『愛』の検討

浅野 和三郎

『愛』という言葉は、西洋においてこそ昔から相当流行っていたが、日本においてはむしろ近年の流行語で、大体西洋流の考え方が優勢になるに連れて、次第にその用法が拡がって行ったと見倣みなしてよいようであります。

 西洋で一番にこの言葉を神聖としているのは言うまでもなく『神は愛なり』という文句であります。天地の間で一番偉大なものは神様であり、そしてその神様が愛だというのですから、およそこれ以上に愛という言葉の荘厳化はない訳です。あえてそれをダシに使うというつもりではないかも知れぬが、近頃は全く『愛』の文字の当り年、ちょっと眉目みめうるはしき裏店の少女が、やんごとなき御方のお眼にとまりて、一躍玉の輿に乗っかったと言ったような趣きがないでもありません。

 試みに小説や映画の標題を見ても、んと近頃『愛』という文字の大流行、大繁昌でしょう。大概の印刷所にきいて見ても、『愛』という活字は大小揃えて一ばん多量に仕入れて置かぬと早速大恐慌を来すということであります。最も『心霊と人生』誌の印刷所丈は別物で、ここでは『霊』という活字が断然横綱格を占めるそうであります。考えて見ると可笑しくなります。

 日本の信仰界等でも、流行と人気とにおくれまいとする国体は近頃めっきり『愛』の安売をやりつつあるようです。曰く神の愛、曰く仏の愛、曰く人類愛……なかなか抜目がないことです。この分で行ったら今に『愛』という活字の専門の活版所が一つや二つはできないものでもない……。

 が、不思議なことに『愛』という言葉を濫用する者はあっても、その言葉の意義、内容、性質等につきての何等深い穿鑿せんさくをしようとする者は一向見当らない。『神は愛なり』の文句にしても、何故に神と愛とが同格なのか、ほとんど誰一人として説明をしてくれない。あたかもそれが自明の理でもあるかの如く、平気な顔をして手放しで押売りを試みつつある。その癖少し考えて見ると、およそ天下にこれほど訳の判らない文句が又とありましょうか? 若しも(神=愛)という方程式が成立なりたつならば、どんなにわれわれは頭脳あたま内部なかの大々的再整理を必要とすることでしょう。『愛』の文字の専売局ともいうべきヤソ教の仲間においてさえ随所に困ったことが起りましょう。バイブルの劈頭へきとう第一に現わるる『太初にことばあり、ことばは神なり』の一句にしてもすぐにおかしな事になります。『ことば』が『神』で、『神』が『愛』で、さてその『愛』はんだというのでしょうか?

 われわれはいつまでもんな幼稚きわまる謎々式の文字遊戯にふけりてあたら歳月を空費すべきでないと思います。科学がまだ充分の発達を遂げない今日、たとえいわゆる純科学的の解釈は或は当分不可能に近いとしてもモ少し立ち入りて、兎も角も何人の腑にも落ちる程度まで『愛』の意義を検討すべきだと思う。このままで黙って放任して置けば、流行の赴くところ、やがて日本国は『愛』の洪水で押し流されてしまうかも知れない。


 つらつら考うるに『愛』とは畢竟心と心との共鳴換言すれば同一程度の波長を有する思想の波の感応に附した言葉に外ならぬものかと思うすくなくともそう考える時にわれわれは愛の文字の意義がはッきり会得されるように思う。

 無論現在の科学界はまだ思想のエーテル波動を的確に捕えることに成功していない。それは依然として三十余年前クルックス卿によりて提唱された仮説のままで残されている。が、思想伝達現象、又は遠距離通信現象等を合理的に説明するめにはこの仮説は、ドーあっても成立すべき可能性を充分に備えている。実際又毎日ラジオに聴き耽っている現代人士が、この仮説を承認し得ないという道理はどこにも見出されない。われわれは安心して思想が一のエーテル波動であることを立派な学術的仮説と考えて差支ないと思う。

 さてすでに愛は思想と思想との共鳴であるとすれば、愛は当然その相手によりてその性質、換言すればその波長を異にする。愛という何等固定的のものは何処にも存在しない。従って『神は愛なり』などという文句は、これを正面的に解釈すればほとんど何等の意味をも成さない。即ち『神は思想のエーテル波動の共鳴なり』と言って見たところで一向はじまらない。エーテル波動の共鳴はどこまで行ってもエーテル波動の共鳴で沢山であって、別にこれに対して『神』という文字を使用するにも当らない。神という文字には別に正当な、そして神聖な用途があります。

 ところで人間の思想の種々相ですが、われわれはここでもまた近代心霊科学の研究の結果を取り入れるのが最も合理的であり、従って最も明快であるように思います。これにしたがえばわれわれの心の作用は大別して四階段に分れる。即ち最も低級で動物的なのが欲望で、これが主として肉体の受持、ぎにやや高尚ではあるが、しかしすこぶる気まぐれなのが感情で、これが主として幽体の受持、ぎにずっと気品が高くて、筋道が通って、俗界とかけ離れているのが理性で、これが主として霊体の受持、人間は多少ともこの理性をそなえているばかりに現在万物の霊長などと称して他の物質界に君臨している。ぎに人間の取って置きの最高の武器は叡智で、これは主として本質の受持にかかるが、現在の人類の発達程度においてはかなしい哉まだホンの胎芽エムブリオの状態にしか発達していないらしい。その証拠に大多数の人間には宇宙間の細大の事象がただ不思議、不可解としか映じない。よくよくの天才児にして初めて神秘の扉のホンの一端を開き得る位のものであります。

 細かに分析したら同じく欲望という中にもそこに多くの階段があり、その他感情でも、理性でも、叡智でも無限に等級づけられるでしょうが、実用的にはこの四大別で充分だと感じます。印度思想家のように煩瑣はんさな分類にふけるのは、ちょっと興味がないでもないが、ややもすればいたずらに観念の遊戯三昧におちいってしまい、すこぶる面白くない結果を生み出しそうに思います。この種の研究に力瘤を入れると何人も兎角そうした傾向におちいり易いのでついでに一言附記する次第であります。

 それは兎に角『愛』が心の波の共鳴であり、感応である以上其所そこに当然大別的に四種類の『愛』が成立する訳です。即ち――

(一)欲望と欲望との共鳴

 所謂いわゆる財閥、藩閥、党閥、閨閥などはこの種の愛の絶好の標本であります。又近頃若い男女間に大流行の恋愛遊戯なども詮じつむれば大体この範囲を出でないでしょう。かかる場合に『愛』という一字のみでは少々勿体なく感ずる人達はよく『愛慾』という熟字を使うようですが、それには私も賛成です。要するにこれは肉欲を有する人間の発揮する心の波の中で、その波長が最も長く、その振動数が最も少ない、最劣等の愛であると考えれば宜しいでしょう。

(二)感情と感情との共鳴

 われわれが普通『愛』とか『愛情』とかいう文字で表現する心の共鳴は大部分之に属します。親子の愛、兄弟の愛、友達の愛、夫婦の愛、郷土の愛、等、等、いずれも皆主として感情を以てその骨子として居ります。勿論われわれの肉体、幽体、霊体等は滲透的に互に重なり合っているのであるから、従ってわれわれの発揮する心の働きも互に重なり合って居り、純粋の慾望、純粋の感情等はめったに存在し得ない。慾の中にも多少の情が加わり、情の中にも多少の慾が混ると言った塩梅に、一の合成体を作ることは到底免れ兼ねないでしょう。で、われわれはいつも程度如何、分量如何を観て、その主体が何で構成されているかを決すべきであります。

 この感情の共鳴は、ホンの刹那的の慾望の共鳴よりも遙かに微妙であり、従ってその持続性も遙かに永いが、しかし、これを骨子として出来上った愛ではまだまだグラついて油断がなりません。ドーあっても今一段上の方からの要素が加味せぬことには充分の安定性はないと考えられます。

 (三)理性と理性との共鳴

 ここに至りて初めて心と心との共鳴はほとんど理想化し、神霊化します。エマスンとカアライルとが相合した時に黙して相対坐すること数時間に及び、非常に歓んで袂を分ったなどは、ほぼこの境涯に達したものでしょう。夫婦の愛とても、その中堅が理性の共鳴によりて築かれ、慾望や感情の共鳴が寧ろその附録物であるなら全くシメたものだと感じますが、現在地上幾億組の夫婦関係の中その幾分がはたしてこれに該当するでしょう。一ばん多数を占むるのは恐らく第一の部類に属し、第二の部類に属するものはこれに比して遙かにすくなく、この第三の部類に至りては或は暁天の星ではないかと危ぶまれます。

 祖国愛、団体愛、神仏の愛、等も是非この理性の共鳴点まで引き上げたいと思います。さもないとまさかの場合にグラつきます。

 無論斯うした理性と理性との共鳴を適当に言い現わすべき適当な文字は他にも存在します。古人は好んで『敬』という文字を使ったようです。『敬天』『敬神』等がそれであります。私もこれに賛成します。何も流行だからと言って強いて『愛』という文字に秋波を送るにも当らないでしょう。

 (四)叡智と叡智との共鳴

 ここに至りてすっかり人間離れがしてしまいます。神と神との交渉と言ったようなものは恐らくそうした調子で遂行されているので、其所には何等疑惑の雲もなければ又何等推理の手続きもらない。すべてが円満、すべてが透明、天然自然に調和が取れ、諒解が成り立ち、因果関係が何の過不及もなく、すらすらと運ばれて行くのでありましょう。この状態を指して『愛』といいたいなら、言っても別に差支さしつかえはないでしょうが、しかし矢張古来東洋の哲人達が言いふるした、『さとり』などの文字の方がぴたりと急所に当てはまるようであります。

 言うまでもなく、われわれ人間とても皆神の子、その奥に立派に神性を包蔵しているのであるから、うした『さとり』の境地に到達し得ないとはあえて言わない。その蓋然性そのがいぜんせいはたしかにある。が、ちょっとばかりの入神状態や、三昧境に入った位で矢鱈に『悟り』を振りまわしては甚だ良くない。大体禅宗の僧侶輩がやっと生死を超越した位の心境に向って『大悟徹底』などという大袈裟な文句を濫用したのが甚だ良くない。生死を超越する位の仕事は三原山の登山者中にも沢山あります。大字宙との同化融合――それができて初めて『悟』の文字を使うべきである。断じて安っぽくこの文字を使ってはならない。


 ここに改めて申上ぐるまでもなく、宇宙の森羅万象は本来ただ一つの『空』、換言すればすべてのものは無限絶対の一元的実在から出発して居ります。仏家の所謂いわゆる色即是空、空即是色であります。故に若しわれわれがその一元の実在を指して『神』というなら、神は万有一切の祖と称してすこしも差支さしつかえない訳で、そこにただ一つの例外もあり得ない。一神思想が正しき信仰の根柢こんていとなっている所以であります。

 が、ここに看過してならないのは宇宙の万有の発達程度が決して同一でないことであります。物質界丈を視てもそれは無際限に分れている。更に超物質の世界を探って見ると、地上の人間などの到底太刀打不可能である、優秀高邁な存在者が無数に発見される。今後幽明交通の途が発達すればするほどわれわれの視野は更に更に拡大されて行き、どこまで行ってもその究極するところがないことを発見するに相違ない。

 それは兎に角すでにかく各自の発達程度が異なる以上、各自の発揮する能力には必然的に限度があります。いかに気張ったところで一升壜いっしょうびんには一升の酒しか入らず、一合ますには一合の米しかれはしない。従ってたとえその名称は一神教であっても又多神教であっても、各自の信仰の内容はことごとあいちがっているに相違ない。即ち甲の発揮する精神的飛躍の頂点はギリギリの所まで行っても結局『慾』の範囲をでず、乙の到達するのは感情、丙の到達するのは理性、と言った具合に一つ一つ等級づけられるに相違ない。われわれは平生よく『信仰の自由』という言葉を口にするが、これは全く名言だと思います。何となれば信仰というものはいかにこれを同一程度に引き上げようとしても到底引き上げられない本質を有っているからであります。名称は同じく『神』でも、その神は或人あるひとには慾望の対象となり、或人あるひとには感情の対象となり、或人あるひとには理性の対象となり、又或人あるひとには叡智の対象となるというのではドーにも仕方がないではないか。ここいたりて私は今更ながら日本神道の一神即多神、多神即一神の妙味を痛感するものであります。

 『愛』という言葉の検討の結果、私の筆はとうとうこんな所まで来てしまったが、兎に角私の試みた、この簡単な説明で、『愛』の概念的濫用が幾分なりとも阻止さるれば大へん幸福だと感じます。『神は愛なり』の文句にしても、『その人の到達し得る精神的飛躍の最高の共鳴点――これその人の神なり』の意味に解すればまんざら棄てたものではないでしょう。無論『その人の神』はその人のみの神であって、他の人の神ではない。して無限絶対の一元的実在そのものでないことはここに改めて言うまでもない。

 公平に観て現在日本国民の精神的飛躍の水準線はあまり感心できないかと思います。これ私があえここに『愛』の内容分析を試みて、大方の考慮を促した所以であります。


底本: 雑誌 「心霊と人生」  10巻10号

1933年(昭和8)10月1日発行

発行: 心霊科学研究会

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ HTML化に際して、底本中の傍点表記を下線表記に、白丸傍点表記を太字表記にそれぞれ置き換えました。

入力: いさお


雑誌「心霊と人生」より

   

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