‘第02篇 幽魂問答’ カテゴリーのアーカイブ

11 願望成就

2010/10/10

 今度は神職の山本氏が引き取り、上坐から下り、一礼して問を発しました。

山本。拙者は当地産土神社の神職山木參河と申す者で厶るが、承れば貴下は加賀の住人泉氏の御魂にて、ゆくゆくは社地に鎮まりたき御希望の由、いかにも理りあるお依みで厶る。市治郎の体よりお離れあるに於ては、及ばず乍ら拙者兎も角も図らい申すで厶ろう。

幽魂。御来駕の段御苦労に厶る。拙者の身の上を御耳に達し、誠に面目次第も厶らぬ。市治郎の体より立退くことは、今更申すまでも厶らねど、ただ社地に鎮まる事は偏に頼み奉る。尤も公辺に持ち出るは憚りあれば、人知れず内密にて図られたし。

 としんみりと依みました。委細承知して山本神職は一礼して退きました。之につづきては長吉が幽魂に対して謝り証文を書く滑稽な一条がありましたがそれは省きます。幽魂は長吉の不審に対し別段深き怒を挿める模様はなく、ほほえみ乍ら長吉を指し、

幽魂。この男愚痴にてはあれど、永々と市治郎を親切に看護せしは奇篤なれば、病気平癒の後はこの儀とくと市治郎に言いきかせるがよい。当人も定めて歓ぶことで厶ろう。

 などと述べるのでした。今度は宮崎氏が入り代りました。

宮崎。さてこれは一家の人々の依頼にて尋ねる次第なるが、此家に何にか障ることはなきや。御存知ならば誨え置かれよ。

幽魂。この家は三屋敷も四屋敷も合併して一つに成れるものにて住居としては甚だ悪し数ヶの屋敷を併せたるものは凶事の起るものなり、その事は広く世間を調べ見れば明白ならむ。又此椽の板に悪しき材木を用いてあれば早く取りかえるがよし。又此室は海中より直に夕陽の射し入るが悪しすべて朝夕の日光を海より直ちに不浄の室に受くるは憚るべきことなり。さるにても先刻お願い置きし拙者の鎮まるべき地所の御評議は決定したるや。

宮崎。山本氏と謀りたる所、産土神の社地に建碑の事は公辺の許可を得るの要あり。故に唯今の墓地に大きく石碑を造立し、周囲に石を畳みなどせば宜しからんとの議で厶る……。

幽魂。石碑を大きくし、石垣を築き繞らすなどの事はお謝り申す。墓ならば二尺二寸にして七月四日とのみ記して、遺骨の上に建てて貰えばそれにて充分なり。

宮崎。そのような無造作なことにては後年又崇ることなきや?

幽魂。されば、神号を受けねば元の人魂なり。崇らぬとも限るまじ。

宮崎。七月四日と祭日を定めて祭祀を行いても崇ることありや。

幽魂。神号なく、元の人魂のままならば、縦令従来の如く強く崇らぬまでも折ふしは崇りもすべく、又当家の守護も為し難し。若し又神号を受け清浄の地に鎮まることにならば今後は崇ることもなく却って当家の守護にも当るべし神号は墓地にては受け難し

山本。我社の相殿に鎮め申さはいかがで厶ろう?

幽魂。以ての外のことなり。その儀はたってお断り申す。畏れ入ったる業なり。

山本。末社に稲荷社あり、又仏閣も近き所に在り。何れが宜しきや。

幽魂。末社仏閣何れも好ましからず。他に清浄の寸地が欲しきものなれど、そは六ヶ敷き由なれば如何ともするに由なし、元の遺骨の上に建ててくだされよ。

宮崎。神号を受けたるからは、いかに墓地を清浄にすとも其所には居難きや。又石碑を大きくするのが悪しと言わるるは、何事か霊魂に差支ありての事か。

幽魂。いかに清浄にすればとて霊の位と其場所柄と相応せずば鎮まり難し又神号は墓地にては受け難く霊の位によりて其鎮る所各々異なるものなり社殿も石碑も相当せざれば居難きものぞ

宮崎。当家の主人も山本氏も御辺を神と斎ぐことには同意なり。されどしかするには公辺に願いて官許を受くること必要なれば、今後三年ばかりは御待ちあれよ。強いて事の早く運ぶようにせば、却って面倒とならむ虞あり。

幽魂。三年にても四年にても待つべし。かくて吾等を神に斎き、七月四日を祭日と定めくださらば、爾後は当家を守護すべし。其儀は重ねがさね依み置くなり。それはさて置き、先刻依みたる御剣行事を為し下されよ。

 斯く述べた時に夜もいたく更けて鶏鳴三度に及びました。

宮崎。折角のお依み承知致したり。宵には怪しき物と思いし故切りつけたれど、最早その儀は無用なり。さらば御免。

幽魂。辱うござる。

 とて一礼しました。乃で以前の如く御剣行事を為しましたが、此度は慎みて両手を膝の上に載せて居るのみでした。行事終りし時、暫時御免とて燭台の火光にて大刀の切先より鍔元まで熟視し了りて一拝しました。やがて一同に向い、

幽魂。さて各々にはいたく苦労をかけたり。先刻約せし通り、七月四日を祭り呉れなば、吾等いかでか悪しく酬いましょうぞ。市治郎も今日限り、次第次第に平癒し、かくて七年の後には当家に吉事出来せむ。それを見て吾等が幽界より悦びて守護し居る証とし、又神となりし徴なりと知られよ。――イザ出立せむ、各々門口まで送り呉れよ。

 斯く述べて席を立ち歩行する様は、血気盛りの若侍がヌサヌサと行くに異ならず、とても大病人の市治郎とは見えませんでした。列座の人々はゾロゾロと門まで送り出て、一礼しますと、彼は門前に立ち止まり、墓地の方に向いまして、

幽魂。吾等この体を離るる時、市治郎が倒れるやも計られねば、各々方にて彼を扶けて貰いたし。

と言うのでした。諸人その用意を為す間に、山本、宮崎の二人は神送りの秘文を唱え、又お祓など上げて居る中に、果して市治郎は左に倒れかかりましたので、多人数にて扶け抱えて家に入りました。幽魂の離れた市治郎は真に大病人で、吉富医師等が羽毛で薬を唇に塗ってやりますと、そのままスヤスヤ睡ったのでした。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


10 三ヶ条の疑問

2010/10/09

宮崎。更に問うべきことあり。先ず武士たる身が父の許に行かずして人を悩ますこと、又二十二日の夕に遺骨の許に一旦帰り乍ら再び言を食みて爰に帰り来れること、また山の芋を食い、又は一日塩の附きたる握り飯を却けたる事何れも不審なり。一々明かに申し開かれよ。

と、予ねて長吉と相談して置いた疑問を持ち出して質問しました。幽魂は少し考うる体にて

幽魂。武土たる身が父の許に行かれずして人を悩ます云々の件は宮崎氏の肚より出でたる言葉にてはなかるべし。父の遺言を果さずして切腹したる身が何とて父の前におめおめと行かるべきぞ。又二十二日の夕の事、山の芋の事、握り飯の事などは宮崎氏の知らぬことなれば、そを問わるる筈もなし。たとえ宮崎氏が知りたりとて、予を武士の幽魂なりと悟らざる前に問わるべき事どもなり。察する所こは一睡の間に傍より入智慧せしものあるべし。さらば今其許に詳しく答うるの要はあるまじ。入智慧したる当人を出されよ。直接語りきかすべし。

と図星を指しての返答に、宮崎氏も二言なく、長吉を麾ぎて、此所に進みて委細承れとすすめました。あまり長談議に亘りては病人の体に障りはせぬかと、心配する人もありましたが、主人は剛気の人で体に障っても構わぬと言い放つのでした。一座の押問答をきいて

幽魂。コレコレ各々方、声が高い、静かに致されよ。長吉の云う所も悪意からの言葉にあらず、我等よく諭しきかせむ。いざ近う近う!

 此時の幽魂の風釆威ありて猛からず、真に敬意を払うべき人物に見えたということです。長吉は其威に打たれて暫らくモジモジして居ましたが、しばしば促されて漸く市治郎の枕辺近くにじり寄ったのでした。

長吉。エー……此所でお話を承ります。

幽魂。されば長吉、汝の疑いは一応尤もなれど、ちと肚を大きく、耳を澄ましてよく聴けよ。前にも云えるが如く、凡そ山川に年経たる禽獣虫魚、又大樹巨石の霊など、皆人を悩ます力あり。又生霊とて、人の一念恨みある者の肉体に憑き、其人を悩ますこともあり。又死せし時の一念現世に遺りて人を悩ますこともあり。吾等は死ぬる時の無念やる方なく、其上死骸を打ち棄てられ、標示の石さえ建てられざる事の悔しさに、かくは市治郎の体を四十余日も悩ますなり。体を悩まされば其体を借り難く市治郎の魂の在るべき所に我魂を宿して其耳口等を借りるが故にかくの如く我が思いを人にも告げ得るなり。されどわれ等が邪鬼と疑われ、又野干と思わるるも無理なき次第にて、宵の間に宮崎氏の詰問に対し、わが怒りしは過なりき。其場の事情は汝も側からききてよく承知せる筈なり。汝は人を悩ますものは野干ばかりと思い居るが故に疑念が解けざるぞ。考えても見よ。野干が石碑の建立を望むものか。又野干ならば、神法もて加持を受くるに、退かずということあるべきか。吾に取りては大事の場合、又当家に取りても今後安否の岐るる所なれば、つらつら前後を考えてわが正体を見届け呉れよ。嘘詐は申さぬぞ。

 山本氏は最初からの事情を知らざるに係らず、此物語をきいて大変感動して了い、上座に居苦しかったと後に自白したそうです。

長吉。仰の通り貴下は武士の幽魂に相違あるまじ。ただ武士の幽魂ならばナゼに父上の許に行かれませぬぞ。

幽魂。イヤイヤ武士たるが故に行かれぬなり、父の遺言を果さぬ身が、行けるか行けぬか、よく考えても見よ。

長吉。当家の祖父並に市治郎が其許の遺骨を蹂みたりとて、祖父を殺し、市治郎を大病人となす事、武士の幽魂の仕業とは受取り難し……

幽魂。ワカラヌ奴じゃ。汝は人を助くるが武士の道なるに、人を殺しては道に外れる、故に武士の魂ではあるまじと言うつもりであろうが……。

長吉。その通りで厶る。

幽魂。前にも言えるが如く、縦令高貴の人たりとも無念に死しては世に祟ることあるものぞ。顕世の無念は顕世よりその道を以て解きて貰わねば霽らし得ぬものなり。されどかかる道理はいかに言葉を尽すとも汝などの耳には入り難かるべし。ただ当家の主人が、先刻、市治郎の体に障るとも不審の点は飽まで問えとのべたるは心地よき男子の言なり――さてさて汝が如きものを相手に言葉を交すも拙なき我身の運とあきらむる外なし。尚お何なりと疑いあらば問え。腑に落ちるまで諭してつかはす。

長吉。御侍の身にあり乍ら、山の芋はナゼに御食用ありしぞ。

幽魂は覚えずプッと失笑したのでした。

幽魂。サテサテ可笑しき問じゃ。汝の問う意は、武士の魂ならば何も食わぬ筈なるに、物を食えるは四足などの仕業と疑ふならむ。その儀ならば誨えてつかはす。他の方々には退屈なるべけれど暫らく許されよ。汝もよく知る如く、二十二日の頃市治郎殊に大病にて、一切食事を用いざるより、吉富(医師)をはじめ、家族のものどもが、何ぞ彼の好める食物はなきかと幾度となく勧めたり。然るに市治郎が腹内には四五年前より病ありて、左の腹の痛むことは吾等よく知りたれば、人々の勧めに任せ、腹に障らぬ山の芋をば態と食わせたり。此方より勧めて食わしたるにあらで、ワイラが勧めて食わせしならずや。又武士は山の芋を食わぬという掟があるか。無論吾等幽魂なれば物を食わない。山の芋は市治郎の為めに食わしたのじゃ。

長吉。ナゼ撮みてお上りなされました?

幽魂。コレコレ汝の問は、既に余を武士の幽魂と決めた上の問い様じゃ。武士が物を喰う法式に相違するとて無礼を咎むる意なのじゃナ。汝は定めて山芋の食法の宗匠と見ゆる。百姓町人は斯くして食い、又武士は斯くして食うものと一々その作法が定まりて居るものと見ゆる。先ずそれから聞くことと致そう。それによりて吾等答える旨あり、疾く言いきかせよ。

 斯く言って膝を乗り出しましたが、其隙のない舌鋒には満座感心して了いました。又長吉との問答中には言葉づかいも横柄で、国訛りが沢山混り「ワイラ」だの「ソイラの事もワカルメイ」だのと申したそうです。が、長吉は畢生の智慧を絞り勇気を鼓して、尚お追求するのでした。

長吉。それにしても、塩を附けぬ握り飯を食われたるは何故か。元来狐というものは塩が嫌いなものじゃが……。

 幽魂は再び笑い出しました。

幽魂。さてさて疑いの深いことじゃ。成る程われ等七月四日以来塩の附きし握飯をただ一度は食ぬこともありしが、それを証拠に野干なりとするは笑止の至りじゃ。何故われ等が食わざりしかは握り飯を吾が前に運べる女の事を考えて判断せよ。

 かく言って火入れを擦り乍ら済ましたものでした。

長吉。ハテ握飯を運んだ女……判り兼ねますナ。

幽魂。されば握飯を作れる女は、その時月経があったのじゃ――女にそれを尋ねて見よ。

 と意外千万な言葉に満座皆驚かされました、早速女を呼んで訊きますと、果してその通りで、今度は月経が長く、既に六日目だとの返答でした。

幽魂。幽魂となりては月経を不浄とするにて、塩の附きたるを嫌うのではない。若し疑うならば塩を持ちて来て見よ、眼の前で食って見しょう。さるにても七月四日以来今日迄四十余日の間に、塩を食わざりしはただ一度なるに、それを証拠に疑をかくるは余りに愚の至りじゃ!

 さすがの長吉もとうとう閉口して頭を下げて詑びました。

長吉。俺が悪う厶りました。

幽魂。イヤイヤ汝は元来疑の深きものにて、真実わが過失を悔ゆる趣はまだ見えぬ。最早夜の明くるに間もなけれど、汝の疑の晴るるまでは何時までもこの座を動くまじ。さァとく尋ねよ、とく!

 と言って火入れを持ち乍ら、吉富医師と山本神職との間に進み入り、御免と言いつつ、ドッカと坐りました。満座の人々は大に興を冷まし、折角幽魂が退くに決したものを長吉が引きとめたので、斯んな事になったと口々に罵りますので、長吉も大に恐縮して了い、畳に頭を擦りつけて詑び入りました。それで幽魂の気色もいささか和らぎかけました。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

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入力: いさお


9 暫時一睡

2010/10/08

 幽魂は自分の鎮まるべき石碑建設の場所の選定に就きて大変気を揉みまして、『国法もあることなれば、公辺の煩いを掛けることは不本意ながら、相叶う儀ならば、成るべく清浄なる社地に鎮まりたし』というのでした。其処で一同評議の上で当地の社家山本參河という人を呼びにやることになりました。其時吉富医師は気をきかせて幽魂に向い『斯く長らくの問答に退屈もあるべし。暫時休息ありては如何』と申しますと、幽魂もそれに賛成して、『我は宿望の叶う折なれば憩うに及ばねど、市治郎が体は長らく悩ましたれば、長座は宜しからず、社職の来るまで暫らく同人に一睡させたし。さらば御免』と申しまして、一礼して自から夜具を引きかつぎて熟睡しました。

 同人の寝たる間は全くの大病人で、威風堂々たる泉熊太郎の幽魂ではなく、ただの市治郎に成り切って了いました。暫くすると山本參河氏は浄衣に縞の袴を穿きて来着し、病人の上座に着きました。宮崎氏は傳四郎と共に前宵よりの概略を物語り、社地に鎮まり度き由云々の事を申しましたが、何にしろ山本參河氏に取りては寝耳に水の話ですから、しばらくの間茫然として兎角の返事も出来ませんでした。宮崎氏は山本氏に向い『貴殿の御不審は尤もなれど、拙者の査べによれば、これが正しく一人の武士の幽魂なることは最早一点の疑なし。それ故建碑の儀も承諾致したり。但し山本氏をはじめ、一座の方々に聊かなりとも疑いあらば腑に落ちるまで直接幽魂に問われて然るべし』と申しますと、満座の人々は異口同音に『誠に恐れ入ったる幽魂なり。一点の疑点なし』と申しました。

 ただ数十人の中で尚お不審の個所を有って居るのは例の看病人の長吉でした。右の不審というは、

一、武士たる者の幽魂ならば何故に其父の所に到らざるか。

二、武士たる者の幽魂ならば何故に二十二日の夕一旦其遺骨の埋もりし地に帰り乍ら、再び市治郎の肉体に帰り来れるか。

三、其の際山の芋を食い、又一日間握り飯に塩の付きたるを食わざりしは何故か。

の三ヶ条で、これは是非問いつめてくださいと宮崎氏に迫るのでした。宮崎氏は『成る程尤もの問である。左様の事は知らざりし故打棄て置きたれど、今度は改めて問うべし』と答えました。その中病人は眼を覚ましたが、忽ち元の通り威風凛々として起き上り『先刻迎いに行きたる社職は来られしや』と問いました。『其所に見えられて居ります』と座に居合わせたる一人が答えますと、チラと山本氏を見やりたるまましばらく無言、山本氏も兎角の言葉は出ませんでした。

 間もなく宮崎氏の開口をきっかけに問答が再開されました。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

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8 幽魂の契約書

2010/10/07

 幽魂は日頃看病人の長吉から野干ではないかと疑われたことが余程無念であったと見えましてこの時宮崎氏との問答の少しの切れ目を見て、はったとばかり長吉を睨めつけた。

幽魂。長吉、汝はよくも、我を四足の類と言うたナ! 今も言う通り高貴の人の霊魂とても、無念に死しては時ありて人を悩ますことあり。よく覚え置きて以来つつしめ!

 恐ろしい権幕で叱りましたが、宮崎氏は引きとりてあべこべに幽魂をたしなめました。

宮崎。其許の立腹はさる事ながら、縦令神にもあれ何にもあれ、眼前に人を悩ますを見て、悪魔なり、野干なりと言いたりとて何の無理があるべきぞ。大切の御国人を悩ます上は吾が見る所も長吉と同じじゃ。

幽魂。(聊かたじろぎつつ)今われ不図誤れり……。我願望だけは何卒聴き届け下されよ。

宮崎。過を悔い、善を慕う心は即ち神なれば、われ其許の望みのままに御剣加持を行うべし。それを限りに当家を退散し、自今人を悩ますこと勿れ。石碑も建てて進ずべく、忌日には祭礼を行い、又諡号をも授くべし。

幽魂。(いと嬉れしげなる風情で)わが年来の願望漸く叶い、諡号をも授からば、今後人を悩ますことをせぬのみか、当家を守護し、又諸人をも救うべし。

宮崎。斯く誓いし後に、若し其許が重ねて人を悩ますことあらば、その時は容赦せじ。骨を堀り糞壷に入れて恥をかかせむ。

 と宮崎氏は強く言い放ちますと、

幽魂。武士に二言は候わず。

 と負けずに強く言い放つのでした。

宮崎。然らば後日の為めに、右の旨を記せる一通の証文を書きて渡されよ。

幽魂。証文とな? その儀には及ぶまじ。

宮崎。イヤすでに姓名を書きたる上は、定めて文字を心得つらむ。必らず書かれよ。

幽魂。さほどに申さるる上は致方なし。兎も角も案文を示されよ。

宮崎。案文も其許自から認められよ。

 斯く言われますと頷いて無言のまま筆を執りて左の如くすらすらと認めました。――

此度大門御剣ヲ以、拙者立退ク様、苦心仕趣ニ相見、

天保十年八月二十四日夜、御剣ヲ奉拝

此上仕合過分ニ存、同夕此家立退、

以来此家ニ不限、人ヲなやます儀急度相愼ミ候、

泉  熊 太 郎

幽魂。これにて宜しきや。

 かく言って、宮崎氏が宜しき旨を述べて返しますと、彼は右の草案を燭台の火で焼き棄て、更に清書して渡しましたが、其書風は至って古雅な書体だったそうです。宮崎氏は一見して、年号月日宛名等が書いてないと思い、其記入を求めました。

幽魂、それには及ばぬ事なれど、望みとあれば書き入れて進ぜむ。

 と言って右の一札を受取り、『天保十年亥八月大門主』と書き加えて渡しました。後に思えば文中に宛名、年号月日共に書いてあるので、幽魂のいう通り全く『それには及ばぬ事』なのでした。

宮崎。年号月日はいかにして幽界に判るものか。

幽魂。顕世の事は人の耳目を借らざれば知り難きことはすでに述べたり。われ先月より市治郎の耳目を借りて見るに、彼の通り帳面三つ掛けありて、共に天保十年正月と記せるを見れば、何れも同時の調製にかかり、今年が天保十年なること明かなり。又月日を知るは、七月四日がわが忌日にて、其日は幽界にても能く知らるるなりこは独りわれに限らず他の幽魂も皆其忌日をば知り居るものぞ

宮崎。其許が武士の幽魂なることは確かに認められたれば、今後諡号を贈りて神として祭るべし。永く鎮りてこの上は人を悩まし給うな。

幽魂。その儀は承知致したり。吾等に取て此上の悦びとてなければ、自今人の守護こそすれ、ゆめにも人を悩ますことは為すまじ。

 とて甚だ満悦の体に見受けられました。

宮崎。其許存世の時に何ぞ好めるものはなかりしや。例えば梅とか、桜とか、又玉石とか……。

幽魂。さる類の好みは無かりし。只存生の時、面白しと思いしは高山大嶽などを遙かに望むことなりし。

宮崎。然らば『高峰の神』と諡号せんはいかに?

幽魂。さる優雅なる号を与え神として斎き給わるとは、誠に難有しとも難有し。従来われ当家に崇り、世に害を為したれば、その罪滅ぼしのため、今後は力の限り清浄の神となりてこの家を守護すべし。『高峰の神』の神号は其許の筆にて書き給われよ。

宮崎。それよりは其許の自筆にて書き遺されては如何。

幽魂。諡号を自から書かんは異なるものなるべし。

宮崎。イヤ尤もの御意見――さらば神号は某書きて進ずべし。ただ七月四日の四文字は其許の自筆を碑の裏面に刻ることにすべし。

幽魂。いよいよ神号を賜わり、神と斎わるる上は、最早今の墓地には止り難し。又凡人の墓所に神号の碑を建てんもいかがなり。何所ぞ別に清浄の寸地はなきや。尚主人にも談合し玉わずや。

宮崎。野辺山という村有の山もあり、主人の所有地もあり、又社地もあり。何地に定むべきかは一家と相談の上にて決することとせん。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

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7 秘中の秘事

2010/10/06

幽魂。儒仏の説く所を信ずるは、皆其道に侫する人の為すことにて、要するに其門に入りたる者を治むるの法のみ。

幽魂は儼然として説くのでした。

 儒仏の説は皆実説にあらず真に人魂の行く所は地上にありて空中にあらず尤も空中にも幽界はあれどそは幽魂の直ちに赴くべき所にあらず。大地の上の幽魂界の何所なりと云うことは今白地に告げ難し。

宮崎。さばかり漏らし難き事ならば、何故に豊前の彦山ともいうべき所なりとは言われしぞ。

 と宮崎氏は舌鋒鋭く切り込みました。

幽魂。イヤイヤ敢て彦山なりと取決めて言いたるにあらず。幽魂界は先ず彦山の如き人跡稀れなる清浄の地、或は磯辺或は島にもあるもの也。是等は魔所などと言いて人々の恐るる地なり。幽魂は此所にありて、容易に人々の行う祭祀を享くるものぞ。そは前にもあらあら述べたるが如し。

宮崎。極楽浄土につきての仏説の当否は如何。

幽魂。(微笑しつつ頭を振り、久うして口を切りました)極楽説は人の心を安んぜんが為めの手段方便のみ。前にも述べたるが如く。人の生前の考と死後の実際とは甚だしく違うものなり。死後の事は死後に知らば可ならむ。人間の顕世に処せむには、世の掟を守ればよし。幽事を知るは凡人の及ばぬことなり。

宮崎。貴答は極楽無しとの意ならむ。極楽なしとならば、何故に其許は去ぬる二十二日に、三部経を上げくれよとは言われしぞ。西林寺にて読ましめたる経文は極楽を説けるにあらずや。大地を離れて幽魂界なしと言い乍ら、大地を離れてありとする極楽を説きたる三部経を望みしはいかなる理由ぞ。

幽魂。敢て経が望ましとの業にあらず。我父の為めに読ましめたるにて、心ばかりの父への弔祭なり。弔祭には経を読みても何を用いても良くただ父の為めと思いて誠を尽せば自から通ずる理なり。元来経は空を説けるものにて、毒にも薬にもならず、ただ便宜のものなり。

 と幽魂の気焔は中々猛烈でした。宮崎氏は話頭を一転しました。

宮崎。一体墓所に鎮まる魂はいと穢らわしきものなり。然るに当家の神棚には尊き神々を祭り奉りてあるを、其許の如き墓所に鎮まる霊魂にして憚る所なく爰へ来るは如何なる故ぞ。

幽魂。新らしき墓にて、腐肉の臭気ある所に止まる霊魂は穢れあれども、我等の如く数百年を閲せるは、その骨肉既に大元の気となりて穢れなく、霊魂も清浄潔白なり。我等はただ人並みならぬ苦痛あるのみにて、清浄なる点はさまで神明と異なることなし。故に神棚の下にも斯くは居らるるなり。但し悪行の為めに相果てたる無念の霊魂は神明の前には到り難し。我等とて濫りに他家に行くことはならねども、当家には由緑ありてかくは来るなり。

宮崎。余は知らざる事なれど、今宵当家にて承るに、二十二日の夕に、其許が其夕に限りて墓所に居り難しと言われしとの事なるが、そは如何なる理由ありての事か。

幽魂。二十二日は郷祭なるが故に、古き神霊来臨の事ありて、家々に豊なる清浄の気を受け入るるなり。されば我等の如き無念凝りたる新しき幽魂は其所を避くるが法なり。この事には深き理りあれど人にきかして益なし。

 右の郷祭という言葉は一寸解りかねて宮崎氏が問い返したるに、『そは一郷の祭りなり』と答えたそうです。

宮崎。当家の祖父など祟り殺されし後は何所に居るや。

幽魂。彼等は同気相集りて、地上の一つの幽魂界に居るならむ。我は委しく知らず。

宮崎。神代の神霊と人霊とは幽府にて違いあるか。

幽魂。神霊は勿論優れたれど人霊とても中には百千人に優れたるものあり。無実の罪に罹り、無念に死したる霊などは、右に述べたる如き優れたる霊に添はれて一つの大霊となり、山をも鳴らし洪水をも起すなり。

宮崎。今其許の望みの通り、石碑を建てて七月四日を祭日と定め、祭祀を怠らずば、其許は其所に何時迄も鎮まるや。又は時ありて其地を離るることありや。

幽魂。我願望達しなば、永く其地に鎮まるは勿論なり。しかせば従来の苦痛も消失するに相違なく、又自己に苦痛なければ人を悩ますことの無くなるはいう迄もなく、却って人の苦悩を憐むの情起らむ。これ正法に依りて邪を正に帰せしむるの道なり。

宮崎。邪心を転じて正に帰せば,其許は社々に座す神々と同体にならるるか。

幽魂。祭事は幽と顕とが互に一致せでは効なきものなり。国主より国法に依りて神社と定められ人民も皆之に従えば、神社と同様にもなるなれど、其事なければ神々と同体にはなり難し。

宮崎。無念の事なくして死したるものの霊魂は、崇ることはなきものか。

幽魂。礼を以て葬られたる輩は人並みの幽魂なれば、人に崇りをなすことなく、又常に墓所にのみ居るものにもあらず。

宮崎。石もて畳み上げたる古き大塚などを見るに、何れも礼を厚うして葬りたること疑いなし。然るにたまたま農夫などが此等の古墳を堀り起すに、或者は忽ちに崇られ、又或者は之を発いてより三年も閲たる時崇りを受く。時には墓を取除けても何の崇りのなきことあり。そはいかなる理由なるぞ。其許の言えるが如く、礼を以て葬りたる幽魂が墓に居らずというならば、崇ることはいぶかしからずや。

幽魂。すべての幽魂常に墓に居らざれど、その来るべき時には来て居るものなり。又初より其墓に鎮まらんと思い定めたる魂は常に墓に居るが故に、それ等の墓を発けば忽ちに崇るものと知られよ。又墓を堀りたる時たまたま幽魂が其所に居らずとて、後に来りて其発かれたるを見れば、何人の業なるかは忽ちに知らるる故に、三年五年の後にでも崇りを為すものぞ。又幽魂にして終に貴き霊となり、清浄の境に入りたるもの、又上界の到るべき所に行き了ヘたるもの、或は主宰の神の御計らいにて人間界に再生したるもの、さては又悪事にのみ心を寄せ、獣類に生れかわりたるもの等は、皆墓所との縁を離れたれば其墓を発かれたりとて崇ることなし

 されば今我等とて道を以て神に祀らるれば神となりて長く人世を守護すべく、其暁には縦令墓を発かれたりとていかでか怒らむ。序でに教え置かん。人の霊を祭るは墓又は霊棚にするが享け易し。神々を祀るは神社又は常に定めたる祭場にするが享け易し。又墓所を発きて悩むことありとも、悉く之を崇りに帰せんは非なり。墓の穢れ、鬱滞の気に触れて発病することもありぬべし。

宮崎。幽魂が幽界の集合地より墓所に来ることは容易きものにや。

幽魂。(重複の質問にいささかむつとして)来らんと思えば何時にても来らる。

吉富。彼岸盆会には世俗皆霊を祭る慣わしなるが、かかる折に幽魂は実際来臨するものにや。

幽魂。彼岸盆会は世俗一統霊を祭る時と定めあれば、幽界にても祭を受くべき時と思い、又死ぬ人も盆会には必らず来るものと思い込みて死ぬるが故に、必らず現われ来るなり。されど我等の如く無念にして相果て、死して祭られざるものは、盆会などには臨み難し。ああ生前武士たる身にてあり乍ら、人体に憑きて人の疑惑を受けつつ石碑の建立を希ひ、忌日の祭を頼むとはさてさて口惜しき限りなり。この胸中推量し玉われよ。

宮崎。菅原道真卿、藤原廣嗣又は逸成、早良親王など、何れも高貴なるが、現世に祟り玉ひしことは実記の上に確証あり。儒者どもは之を信ぜず、世の変災は皆自然の為すところとす。いずれが真実なるか。

幽魂。いかなる高貴の人といえども無念骨髄に徹して死せむには世に崇りを為すこと必定なりそは之を世に知らせて無念を霽らさむがためなり。我等かく市治郎の体を悩ますも、其口を借りて積憤を漏らさむと思うが故なり。顕界にて受けたる無念は顕界より解きて貰わねば霽るることなし


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


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6 幽界の秘事

2010/10/05

 幽界の事情につきての質問に会いますと、幽魂は屹として答えました。

幽魂。先ず爰に申し置くべき儀あり。そは顕界の事情を濫りに幽界に漏らし難きと同じく、又幽界の秘事を顕界には漏らし難し。幽界の事情は生前に思い居るとはいたく異なるものぞ。この事は各々にても一且死なば忽ちに暁るべし。我は今幽中の者なれど斯く人体に憑り居る間は幽の事いと微かなり之と同じく人体を離れて帰幽せば人界の事頗る微かにして心を籠めし事ならでは明かには知り難しすべて人生に漏らし難き幽界の秘密又人間の知りて却って害ある事は決して答ふることなければその心得もて問を発せられよ

 かく演べて威儀厳然として質問を持てる有様はとても病める市治郎とは思われず、あだかも傑れたる武士の座敷に居る心地して、看病人が湯など汲みて行くときも思わず平伏して捧げ、父も平素市治郎に対して使用せし言葉は口に出なかったそうであります。

宮崎。切腹の後は、其許は常に墓所にのみ居たるか。

幽魂。多くは墓所にのみ居りたり。切腹の砌は一応本国に帰りたれど、縁とすべき地なく、帰心切なりしが故に忽ち墓所に帰りたり。

吉富。本国に帰らるるには、いかにして行かれしぞ。

幽魂。飛行の法には種々あり。百里千里も瞬間に行くを得べし。されど其法はいかに説くとて生者のよく理解し得る限りにあらず。但し汝も死せば忽ち其理法を覚るべし。

宮崎。本国に帰りし外他所にも行きたることありや。

幽魂。七年以前に他所に行きて九ヶ月ほど滞在したれど、ただただ帰りたきまま還り来ぬ。

宮崎。その九ヶ月の間は、ただ一ヶ所に居りたるか。

幽魂。九州に幽魂の集る所あり

宮崎。九州外にもありや。

幽魂。何れの地にもあり。高山の頂点など幽静の浄地には集まること多けれど、其何地なりやは白地には告げ難し。

宮崎。其許の行きしは何地なりしか。

幽魂。白地には告げ難けれど、大凡は豊前国なる彦山ともいうべき地なり。

宮崎。いかなる縁因 にて其地には赴かれしぞ。

幽魂。一人の武士の魂と一つになりて行きたり。

宮崎。一ツに成るとは形を一つになすことか。果して然らばその二人一体となるは如何なる幽理に由るものか。

幽魂。五十にても百にても魂の一つに成る事は自在にて、集合して一体となりしものが、却って元の形よりも小くも成り得るなり。又一人の魂にても怒る時は百の魂より太く成り得る場合もあり。かかる幽理は人智にては解し難ければ言わず。

宮崎。一人の武士と一つに成りて行きたりと言われしが、その武士は如何なる人ぞ。

幽魂。予生前九州に来りし時、豊前国小倉に九十余日滞在せし事ありしが、その時件の武士と兄弟の如く交わりたり。この人予と別れたる後、猟に行きて山中に死し、その魂久しく死所の附近に留まりしが、ある時予は其魂とめぐり合い、誘わるるまま山中に同行せり。されど其所はわが心に染まぬのみならず、我身切腹して死したる故にや、人並みの場所には居苦しく、僅かに九ヶ月程にて辞し去りぬ。

宮崎。然らば其許は数百年間此地に住める筈なり。これより当時の事を問わむ。

幽魂。イヤ幽界に入りたる者は顕世の事には関係せぬものなり。顕世の事は見聞するも穢わしきのみならず、幽魂は顕事に与からぬが掟なり。ただ生きてありし時に心を遺し思いを籠めたる事は霊魂となりて後も能く知り得之を知るが故に苦痛は絶えざる也。凡そすべての幽魂は顕世の成行きは知らぬが常なり。されば予も顕世の委曲は之を知らず。ただ人体に憑きて其耳目を借り得る間は顕事のすべてを知り得らるるものぞ。さて斯く人の肉体を借るに当りて、其人を悩ますは如何なる義かというに、そは之を悩まさざれば人の魂太く盛んなるを以て我魂の宿るべき所なければなり。気の毒なれど予は市治郎を悩まして其魂を傍に押遣り、その空所に己れの魂を充たしぬ。されば市治郎の肉体は今見らるる如く大病人の肉体なれど、内実は我魂の宿なり。されば前にも述べたる通り幽界に入りては人事を知らぬが道なれど、ただ人体に憑きたる間の事は能く知り居れば、何事にても問われよ。又生前に心を籠めし事も知り居るなり。

宮崎。さらば顕世より弔祭などすとも幽界の魂には通ぜぬ道理ならずや。

幽魂。なかなか然らず。よく思われよ。神を祀り、魂を祭る事は、縦令顕世の業なりとも、そは皆幽界に関せずや。かるが故に祭祀は神にも通じ又幽魂にも通ず。金銭の取り遣り、又婚姻等一切の人事は穢はしければ幽魂は之が見聞を避くるなり。幽魂となりては衣食共に其要なきが故に欲しき物もなく、唯だ苦を厭い楽みを思うのみなり。さて祭事を行うに当り、人々俗事を忘れつつ親しく楽める心は幽界に通じ、祭られし霊魂に感応して之を歓ばしむ。歓べば自然に魂も大きくなり、徳も高くなり、祭り呉れたる人も幸福を享くるものにて、人より誠を尽せば其誠よく霊に通ずるものなり。

宮崎。人の幽魂は皆各自の墓所に鎮り居るものにや?

幽魂。常に墓地に鎮り居るは我等の如く無念を抱きて相果てし輩か又最初より其墓に永く鎮まらんと思い定めたる類にして其数至って少し。多数の幽魂の到り集る所は、幽事なれば言うことを得ず。

宮崎。墓地に居らざる総ての幽魂は何地に於て祭祀を受くるや。彼等は祭場にも来るか。

幽魂。顕世にて五百年の間も引続きて行い来れる祭事は幽界にても大体その如く定まれるもの也。されば不図祭りの月日を改め、霊魂に告げずして執行すれば、之が為めに却って凶事を招くことあり。そは霊魂が従来規定の祭日を思い出でて享けに来るに、その事なきが故なり。又顕世にて同時に数ヶ所にて祭祀を行うことあらむには、霊魂は数個に分れて、各々其所に到りて祭を享くべし。縦令百ヶ所にて祭るとも、霊魂は百個に分れて百ヶ所に到るべし。尤も我等の如き者の魂は一つに凝りてさる自由は得難し。

宮崎。墓地に居らざる幽魂は何地に居るものか、大凡にても承り度し。

幽魂。幽魂の到り集る所は此所彼所に多くあれど、そは現界に生を享くる者の知らでも済む事なり、只死後人の霊魂の行くべき所はあるものと心得居て可し。死したる後は生きたる人の考とは大に異なるものにて、幽事は生ける人の耳目の及ばぬものなり。耳目の及ばぬ事は言うだけ愚かなり。死すれば忽ちに知れるものぞ。

宮崎。その儀一応は尤もなれど、仏法にては死後行くべき所を人に知らしめて安心せしむるを主眼とし、儒道も亦之を説かざるにあらず。されば今日の所にては、之を世人に知らしむるの要なきにもあらず。右儒仏の唱うる所何れが実説なりや。

と宮崎氏の質問は次第次第に急所に向って突き込むで行くのでありました。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

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5 武士道の意気地

2010/10/04

 宮崎氏は引き続きて質問をすすめました。

宮崎。其許はかかる美事なる文字を筆せる程の武士なれば、定めて文字も多く知りて居るべし。此白紙に、仕えたりし国主の禄高、その家老、中老の姓名、領分の内なる一二の郡村名等を記されよ。

幽魂。前にも申せし如く、私かに本国を立ち出でたる武士は、国内の事を包むが士道なりとの意をきき分けなきや。我姓名を名告るさえ、祖先に対し、又君主に対して申訳なき次第なり。われは武士道を破りてまで私願を遂ぐるを好まざれども、さりとて私願遂げざれば再び人を悩まし我苦悩の止む時なき事の悲しければ枉げてわが姓名のみは記したり。然るに尚お斯くの如く追窮の手をゆるめぬは、心中に疑念ありての事なるべし。凡そ天地の間に斯る事は必らずあるものにて、人間のみならず山川に住むもの又大樹大石の非情物だに時としては人を悩ますなり。されど人は之を疑う。今此疑いを解かざる限りは我願望も遂げ難かるべし。いざさらば何なりとも問われよ。国主に係らぬ限りは何事にても答うべし。

宮崎。さらば其許の主君に係らぬ郡名あるべし。四郡五郡にても宜し、それを告げられよ。

 かく追窮された時幽魂は聞きとがめ、『吾が本国のグンとな。』とて、いかにも訝かしき風情をして吉富医師に向い『グンとは何事にや。』と尋ねたそうであります。吉富氏が畳の上に『郡』の字を書き終らぬのに『コホリの事か。平生聴き慣れませなんだ。』と言い、更に語をついだのでした。

幽魂。わが本国には四郡あるのみにて、五郡なきことは知らるるならむ。若し知らぬが故に問わるればとて、ウカと記して人の前に差出してなるものぞ。皆君父の領内の事なるものを……。されど、さばかり地名を知りたくば五ッ六ッ書くべし。

とて極めて能筆で榎木村、榎木原、原江などと書き記し、更に言葉をつづけました。

 かかる事とも縦令百千書けばとて疑念は解けざるべく、又遠国の事なれば、吾れ之を知るのみにて、人々の疑念を晴らすの証とはなり難からむ。但し我本国の事を知り居らるるとならば書きもすべし。

宮崎。其許の言う所尤なり。さらば他事を問わむ。石碑の正面には、七月四日とのみ記せよとの望みなれど、同月日に死したる者は世に夥多あることなれば、年号をも書き添えられよ。その年号は何と云いしぞ。

と引き出しにかかりましたが、幽魂は容易にその手には乗らないのでした。

幽魂。年号を記さば、直ちに君父の事は知れるなり。記してよき事ならば何として包むものか。法に違い義を失う事は、いかに問わるるとても告げ難し。

宮崎。七月四日とのみ記して建立せむには、若し当家転住することもあらば粗末になること必定なり。又それ等の事なしとて、何人の墓なるかが不明ならば、自から粗略になるべき道理なり。さる折に魂は何地に行き、何地に鎮まるぞ?

幽魂。我は天地の無窮なると共に、永遠に石碑の建てられたる地に鎮まる心底……。

宮崎。単に月日のみを記し置かば行末粗略になるは必定なれど、それが望みとあらば致し方もなし。

 と言いますと、幽魂はやや久しく俯いて居ましたが、やがて低声にて『何とか別に致方は無きか』と独言ち、其気色いかにも荒立ち、物によっては祟りも仕兼ねまじき風情にて、暫く無言で居るのでした。宮崎氏は尚お追窮をつづけました。

宮崎。国主の名、切腹当時の年号、本国内の事。其許が飽まで秘せむとするこそ不審なれ。是非とも書かれよ。悪しゅうは図らわじ。

幽魂、アイヤよく我言を承れ。義を失い、武士道に背きて願望を遂げたりとて何かせむ。武士たる身の書くまじき事を書きて私願を遂げむより、義を全うして弓矢の神法にかかりて煙とならむことこそ本望なれ。イザ御弓矢の行事なされよ。さてさて無念を抱きて果てし身は、何処まで口惜しきものなるか。正しき道を述ぶれども人の疑念を晴らすよしもなし。

と言い放ちて痛歎の模様でしたが、暫時にして語を転じ、

凡そ幽界より霊界に言語を通ずるは尋常人の幽魂の能く為し得る所にあらず我れ数百年の苦痛に堪え難ければこそ斯く人に憑りて頼むなれ。いよいよわが望みの遂げ難しとならば市治郎の死せむは必定なり。若し我が望みだに叶いなば、四五日の中には病気を平癒せしむべし。病気の平癒を証拠に石碑の建立を依むことは協わぬか。若しそれさえ承諾あらば、われは幽界に帰りて石碑の建立されむ日を待つべし。顕世にて一代を閲る間も幽界にては須叟の間と思わるるものなれど十日は愚か瞬間の苦痛すらながなが堪え難きものぞ

宮崎。忠肝義胆の其許の一言一句をきけば、誠にこれ武士の魂なること今は早や一点の疑もなし。いで、これよりは幽界に係る事どもを問
わん。一々わが問に答えられよ。

 宮崎氏は爰に一転して幽界の消息を根掘り葉掘り問いつめにかかったのでした。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

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4 生前の姓名は泉熊太郎

2010/10/03

幽魂。予は父を慕いてはるばる此地に来りしものなるが、父は此地にて船を雇い、単身肥前国唐津に赴きたり。その時父は予に向い、汝は是非ともこのまま本国に帰れ、一歩も隨うこと叶わず。若したって帰国せぬとならば、吾子にあらずとまで言わるるまま、子として身に徹し腸に通りて、その旨を承ることになりたり。さればとて亦国元へ帰り難き深き仔細あり。ただ独り跡に取り残されたる身は進退全く爰に谷まりて、終に切腹して相果て、爾来爰に数百年、空しく無念の涙を呑むのみ。わが死骸は切腹のまま土中に埋められて人知れず朽ち果てたり。

 斯く述べて幽魂は潸然として涙を浮べ、世にも悲しげな面持ちをあらわしました。

宮崎。その無念はさる事ながら、幽魂いかなれば斯く長く当家にのみ崇りをなすや。それとも又他家にも崇りたることありや。

幽魂。当家に対しては因由
ありて崇るなり。他家にも崇りしことはありたれど、只病気に罹らせしまでにて、一度も今日の如く言語を発したることなし。これ迄当家に尋常ならぬことの頻発せるは皆吾魂気わが遺骸の埋まりし地より通い来て為せし仕業なり。同じ災厄が代々起りしは皆吾が所為なれば、早くそれと悟りて祀りくれなば難有かりしものを、それに気のつく者の無かりしは無念なりし。四年前に当家の祖父も、我遺骨の上にて大病に罹り、又この市治郎も我骨の上を踏みしにより、われ瘧となりて其身に憑けり。廿三日の早朝わが魂の鎮まる所を知りて砂を堀り、浜に棄てたるは無法の所置なり。之が為めに我は行くべき所を失いたり。

 市治郎は七月四日曾祖父の墓の傍らの少し東方を踏んだ時に総身悪寒を感じ、それから瘧に罹ったのだそうです。総じて此家では七月四日に死んだ人が沢山あるということです。

宮崎。汝の願望とは何事なりや。又割腹の当時は何歳なりしや。又姓名は何と名告りしぞ。

幽魂。わが願望は一基の石碑をたてて貰うことにて、その一事さえ諾せらるれば、今夕立所に此家を立退くべし。一念凝りても数百年の間、終に時と人とを得ざりしが、今や漸く其機会に臨みたり。わが切腹せしは二十二歳の七月四日なりき。わが姓名は名告り難し。

宮崎。姓名を名告らずんばいかにして其石碑をたつべきぞ。従って願望の事承諾し難し。

 此時幽魂は武士の義を演べ、姓名の名告り難きをいろいろに依むのでした。が、宮崎氏は承知しませんでした。

宮崎。其許の申す条一応尤なり。されど、姓名を刻せざる石碑をたつるは神道の方式に叶わず。われ神道に背きて碑をたて難し。

幽魂。嗟呼何たる事ぞや。君に仕えし姓名を、私の願いの為めに明さで叶わぬ身となりしこそ口惜けれ。打ち明けねば願望成らず、願望ならざれば、これ迄に人を悩ましし事は皆徒事となる……。

と嘆息するのでした。医師の吉富氏も言を尽して姓名を名告れと迫りました。幽魂はこの時吉富氏に向いまして、

幽魂。其方に一つの頼みあり。先刻の御剣身にしみじみと忘れ難し。今一度あれなる人の御加持に預りたし。其方御苦労乍ら申しつぎて頼みてくれよ。

 かく述べた時の言葉は、いかにも加賀辺の方言にて、大名などが平人に申すべき言い振りであったそうです。吉富医師と幽魂との間には引きつづいて問答が行われました。吉富氏は何故幽魂があの剣を慕うのかを尋ねました所、幽魂は別に深い仔細ありての事ではないがと言い、ややありて低声で『さてさて』と歎息し、何事にかいたく感動せる体なりしが、重ねて『あの三振の中なるがいかにして』と言って俯いたそうです。

宮崎。石碑建立の件も、又御剣加持の件も姓名を聴かざる内は承諾し難し。速かに名告られよ。

 吉富氏も傍から言葉を添えました。――

吉富。これまでしばしば申す通りなるを何故にかくは深く隠さるるぞ。さばかり包まるるに於ては、とても其許の御願望は叶わざるべし。

幽魂。われ割腹を遂げ、無念に果てしその遺骸に砂をかぶしたるまま、数百年打棄てられたり。この苦悩を脱れん為めに、今まで人を悩ますとは、さてさて拙なき運命の身の上なり……。

 かく述べて涙を浮べ、しばし俯いて居ましたが、やがて紙と硯とを貸せよと言い、それを取ると、静かに墨を磨り流し、紙面に『泉熊太郎』と明記しました。そしてそれを手に持ち乍ら吉富氏に向い『石碑は高さ二尺二寸にして、正面には七月四日と書けばよし。此姓名は必らず世に漏らしてくれまじきぞ。』と言い、更に又筆を執りて石碑の形までも書き添え、別に『七月四日』の四字を自筆で書きましたが、その筆勢は実に美事なものだったそうです。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

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3 加賀武士の幽魂

2010/10/02

3 加賀武士の幽魂

 宮崎氏はやがて長剣を鞘に収めて信太郎に手渡し、奥の一ト間に退いて密に病人の動作を窺いました。病人は暫時平伏の後、やおら頭を擡げ、弟の持てる長剣にきっと眼をつけ、鍔元より見上げ見下ろし熟覧する様、意味ありげに想いやられましたが、やがて眼顔もて、その長剣を汝の膝に上げよとの風情を示しました。先刻から恐怖の余り、おののき居たる信太郎は、耐らなくなったものと見えまして、そのまま席を立ちて逃げ出しにかかりますと、父の傳四郎が側から声を励まし、『動いてはならぬ。怖くも何ともない。俺が居るぞ』と怒鳴りました。そして今度は病人に向い、眼を嗔らして罵りました。『こりァ怪物、我児を悩ますとは奇怪至極じゃ。この上は大切の神法、蟇目の矢先にかけて打放って貰うからそう覚悟致せ。』

 傳四郎はやがて宮崎氏の前に来て、『かく長らく御加持を為し下されましても、どうしても本体を現はしませぬから、今は蟇目の矢先にかけるか、又鳴弦にて打放ち、射除けて戴くより致方がございませぬ。何分にも御依み申します』と言葉を尽して依頼しますので、宮崎氏も之を諾し早速弓矢及び入用の品々を調え、墨を磨らせて御神号の幡を作らせるなど、万端の準備を整えました。

 宮崎氏は念の為めにモ一度長剣を信太郎の手から取り、抜き放って病人の喉元に切附ける所作をして見ましたが、病人は少しも驚きません、一礼して前なる燭台の蝋燭を右手に取り上げ、左手を膝の上に置き、姿勢を正して、差しつけたる剣の鋒尖を、よくよく念入りに熟視するのです。いかに宮崎氏が神文を唱え又剣もて突きかかって見ても少しも動ずる気色を見せませんのでとうとう宮崎氏は剣を再び元の鞘に収めました。そして其場に居合わせたる医師の吉富養貞に対して『吉富氏、貴下の口から一つ病人に篤と申しきかしてくだされ。今回は止むことを得ず、鳴弦又蟇目の重き法を以て、射放ち打砕かねばならぬ事に立ち到ったが、そもそもこの神法は、天照大神の授け給いし天の羽々矢、天の杷弓の御故実にして、神々守護の弓道なれば、此所に行いても彼所に応じ、顕世に行いて幽界に通じ、仮令幾百千里を隔つとも、此法を修するに於ては、其敵に中らずという事なく、一矢を放てば総身に響き、二矢を放てば四十八骨に徹し、三度四度に及びては、いかなる邪気も人体を離れざる事能はざる神法なり。かくて十矢に至れば、離れたる邪魂は雲霞の如く消失し、人体を悩ませて其望みを達せんと思いたることは却って我身の仇となり、魂魄永く死滅の憂目を見るなり。余敢て生を害することを好むにあらざれど、汝今人体に憑りて之を悩ますが故に、斯道に仕うる身の黙止し兼ねて、爰に此神法を施行せねばならぬが、念の為めに今一応汝が心底を問い糺さむ。一命を失いても汝は此家の一子を滅ぼす心か、それとも他に希望のことありてこの肉体に憑き纏ふか。二者何れか、速かに答えよ。若し飽までも肉体を離れじとの一言を吐かば、止むなく直ちに弓矢の法を修せむ。ゆめゆめ世の追掛の威などと思い侮り、後悔すな、と貴下からそう病人に申伝えてくだされ』

 吉富医師は早速その旨を了承し、病人の前に到り、右の趣を詳かに語ってきかせますと、病人は打被りし夜具を押除け、座を正し、言を改め、両手を膝に置いて一拝して申しますには『斯く正しき理を攻めて懇ろに申さるる上は、最早何をか包みましょう。余は怪物でもなく、又野干の類でもござらぬ。元は加賀国の武士にて、父の踪を追い此地に来り、無念の割腹を為したる者の幽魂でござる。一条の願望を果さん為めに、従来当家の者に崇りしが、残念乍ら未だ叶を得ずに居った次第でござる。』

 一旦言語が切れ出すと共に件の幽魂は年来の積る思いを縷々と述べ出しました。詰まり動くものは市治郎の口でありますが、之を動かすものは武士の霊魂なのであります。乃で宮崎氏は感歎すべき冷静と思慮とを以て件の霊魂に質問を連発しました。一問一答、幽冥界と現実界との間に完全なる連絡がつきましたのは、心霊現象につきての厳密なる研究が出来上って居なかった天保時代の出来事として寔に感歎に値するものがあります。以下幽魂と宮崎氏との間に行われし問答をそのまま掲げることに致します。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


2 野干か生霊か

2010/10/01

 宮崎氏が迎の船で岡崎家へ行ったのは八月二十四日の午後でした。主人から委細の病状を聴き、それは恐らく野干などの所為ではあるまいかとの鑑定を下しました。が、発病以来病人の看護をしていた相撲取の長吉という男はそれに反対でした。『狐なら躯のどこかに塊物がありそうなものだが、いかに撫でて見てもそんなものは見当りません。事によると女の生霊かも知れませぬ……。』そんな事をいうのでした。

 そうする中にも、病人が今にも死にそうだ、との注進があったので、宮崎氏をはじめ、一同連れ立ちて急いで病室に入りましたが、それは母屋の対側なる役宅の奥の一間でした。

 其所には医師の三木という人が、先刻からしきりに病人に与うべき薬法を考えて居ました。彼は宮崎氏に向って言いました。『拙者は野干の仕業かと思います。しかじかの薬を飲ませましたが、病人は些しも否まず皆飲みました。ドーも何物が崇っているのか、拙者にはとんと見当がつきませぬ……。』いかにも当惑の体でした。

『兎も角も拙者の修法を施して見ましょう。』

 そう言って宮崎氏は携え来れる官服を着し、二筋の白羽の矢を手に持ち、又一振の長剣を病人の弟信太郎に持たせ、病人の枕辺に近づきてお祓を唱え、加持の修法に取掛りました。数人の医師、家族の人々、その他親類縁者等取りまぜ三十人許り列坐してこれを見物しました。

 お祓及び祝詞の神文を唱うる中に、次第に病人の状態が変って来ました。彼は自然自然と頭を上げ、又両手を膝の上にキチンと載せました。死に瀕せる大病人が斯んな真似をするのですから宮崎氏をはじめ、何人も、これはてっきり怪物の所為に相違あるまいという念慮をいよいよ強めたのでした。

 加持はいよいよ進みました。宮崎氏が十種の神宝の古語を誦しつつ、白羽の矢もて病人の肉身を剌す法を行いましたが、不思議な事には更に何の手答もありません。『八握剣!』と唱えてその矢を病人の胸元に擬したる時には、さすがに後方にのけぞりかけましたが、忽ち持ち直し、屹と威儀を整えたる状態はなかなか以て病人らしくは見えませんでした。

 宮崎氏は一心不乱に、法を替え改めてさまざまに加持して見たが、何の甲斐もない様子を見て今度はかの弟信太郎に持たせてある長剣を抜放ちて、病人の真向に切りつけんとしました。愕くかと思いの外、病人は衣服の膝の辺をつまみ上げてしっかと坐り、たまたま傍に有り合わせた煙管と鉄製の火入とを左右の手に掻いつかみ、宮崎氏の振りかざした長剣の切先きを、明星のような眼光で身構して睨みつけました。此方が長剣を左に振れば右に見つめ、右に引けば左に付け、その間秋毫もまじろがす、片時も油断せず、さながら一騎当千の猛士の態度も斯くやと思わるるばかり、その場に居合わせたる多数の人々も面色土の如く、ワナワナと総身に胴慄を起したのでした。

 かくて宮崎氏は長剣を高く振り上げつつ、声高らかに呪文を唱え、エイヤオウ! と叫びの声をかけますと、病人は初めて右の神文をきき分けたものか、それとも加持にて切りつけられたと思ったものか、忽ち手に持てる火入も煙管も其処に放り出して二尺ほど飛びじさり、謹んで平伏しました。その時久しく梳らざりし乱髪がバラバラと胸や肩を埋めたので一層物凄かったといいます。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。