彼岸に到るまで(上)

石龜 勢輔

 

 死後の世界は幽界、霊界、神界とだんだん奥があるようですが、此等これらの中一番近い幽界へでさえも、死んですぐ行き得るものは極めてすくないようであります。大多数は永く永く暗黒界、――地獄では無いが、勿論勿論むろん幽界の一部でも無い――で或者あるものは病苦に悩みつつ、或者あるもの唯昏々ただこんこんとしてとして深き眠りに陥って居り、或者あるものは死を自覚するも動きが取れずして唯々ただただ黒闇の間を彷徨するのみという状態らしい。永遠無窮の生命を抱きつつ数十年あるいは数百年にわた此等これらの苦悩をあじあわねばならぬ吾等われら死後各霊の惨状を想うと、ヨシ其等それらは各自生前の心柄こころがらに対する当然なる報酬であるとはいい、又悲惨極まるものとわねばならぬと思う。此等これらの亡霊を救済し、覚醒と自覚とを与えて彼岸に進ましむるという事は、所謂いわゆる地上に於ける病者を救う医療問題に比して敢ておとらざる重大な意義を持ち来さねばならぬと思う。

 地上を離れて幽界に赴く道程に暗黒界がある。信仰に生き自覚した人は瞬間的又は極めて少時間の間に此処ここを通過するらしいが、しかららざるものは此処ここで多大の年月を送らねばならぬようである。しかして自分の今迄受けた通信を綜合して見ると苦悩を受くる程度は其人そのひと心柄こころがらりて大体三種に区別する事が出来るように思う。

 (1)病苦に責めらるる者。此種このしゅの人々は地獄に陥る程では無いが、此処ここで最も罪の重き者であって、勿論むろん死を自覚せず又昏睡に落ちず、唯々ただただ病苦を味いつつあるのである。しかして何等かの機会で自然に覚醒するか、あるいは自然に病苦去りて(2)の境涯に入りて深きねむりに入るまでは、生前と同じ様な病苦を感じつつあるものであって、時間の無い世界であるから十年百年と続けて居ても左程に永い年月を経過したとは思わずに居るらしい。

 (2)昏睡状態に入る者。前者に比し罪の軽い者、唯昏々ただこんこんとして眠って居る。その眠りは容易に覚めぬらしい。

 (3)暗黒裡に彷徨する者。此種このしゅのものは、死を自覚しても、前に進む事も出来ず、又進もうと思っても方角もとれなければ歩みもはかどらずという有様で、時としては眠って見たり、時としてはもがいて見たりという有様で、何年でも同じ状態を繰返して居る。此等これらの人々は罪があるのでは無いが、何等か地上に執着する事があり、それがめに進む事が出来ぬというのである。

 大体以上の三境涯あるようであるが、彼岸の世界で此等これらを覚醒せしむる方法は自覚を待つのほかなく、自覚して光明界に出て来るものはこれを導くの方法があるけれども、自ら進んでこの暗黒界に入りて導くという事が出来ぬものらしく、これを強て覚醒せしむるには、地上からこれ呼起よびおこすのほかほとんど途が無いようであります。すなわち優良な霊媒を介して此等これらの亡霊を招霊し、その死を自覚せしめ、心の底からその罪を懺悔ざざんげせしめ、更に進んで信仰の途に入らしむる時は大抵の亡霊は初めてその進むべき途を知り、行くべき処に赴くようであります。この点において今日の宗教はほとんど何等の力を有して居らぬを遺憾とします。その実例の一端として此処ここに自分の家庭に於ける有様を述べたいと思う。自分の試みんとする記述の資料は、四人共一二回づつは中西霊媒に依りましたが、其後そのごの数回の招霊は自分の妻を霊媒としたので、所謂いわゆる素人霊媒であり、人様に示すべきものでは無いのであります。ただ前后ぜんごの連絡から見て満更まんざらでも無さそうに思わるるので、厚顔なが此等これらを材料とする事としました。ホンの参考資料たるを得ばという希望に止り、正確不正確を強うる次第では無いのであります。彼岸に導いたのは、

 父、行年七十歳 大正二年五月十二日死亡
 母、行年三十六歳 明治二十二年九月五日死亡
 長女、行年十歳 大正四年十一月二十九日死亡
 長男行年廿二歳 昭和四年十月廿二日死亡

 父を招霊した第一回は中西女史に依りました。死を自覚しては居ましたが、未だ病苦を感じ居り、暗黒裡に彷徨して方角も見当もつかず、進退きわまって居るというのでありました。招霊によりて病苦の感は去り得たけれども未だ何方へも進む事が出来ぬといって居りました。

 母を招霊したのは、同じく中西女史に依りました。第一回の時は死後四十二年を経過して居るのに死を自覚して居らずただ病気して居ると思って居り、どこまでも死を否定したのですが、翌日第二回の招霊の時は死を自覚し、つ一切の執着を棄て、一路光明界に向て進むべきを誓って居りました。四十二年間も死を自覚せず、病苦に責められつつあったのですから、何か重い罪でもあったろうと思うのですけれども、自分の知れる範囲では一人の敵もなく、四隣から相当のめものであった程温良、貞淑な母でしたので、この点自分にも一寸判断に苦しむのですが、自覚と同時に極めてすみやかに光明界に入った事を思うと今少し研究の余地があると思って居ります。

 長女を招霊したのは昨年の七月を第一回とします。当時長男の病状がドーも判断がつかなかったので、中西女史に診療をうた処、長女の亡霊が憑依して居るという事であったので期せずして招霊する事となったのであります。処でこれも死後十五年を経過して居るのに、最後に於ける病苦の状を現示したので、その日はただ病苦を除去するに止め、翌日第二回の招霊をして業に既に他界の人となれる旨を告げたところなんとしてもこれを承引せず、実に始末に困りましたが、第三回の招霊でようやく納得し、子供ながら専念信心して彼岸に赴く事を誓ったのでした。

 長男の招霊は昨年十一月初旬で、死後ようやく半ヶ月位の時でありましたが、コレはその臨終に際し充分訓戒してあったので幸に迷路に入らず、死後直ちに光明界に入ったと申して居りました、今日では可成かなりの境涯に居るらしく実に愉快でたまらぬと申して居ります。

 右の次第で四人の内長男の最も早く幽界に進み得たのは極めて当然でありますが、次には母でありまして、今年の二月の半頃幽界に入り、丁度薄暮位の明さだと申して居り、四囲の人々も極めて善良な人々で幸福だと申して居ります。しかして暗黒界から脱出せる時には、長男が出迎でむかえに出た相ですが、常時十四歳で母に別れた私の長男が二十三歳で祖母と相逢うのですから勿論むろん互に相知る由が無いのであります。で母の方にはその招霊の時に、私の長男が二十二歳で彼岸に行って居る事を告げ、長男に対しては母の戒名を通知して置きましたので、互に名告なのり合う事が出来たのであります。

 父は少しおくれて三月に入ってから暗黒界を脱した様であります。父の通信に依ると、その居ります処はまだ薄暮位の明さに過ぎず、加之しかのみならず一面のモヤに覆はれて遠見は出来ぬというのに拘らず、それでも今日までに比べると身体が非常に軽くなり、丁度風呂上りの様な心地だと申して居り、非常に自分の導きを感謝して居ります。長女は最も後れて三月の中旬に出ました様です。ドーも児は自分等の教育がいささか厳に過ぎためであったのか病気になって死にちかずいてからは、極めて温良な児となったが、それまでは可成かなり強情であって、随分両親を手古摺てこずらしたものです。そのめか、時々招霊して訓育と警告とを与えてもなかなか実行せず、念仏を唱えさしても一寸ちょっとやったけですぐ怠けて居るという状態なので相当骨が折れたのであります。そのめに自覚後十ヶ月もかかってようやく光明界に入ったのだろうと思います。

 兎も角もくして自分の両親と二児とが、最近に幽界で一同会合する事が出来る事となったのであります。二児共幼児ではあったが祖父けは面影を知って居るのでありますが、十歳で死んだ姉は十五六年を経過して二十二歳になった弟を見る事であり、四十二年前に地上を離れ、当時十四歳の自分を知るのみである私の母が、十歳と二十二歳とになる二人の孫と初対面し、四十二年振りでその夫に相逢あいおうたのであります。此等これらの光景はその内招霊して申上げたいのであります。


彼岸に到るまで(下)


底本: 雑誌 「心霊と人生」   第7巻6号

発行: 心霊科学研究会 1930(昭和5)年6月1日

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力: いさお