龍宮界を探る

――昭和六年十月二十五日大阪心霊科学協会にて――

浅野和三郎

 私の本日の講話の題目は大胆不敵と言おうか、突拍子もないと言おうか、自分ながら少々気がささないでもありません。死者の霊魂の話をしてさえも、日本の大多数の人士は、眼を白黒させます。いわんや龍宮の話ときては、到底これをお伽噺とぎばなし以上、空想の産物以上に見做みなしてはくださらないでしょう。考えて見れば心細い限りではありますが、しかし実際のところを白状すれば、私はこの十数年来ある程度龍宮の世界との交渉を有ってり、ことに近来それが一層密接の度を加え、ほとんど私の心霊生活の重要部分を占めてると申してよい位であります。で、現在の私は、こんな話を持ち出すことにより、縦令たとえ少々位世間の評判がるくなってもかまわないというような気分になってまいりました。私は心ひそかに期待して居ます。今こそまだ少々距離があり過ぎるかも知れないが、五年十年とうちには、私の所説に追隨するものが海の内外を通じてきっとぞろぞろあらわれるに相違ないと。良い気なものだとお笑いになられる方は何卒お構いなくお笑いください。笑われたからと言ってそのまま、悄気しょげかえって引込んでしまうにはあまりに根抵こんていが深過ぎ、あまりに実証が多過ぎます……すくなくとも私自身にはそう感ぜられるのであります。

 この際私に取ってはなはだ心強く感ぜらるることは、わが日本国民が龍神問題を受け入れることにつきて他の諸外国民よりも遙かに豊富なる準備教育を施されてることであります。曰く龍宮の乙姫、曰く八大龍王、曰く何々龍神……そうした言葉が平気で日常の談話の中に織り込まれ、格別これをあやしむものがない。現に大阪の南海電車の停留所にも龍神駅というのがある位で……。又日用の熟語にしても龍顔うるわしくだの、逆鱗ましましだの、双龍珠を争うだの、龍虎の戦いだの、龍頭蛇尾だの、蛟龍遂に池中のものにあらずだのと、龍に因んだ文句がさかんに使用されます。就中日本には龍神又は龍宮に最も縁故の深い貴重な神話伝説があり、いやしくも日本人にしてこれを知らないものは恐らく一人もないでしょう。申すまでもなく一つは古事記日本書紀の記録の中で特別に異彩を放っている彦火々出見命ひこほほでみのみことと龍宮の豊玉姫とよたまひめとのうるはしき恋物語、他の一つは浦島太郎と龍宮の乙姫との詩趣ゆたかなる同棲談であります。前者は貴族的色彩を帯び、おそれ多くもわが皇統の淵源を暗示して居り、後者は民衆的風格をそなえ、最後はかの意義深長なる玉手箱の寓話に東洋式の人生観と言ったようなところを巧みに盛りあげていますが、両者の間に共通点と見傲みなすべきものが非常に多いこともまた疑惑の余地がないようであります。で、事によるとこれは同一の資料が別個の手法で取扱われたものではあるまいかとの推量が多くの人達によりて下されるようで、く申す私なども、次第に龍神研究が進むに連れてますますそう信じたくなりつつあります。が、そうした穿鑿せんさくは只今のところしばらく後廻しにしたい。私はただ日本国民が日頃うした龍宮物語に親しみつつある国民だ、という事実を皆さまに承知して戴けばよいのであります。

 それから又信仰方面、就中なかんずく民間信仰の方面を一瞥いちべつしますと、いかに龍神の観念が日本の国民生活に深く根を張っているかが一層よく判ります。海辺とか、湖辺とかの風光明媚な地点を選びて日本国の都鄙とひ到る所に鎮祭されている大小無数の弁天の祠堂やしろ、これはことごとく龍神畑に属します。又弁天の祠堂やしろでなくても、龍神と緑の深い神社はなかなか多いようです。例えば伊勢の桑名の奥なる多度山の一目連様であるとか、神功皇后の三韓征伐時代から有名になっている住吉神社であるとか言った類であります。私は一向うした方面の穿鑿せんさくを致して居りませんが、広く捜したら驚く程沢山存在するのではないかと存じます。

 日本国民がくの如く龍神の存在をばほとんど自明の理の如く考えているにつきては其処そこに深い深い仔細がある事と信じます。他なし日本には龍神に関して豊富な霊的体験を有する人達が相当多数存在するという事実であります。もとより近代式の精緻な研究がまだ一向発表して居なかった幼稚な時代の体験が大部分を占めてりますから、その表現の形式がすこぶる幼稚で、夢幻的色彩が濃厚である事は致方もありますまい。例えば三七二十一日の間一心不乱に竹生島の弁天様に訴願した結果、夢とも現とも知らぬ境地において神様から琴の秘曲を授けられたと言ったような話で、現実味の勝てる心理学者の手にかけたら恐らくそれは単なる観念の作用位で片付けられてしまいそうですが、しかし当人の主観からいえば、そう言った説明は要するに門外漢の勝手な解釈たるにとどまり、自分はありありと龍神の姿を観、又その声をきき、しかも龍神から親授された天下一品の名曲が現に自分の手元に残っているのですから、龍神に対する本人の信念は到底他の批評位で一分一厘も揺がされる点がないに決っています。それもそうした体験者の数があまりに少数であれば、多数に不勢で、到底歯ぶしが立ちますまいが、社会の裏面に立ち入りて仔細に調査の歩をすすめて見るとなかなか莫迦ばかにならない。現に私が知れる狭い範囲内においてすら、何等かの形式で龍神との霊的交渉を有する人々の数はすくなくとも百をもって数えることができるのであります。しかもそれ等の体験者達は必らずしも脳力の薄弱な、非常識者のみに限らない。文芸家とか、船員とか言ったような、何かある一つの仕事に全精神を打ち込んで他をかえりみるのいとまがないと言ったような人達の中には、案外多くの龍神党が発見せられるのであります。

 とも角も私という人間がう言った環境にはぐくまれ、う言った人達と交る機会が多かったお蔭でおのずと龍神の研究を試みるまわり合わせになったことは争われないと思います。欧米人士だって、一たん何等かの手がかりをさえすれば、必らず猛然としてこちらの方面に詮鑿せんさく鋒先ほこさきを向けて来るに相違なかろうと信じます。

 ここでお断りするまでもなく、私の龍神研究は、普通の学究のするような書物の上の研究ではなく、私の手元に用意してある霊媒を機関として短刀直入的に龍宮界と直接交渉を遂げた結果であります。従って私の所説が絶対に正確であり、又完全であるとは私自身も決して信ずるものではありません。私はただ一つの参考資料として、虚心でこれを世界の心霊学界に提供しようと思うだけのことで、他日私の主張を是正すべき新規の資料が現わるれば、もちろん私は立所に自説に向って修正増補を施す覚悟でります。その点はまえもって充分に皆様の御諒解をて置きたいと存じます。「これは神のお告げであるから断じて誤りはない……」そんなことを仰っしゃるから事が面倒になるのです。神様に誤りがあろうとは私も思いません。が、人間は決して神ではなくただ神に使わるる生きた道具……しかもすこぶくるい易き道具なのであります。寸毫すんごうの誤差もこの道具に発生せぬとは何人が保証し得ましょう。聖書経典生神聖師……そう言った御神輿式の文句は早く人間の辞書から削り去りたいものです……。

 さて先刻私は霊媒を用いて龍宮の世界を探るのだと申しましたが、それならその霊媒は一たい何人だれかとお問いになられる方がきっと多いだろうと信じます。これには私はいつもいつも弱り抜く立場に置かれます。何となれば常に私の手元にあって私の研究を補助するものは私の妻であり、又私の旨を食んで他界に活動するものは主として妻の守護霊並に私達の亡児であるからで、うたぐり深い方々はきっと私達を一家総がかりで八百長をやっている位にしかお考えになってくださらないでしょう。が、私としては、一家総がかりは事実であるとしても八百長じみたこと丈は絶対に避けているつもりです。しも私の態度に一点疑惑を挿むべき余地があったら何卒御遠慮なく御指摘をお願いします。この際私に取りて何より幸いなことは、他にも立派な霊媒が一人ならず出来上って私の研究を助けてくださることであります。私はいつもたった一人の霊媒の言を信じて事を決することは絶対に致しません。いよいよ自分の所説としてこれを公評するまでには、すくなくとも二人乃至三人の霊媒の手をくぐらせ、万が一にも遺算いさんのなきようせいぜい努力してります。この龍宮界の研究とても、もちろんそうした手続を踏んでりますから、単なる浅野の一家言というよりか、モすこし念入りに出来上ったものと御承知置きを願いたいのであります。


 前置きが長くなって申訳がありません。これから急いで龍宮談に移りますが、もちろん一回や二回の講話でその詳細を尽すことは到底できません。で、本日は、成るべく短時間の中に皆さまに龍宮界並に龍神にきての概念を作って戴けるように、根本の要所要所を個条書きにして見ます。

 (1)龍宮界と海との間には何等特殊の関係がない

 御承知の通り、従来は龍宮といえばただちに海底、龍神といえば取りもなおさず水に縁ある神様と相場を決める傾向がありました。何故なぜこんなことになったかは判りませんが、畢竟龍神と天然現象との関係が密接であることがその最大の原因だったでしょう。例えば雨乞いとか、海上の御守護とかいえば、祈願の対象はいつも龍神さんという事にほぼ相場が決ってります。それから又海底の神秘性が自然に人々の空想をそそり、観念の連合の上から、龍神と海底との駢列へんれつが何となく具合が良い。これがる程度うした信念を助長したかと思われます。そして一たん龍宮が海底にあるとした以上、手ブラで龍宮行きは不可能であるから、亀子かめのこが引っ張り出されたり、牙問勝間はなしかずまの小船が出来上ったり、又余興として章魚たこ踊りが添えられたりする。要するに昔の人達にも大衆文芸的の道楽が相当ふんだんにそなわっていた訳です。しかしながら龍宮と海底とが無関係だという事になると此等これらの景物も同時に雲散霧消する訳で、浪漫派の人達に対してははなはだお気の毒千万な次第でありますが、今更事実をぐる訳にも当りません。何卒皆さまの頭脳あたまから海と共に此等これらの景品をも全部放り出してください。

 (二)龍神と蛇とは別物である

 これもまた相当に六ヶむずかしい註文で、容易に腑に落ちない方々がすくなくないことと存じます。何となれば日本の民間信仰では龍神と大蛇とがまるきり混線されてりますから……。が、これは一時も早く訂正を要します。龍神は最初から幽界若くは幽界以上の存在で物質界には全然籍を置きません。われわれはうした存在を死者の霊魂と区別するめに特にもと生神いきがみ又は自然霊などという用語を用います。これに反して大蛇は物質界の存在であり、立派に物質的肉体を特ってる。もちろん大蛇もその肉体を棄てた暁には幽界に入りますが、しかしそれは依然として大蛇の霊魂であって元の生神である所の龍神とは異います。龍神と大蛇との間にはドーあっても越え難き溝渠があります。但し顕幽の境界線はそう判然はっきりしたものではなく、見ようによりては幽的存在とも言えるし、又物質的存在とも言えるような、どっちつかずの不可思議的存在がない訳ではないようで、そうした事実は心霊科学の研究が次第に精緻の度を加うるにつれて次第次第に明瞭になりつつあります。西洋の妖精、本邦の河童かっぱなどというのが多くはその部類に属するようです。此等これら顕幽両棲動物ともいうべきものの中には時として人類と非常に密接な交渉を有するのがあり、しばしば人間界の吉凶禍福の原因となります。就中なかんずく侮り難きは蛇で、彼等の中には彼等特有の一種のぎょうを積むことによりて、最後に龍神の域にまで昇進するものがあります。ですから厳密に言ったら、龍宮界には本来の龍神(元の生神)と準龍神(大蛇が肉体のままあるいは肉体放棄後に浄化向上したもの)とが存在すると言った方が適当かも知れません。これを人間界の卑近な例で示せば、前者は士官学校又は兵学校出の将校、後者は兵士上りの下士、特務将校と言ったところでしょう。

 説いてここに至り、いよいよ問題の中心に触れなければならぬ順序になりました。「龍神とはそもそも何か?」私はこれに答えねばならないのであります。

 (二)龍神は人間の発酵素である

 用語が少しく生硬で皆様を驚かすことになりはせぬかと思いますが、何卒一と通り私の説明をお聴き取りください。私の質問に対して龍神界から私に寄越よこされた回答の要点をかいつまむと大体左の通りであります。

龍神とは人間受持ちの神霊の事で人間を生みつけ又人間を守護する役目を有っているのであるから畢竟人間の霊的祖先と思って貰ってよい。但し龍神はくまで人間よりも一段奥の世界の存在であり、そのまま物質界に現われて直接人間に化し、又人間の世話をする訳ではない。物質の内に宿るのは龍神の分霊だけで龍神の本体は永久にこちらの世界に残る。最初龍がその分霊を地上の物質に宿して醞醸うんじょう醗酵せしめた生物――換言すれば龍神の分霊から発生した原始的人間は一と口に言ったらただの虫けらで、現在の人間に比ぺるとまるきりお話しにならぬほど単純なものであった。その虫けらが多大の年月を閲す間に次第に複雑微妙な進化を遂げ、とうとう現在のような人体を成すに至った。過去に於ける人間の進化の大体を知らうと思ったら、受胎後出生に至る十ヶ月間の胎児の状態をしらべて見るがよい。あれが人類進化の縮図である。が、一たん人間の生殖作用が確実に営まれるようになった暁に、われわれ龍神の分霊の出し方にもそれにつれて変化を生じたことは言うまでもない。即ち胎児の体的基礎を成すものは人間の男女から分離する物的要素、つまり精虫と卵とであるが、胎児の霊的基礎を成すものは龍神の男女から分離する超物質要素、つまりその分霊である。物的と霊的との二つの要素が具備せねば決して胎児は出来上らない。現在では帰幽した人間の霊魂達が盛んに分霊を出すので、龍神の方では太古のように直接分霊を出すことはめったになくなった。未発達の龍神、つまり若い龍神が分霊を出すのみである……。」

 極度に言葉を切りつめたので判りにくい問題がいよいよ判りにくくなったかも知れませんが、しばらく御辛抱を願います。おだしぬけに分霊問題に接せられた方々にはそれがはたして何の事やらあるいは見当がつき兼ねるかと存じますが、今私はそれを説明していとまがありません。何卒私の書いた「創造的再生説につきて」(本誌昭和五年八月号所載)なりと御一読を願います。在来の幼稚不徹底な再生説に捕えられてる間はとてもこの問題に関与する資格が備わりません。

註――原始的人間が虫ケラの姿をしてたという事は、普通の虫ケラと同一であるという事ではない。動物と人類とは最初から霊魂の質が違います。虫はどこまで行っても虫として発達し、猿はどこまで行っても猿として発達し、それ等が人類に進化するのではないようです。人類が最初虫ケラの姿であったという事の科学的実証はまだ挙げられないが、古代の人類が猿に類似したものであった事は心霊実験でもほぼ確証が挙げられました。ボーランドの名霊媒クルスキイの物質化現象中に出現する一種の怪物、所謂いわゆる「猿人」として知られてるものはう考えても原始人類の一の標本のようです。詳細は「世界的大霊媒クルスキイ」(本誌昭和元年一月号所載)につきて御覧ください。

(四)龍神の形態には動静の二種がある

 龍神というと皆様は直ちにあの威風堂々たる龍体を想像されるでしょう。それは全然嘘ではありませんが、しかしそれが事実の全部でもない。人間の霊魂に動と静との二つの形態がある事はかつて申上げた通りでありますが、龍神の形態にも矢張りそれがあるようです。すべて超物質の世界にありては観念がほとんどすべてであり、観念の変化に連れて形態の上に自由自在の変化が起ります。物質的肉体のように龍神の姿が固定的だと考えると飛んだ間違のようです。私の調査する所によれば、静的内観的状態に於ける龍神の姿は人間の霊魂と同じく矢張り一の白ッぽい球状体であります。が、一たん発動的状態に移ると同時に俄然としてわれわれが日頃お馴染なじみのあの威容凛々たる龍姿ができる。むろんそれはわざと造ろうとして出来るのでなく、何事かをしようとしてウンと気張った瞬間に力の理想的表現ともいうべき、あの素晴らしい姿が自然に出来上るのだといいます。ある一人の龍神さんが私に向って述べた言葉の一節「われわれとても何かやろうとした時に、ただの白いたまでははなはだたよりが無さ過ぎる。力と形とは決して別々には働かない。いざという瞬間にわれわれは自然とああ言った姿になるが、力量の大小により、又霊格の高下によりて個々の姿に相違ができるのはいうまでもない。それによりて龍神の相場がきまるのである……」人間の腑に落ちるように思い切り砕いて言われたのでしょうが、いずれにしてもはなはだ興味深い言葉ではありませんか。

 ここで言い落してならない事は男性の龍姿には必らず角が生えてり、女性の龍姿にはそれがない事であります。この点悋気した女性に角が生えるという人間界の俚諺と正反対であります。

お龍神の形態につきてモ一つ心得て置かねばならぬことは、

(五)龍神がわれわれ人間の為めに理想化した姿を造ってくれる

という事であります。皆様はこの話をおききになられてもさして驚かれぬに相違ない。何となれば日本人の中には夢幻の境においてしばしば天女のような弁天様のお姿を拝むものがすくなくないからであります。私の受取った龍宮界からの通信にはうあります。――

「龍宮界のものが、人間に接するに当りては、時と場合とに応じていかようにも姿を変え得るが、しかし其間そのかんに自から一定の法式が出来てる。日本国民には日本国民の既成観念に相応した姿をもって現われ、その他印度人、支那人、欧米人とそれぞれ適当な姿で現われる。龍神は決して日本又は東洋の専有物ではない。世界の人類はことごとくその所属の龍神の分霊であるから、従って龍宮界と何等かの交渉をたぬ国民はただの一つもない。例えば西洋でよくいう天使エンゼル――あれは本来悉く龍神の化現である仏教徒の接するもろもろの仏菩薩等とても皆同様であるうした形態の相違は畢竟ひっきょうそれぞれの民族性の相違から自から来るものであると観て差支あるまい……。」

(六)龍宮は人間に見せるめの理想境

 われわれは深き統一状態において理想化せる龍神の姿に接することができると同様に、それ等龍神の住む環境即ち龍宮界の光景にも接することができます。無論これを龍神の世界の実相そのものと考うることは早計で、恐らく人間と接触するめに特に造りあげられた理想の世界で、言わば一の蜃気楼と見做みなすべきでありましょう。そう考えるといささか心細いようであるが、しかしそれは決して出鱈目の蜃気楼ではなく、彼我の焦点がビタリと合致した時には常に同一の光景が展開せらるるものらしい。例えば古伝説の中に伝えられている龍宮城の光景などは今日でも優れ霊視能力者の眼底にありありと再現します……。だんだん進んで行くと、寸塵をもとどめぬ浄らかな担々たる砂地の大道が眼もはるかにヅーッとつづいている。なかなか長い道中である。と、遙か彼方かなたに皆さまお馴染の龍宮の建物が縹渺ひょうびょうと現われる。そりのついた棟、朱ぬりの柱、丸味のある窓……更に近づいて見ると眼前に広い、きれいな庭園が展開する。現界このよのものとも見えぬ珍奇な樹草が程よくあしらわれ鳥も歌えば花も咲きほこる。あちらの方には珠のような泉水もあると言った塩梅……門をくぐれば其所そこには式台のついた堂々たる玄関がある。やがて案内を乞うと十五六の眉目みめよき少女おとめがあらわれる。事によるとそれはその昔彦火々出見命のお取次ぎに出た待婢と同一人物かも知れない……。

 んな事を申上げていた日には一と晩や二た晩はつぶれてしまいそうですから良い加減に止めますが、兎に角う言った環境の裡に、今もお昔と同じく豊玉姫だの、綿津見神だのという、いろいろの夢幻的人物がありし日の服装で出現し、こちらの問いに応じて、非常に親しみのある態度で何くれとお話しをしてくださるのですから何とも素晴らしい話で、他人が何と仰っしゃろうが、私には斯んな面白い、同時に斯んな有意義な事柄はめったに見当らなさそうに感ぜられます。いずれ機会を見て筆で描いて見ましょう。まずい口で申上げるよりは幾分その真相を伝え得るかも知れません。

(七)龍宮界は人間界の理想の標準

 地上の人間界が龍宮界の出店でみせである以上、その本店たる龍宮界がわれわれから観て真の理想の標準である事は申すまでもないでしょう。印度思想は強いてその理想の標準を無の世界に置こうとしますからその必然の結果として平等無差別的夢幻的人生観が生れ出で、個人としては利己独善、国家としては衰微衰亡というような事になります。これは理論から言っても又実際から見ても止むを得ない当然の帰結でしょう。われわれは何事があろうともこの尻馬に乗ってはけない。われわれの理想の標準はドーあっても相対的差別的神界、換言すれば龍神界でなければならないと思います。龍宮界からの通信の一節「こちらの世界はあくまでも協調的秩序的であると同時に又あくまで個性を尊重する。君臣、親子、夫婦、兄弟等の関係はげんとして成立してるが、しかし人間の世界のように外部から拘束したり、又自己の私有物視したりしない。要するにすべてが霊的、精神的、永続的自然的にできていて、そこに無理というものが微塵もない。例えば君臣の関係にしても、日本国の主宰の大神邇々藝命ににぎのみことはその比類なき徳と力とをもって昔も今も依然としてこちらの世界に君臨されてる。つまり万世一系の真の標本はこちらの世界にあるのである。又夫婦の関係なども先天的に運命づけられた霊と霊との和合であるからそこに人間の世界に見らるるようないまわしき現象、例えば嫉妬とか、生別いきわかれとか、死別しにわかれと言ったような事が絶対にない。地上の世界は不自由な、そして亡び易き物質と結びついて、散々苦労する所、言わばわれわれの分霊達の最初の道場であるから、容易に龍神の世界の真似まねもできまいが、しかしその理想の標準をこちらに置いてもらわねばならない……。」

 破壊と建設、消極と積極、厭世と楽天、物質と精神、夢幻派と実際派――う言ったようなたたかいは永久に地上から影を絶つことは恐らくないでしょうが、われわれ日本国民はこの際大省一番、成るべく理想の世界の使徒として、世界の民族に率先し、生きた立派な模範を示したいものであります。


 まだはなはだ説き足らないが、以上でほぼ龍宮界並に龍神につきての概念は伝え得たかに思います。私の述べたところがただ一片の空想か、それともる程度事実の要点をつかんだものであるかは、もっぱら今後に於ける心霊事実の蒐聚しゅうしゅう並に霊界通信の発達に待たねばならぬ事柄でありましょう。目下の所何人も材料不足のめに肯定も否定もおできにならないでさぞお困りであろうとお察ししますが、以上私の提供した仮説を以てすれば従来われわれが全然不可解視つつあった疑問の少なからざる部分がきれいに解釈がつくことは事実であります。例えば日本の神代史の宝庫などがこの鍵を使えばドシドシ開かれて参ります。ダアウイン式の唯物的進化論に捕えられてては天孫降臨も、龍宮行きも、日本の建国譚も、何も彼らさッぱり判りませんが、これで行くと立派な心霊事実である事がよく判ります。要するに日本の古典の神武天皇以前の記録は全部超物質的龍宮世界の事実であって、一も地上の物語ではないのであります。無論当時の霊媒を通じて現われた記録でありますから、大分人間味が加味してり、地名なども日本国の地名をそっくり宛てはめてありますので、それ等は当然省き去らねばなりません。しかしう言った夾雑物きょうざつぶつを棄て、記録の精髄のみをつかんで見ると、実に意味深長で、よくもあんな古代の人達にこれ丈の霊的調査ができたものだと感歎される次第であります。私は一々ここにくわしい事を申上げていとまがない。ただ一つ標本として、彦火々出見命の龍宮行きに関する私の質問に対して龍宮界からの回答をここに御紹介することにしましょう。

「………あれは全部跡方のない虚構事つくりごとでもないのであるが、ただ地上の人間がある程度まで想像を加味し、龍宮界の話ともつかず、又人間界の話とも受取れない一種ぬえ式の夢幻劇を構成したところに大分無理がある。彦火々出見命様はもともとこちらの世界の方で、今も昔と同じくげんとして存在され、今も昔と同じく豊玉姫様と御同棲遊ばされている。こちらの世界にありては、夫婦の間柄はいつも若々しく、何年経っても愛が無くなるとか衰えるとかいうことがない。ただし龍宮界がいかに理想の世界だとしても、夫婦の生活にしばしの離別わかれのつらさ、味気なさが伴うことは免れない。男性となればいつも夫婦の愛にのみ浸ってはいられない。修行のめに他の世界に赴くこともあれば、又与えられたる任務遂行のめに久しきにわたりて不在るすをする場合もある。そうした折に孤独を守る女性の身はどんなにつらく、わびしいか知れぬ。人間界のようにこまごました眼前の屈托くったくがない生活である丈却って離別わかれのつらさは一層烈しいともいえる。豊玉姫さまとて決してその選にお洩れになる訳には行かない。御同棲の当初にのみそうしたためしがあったばかりでなく、只今でも同じである。古事記などに伝わっている、あの悲しき離別わかれの物語はつまりそうした消息を伝えたもので、事実とは全然違っているが、しかしその精神こころだけはある程度よく捕えてあるといえる………。」

 際限がないから今回はこれで打ち切りますが無論私の龍宮談はこれで終りではありません。今後も引きつづきそちらの方面の探究を試み、成ろうことなら皆様の御援助によりて二十世紀式の新古事記ができ上るようにしたいと念じつつあります。深く御清聴を謝します……。

 


底本: 雑誌 「心霊と人生」   第8巻第12号

発行: 心霊科学研究会  1931(昭和6)年12月1日

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、章毎にページを分け、箇条書きに改行を加え、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、強調表記に、置き換えました。

入力: いさお