピンと現代人士の心胸に響かないうらみがある。ピンと響かない所があればこそ現代の各階級各方面の人達が平気で眼にあまるような道徳上の罪悪をも犯すのでありましょう。して見るとその責任は一般社会の人達よりもむしろ一般社会を指導すべき位地いちにある人達の無能力に帰すると言っても良いか知れません。

 つらつら考うるに、現代人士が形而上的因果関係につきて疑惑を挿むようになったにつけては其所そこあきらかに二つの大きな源因げんいんがあると思います。外でもないそれは(一)割当てられたる各自の地位境遇の不平等に対する疑惑、(二)突発的の不幸災厄に対する疑惑であります。私は何より生きた此等これら二つの深刻なる疑惑に対して検討を加えることに致します。無論この際私か活用する武器は主として心霊研究によりて蒐集しゅうしゅうせられたる事実、並に心霊事実から帰納されたる理論の二つであります。私は十二分の確信を以てこれを取り容れると同時に学界、宗教界、政治界、実業界その他各方面の方々も是非一時も早くその方針を執らるる事を切望致します。斯くいうとあるいは我田引水と誤解さるる虞があるかも知れませんが、今日因果律が頗る不徹底のまま取り残され、社会人心の上にそが当然有する所の充分の権威を発揮するに至らないのも、実は諸君が心霊問題を閑却した当然の結果に外ならないと痛感されるのであります。世の中に無智と僻見とより恐ろしいものはありません。ここまで整理された心霊上の事実と理論とに強いて眼をつぶって、それで碌な事があってたまるものでない。にひとり因果問題のみならんやであります……。オッと脱線無用、私は早速前掲の二つの疑惑に対して、できる丈簡明に解答を与えることにつとめます。

 第一に掲げたのは

 割当てくれたる各自の地位境遇の不平等に対する疑惑でありますが、これは誠に深刻に現代人士の頭脳を司配しはいする大々的疑惑で、不平、不満、煩悶はんもん呪咀じゅその一大源泉となって居るように考えられます。

 表面的又物質的に浅く考えて見ると、実際人生は誠に不公平千万に出来上って居ります。人間はその出発点からしてすでに出鱈目でたらめを極める。生れながらにして門地の高い人、低い人、富める人、貧しい人、健体の人、病弱の人、賢しい人、愚かな人、美しい人、醜い人……各人各様、千変万化、しかもそれが全然生るる御本人の与かり知らない事柄なのであるから、鼻息の強い者は少々啖呵でも切って見たくもなるでしょう。『冗談じゃない。俺は何もすき好んでんな貧乏な家に生れて来たのではない。世の中なんてまるで骸子さいの目の転がるよう次第だ。業腹だから一つ俺は泥棒になって太く短かく世の中を暮らしてやろうか……。』まさかそんなものばかりもないでしょうが、兎に角唯物的思想から生れるものは、必然的に不平であり、争闘そうとうであり呪咀じゅそであります。これに対して既成宗教家の提出する因果応報物語は全然歯ぶしが立ちません。『何事も皆前世の因縁で……』――そんな事をうっかり言おうものなら、横面の一つも見舞われます。『前世とは一体何だ。自分が前世に何所で何をしたという証拠でもあるか? 俺の全然あずかり知らない前世のむくいで現在んなひどい目に逢わされてたまるか……。』大概それ位が落ちであります。この疑惑を一掃するのはドーあっても近代心霊研究から結晶した創造的再生説を持ち出すより外に方法がないようです。

 すでにしばしば解説を試みた事でありますから、今回は成るべく簡単に申上げます。私はこれを創造的再生と呼んで居ますがステッドなどはこれを部分的再生と唱えて居ます。名称はことなれどその内容はほぼ同一で、つまりる一人の霊界居住者(多くは数百年前に帰幽した人霊)が、その分霊を地上に降して肉体に宿らしむる現象を指すのであります。

 御承知の通り在来の仏教徒、又そのながれを汲んでいるかに見ゆいフランスの神霊論者達は専ら全体的再生説を主張します。全体的再生説とは前時代に帰幽した人の霊魂がそっくりそのまま現世に再生するという説でありますが、これは心霊研究の結果、実験的にも又理論的にも共に成立しないことを発見します。

 実験的方面からいうと――

(一)われわれはいつの時代の人霊とでも例外なしに幽明交通を開き得る(即ち一人も他界から籍を削られていない)

(二)ほとんどすべての霊界通信がこの種の再生説を否定する理論方面からいうと――

(一)一度現世生活を経験した人が、更に幼児からの経験を繰り返すことは進化の法則に反する。

(二)前世の記憶を有する人間はほとんど絶無である。(縦令たとえ前世の記憶を有すると称する者があっても学術的の確証がない)。

 右の次第で全体的再生説はさらりとこれを放棄することが正当であります。一部の宗教者流が今おこれに未練を有すのははなはだしき時代錯誤であります。

 これに反して私の唱道する創造的再生説には実験上からも又理論上からも、共に一点の隙間を発見することができない。ず心霊実験の方面から申しますと――

(一)各自の魂の親、つまりその守護霊がかならず他界に存在し、入神状態において最も容易にこれと交通を開き得る。

(二)有力なる霊界通信がいずれもこの部分的再生説を肯定する。

が、理論的方面からすすめば更に有力にこの部分的再生説を肯定せねばならぬようである。――

(一)肉体を失って帰幽した他界の居住者にも、お現世的観念又は執着が残る。これは他界の生活を営む上に邪魔物である。故にそうした不純分子が本体から離れ、再び地上に戻りて現世生活を営むことははなはだ必要でもあり、又自然でもある。大自然界裡は常にうした原則で分裂を行っている。太陽から地球が分れ、又地球から月球が分れたのもこの理法の現われである。それが取りも直さず進化である。

(二)人間が前世の記憶を有せざるは畢竟人間の発生が分霊的再生であって、全霊的再生でないからである。

 右の理由でわれわれはこの創造的再生説を唱道するものであるが、いやしくも真の学術的良心に燃ゆる者はドーあってもこれ左袒さたんせねぼならぬ筈かと思います。少くともこの創造的再生的が樹立されることによりて初めて健全なる人生観が発生します

 唯物論者から観れば現世は当然一の賭博場又は修羅場でありましょう。又無差別的大霊論者又は一神教徒から視れば現世は当然一の穢土えどであり、又夢幻境であり、その人の気分次第、性格次第で、あるいは楽観的に、あるいは悲観的に、何とかお茶を濁して暮して行くより外に方法がないでしょう。ところが創造的再生論から観れば現世生活はドーあっても一の有意義なる道場又は学校と考えられるのであります

 何故にわれわれの魂が肉体に宿りて地上生活を経験するのであるか? 他なしわれわれの魂の裡に物質界で心の満足を求めんとする強烈な欲求が存在するからであります。その証拠に彼は生れ落つると同時にガツガツして乳房にすがりつきます。それから長ずるに従って猛烈な知識慾、生活慾に燃えつつ、あるいは学問技芸を修め、あるいは性の満足を求め、更に地位、名誉、財宝、等の獲得のめにこれ日も足らないのであります。是も物欲の少ないと言わるる仙人肌の人間でも、薬草を噛んだり、甘露や霞をったりします。これでは当然地上の物質界に生れるより外にうまい工夫もないではないか! すべて内部から湧き出づる欲求は、これを満喫せしむるより外に解脱させる方法は絶対にない。菓子屋の小僧のつまみ食いを有効に防ごうと思えばずその小僧をして思い切って店頭の菓子を飽食せしむると同一筆法であります。

 これでわれわれが現世に生るる理由は判ったとして、さて各自が置かるる境遇の相違は何とこれを解釈すればよいか?――が部分的再生説から観ればこれはすこぶる簡単な問題のように思われます。各自がそれぞれちがった霊界居住者の分霊である以上、その出発点においてすでに各自の発達程度が違い、欲求が違い、性質が違い、その他何も彼も皆違います。これではその置かるる境遇が各々相違する筈で、そしてその全責任は当然めいめいがこれを負担すべき筈であります。『頼みもしないくせに親が勝手に自分を生みやがって……』などというものが現代にはなかなか多いらしいが、これは見当違いもはなはだしい。肉身の親は言わば出生の為の地均ぢならしをしたに過ぎない。ここに結びついたのは彼自身である。畢竟すべては波動説で説明し得る。籍を地上に置く両親の精神的波動と籍を他界に置く霊魂の精神的波動との共鳴感応――これが彼の現世に宿った唯一の源因である。霊界通信の一つは斯くのべる。――

『人間の出生はすべて厳正な因果律の現われである。そこには一つの偶然もなく、又一の偏頗へんぱもない。産土の神はただの自然の理法の擁護者に過ぎない……。』

 私はこれが実際の事実に相違なかろうと思うものであります。

 ぎに第二に掲げた

 突発的の不幸災厄に対する疑惑

に就きて心霊的の一考察を下して見ることにします。これもまた前の疑惑に比してほとんど遜色を見ざる程度の重大性を帯びて居ります。現世の生活を見渡しますと何という突発的事実が多いことでしょう。一つの大汽船が沈没すれば幾百幾千の生霊が一網打尽式に海底の藻屑と化し一たび大きな地震が揺れば十万二十万の男女が折り重なって無惨な屍を原頭げんとうさらします。又時とすれば大小種々の困難というようなものがあります。『それは皆前世の因縁で……。』そんな茫漠ぼうばくたることを言ったところで何人がこれを承認しましょう。われわれ心霊家の方面から行ってもこれは依然難問題に相違ないが、しかし最近数十年間に蒐聚しゅうしゅうした事実と理論を以てすればすくなくともこの人生の悲惨事に対して一道の光明を投げ得るかと思考します。

 私がここず提出したいのは守護霊説並に司配霊説であります。すでに創造的再生説の条下にのべた通り、各自の魂の親、それが私の所謂いわゆる守護霊であり、両者の関係は丁度親と子、又は本店と支店との関係に髣髴ほうふつたるものがあります。これは一片の理論でも又方便説でもなく儼乎げんこたる心霊事実であるから承認して戴かねばなりません。又司配霊しはいれいというのは善意を以てわれわれ人間を蔭から擁護するもので、言わば守護霊の補助なのであります。故に両者をひっくるめて一の霊的擁護団と思えばよい。

 われわれ人間は常にこの霊的擁護団のお蔭で、ずは無事息災に現世の生活を送ることができる装置になっているのであります。霊界居住者とあれば、よしその階級がいかに低いものでも、鈍重な肉体に包まれた地上の人間に比ぶれば遥に先見の明もあり、又遥に偵察の力もあり、結構日常の生活において人間を守る位の能力があります。故に人間としての緊急焦眉の問題は何は措いても此等の擁護団と適切な連絡をつけることであります。一番理想的な方法は自身精神統一の実修を行い、所謂第六感的霊能を発揮することでありますが、よし其所そこまで行かずともせめて一と通り心霊上の知識と理解とを養い、以て正しき信仰に入り、できる丈他界の擁護団との共鳴感応を心掛くべきであります。この心得のあった人達がどれ丈病気災難等の不幸から免るることができたかは、無数の心霊事実が最も明白に物語る所であります。

 しかるに現代人士の執りつつある態度はドーか? 神仏を無視し心霊事実を無視し、自分の背後に守護霊があり、司配霊しはいれいがあることなどはてんで眼中になく、気随気侭のあり丈を尽して噴火山上に踊って居るのであります。これでは容易に遁れ得べき不幸災厄をも遁れ得る途が塞がれてしまうのではないか!

 お精神的堕落の結果必然的に免れないのは所謂いわゆる悪霊の憑依であります。これも心霊実験をやって見れば容易に判ることで心霊家が好んで奇言を弄するのでもなければ又迷信を鼓吹するのでもない。すべては同一程度の心の波動の共鳴感応を以て説明し得る純学術事象であります。われわれが狐の心になれば狐の霊に感応し、蛇の心になれば蛇の心に感応し、亡者の心になれば亡者の霊に感応するは当然すぎるほど当然の話ではないか。現代の世相を陰鬱にする多くの不祥事件の大部分はたしかに人間が堕落の結果悪霊と感応した為めであります

 適当な祭祀の閑却――これが又非常に現代人の生活を暗くします。多くの人々は神社仏閣へ参詣して勝手な祈願をならべる事は知っていても、自分の接触する土地、家屋、家系その他に附き纒えるあわれむべき地縛の霊達を慰め、これを済度しようとする同情心の所有者ははなはだ少ない。黴菌ならば石炭酸でもぶっかればよい。迷える亡霊怨霊等は成るべく之を善導し済度してやるより外に絶対に解除の方法がない。これをやらないで国家社会人生の安寧幸福を望んだところで到底できない相談であります。

 以上列挙した所に対して適宜の方法を講じた丈でも恐らく、現代を悩ます不幸災厄の大部分は解除されるのではないかと思われますが、無論それですべてを尽したとはわれない。他にもこれを大にしては民族的又は国家的宿命、これを小にしては一家的又は個人的宿命と言ったようなものがたしかに人生の行路の上に幾多の波紋を投げ、時として血肉の犠牲を要求する場合もあるらしい。が、これ等につきては私の研究も足らず又発表の時機に達していないと思われるので、しばらくこれを一の宿題として自他の研究に残して置きます。

 が、いかにしばらく此等これらを問題外に置いても人生の不幸災厄の大部分が当然われわれの自業自得、其所そこに何等の偶然、何等の不公平もないことは大体において最早争うの余地がないと考えられます。

 以上私の講説は頗る粗枝大葉に流れましたが、因果律がひとり形而下的方面にとどまらず、形而上的方面においても事実上の指導原理として差支さしつかえない所以をあきらかにし得たかと信じます。今晩はこれで失礼します……。


底本: 雑誌 「心霊と人生」  10巻11号

1933年(昭和8)11月1日発行

発行: 心霊科学研究会

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ HTML化に際して、底本中の傍点表記を下線表記に、白丸傍点表記を太字表記にそれぞれ置き換えました。

入力: いさお


雑誌「心霊と人生」より

   

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