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45 幽界のクリスマス

2010/06/04

 一九一七年十二月二十四日夜、丁度クリスマスの前夜、ワアド氏は例の如く幽界へ出掛けて行きますと、此日はレックスは勿論、叔父さんも御母さんも戸口に立って、ワアド氏の来訪を待ち受けて居り、顔が見えるが早いか『ハッピー、クリスマス』を浴せかけるのでした。

 レックス。『危ない処、兄さんがもう少し早かろうものなら、家は空っぽでしたよ。たった今教会から帰ったのです。』

 家へ入って座ると、レックスは話を続けて、――

『御母さんがクリスマスだから、教会へ行きたいと仰っしゃるので、皆なでイープル寺院の夜の礼拝に行って来ました。』

 母。『ほんとうにいい御集りでしたよ。そして歌が実に綺麗でしたよ。』

 ワアド。『声楽ですね?』

 レックス。『ええ左様です。それから行列もありましたよ。此前あの寺院に行った時、僕は未だ生きていたのだが……。斯うなるとうら淋しい気もしますね。随分と多勢の人達が集まっていましたが、私達もその現界の人々の間に混っていたので、異う世界に住んで居る事なんか全く忘れてしまいましたよ。全く説明の出来ない不思議な感覚を味いました。』

 ワアド。『時間は何を標準にしたのですか?』

 レックス。『グリニッチです。フランスの時間は二三分違いますが、どうしても慣れて居る方がいいのです。然し兄さん、僕等が時間を気にするのはこんな時丈ですよ。何にしても地上の人達と同時に同じ祈祷をするには、時間を合せなければならないのです。といつて、これは同じ気持になりたい時丈ですから、極めて短かい間で充分なのです。』

 ワアド。『英国の教会へ行かず、フランスを選んだのは何か訳があるのですか?』

 レックス。『御母さんがなるべく立派な集りに行きたいと云われたのと、僕がイープルという場所を、歓びの折に見たいと思ったからでした。叔父さんはどちらでも構わぬと仰っしゃったので……。』

 叔父。『眼に見えぬ世界と物質界とは、斯様に接近したものであると云う事を、実際に知って居る人はどれ程あろうか。口には聖者の名を唱えても、其の真相を知る人は、恐らく極めて少数の人に限られて居る事と思う。霊界に住んでも、聖者となる事は実に難かしいものなのだ。実際の処、霊の大部分はただの人間に過ぎないのだ。』

 暫らく沈黙が続いた後、ワアド氏が口を開きました。――

『此処ではどんなクリスマスの計劃があるのですか?』

 レックス。『クリスマスでも御馳走は食べませんから、精神的の娯楽になる訳です。先ず十二時四十五分から一時三十分まで夜の礼拝がありますよ。僕は兄さんが帰られたら本当の祝宴に出掛ける積りです。兵卒連中の余興があるので、音楽会をするもの、芝居を演るもの、舞踏会を開くもの等種々です。婦人団へ招待状を出す事を士官が許しましたから、今日は女連が来るでしょう。兄さんの昔の御友達のマリアさんも、其の婦人仲間に居るのですよ。此間聖ベネディクト尼院の話を一寸しましたが、ああした婦人団隊が大分ありますから、其中それについても御話しましょう。平常我々の軍隊は異性との交渉を避けていますが、たまに交際する事はよい様ですね。そしてダンスの計劃があるのですが、何にしてもあまりに感覚的の娯楽ですから成功は危ないもんです。

『本営のクリスマスには工芸家なんかも来て、自作の美術品なんかを皆なに分配する筈です。僕等は非常に期待してるんですが、一般の仲間には少し趣味が高過ぎて、鑑賞が出来ますまい。

『擬戦や将棋の手合せもあります。叔父さんも選手として出られるのですが、相手に当った人は災難ですね。未だ種々な催しがある筈ですよ。僕は今日はもう教会行はやめて、斯ういう賑やかな処を万遍なく覗いて、それから聖劇「基督の降誕」を見に行く予定です。其劇は現界の午前十一時に当る頃、此幽界の中古時代の層でやります。年代でいえば其境地は一四五〇年頃の処ですね。野外劇ですよ。随分長そうですから、僕は途中で切上げて、それから十七世紀頃のクリスマスを見に行こうと思ってます。其後で古代のサキソン人が、此時期をどんなにしてるか一寸窺いに行くか、それとも何か喜劇を見に行くか、兎に角死んだ人の特権を振り廻して楽しむのも、なかなか容易じゃありませんよ。したい事が沢山あるのですからね。

『ともかくも一番終いはオペラに行く積りです。今度始めて上演する「三人の魔術師」というのがあるので、勿論基督降誕の劇ですが、神秘な色彩が濃いとの話です。兄さん等はきっと喜ばれるに違いありませんね。』

 ワアド。『誰れの作?』

 レックス。モザアトです。彼は今霊界にいるのですが、叔父さんの様に霊界から此幽界に出張して働いている人が持って来てくれたのです。』

 ワアド。『現界でも演る様になるといいが……。』

 レックスは微笑ながら――

『其中に演る様になるでしょう。きッと音楽家の中から出て来ますよ。早くそうしたいものですね。』

 叔父。『だが今の観客には少し高遠過ぎて居らんかの?』

 ワアド。『左様かもしれません。が、今でも「魔笛」と云うのがありますね。』

 叔父。『然し今度のはもっと神秘であるし、それに「魔笛」もあんまり地上では評判にはなって居らん様じゃ。』

 レックス。『ね兄さん、今御話した様に、此処じゃ地上の一日の間に随分と種々の事が出来ますよ。一つには食べたり寝たりしないからですね。勿論第五層となるとクリスマスの御馳走を食べて、馬鹿な話ですが、其結果で寝るという人達もあります。』

 母。『けれども、今日なんか全く七面鳥やプッデイングは悪くありませんね。何も御腹一ぱい食べたいという訳ではないけれど、一寸目先きを変えるのもいいじゃありませんか。』

 お母さんがクリスマスだというので、御馳走を思い出したので一同で大笑いをしました。ワアド氏は御母さんに向って――

『御母さん、此クリスマスには、僕達の処でも七面鳥はないのです。近頃は生きてる人間達でもこんなに不自由なのですよ。』

 話が勢い戦争の事になって、御母さんは厭な世の中に居ずに、早く死んだ事を喜びました。

 レックスは話題を変えて――

『此前士官の救護団の話をした序に、僕は二三の変った死方を御話しました。勿論未だ外に変った死方をする人もありますが、大体戦死者はあの様な経験をするらしく思われます。僕の方で其中又模様の変ったのに逢ったら、早速御話しますが、兄さんも一つ心掛けて、研究の価値のありそうな死方をした人があったら知らして下さい。』

 ワアド。『宜しい。此頃は戦死が多いが、御母さんのは少し変っていたし、叔父さんのは普通人の相応年配の場合であるし、士官のは悪人型で大に参考になったし、それから君から戦争中に死んだ二人の女の人の事を聴いたね。まあこれで当分特別珍らしいのでもなければ、死方の研究はやめてもいいだろう。』

 レックス。『そうですね。僕等の団隊の事も未だ時々は反対運動が起りかける事もありますが、此間御話した、あの光りの霊が援兵に来た時ほどの大戦は当分ありそうにも思えません。ですからこの問題も暫らく御預けにしておきましょう。』

 ワアド。『あのFさんはどうしたでしょう?』

 レックス。『未だ僕等の処にいますよ。まあ足丈は止まりましたね。暫らくの間は何ということにもなりますまいが……。』

 これから次に研究すべき問題について、ワアド氏とレックスと相談の結果、ワアド氏の愛嬢の要求で、レックスがかねがね研究した妖精の事について発表しようという事になりました。そして新年と共に、この新しい問題に移る事に定めて、ワアド氏は再び地上の自家に立帰りました。


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


44 野戦病院で死んだ男

2010/06/03

 レックスは前にB大尉の死際の事について、ワアド氏に話した事がありましたが、これから其のB大尉と一緒に居た兵卒の一人で、負傷後病院で死んだという男の物語りを始めました。――

 本営内の劇的シーンが終ってから、僕は構外へ出て、此前に一寸御話した、あのB大尉の仲間だった兵士を探し出し、僕の事務室へ引張って来て、死際の状況を尋ねましたが、彼の話を其侭御話すると斯うです。――

『私は榴散弾の破片で打たれたのですが、運悪く肺臓貫通の致命傷を受けました。勿論其他にも数個の弾が躯に命中しましたが、それは大したものではない筈です。

『打れたと思った刹那に頭がグラグラとなって、天地晦冥、全然気を失いました。ハッと気が附いた時、自分は後部の野戦病院の一室に横わっていましたが、其時の痛さ苦しさは全く御話にならない程で、大の男がただウンウンと呻る計りでした。夢現の間に、医者や看護婦の姿がチラ附いて居た様ですが、どうも判然とした記憶はありません。

『それから他の部屋へ移された事を覚えています。多分手術室でしょう。其処で私はクロロホルムを嗅がされましたが、不思議な事には、気が遠くなる代りに、却て意識が頗る明瞭になったと思うと、躯が宙に浮上る様な感じがして、下を見ると私自身の肉体が手術台の上に長々と寝かされているには驚きましたね。然し其時の私には自分の躯の手術を見るというよりは、全体に渡って、今迄見た事のない見方が出来るのが、非常の興味でした。第一其処に動いて居る人間は皆な二重体なのです。灰色の形体の内部に、更に光った体があるといった工合に……。この光体は人によっては、外部へ食み出して居るのもありました。そしてそれに皆独特の色彩があるのです。緑、紫、黄、青、薄桃色等、実に美しいと思われるのもありました。濃黄色のものもありました。それに鳶色がかかったのや、赤色のもの、此等は感心の出来ぬ色合ですね。

『私がどうしてこんな事になったか考えてる中に、医者の一人が云いました。「気の毒だが、もう駄目だ! 連れて帰った方がいい。今手を附け様ものなら、台の上で死んでしまう!」もう一人の人も「可哀想に! 寿命が尽きたか。」と云うのでした。

『肉体が再び病室へ連れられる様な、漠然とした感じの中に、私も一緒にフラフラと前の室に立戻りますと、私の周囲に屏風が引廻され、看護婦が一人残りました。

『不意に思い附いた事は、元の肉体に戻ろう、という考えで、次の瞬間何とも云えぬ重みが躯の上へ伸掛って来て、潰された様な感がしたのです。その途端に大きな叫声を聞きましたが、それは即ち自分の声でした。それから再びだんだん気が遠くなって行きそうなので、「死ぬのだな」と感じ、「死にたくない」という生への執着心で心が張詰めた途端に、総身がブルブルと振えたものです。再びひどい苦痛が起りました。殆んど躯が張裂けるかと思う様な痛み――其時私は、どうかして起上ろうと騒ぎましたが、この最後の大努力も何の甲斐なく、全身クタクタに崩れ落ちたと感じた刹那、私は知覚を失いました。其次に気附いた時は再び肉体から抜け出して、上部に漂っていましたが、不意に強風が此躯を木葉の如く捲き上げたと思うと、自分は何だか荒れ狂う海上に漂う小船の如き感じが起り、其間なお一条の綱によって岸辺に繋がれて居るかの如く思われるのでした。暴風雨は刻々劇しくなり、遂に頼みの綱もプッリと切れ、真黒と混乱の真唯中に投出され、上へ下へと彼処此処を転げ廻る中に、嬉しや夜明けとなり、黒い大波がドシンと岩の上へ打上げてくれました。此時埋葬時の祈祷が何処からともなく響いて来ましたが、頓着する暇もないので、急いで立上って、四辺を見廻して人を探しましたが、人は愚か、土地さえ全然見た事のない処でありました。其時「天路歴程」(ピルグリムス・ブログレス)がふと頭に浮び、聖徒が新らしきエルサレムスに達するために、河を渡るという事を想い起しました。私が来世というものに対して何か聞いて居たとすれば、此位の事ですが、此場合にこれが、どれ丈援けになったかは、とにかくこの僅かな知識を唯一の手掛りに前進しようと試みたかで解るでしょう。』

 彼は一時息を入れて更に始めました。──

『私はただ真直に進みました。道は上へ上へと昇る様に思われましたが、其中に杜松の様な潅木が處々に繁った平らな丘地に出ました。』

 此時僕が『ああそれは夢の国です。』と云っても一切御構いなしに彼は話し続けるのでした。──

『何と云う淋しさでしたろう? 人間は勿論の事、生きてるものは獣類一疋いないのです。とうとう。私は男泣きに泣きました。其中に涙に霞む眼の前にチラチラと人影が映って来ました。初めはボンヤリしていましたが、次第に判然となって来たと思った瞬間、私はアッと歡声をあげました。父母が眼前に居るではありませんか。變な話ですが、父の方は私が見えないのか、種々な事をして注意を引こうとしましたが、知らん顔をしたまま消えてしまいました。が、母の方は「御母さん」と呼ぶと直ぐに聞き附けて、私の方へ驅け寄ってくれました。どうしたのか母は目を閉じているので、盲目になったのかと驚きましたが、間もなくいつもの母になってくれたのです。

『二人共話したい事が山ほどありましたが、どうしたものか、私の戦死には少しも觸れずに、昔の話ばかり出て、私の子供の時の事を語り合いました。

『母が急に話をやめて立上ると、空中に悲しげな叫声が響きましたが、母は「ああもう帰らなければ」と一言残したまま後をも見ずに逃げる様に歩み去りました。私は「もっと居て下さい、御母さん!」と後から追いましたが、母は恐ろしく足早でどうしても追い着かれない。其中私が躓ぶ。起上った時にはもう母は見えませんでした!

『私は落胆の極焼糞に駆出したのです。もう一度母を捕え様と云う一念で、ただ驀地に前進する中に、再び夜が来たのか、四邊が暗くなりましたが、何やら変った場所へ来た様に思われたので、よく注意して見ると、もう岩石だの丘陵だのという野外の景色ではなく、家屋や樹木が建て込んだ人里に居る事が、朧気ながら暗闇の中で判るのです。

『何だか泣声が聞える。耳を澄すと母が泣いているのです。私は自分の家の外側にいました。勿論家の形は影の様にボンヤリとしたものですが、母の泣声の方へと私の躯は壁を突抜けてグングン家の内へ入るではありませんか! 寝台の上の母は私の名を呼びながら、オイオイと泣いているのです。父はオロオロしながらそれでも一生懸命に母を慰めていました。

『母の傍へ寄って、其首を抱いて、接吻したのですが、母は一向感じた様子もありません。どうして生きて居る人間にはわれわれの存在が判らないのでしょうネ?』

 斯うした疑問を発したが、彼は僕の返答を待たずに、又始めました。――

『其中に親達の悲嘆を見る事が辛くなったので、家を出てしまいました。よく覚えのある町筋をあちこちと歩いて居る中、何時とは無しに多分自分の死体の埋まって居る近傍、ツマリ戦線へ出たのです。砲火は物凄く四辺に荒れ狂っていました。この幽界の戦場で私はあの反対党の人々に逢い、誘われたという訳です。其処で戦かって居る人達を見た時、私の心は少しも動きませんでした。これは自分がもう戦うべき身体では無い、という事を知っていたからなのですが、それでも眼の前に戦う人達が、自分と同じく幽界民だとは思いませんでした。私は皆な現界の人々だと考えたのです。勿論生きていた人も多少はあったでしょうが……。それから後の話はもう御承知ですから、御話しませんが……。今度は私の方から少し質問をさして下さいませんか? 一体シオンの黄金の都というものがあるのですか? それともこれは寓話でしょうか?』

 彼からこんな質問が出ましたから、僕はそれから此世界の話をしてやりましたよ。そしてシオンの黄金の都というのは僕はよく知らないが、何でも此処からは、余程未だ遠い処にあるので、僕もいつかは見たいものだと思っている事を話しました。それから此幽界の上層にある霊界へ行くと、金色燦然とした、美しい都が沢山あるという話も聞かせましたよ。

 話をすっかり聴いたので、僕は此の人を数名の気心の合いそうな連中に預けて、自分の家へ帰りました。

 レックスがここで一寸話をやめると、例の如く叔父さんからワアド氏に時刻の注意があり、氏は地上の家を指して此家を出でました。


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


43 敵軍の大敗

2010/06/02

 一九一七年十二月十七日、例の如くワアド氏が幽界のレックスの家に入ると、彼は兄を待受けて室内に端座して居りました。

 弟の顔を見るや否やワアド氏は尋ねるのでした。――

『Fさんはあれからどんな工合ですか?』

『未だクラブに居ますよ。これからどうなるか、今の処じゃ何とも云えませんがね……。』

 レックスはFの話を簡単に打切って、前週の物語の続き、即ち士官が帰営後の行動を語り出しました。

『士官が本営に入ると、_われわれ一同は彼を中心にして会議室に入りました。銘々が着席するのを待ちて彼は戦場の話を始めましたが、士官の云うた侭を伝えると斯うです。――

「あの反対党の本部を抑圧してから、再び戦場へ出掛けると、丁度味方は敵軍と戦争の真最中であった。とにかく場所が同じ地上界の事ではあり、見慣れぬ人には私等の戦争も、現界の戦場で死んだばかりの幽体仲間の戦いもちょっと見には区別がつかぬが、私等には一目瞭然である。私は直様、其戦争の渦中に飛び込んだのだ。此度の戦いは私が地獄で大戦争をやって以来の大激戦であった。

「何よりも悪霊共は私等を地上界から夢の国へ追払うか、巧く行けばもっと遠方へ斥けて、現界と善良な幽界との中間を自分等悪霊の領分にして、新たに幽界に入って来る人々が我々の仲間となる事を妨げようという計画なのだが、斯うなっては夢の国まで、悪霊の跋扈する処となるので、其処へ来る現界民にまで害を及ぼす結果となるのだ。然し彼等の間には一致協力の精神を欠いて居るから、斯うした大計画の成就する筈はない。私は戦場へ引返す途中で、其処此処に散在して居った軍勢を集めたので、総勢一万を数える大軍で敵に当った。そして此間に手空きの人々は悉く参加する様に絶えず信号を発して置いたのである。

「地上界の戦線で前から働いていた我軍は、此時なお新来者の援助や、邪魔立てをする敵兵の退散に従事していたのだが、彼等と私等との間には其の時既に、敵の大軍が陣取って了っていた。

「我軍と悪霊間の戦争は段々激しくなり、時々新来者迄も其渦中に捲き込まれたが、彼等は大体我々の存在には無関心らしく見えた。其中に敵軍の一端から、悪霊に憑かれて居る者共が凄じい勢で突撃を始めた。然しこんな事で我軍は怯むものではない。幸い此手合は直きに兜を脱いで退却したが、同時に現われて来たのが実に厄介な代物で、出て来たのか、押し出されたのか、兎に角第二層に住んでいる異様異形の自然霊が、ワャワャと前線へ飛び出したと思うと、これに続いて奇声を発して、ドッと突貫して来たのは獰猛極まる下層の悪霊共で、地獄の門を抜け出たままの、その醜悪な外見は我軍を脅かすに充分であった。不思議な事には此悪霊共の出現と同時に、現界の戦場では大激戦が始まり、戦死者間の幽体同志の接戦にも、亦馬力がかかって来た。が、何と云っても我軍が一番手酷い目にあった。奇々怪々の敵の形相は、我軍の士気を少からず沮喪さして、一時は此強敵を喰い止める事が危くなった。私は本営に居る諸君や、反対党のクラブを包囲して居る連中を呼ぼうとさえしたのだ。

「味方はだんだん逃腰になる、敵はグングン勢を増して来る、危機一髪という際に、我軍は全く思いがけぬ援兵に救われた。

「不意に我軍の頭上にピカリと一道の白光が閃いたと思うと、続いてピカリピカリと目も眩む計りの光りの群団、これは我々を援助するために光りの霊が来たのであった。彼等は地獄の門外で悪霊の上昇を防いでいる一群か、それとも或は霊界と其上層との境界線、火の壁より上の世界から下降し来たものかであったであろう。兎も角、光りの霊の出現と共に、形勢は俄然一変した。自然霊は光明の前に一と溜りも無い。消滅したのか退却したのか、第一層の自然霊が先ず姿を消し、続いて第二層の自然霊共も眼界から去った。光りの霊は悪霊共をわれわれの手で処理させるかの如く見えた。勇気百倍した我軍はここで一気に凄じい突貫振りを発揮したので、第二層から出て来た幽界民は、大部分逃げ出してしまった。

「残った敵を片附ける事は訳はない。どの道敵は一致協力等という事を知らぬ奴輩ばかりであるから、斯うなると皆なチリチリバラバラ、夢の国に逃げて行くもの、人間の屍体の間に隠れるもの、第二層の岩間にコソコソと忍び込むもの、さんざんな体たらくであった。とにかく、長い間われわれの仕事の邪魔をした者共故、出来る丈は掃除をする必要がある。われわれは彼等を此処彼処の隅から見附け出しては、絶壁の上から下の深淵につき落した。もうあのままで上層に出て来る事は出来まい。探し出す時には、いかに奴等が新らしい幽界人や、夢見る人の間に混って居ても、不思議と見別けが附いて、人違い等する心配は少しも無かった。

「悪霊共を一掃してから、我軍は地上界と夢の国との境界まで引上げた。私は其処で悪の勢が再び首を擡げぬ様に、ある呪文で彼等を封じ、それから祈願した。――

 いと高きにいます神の御名により、主イエスキリスト、及主の御弟子、もろもろの聖者の名により、又天使の利剣にかけて、汝等が夜の国に留る事を命ず。汝等の幽体が滅び尽すまで其処を出づる勿れ。時節到来せば汝等は再び光明の地に出づる事が出来るであろう。

「私は此祈祷を我軍一同に繰り返さした。勿論逃げ出した者もあろうし、新たに悪い奴も出来ようが、兎に角これで当分は大々的の反対運動は起らぬ事となった。此処で諸君に一言しておきたいのは、処罰と慈悲とは相並んで必要であるという事、而して処罰は往々慈悲となる事である。ちょっと考えると今下層に数多の霊を押籠めた事は無慈悲の様ではあるが、それによって何千人という魂が、彼等と同一の悲運に陥る事を未然に防ぎ得たのである。下層に逐いやられた悪霊は今後何人をも誘惑する事は不可能になった……。」

 一同沈黙して士官の話を静聴して居ましたが、士官の遣口が少し横暴ではなかったかという感じが起ったので、遂に一人が口を切りました。――

「士官殿、失礼ながら、一寸御伺いしたいのですが、貴下は斯様な非常手段を取られる事について、充分な自信を持って居られるのでありますか? 人間を地獄に落す権利は神丈にあるのではないでしょうか。単刀直入に申すと、貴下が今唱えられた呪文は、即ちそうした結果となるのではありますまいか? 彼等が若しあの第二層から上へ昇る事が出来なければ、地獄へ下降するより他に道はないのです。貴下は如何なる権威を以て、この重大な行動を断行されましたか?」

 士官は苦笑しながらこれに答えました。

「私は自分が此軍隊を組織した権威によって、又私の意志の力に依ってこの仕事を断行したのであるが、若し之に反対するものは、此場で反対行動を取って貰いたい。然し又諸君が、私に向って此の問題を、どう解釈して居るかと訊くのならば、 私は自分の信ずる処を述べるのに躊躇はしない。すべて如何なる社会にも人間の集まる処には、夫々其状態に適合した一定の法規が設けられなければならぬ。而して其れを実行するためには、制裁の必要が起る事は当然である。此制裁は多数の人民の力で社会的に行われる事もあり、場合によっては彼等を代表する一人の手によって為さるる事もあるのである。

「此幽界にも亦当然法規が存在する、無辜の人々を保護するために、悪人共が束縛を受くべきは当然では無いか。此社会の人々を代表して、必要なる処罰を執行するために、私は自分を最適任者であると信ずるものである。そして今日此処に集まって居る人々の中に、斯様な悪人共に対し、如何なる刑罰を行うべきかを知って居る者が、果して幾人あるか? 現在自分の為した処決について見ても、私の唱えた呪文は悪人輩を罰するより、寧ろ他の人々を保護する目的にある事を考えねばならぬ。更にもう一言附け加えたい。意志を行使するに当りては、艱難辛苦の鞭韃を受けた結果、鋼鉄の如き強靫な意志を持つ者でなければ、到底自分の意志を他の人に印象せしめる事は不可能である。況んや今自分が為した如く、多人数の意志を一所に纏める等という仕業は尚更望まれるものでない。

「若し自分の決行した事柄を、不正と考える人があるならば、何処へなりと、任意に此場所を去って貰いたい。誰にも此処に留まる義務は毛頭ないのである。」

 士官は斯う云って促す様に四辺を見廻しましたが、満場粛然として誰一人動く人はありませんでした。やがて彼は一同に退散を命じたのであります。

 レックスは此処で一寸話を止めましたが、ワアド氏が心中に起した或る質問を見てとり、早速附け加えました。

『士官の唱えた祈祷の文句は、兵卒全部によく聞えましたよ。聞かせ様と思った意志で聞えたのです。士官が唱えた呪文の内容は何だか判りませんが、多分もっと神秘的なものだったに相違ありますまい。とにかく全軍の意志を一つに纒めるためにそれが大切なのですからね。』


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

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42 F氏の探索

2010/06/01

 ワアド氏の次回の幽界行は、一九一七年十二月十四日でありました。氏は此朝F氏が六週前に死んだ事を聞いたので、其人に逢った時、死後の生活に対して予備知識を与えて置かなかったのを後悔し、且つ日数も相応経過して居る事故、其間邪道に誘わるる惧れもあり、一刻も猶予出来ないので、定日では無かったが、此日突然F氏探索に幽界へ赴く事となりました。

 不意の訪問なので、レックスの家にはお母さん一人しか居りませんでした。彼女は何事か起ったのかと驚いた様でしたが、ワアド氏から訪問の理由をきいて安心しました。叔父さんやレックスの居所を尋ねられて――

『叔父さんは霊界へ戻って居られますから、月曜日のあなたの訪問日にならなければ、お見えになりませんよ。レックスは今本営へ行って何をしていますが、仕事中です。』

 ワアド。『本営は何処ですか?』

 お母さんはワアド氏を戸口に送り出して、方角を示しながら、――

『道のりは少しあるでしょうが、たいした時間はかかりますまいよ。此処じゃ何処へでもじきに行かれますからね。』

 ワアド氏が町を離れると、道の両側に丈の高いポプラーの並木のある往還へ出ました。少し行くと右手に荊棘の小林を見て、一寸した小丘を越すと、向うからレックスが急いで来るのに出逢いました。

『兄さんが今日来られるとは思いませんでした。戦死された友達を、さがしに来られたのでしょう?』

 レックスはワアド氏に其兵士の番号やら、所属隊を確かめた後、本営に行って記録を調べる事にしました。

 間も無く到着した本営は、十八世紀末のフランスの城と思われる静な建物で、大きな公園の中にありました。広い階段を上ると、古風な円柱が左右に立った入口がありました。

 此本営の建物は相応大きいのですが、なお其背後の左右に同じ様な城が一つづつありました。右手のは兵卒や下士官のクラブで、左手のは内部が二つに分れて、将校連のクラブと事務室とになっていました。

 レックスの説明によると、仏国のある地上で破壊された城が、幽界で其地に相応する此場所に現われたのが中央の大きな建物で、それを使用している中、だんだん団員がふえて手狭になったため、他の二つの建物を他の場所から移して来たのだとの事。建物の移転は地上と等しく、矢張り人々が小部分づつ動かすので、思念の力で大建築を現わす事の出来る霊界とは異なり、此半物質的の幽界では人達が手足を動かして造るとの事でした。成程将校クラブの内部では、シャツ一枚になった人々が盛んに内部を改造していました。

 レックスの案内で外部を一巡したワアド氏は、それから中央建物の内部へ入りました。先ず階段を上って真中の大ホールに出で、更に左の廊下へ曲ると、レックスは右手のドーアを開けましたが、内部は低い部屋でした。

『兄さん、これが図書室です。尤も此処では記録に場所が要るので、大部分の書物は此間一寸お話した、あの町の図書館の方へまわしてしまいますが……。』

 レックスは隅の小室に陣取って居る軍曹の処へ行き、F氏の姓名と所属隊とを述べて尋ると、其人は何日に何処で戦死したかを質問し、やがて大きな帳簿を持出しました。

 その帳簿は一九一七年八月の日附けで、F氏の所属連隊の名が明記してあり、第八巻目でしたが、頁はアルファベット順に区分され、整然としたものでありました。

 軍曹はバラバラと紙面を繰ってFと区分された処に眼を落し『此百六十三頁に記けてある人でしょう。此の帳簿へは最近ドシドシ書き込みますよ。』と云いました。

 レックスは見せられた処を読み上げましたが、それは正しくF氏に関する記録でありました。十月二十七日から十一月三日に亘る激戦中に戦死し、此クラブヘ連れて来られて、どうしたかという記述がありましたが、其大要は次の如くであります。――

 此男は戦場で彷徨いていたので、シムソンとリードという二人の兵卒が本営へ連れて来、C大尉に引渡した。其処で質問を受けた。

 C。『君は今地上を去って幽界へ来て居るので、即ち我々と同じく、国家のために戦死をしたのだ。我々は出来る限り君を援けたい。それには君の事をよく知って置く必要があるのだが、一体どんな死方だったか聞かして下さい。』

 F。『処が考えても判らないのです。兎に角爆弾がガーンと来たと思ったきり後は無我夢中、多少とも我に返った時には、靄の中を歩き廻って居ましたよ。それもあの二人に声を掛けられる迄は判然とした記憶がありません。――何か少しお腹へ入ったら元気が出て、もっとよく判るかも知れませんが……。』

 C。『イヤ此処じゃ飲食は不要なのです。少し待つと慣れて気分がよくなるでしょう。処で貴君の御経歴を聞きたいのですが――東方の国に居たのではありませんか?』

 F。『左様ビルマに居りました。此処の戦争に加わるために帰国したのです。将校になりたいと思って運動したのですが、残念ながら駄目でした。どうも私の頭は変です。茫然として考が纏まりませんが……。』

 それからC大尉は此人に種々の質問を出したが、話に一向纏まりが無い。遂に大尉は次の如き断定を下して之を記録に認めた。――

『F兵卒は飲酒を欲し居るが故に、此点に警戒を要す。自分は彼をC医師に委ねたり。』

 Cという医者は此兵士を診察して、左の如き診断書を発しました。――

『A・B・隊に属するF兵は砲弾の激動を受けて死したる結果、なお病症を呈し居れるが、身体に負傷の痕跡なく病状不明なり。恐らく爆弾に打たれて死したるものならんが、其他に複雑なる原因もあり。ために今日多少意識の鮮明を欠く結果が発生したるならんと思わる。深甚の注意を要す。必ずしも遺伝性にはあらざる飲酒癖あり。物質的傾向に富み、動物的欲望旺盛なり。賑かなる環境に置き、娯楽を与えて楽しましめ、彼が自分自身の状態及び現界の状況に、注意を払わぬ様に導く事肝要なりと診断す。』

 医師の言に従って、Fはそれから兵卒のクラブヘ連れて行かれ、種々と周囲の人が気を附けましたが、飲みたい食いたいの欲が、なかなかとれないので、大分と人を困らせました。性質は温和な方なのですが、この飲食の二道にかけては、なかなか人の云う事を聞かないのです。そのため何度かクラブを逃げ出し、連れ戻るのに相応人手を要しました。

 遂に彼は最近クラブを離れてしまいましたが、見た人の話によると、面白からぬ連中と一所に居たとの事、此人を誘惑より免れしむる事は、至難の業らしいのです。

 記録には大体斯うした事が書いてありました。これを読んだレックスはワアド氏に向って――

『あんまり感心した記録じゃありませんな。事によると今頃はもう、悪友共に誘われて地上に出かけて居るかも知れませんね。どうも困った事ですね。』

 ワアド。『実際危ないね。とにかく私は出来る丈骨を折って見る。見附かる見込みが無いとは限るまい?』

 レックス。『うまく行くかも知れませんよ。兄さんとこの人の間には友情という連絡があるから……。じゃ一緒に出掛けましょう。』

 其処で二人は本営を出ました。ワアド氏が意志をF氏の上に集注すると、自ずと自分の身体がある方面に向って牽かれ行くのを感じましたので、其方角へと足を進めました。

 道は地上界即ち現界の方へ向いて居るのです。二人は幽界をグルグル足早に通り過ぎて、下層の地上界へ出ました。影の様な町や家並を見ながら歩く中に、だんだんロンドンかと思われる、靄に包まれた暗い場所に入り込み、東部の所謂縄暖簾式のバーが沢山ある場所に出たのです。

 ワアド氏は此時レックスに向って云いました。――

『なんぼ酒場でも此真夜中に店を開けてはいまいが……。』

『どうして兄さん、表向の場所じゃ閉めてますが、抜穴は沢山ありますよ。勿論手におえぬ奴ばかり集る処ですがね。』

 表から見た処は人が居そうにもない、真暗な荒れ果てた一軒の家へ入りました。内部は何と云う変り方でしょう! 灯火の明るい大きな室の中には可成り多勢の男女が酒浸しになって歓楽に酔うて居りました。勿論其処には多数の亡者が同じく、フラフラして居た事は当然の次第であります。この人間を道具に使って飲酒慾を満たそうとく幽霊仲間にワアド氏が目指すF氏が居たのです。傍へよったワアド氏が軽く其肩を叩くと、F氏は驚いた表情で叫びました。――

『オヤ君かい! 君も死んだのかい?』

『僕は死んだのじゃない、ただ君を探しに来たのだ。』

『君、そりゃ間違いだよ。知らない丈なのだよ。僕も気が附くまでには随分長い事かかったからな……。』

 ワアド氏が事態を説明して此処を連出そうとしましたが、なかなか聴きませぬ。

『君、まあそんな判らない事はやめて、一杯呑んじゃどうだい。折角今呑み方を覚えた処なんだ。なかなか巧く行かないんでね、一寸手古摺ったが、彼処にいる人が教えてくれたお蔭で、やっと一人前になれたと云う訳さ。さあ遣り給え!』

 其処で意力の競争が始まりました。此男は勿論ワアド氏の敵でなく、然もレックスという有力な味方を持ったワアド氏の力で、とうとう戸外に連れ出されました。此時F氏の仲間は皆な自分等が飲むのに夢中だったので、F氏がどうなろうと無頓着でした。

 それからワアド氏兄弟は代り代りに憑依癖の恐るべき結果を説明し、クラブへ帰る事を勧めました。さすがの彼もワアド氏がわざわざ自らのために来てくれた事に感動し、とうとう二人の勧告を容れて古巣に戻る様になったのです。

 此日レックスに別れるに先立ち、ワアド氏は此不意の訪問が彼の日課を妨げはしなかったかと訊きますと、レックスは答えて云いました。――

『そんな気味もありますね。僕はあの時丁度士官達を集めて講演して居る真最中でしたよ。兄さんが呼んでるのを感じましたから、何か緊急の用向が出来たのに違いないと思ったので、代講を頼んで出掛けて来た訳です。さあ兄さんもう時間ですよ。今日は特別ですから、次の月曜日には矢張り例の通りにお逢いする事にしましょう。』


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


41 本営前の光景

2010/05/31

 反対団との第一戦に捕虜とした一群の敵兵を本営へ連れ戻ったレックス達が、士官の帰営までどんな有様でいたか。レックスはワアド氏に次の如く物語りました。――

『S大佐は先ず配下の兵卒を方形に並べ、其中に捕虜を入れ、周囲を隙間なく包囲してから云いました――。

「諸君、よく戦ってくれました。勝利は獲たが、未だ少しも油断は出来ないのです。武力より怖ろしいものは奸計であります。今私は君達で墻を作り、其中に捕虜を取囲んだが、これが今彼等を抑える唯一の方法なのです。だが諸君は余程意志を集中して居らんと、此包囲も効力が無い。武器の有無は問題にならぬ。意志の力丈が役に立つのです。彼等を土牢へ押し籠めて錠を下しても、土の壁には精神が無いから、突き抜けて外へ逃れ様とする人達の意志に反抗する意志が無い。故に彼等は容易く遁走する事が出来ます。諸君どうです、此の理窟が判りましたか?」

「よく判りました。」と一同異口同音に答えました。

「よろしい、それではしっかり頼みますぞ。油断をしたが最後逃げられてしまうのです! が、何時までも際限なしにこんな真似をしている訳では無い。士官が私の帰るまで番をせよ、と云われたから、士官が帰営すれは何とか処置がつきます。其迄の処ですから頑張って貰いましょう。私は其間に少し説諭して見よう……。」

『S大佐は斯う云いながら、捕虜達に大声で何か話掛けましたが、皆なガヤガヤ呶鳴り立てて何の甲斐もありませんでした。其中捕虜中の女連は味方の兵士共に色目を使いだすとか、だんだん整理が難かしくなったので、僕が提言して、本営の幹部連に援助を頼み、敵兵一人一人を説く事にしました。

『僕は此手段で忽ち金髪の若い女と、それから一人の青年の准士官を悔悟させました。幸い此人達は悪習慣に染みてから日が浅かったので、直きに気が附いたのでした。

『僕達が懸命の真最中、士官が帰って来ました。戦場では勿論勝利であったのですが、其話は後へ廻して、それから彼がどんな工合に捕虜を処理したかをお話しましょう。士官が前に出ると、今迄騒ぎ立って手に余った捕虜達は忽ち静粛になりました。士官は一同に向って自分の経歴を告白しながら、諄々と其誤れる点を諭しましたが、此処でも彼の話しは多大の印象を与えたと見え、彼の話が終ると、捕虜の中から一人一人出て来て、彼に向い前非を悔い改悛を誓うのでした。

 一例を挙げるとある男は斯う云ってました。――

「暫時でも結構故、何卒私を閣下の配下にお加え下さい! 今のお話で考えると実に私自身は危ない状態でした。憑依についてのお話は、私に成程と思い当る点がありますので、其他の事もすべて真実であると考えます。私は出来るなら此処に留まってもっと学びたいと思いますが……。若し私が悪に赴くとしても、私は悪を自覚して行いたいと思いますから……。」

『敵の中で頭株と思われる男はさも憎々しげに呟きました。――

「俺が堕落しようとどうしようと俺の勝手だ。余計な世話は止めて貰おうかい。」

「左様か。」と士官は答えました。「だが此処らにうろついて人を誘うことは許さんぞ!」

『士官は此時語気を強めて「第二層に下れ、そして其処に留れ!」と其男に云いましたが、私達は彼の強大な意力が言葉と共に迸り出るのを感じました。そして彼が何やら呪文様のものを唱えると、其敵の頭はくるりと逆に向くかと思うと、後をも見ずに一目散、遮二無二周囲の軍勢を掻き別けて飛び出しました。其男は馳けながら「こりゃ可怪しい! 足が留らんぞ! 変だぞ変だぞ!」と呶鳴ってましたが、其中に姿が見えなくなりました。

『暫時は一同鳴を鎮めて、誰れも口を利こうともしませんでした。士官の顔貌が和ぐと、彼は私に向って云いました。――

「君には私の秘法を始めて見せた。あまり好ましい事ではなかったが、他によい方法が無かったのだ。あの男はあれでもう此処へは帰って来る事は出来ぬ。自業自得、自ら求めた道だから致し方はあるまい!」

『沈黙は続きました。士官の斯うした力を見るのは誰しも初めてだったので、一同は唯茫然、其強大な意志に寧ろ恐怖を感じたのです。神の如き其威力! しかも一度は極悪無道だった彼が――と誰しも思ったでしょう!

『其時でした、俄然女の悲鳴が聞えました。――

「ああ一体私達はどうなるんだろう? ああ恐い!」

『此声を聞くと士官は彼女の方を向いて、――

「大丈夫です! もうしませんから……。貴女はこれまで男を堕落させる悪行をやっていたが、若したった今後悔するならば、救いの道は開かれますぞ。さもないと貴女は地獄へ行くより他はない。どちらを撰びますか? 皆自分自身から出る事、人を恨むのは間違いです。」

『彼女はこれを聞くと、士官の傍へ馳せ寄り、悲痛な声音で訴えました。

「何卒お教え下さい! 私はどうしたら救われるのでしょう?」此衷心の叫びに感動せぬ者は無かったと思います。

「彼処に聖ベネデクトの尼院がある、其処へ行き、マザー・アベスに救いをお求めなさい。貴女を立派に導いてくれる人です。」と士官は答えました。

「私は勝手に此処を出られる自由の身なのですか?」彼女は不審な面持ちで尋ねました。

「左様自由です。悪事を続けたければそれでもよろしい。私はただ救われるには如何するかとの質問に答えた迄です。悪い方の事なら教えずとも、貴女はよく知ってるのだ。」

「お傍に居させて下さい! あなたは強い方、私を救って下さるに相違ありません――。」

「私は男子は援けるが、女子には私の性格が厳し過ぎるから不適当です。そしてあなたが此処に居ると仕事の妨害となるから、お気の毒だが去って貰わねばならぬ。善悪何れの道でもおとりなさい!」

「それなら私は参ります。」

『そう言った女は、真直ぐに尼院へ行きましたが、未だ其処に居ると思います。士官は捕虜と一々話をした結果、眼の開いたものは悔悟して我々の団に加わり、女は皆尼院へ送られる事となりました。処が自堕落な悪風がすっかり染み込んで居るために、悪と知りながら従来の悪習慣を廃めて正道に帰る覚悟の出来ぬ一群がありました。彼等は第二層へ追込むほどの悪性でも無いのですが、他の人を誘惑する虞れがあるので、其侭放免する事は危険なのです。其処で士官は宣言しました。――

「此処を去れ! お前等は再び此のクラブの近くへ来る事はならぬ。職場の傍を彷徨って、死んで来る兵士等に話し掛ける事も許さんぞ!」

『士官が斯う叫んだ時、彼の前に悄然と蹲って居る一団の人々に、働きかけて居る彼の猛烈な意志がよく僕等に感じました。其時彼は再び何やら一寸呪文めいた仕業をしました。一同は水を打った様に鎮まり返っていました。

『それから其連中が一人づつ、こそこそと逃出して行きましたが、丁度男が十人と女が三人、十三という其数は何となく不思議な感じを与えましたよ。最後の十三人目が姿を消すと、皆ながほっと胸を撫でおろしたもんです、実際其時は緊張しましたね。

『これで一段落ついたので、集まった軍隊は、それぞれ其所属地へ戻る事となり、士官や我々部下は本営内へ入りました。僕はもっと話したいのですが、もう兄さんの婦る刻限じゃありませんか?』

此時叔父さんはワアド氏に直ぐ帰る様に話しましたが、ワアド氏は――

『帰る前にたった一つ質問さして下さい! 私は最近オカルト・レヴュー誌で、ある飛行士の記事を読みましたが、其人がある疑問を提出しているのです。つまり空間を支配する霊力の中に、人間に反抗的のものがありはせぬかというのですが、叔父さんは如何お考えですか?』

『確かにあるには違いないが、詳細は何れよく調査の上、話す事にしようではないか。』

 それでワアド氏は話を切上げて、急ぎ現界の人となりました。


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

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40 B大尉の死

2010/05/30

 それからレックスはワアド氏に向い、B大尉の死の直後の体験につき彼から聴いたままを語り出しました。(以下は其物語)

 B大尉は其時レックスに云いました。――

『実際此世界は不可思議な処ですな。私は死後に再び戦争というが如きものを見様とは夢にも思いませんでした。』

 レックス。『一つ君の死方の話を聴かしてくれませんか。』

 大尉。『前進の真最中やられたのですが、どうも胃を打たれたらしいのです。それから何時間も地面にへたばって苦しんでいる中に、夜が明けると、後から前進する味方の兵卒が私の躯を踏み越えて行くと云う有様、実にひどい目に逢いました。多量の出血と苦悩の結果私は一時気絶しましたが、再び気が附いた時はもう日没の頃でした。敵弾が盛んに飛んで来るので、早くもう一発やられて息が止まればと願いましたが、運悪くなかなか当ってくれません。其中又気絶してしまいました。そして其後で又再び知覚を回復しましたが、其時は眩暈を感ずるだけで、もう苦痛はありませんでした。ぼんやりとした眼で自分の側を見ると血が一ぱい溜っている。もう起上る力もなく、疲労の極といった様な工合に感じました。其時思い浮べた事は幼時糸瓜の棚へ落込んで腕に負傷をし、出血のために気絶した事や其他の子供時代の出来事でした。

『私はそれから更にもう一度昏睡状態に陥り、其後に覚醒した時は今迄と様子が異なり、四辺はただ暗黒でした。手探りで其処らを当って見ても何処だか見当が附かない。だが可怪しい事には元気がすっかり回復しているので起き上って見ると脚がピンと立ち、歩ける様になった。ただ変に思ったのはどうも綱か何かで何処かに繋がれて居るかの様に自由に歩き廻れぬ事で、種々と体を撫で廻して見ると、紐様のものが頭に附着している。其接合点の説明は一寸しにくいのです。掴んで引張って見たが弛みそうもない。其処で手探りで其紐を伝って歩いて見ると其片端には何も見附らない。一向訳が解らないので、其侭暫時考え込む中、四辺の暗闇に慣れると其中に黒い影が動いている。右柱左往しているもの、下に静止して居るものなどが沢山見えて来た。其時ふと手近に話声が聞えましたが、私の従卒も居るらしいので、其名を呼ぶと、疑いもなく彼の声で、

「オヤ大尉が俺を呼んでいる、何処だろう?」

『私がもう一度大声で呼ぶと、一つの黒い影が近づいて来て、私にぶつかりそうになったので、「気を附けろ!」と呶鳴る間に、さっさと私の躯を通抜けて歩いて行くのです。そして傍に横わっていた、これも黒くて何やら判らぬ物を、其男ともう一人他の男とで弄り始めました。

『私は訳が分らなくなって困りました。確かに錯覚を起して居ると考えたのです。とにかく重傷で倒れた自分が見附った事は判りましたが、もう手遅れだろう等と考えていました。

『其中私の従卒でない方の男が

「やれやれ気の毒な。もう駄目だよ。」と云うと、従卒が答えて「だが俺は今し方、確に名前を呼ばれたんだ。怪しいな!」

「そりゃ気の故に違いない。誰か他の人の声だよ。今だって声が聞えるじゃないか。」

「然し俺は大尉の声を間違える筈はないよ。」

「馬鹿はやめろよ。此人はもう死んでから二三時間は経っているぞ。」

 其時又他の声がして「とにかく此躯を運ばなければならぬ。君達二人で充分だろう! 他の者は私に続くのだ。」

『私の側にあった黒い物影は二つの黒影に担がれ、動き出すと共に私も同じ方角にぐんぐんと引張られるので、五里霧中で追って行きました。彼等が立止ると埋葬でもする様な工合で祈祷が聞える。暫らく沈黙が続いた後、私は従卒の声を再び聞きました。

「どうもいくら考えても可怪しいよ。ハレー、俺が大尉の声を間違える筈がないもの、確かに大尉は俺を呼んだよ。あれから未だ何度も聞えたんだ……」

「君はよっぽど頭が変だぜ、気を附け給え!」

「いい人だったがな……」

『声はもうこれより聞えませんでした。此時私は死んでも生きて居るのだと云う事が判然と解りました。手を挙げて顔を撫でたり手足を擦ったりして見ると生前と少しも違わない。ただどうした事か、未だ何処かに縛り附けられて居る様な感じがあるので、思切って力強く躯を引くと、紐が切れたのか、急に身軽に飛び歩ける様になった。私は嬉しさに躍上りました。

『それから今迄よりはやや薄明るい靄の中を分けて目当なしに歩き出しましたが、間もなく再び戦場へ出たので、見て居ると皆な同じく死人仲間らしいのです。何度も射たれて、倒れては又起きて戦っているのですからね。馬鹿馬鹿しい話です。丁度其時でした、私が同道した準士官の一人が傍に来たので、二人の間に話が始まりました。――

「一体私達は死んでいるのでしょうか、それとも生きているのですかね。」

「多分死んでいるのだと思いますが、実は私もはっきりとは解らないのです。」

「私も迷っているのですが……。爆弾で右足を失った筈なのに、この通りに故障なく歩けるでしょう。どうもいくら考えても可怪しいから、死んだに相違ないと睨んでいるのですがね。」

「左様ですとも、向うで戦っている人達を見ると、何度も射貫かれて、倒れては又躍り上っているではありませんか。」

「死んだとすれば我々の足下の地面は何処でしょうな。」

『此疑問は私自身にも解釈の出来ない点でした。其処へもう一人の準士官が来合せました。此人は病院へ運ばれてから死んだのですが、三人して種々と経験談に花を咲かせている時、数名の兵士を引連れた大尉がやって来て、其人達の仲間入りをする様に誘われたのです。其人はこんな事をいってましたよ。

「君達は一寸まごつくだろうが、我々がよい様に手伝うから決して困る事はありません。其中には直きに一本立になれますよ。ナーに、此世界だって面白い事に変りはなし、満更悪くもありませんや。それに、もう戦争や討死なんてものはありませんしね……。」

『ですから私はあなた方が戦争を始めた時は全く驚きましたね。何にしても傍観するより他はなかったのです、一体これはどうした事なのですか?』

 レックスの説明で此三人は始めて不審が晴れ、士官教護団に加入する事になりました。

 ワアド氏に此話を物語ったレックスは、此三人は急激に生命を奪われず、除々と死んだために死の自覚があったので、再び戦争等はする気になれず、従って武器等を求めずに素手で居る事を説明し、なおB大尉が死後屍体に紐様のもので縛われていた事に関して、幽体は必ずしも息を引取った時直ちに離れ去るものでなく、場合によっては生前の肉体が腐蝕して土に帰するまで束縛されて居るものさえあり、自殺者や地縛の霊というものの中には斯様な不幸な状態がしばしばある事等を附け加えました。

 叔父さんは此時B大尉が、自分の死骸を見附けた人々の話声を聞いた事について、批評しました。――

『B大尉があの時人間の声を聞いたのは矢張り其言葉の表現する思想に感応したに違いない。それから大尉に呼ばれたという従卒はあの時一時的に霊耳の所有者になったので、これも主人の思想を捕えたのだ。未だ大尉が其時は余程物質に近い状態であったから、其思想伝送も比較的容易であった事と思われる。とにかく此従卒は大尉に敬服して居った様だから愛情が彼の霊感を強めたらしく思われる。』

 レックスは他の面白い一例を挙げました。――

『僕はこんな話をききましたよ。矢張り戦場で死んだ人の話ですが、此男は一度肉体を抜け出して、暫らくして又紐で繋がれていた屍体へ逆戻りをし、重傷で悩む肉体の苦痛を体験して再び意識を失い、此次に気附いた時は又肉体外に居たというのです。それから紐が切れるまでは死骸の傍にいたと云うのですが、話しがよほど判然していましたよ。』

 叔父。『大尉が自分の頭から紐が出ている事を感じて、触れば其所在を感じ得るのに、此紐が繋がって居る屍体を触感し得ぬ所は注意して考えなければならぬ点である。』

 レックスは再び話を引取って、――

『B大尉の経験談を聞く中に、我々は本営に来てしまった。他の準士官の死後の体験は後日に譲って一先ず構内に入る事にしました。』


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

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39 士官の勝利

2010/05/29

 一九一七年十二月十一日、ワアド氏は例の如く幽界のレックスの家に行きました。

 レックスは此日も前の訪問に話題となった、士官への反対運動について話出しました。――

『我々は此反対派団体の遣口について種々と調査した結果、どうしても其侭にして置く訳には行かないので、断然高圧手段を取る事に決定しました。気早の連中は其朦朧団体を一気に攻め落そうと敦圉きましたが、これは士官に制せられてやめました。兎も角其団員が新兵を連れ込まぬ様に、途中の要所要所に五十人一隊の監視隊を配置して、見張りをする段取となりました。我々の救護団もだんだん膨脹して、人数には少しも困らないのでした。

『僕も其中の一隊を率いて、反対団体の本営近くに陣取った次第です。士官が注意してくれた事は、どの道悪団員の誘惑もあろうし、論争も起らうし、最後には戦端を開くであろうが、其場合には思念で伝達してくれれば、直に援兵を送るからと云うのでした。

『我々の姿は直きに見附られ、反対団の内部から先ず怪しげな女が五六名、出て来て誘惑の手を伸しました。処がいくら構内へ引張り込もうとしても駄目だったので、此度は手を更えて兵卒共の間に交って活動し始めましたが、こっちも用心していますから中々其手に乗りません。其中に戦場方面から新しく戦死した一群の人々が、反対派の奴等に連れられて来るのが見えました。戦死者の数は十二名、反対党は十五名でした。僕はこれから此連中を敵と呼ぶことにします。

『其一団が近づいた時、僕の部下がバラバラと飛出して前路を遮りました。そして新来者に警告し始めたので、勿論敵は腹を立てて、邪魔立をする我々を除け様とし、我々は退かないので、事態が漸々険悪になりました。

『其時敵の本部の中から一隊の兵卒を率いた士官が出て来ましたが、我々に向って大喝一声「何をうろつき廻っているのだ! まごまごして居ると生命がないぞ!」

『僕だって負けてはいません。「用があるから居るのだ。一歩も退く事は出来ない!」とやり返すと同時に僕は隊伍を整えて襲撃に備えた。勿論打つ、撲る、蹴るの闘争は直様始まって、敵も初めの中は銃の台尻を振廻していたが、遂には発射し出したので、此方でもそれに応じました。

『勿論僕は早速援兵入用の思念の伝達をしたので、戦って居る中に近傍に見張って居た味方の隊が集まって敵の背後を突いたが、敵もさるもの、本営からドシドシ新手を出して補充するので戦は劇しくなる計りでした。

『此時今まで煙に捲かれて、茫然と傍観して居った新来者の中から一人のアイルランド人が立って、「俺には何だか訳は解らないが、ボンヤリ見て居る訳には行かない。」と云いながら、イキナリ手近に来た奴の頭をポカリと撲った。すると打たれた男が敵の仲間だったので、敵の奴等が其アイルランド人を畳みにかかると、新前連から数名飛出して来て其男を援けにかかる。中にスコットランド人も居ましたが、それはいくら仲間同志でもアイルランド人は御免というので反対に敵の方につく。ただ二人の準士官と一人の将校丈は途方に暮れた表情で事の成行を傍観していました。

「僕の思念が士官に達したので、彼は数連隊を率いて堂々と押して来ました。少なくとも一万人はありましたね! 然し僕の考える処では敵の屈伏は味方が大軍だったからというより、寧ろあの士官の威力に降服したのだと思います。僕は此時ほど強大な意志の力というものを眼の当りマザマザと感じた事はありませんでしたよ。士官の姿を一と眼見ると敵は一度に青菜に塩という有様、一溜りもなく降参という訳でした。尤も逃げた奴等もありますが。……

『士官の威光で騒ぎが鎮まったので、人員を調べて見ると、捕虜になった敵兵が六十名ありました。新来の人は敵に組んだ人とも合せて七人。スコットランド人は何処かに逃げ出してしまいましたが、見物していた准士官と将校の三人は相変らず傍観という態度で残っていました。』

 此時レックスは兄のワアド氏の不審げな顔に気が附いたか説明を試みました。――

『ああ兄さんは僕達が武器を使うのが気になりましたね! とにかくわれわれは軍隊式に活動している上に、兵士達はだれでも銃を担ぐ事に慣らされているのですから、此幽界じゃなかなか武器を手放せませんよ。そして戦場には毀れた鉄砲が山とあるんですから、欲しいと思えばいくらでもその幽体が手に入りますもの……。そればかりでなく戦死をした人達は殆んど皆な此処へ来る前に多少とも幽界で戦って来ますからね、自然持合せの銃を身に附けていますよ。尤も今の戦を見物していた三人の中二人は武器を持っていませんでしたが、これには特に理由があるのです。後から説明しましょう。

『弾も地上と同じ事で、矢張り使用しますから、直きに欠乏しますよ。敵と今戦った場所の被害は比較的少なく、墻壁が僅かに破壊したのみです。いくら幽界でも無生物となると其物には殆んど意志が無いから、僕等の怪我の様に自然に恢復なんて訳には行きません。実際意志は万能ですよ。僕等がその墻を破壊しようと思ったので毀れたのですからね。戦いの工合はいつかもお話した幽界戦場の闘争と大差はありませんでした。

『士官はそれから命令を発して「敵の本営を包囲せよ。」と云うので、僕が「何故突撃して豚共を一斉に逐い払わないのですか?」と質問しましたら、士官の答えは斯うでした。――

「戦いは思想の悪化を伴うから、出来る丈け避けなければならない。此構内の住民共は実際は不必要な飲食をする悪習慣がついて居り、ために憑依という悪行をするのだ。先ず彼等の食を断って其不必要を悟らせ、其慾望を弱めれば、自然と彼等の精神力も復活して、此方の説く道理も頭に入る様になるから、論破するのに都合がよくなるのだ。我々が今此処で此構内へ侵入すれば、彼等を立腹させ、単に反抗心を煽るのみで何の得る処もないであろう。彼等の意志に反する檻禁は此世界に於ては長時に渡って継続する事は難かしいから、捕虜にしてもその効果はないのだ。強硬手段は今やった丈で充分である。」

 ワアド氏が此時質問を発しました。――

『一体幽界での食物には、食べるとどんな変化が起るのだろう?』

 レックス。『口へ入ると其幽質が破壊して、別種の幽質になって原形が消えるのです。そして矢張り肉体に於ける排泄物の如く体外に除去されるのですが、ただ一つの相違はその食物が身体を養わぬという点です。食物といってもそれは破壊を嫌がる意志の無い物に限ります。動物などは其物に捕獲から逃げ様とする意志がありますから、捕まえて料理する等という真似はしたくも出来ないのです。』

 ワアド。『じゃ羊の脛の御馳走を食べたという話は嘘かね?』

 レックス。『僕はそんなものを此処で見た事はありませんよ。実験の目的で食物を取った時に、僕が口へ入れたものはセロリとか林檎とか云う植物性のものばかり、若し意力があるとしても計算に上らぬ程微弱なものでしょう。』

 黙ってレックスの説明に耳を傾けていた叔父さんが此時口を開きました。――

 叔父。『食物という問題になると、幽界と霊界には格段の相違がある。第一食物は私等の住む霊界には絶対に無い。地獄には食物があるから羊の脛も見附かるであろう。地上の醜いものは皆な地獄へ落ちるのじゃ。だが其羊肉も如何程ナイフで刻んで口へ入れても、腹は張らぬ。それは未だしも食事が済んで皿の中を見ると御馳走は元の侭という次第じゃ。』

 レックスは脱線した話を元へ戻して続けました。――

『扨て士官は敵軍の処置について、暫らく考えてましたが、やがて命令を発して――

 「此敵陣には今千三百人程の人員が居る。我軍には五百名の見張りが出て居るから、二千名丈残したなら敵の包囲には充分であろう。伝令君!(兄さん、もうあの伝令は此時少佐になってましたが、以前からの呼慣しで、士官はいつも斯う呼掛けるのです)君は此処に残って旅団長格で指揮の任に当ってくれ給え。戦場で援兵を頻りに求めて居るから、私は其方へ他の人員を振向けなければならぬ。君は(僕に向って)此処に見物をしていた人達の世話をしてよく事態を説明してあげる事が必要だ。S大佐! 君は捕虜を連れて本営に居るのだ。私が何れ先ずよく話をして見よう。訳が判って味方となる人達もある事と思うが……。とにかく私の帰営する迄は監視をよく頼む。放免はそれからだ。此世界へ来たての人に悟らせる事はさして困難ではない。」彼は再び伝令に向って「旅団長! 余程細密な注意が肝要じゃ。此の敵営内にあるクラブの会員の中約三分の一は女だが、女だと云うても危険な事は男と変りは無い。女だというので自然手硬い取扱いも出来ないという点で、彼等は却て危険かも知れない。とにかく敵のクラブ員が外部に出ぬ様にする事と、彼等が外部から食料や人員を補充する事とが出来ぬ様にする。此二つの手段だが、私は君を信用して此大役を任せる。しっかりやってくれ給え!」

『斯う云い終って士官は部下を率いて退場しました。S大佐はもう既に此時大半は覚醒して我軍に伍した捕虜連を本営に導き、伝令君は大役に取りかかりましたから、僕は言い附けられた通り戦死したばかりの二人の準士官とB大尉と呼ぶ将校の説諭の任に当りました。先ずB大尉の方から始めるために、準士官の方は軍曹に頼んでおいてB大尉と会話を交えながら歩きました。此の人は死ぬ前に相当苦悶したので負傷の瞬間に命を奪われた人に比べると、死の直後の体験が聊か趣きを異にしています。他にも斯ういう人も多くある事故、詳しくお話しましょう。』


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


38 救護団反対運動

2010/05/28

 それからレックスはワアド氏に向って、士官の主宰する救護団について話を進めました。――

『兄さん、士官の話によると我々の活動に対抗するために、暗黒界でも同じ様な団隊を作り、服装まで我々のを模倣して、死人の誘惑を企てているそうですよ。此話を士官から聞いた時、丁度傍に彼等の毒手から救い出されて、士官の許に来た年少の少尉がいましたが、其人は僕に向って当時の事を委しく話してくれました。大体を繰返して見ましょう。――

 私は突撃の際に頭部を射貫かれて殺されたのですが、暫時失神の後、ふと気が附くと、身体が何ともないので一時気絶をした位に考えて、再び前面の敵を眼がけて突進しました。処が可怪しい事には、いくら敵を射殺しても一向に人数が減らず、同じ敵兵が頭を射貫かれながら、三度も蘇生して戦かって居る事や、自分自身の躯に二度も敵弾が命中したのに何の反応もない事や、大分様子が異っているのに不審が起り、きっと頭が昏惑して悪夢に襲われて居るのだと考えましたから、一生懸命に夢から醒め様と努力しましたが、其甲斐がありませんでした。其中に自然其戦場を離れて静かな低地に来たので、地上に坐って何うなる事かと考える中に、死んだのではないかと思い附きました。すると二人の兵卒と一人の大尉の服装をした人とが眼の前に現われたので、私は飛上って敬礼を済ませた後、其人達に尋ねました。――

「私は死んでいるのですか、生きているのですか?」

 その将校が答えて云うには「死んでいるのだが、それは地上の人間共の云う事で、あなたが気にする必要はない。此処も、死ぬ前の世界も、生活に大した変りは無いので、上手にやれば随分と面白おかしく暮せるのです。欲しい物が何でも手に入る。金は一文も払わないで済む……。」

「どんな物でもですか?」

「勿論どんな物でもです。が、矢張り落附く迄には手伝人が要りますよ。だから私達が来たのです。多勢の人が此処へやって来るが、皆な慣れぬ世界に投り出された事故、茫然自失して彷徊き廻っている有様で、如何にも気の毒だから、私等一同相談の結果、一団隊を作って此世界へ入って来る人々を援け始めたのです。といって我々は勿論聖人でも何でも無いですよ。尤も此世界にも地上と同じ様に、賛美歌なんかばかり歌っている連中もありますがね……。然しあなたは、そうした窮屈な社会はあまり好きでもなさそうですな。』

「その通り! あまりやかましい連中は御免ですね。」

「それならば丁度よろしい。私達のクラブへ御案内しましょう。顔馴染の人も居るでしょう。―― 又直ぐに仲間が出来ますよ。処で前以て君に断っておきますが、牧師なんかというものは、傑く見せるために種々と難かしい小理窟を並べたがるもので、善だの悪だのと小やかましい事をいうが、だんだん判って来て、われわれが牧師の罪だという事を平気で居るのが、悪くはないという事も自然と会得が出来て来るものだ。ね君、教会じゃ死後の世界を天国だの地獄だのと教えるが、此世界をどう思う。此処が想像とは全然異った所である通りに、牧師の教える善行悪行なんてものは皆な嘘だよ。」

 こんな話をしながら私達は歩き始めました。調子のよい人達の面白い話に釣込まれて、我知らず足が運びましたが、其中に大きな建物の前へ出ました。相応構内も広そうな此大家屋の周囲は可成乱雑で、女や男がごたごたと歩るき廻っていましたが、私達は其所へ入ると、其大尉が「これが我々のクラブですが、君も入会し給え。」というので、私は「会費は幾何ですか?」と彼に尋ねると、「君は判らないね。一文も払わずに、欲しいものは何でも手に入る所だと話したじゃないですか。」と面倒くさそうに呶鳴られてしまいました。

 内部へ入ってその男が、私の姓名を帳簿に記録すると、他の一人がそれを証明してくれました。私の入会の手続きが済むと、「さあ飲みに行こうじゃあないか。」と云われたので、私は又吃驚りしました。「此の世界でも飲むなんて事があるのですか?」「勿論さ、ウイスキーソーダはどうですな!」と極めて簡単な挨拶でした。

 それから私も負けずに一杯やりましたが、どうも工合が変でした。飲んだ様な気がしないので、二杯三杯と重ねて見ましたが、成程ウイスキーソーダの様ではあるが、ピンと来ない点が異しいので、其事を連れの男に話すと、

「そりゃ君が幽界の食物に慣れないためさ。実は実際美味く飲める方法があるのだが……何れ話す事にしよう。」

 彼は私を種々な人々に紹介してくれました。「此クラブには誰れでも入れるのですか。」と質問しましたら、こんな返事でした。――

「イヤ誰れでもと云う訳には行かない。我々は相応平民主義だが、それでも此所はただの兵卒では会員になれない。兵卒には別にクラブが出来て居て、此将校クラブの会員は、其兵卒クラブの名誉会員になって居るが、ホラあの樹の向うに見えるのがその兵卒のクラブですよ。可成りいい場所でしょう。以前からの習慣というものがあって、兵士達が将校の間じゃ面白く行かんからね。――然し此所で一つの問題は、兄弟で身分の異う場合なんか、別々のクラブに出入するのも工合が変なので、そんな時には出来る丈一方を、兵卒から引上げて将校にするという事もある。内部はこんな工合に軍隊式だが、入会は全く自由です。」

「何からこんな思い附きが出たのでしょうかね。」

「実を明すと我々は士官という名で、通っている男のしている事業から、ヒントを得たという訳だ。此人物は札附きの人物だから気を附けないといけない。生前もしたたか者だったとの事だが、此頃は善人ぶって基督教青年会に似たものを経営しているとの事だ。」

「けれども、」と私は反対しました。「基督教青年会はなかなか戦線でいい働きをしていますよ。」

「そりゃそうだが、何も救世軍式に御祭騒ぎをするには当らないさ。あの士官という先生は自分の勢力を拡げようというので、或る団隊を作って、新たに殺されて来る奴等を導いて、此社会の危険性から人々を救うという事業をしている。地獄の話で人を嚇して、天国に行きたければ斯くすべしとが、斯く為すべからずとか、丁度説教坊主の様な真似をして居るが、言ってる事ァみんな我々から見りゃ馬鹿馬鹿しい事計だ。彼奴の生前の悪行を知ってるものは、あんな馬鹿げた理窟によくも引掛かる阿呆がいるなと思う位、大勢の人間が其仲間に引張り込まれているが、彼奴の虚栄心の犠牲になる亡者共は実際気の毒なもんだ。何にしても面白い事ァ全く御差止めの状態だから、皆な元気も何もない飢鬼の群の様に見える。あんまり気の毒だから、此方でも団隊を作って、此の野心家の道具にならない様に、人達を助け出す事を考えたので、組織丈は彼奴のが巧く出来て居るから、一寸真似をし始めたという訳さ。人間は自由なものだから、教会へ行きたい人は行くがよしだが、人の行為の批評はよくないよ。全く喧しい番兵共は真平御免を蒙りたいのさ。所で君、僕等仲間の標語は斯ういうのだよ――自己の行為が他人に迷惑を及ぼさざる限りは、如何なる行為と雖も自己の求むる所に従いて之を信じ、且つ実行して可なり。」

「なかなか面白いモットーですな。」

 こんな話をして其大尉と別れましたが、其辺で格別する事もなく暮す中に、間もなくある女と知合になりました。三年程前に死んだ人で、未だ生残ってる夫の事などは馬鹿扱いにして居る様な如何わしい婦人だったのです。何にしても異性間の事ですから、私達は自然と仲が善くなりました。此頃私は此クラブ内に泊って、食べたり寝たりしていたものですから、クラブ員の活動の模様も解って来ましたが。内部の組織は士官救護団そっくり、其侭の模倣とでもいったらよいでしょうか、絶えず戦場へ出掛けて新しい死人を誘って来るのでした。尤も私は此女と遊ぶのが忙しかったので、此方面の働きはしませんでした。芝居、音楽会、舞踏会と一緒に浮れ歩いて居たものですが、どういうものか精神的な快楽には相応満足な結果が得られますが、物質的の快楽となると、いつも不満に終るのです。

 とにかく私は結婚を申込むほど此女に惹きつけられてしまったのです。

 処が女の方では私の申込みを受けてもただ笑っていました。

「オヤ、あなたは随分古いのね。聖書にだって斯ういう文句があるでしょう――娶らず嫁がずって……。だけれどそんなに変な顔をしなくてもいいわ! 結婚式だってそんなに悪くはない事よ。……そりゃあなたがぜひ牧師さんに頭の上で、鹿爪らしい文句を饒舌って貰いたければやりますさ。だけれども此世界じゃ死ぬって事が無いから、後から都合の悪い事が出て来ると困る事よ。お互いに早晩飽きが来るに定まってますもの、其時また離婚の手続きなんて煩さいじゃないの。どの道赤ン坊なんてものは出来ないんだから、結婚なんて面倒な事はしなくったって差支えはありませんもの。子児の問題があるから世間の人は結婚するのよ。やかましい義務だの責任だのというものは御免蒙って、いい事丈で行こうじゃありませんか……。それはそうと、あなたは此所へ来てからお酒をほんとうに美味く飲めた事があって? 無いでしょう!」

「全く美味しく飲めませんね。何故でしょう? 酒場で飲む酒がただ無暗と後を引く計りで、少しも本当の味がしませんね。」

「あなたは未だ本当の飲み方を知らないからよ。それが判らない中は如何して結婚するか解りっこはないわ。――あの大尉さんに飲み方を習っていらっしゃいよ。」

 斯う云われたので私は早速大尉の処に駈け附けて、この話をすると、彼は直ぐに便宜を与えてくれました。――

「じゃ私が最初に飲み方を教えてあげるから、結婚の方はあのお嬢さんにお習いなさい! オイT君! 君この方を地面の上にお供して飲み方を教えてあげるのだ!」

 呼ばれたTという人に伴われて、私は地上へ出掛けました。

 この話をワアド氏ワアド氏に伝えて居るレックスは、右の青年将校が、如何にも過去の不愉快な出来事に触れるのが苦痛らしい表情をして、語り出したと言うのでした。すると此時傍に居た例の陸軍士官は此暗黒界の巧妙な活動振りをレックスに向って、次の如く批評して聞かせました。――

『実際悪霊共の奸計には隙が無い。私は前から彼等の謀計に気附いては居たが、それほど上手な遣口をして居るとは初耳である。すべて実権を握って居る悪魔共は、裏に隠れて誘惑した人間共を道具にし、自分等は蔭から操って新たに来る人々を陥れるのだ。悪魔自身が表面に現われたのでは人間にも内兜を見透される惧れがあるので、未だ善良な気分が残っている人達を先棒にして人々を誘惑するという謀計だが、何にしても此世界では欺くと云う事は出来ないから、人間の無智を利用して迷わして堕落さすと云う憎むべき方法を取っているのだ。だが実に深い計劃をしたものである。

『此反対派の団隊の会員達、即ち悪魔に利用されて居る連中は、憑依の罪悪である事、及び其恐るべき結果について全く知らぬ気の毒な人達である。彼等は霊界は勿論の事、此幽界に関する知識すら極めて浅薄であるから、悪魔共のいう処を一概に信じて、私を大悪人と考え、何事によらず私等のする事に反対した行動をとるという事になるのだ。私の生前の悪行を指摘して誹謗の的とする処等は実に悧口では無いか。又私の救護団を真似て知らぬ人を欺き誘惑する場合等も手に入ったものである。漸々堕落して行く道は、外見はそう悪くは見えぬ。殊に死の直後の人々が地上界で生活をする時の事であるから、未だ抜けきらぬ物質的の本能を挑発して、誘惑する巧妙さには感心して了う。ドー見ても其背後にしっかりとした策士がある事を思わずには居られない。』

 レックスは此処で又話を後へ戻して、救われた少尉の物語りを続けるのでした。――

 レックス。『Tと云う人に連れられて地上へ酒を飲みに出掛けた少尉は、其先きの成行を斯う話すのでした。――

 Tはそれから私をロンドン西部の有名な、ナイトクラブへ引張り込みました。影の様に見える壁や室内を苦もなく突抜けて、我々はサロンに出ましたが、其所ではダンスに興じている人達の周囲を幽界の住人共が見物しながら取巻いていました。それからバーに入りましたが、其処には多勢の男や女がだらしなく酔いどれているのでした。

「オイ君は何を飲むのかい。」と訊かれて「僕はウイスキーソーダがいいな。」と答えると「じゃ、僕のする通りにし給え。」――斯ういい乍ら、彼は其処で飲んでいた一人の人間の躯に、何ともいい様のない恰好で執拗に纒い附きました。

 其処で私も、大分飲んだらしい人間共をつかまえて数名やって見ましたが、どうもなかなか巧く行かない。Tの他にも数名の酒呑亡者がいましたから、其人達の遣口をよく研究して、漸くコツが解りました。

 とにかく、幽界のクラブで飲む時とは比べものにはならぬ程美味い。生前やりつけた味に余程近いものでした。ですが私の絡まって飲んだ人間が、私を振放して其処を去ってしまった時私の飲酒慾は一層募る計りでした。

 其処で此度はある大ホテルへ行きました。けれども飲酒法の束縛があるので、未だバーは開かれず、時刻を待っている幽界の呑助共は、大分とフラついていましたが、肝心の人間が居ないので、持ち切れぬ私は、棚の上のブランデーの栓を抜こうとしましたが、一向手答えがないので驚きましたよ。待遠しさに業を煮やしている中に漸く戸が開いて、人が多勢入って来ましたが、生憎と一二杯引掛けて出て行く連中なので、なかなか憑依く暇がない。

 其中に大分酩酊した一人の商人が入って来ました。バーの主人は一寸考えた様でしたが、大丈夫と見たか黙認したので、手ぐすね引いて待構えていた亡者連中は、ソレと計りに我勝ちに其男に飛附き、争奪戦が始まりました。勿論私の様な新前は手をなく撥ね除けられてしまいましたが、古参のTも悪戦苦闘の甲斐なく、他の仲間にしてやられてしまいました。

 此商人は間もなく断られて出て行きましたが、其躯に絡み附いた亡者は、其侭一緒に出て行きました。少時の後私にも機会が出来て、一人の器械工に憑附いて数杯飲みました。夜が更けて二時半になると、皆なバーを追出されて町へ出ましたが、私は尚其男と離れませんでした。此男はそれからウイスキーを二本買って、二人の連れと共に小穢ない事務室様の場所へ帰りました。これから又此三人は今買て来た二本のウイスキーと、更に他の二人が買て来た三本と、都合此処で五本を空にしました。一人は全く酔い潰れて倒れてしまいましたが、私の憑いた男と今一人は正気で、アルコホールに爛れてフラ附く躯を、引づり引づり又町へ出掛けて、怪しげな場所へ入りました。此頃には私ももう充分飲んだので、酒に厭気がさしたのみか、気分さえ悪くなったので、此男を離れ様ともがきましたが、どうしたものか全く縛り附けられたものの如く離れる事が出来ません。已を得ず後悔しながらも一緒に居りました。

 此男はそれから人達の間に交って、イカサマ博打を始めました。其中仲間だと思っていた人々の中に探偵が交っていたので捕まってしまい、遂に監獄へ投込まれたのです。

 此時私は尚お其躯から離れる事が出来ず、一緒に獄内に居る様な始末でしたが、酒を飲む事が出来なくなったために、此男と私との間の関係が漸々希薄になり、遂に自由になる事が出来ました。暫らく地上を彷徊して後、例のクラブへ帰りました。

 例の女に此話をして、もう懲りごりだと申しますと、

「あんたは新前だからやり過ぎたのさ。少し加減をすれば、人間に縛られる様な事は無いのに……」と笑われてしまいました。そして結婚も同じ方法でするのだと聞かされ、少し不気味でしたが、弱虫呼ばりをされるのが口惜しさに、決行する事にしました。

 私が委しく説明せずとも、充分御想像がつく事と思いますが、ただ此度は前の酒を飲む場合と比べて、人間が二人要る丈に少し事面倒な点がありましたが、とにかく恰好な人達を見附けました。初めは平穏無事でしたが、間も無くお互いの間に醜い慾望が募って、私達二人も人間二人も悪戦苦闘を重ねた末、私と其の女との間に飽きが来、人間の躯から離れたくなりましたが、又しても縛り附けられて自由がききませんでした。幸い其中に男の方が、病気になりました。すると丁度前に人間が酒を飲まぬ様になった時解放された様に、私は此男から離れる事が出来ました。女の方でも自由になれましたが、勿論此時はお互いに飽きていましたから、女は直ぐに別の男の許に奔りました。

 こんな悲惨な状態にあった私の耳にふと響いたのは、誰かが私の名を呼んでいる声でした。振り返って見ても、誰れも見当りませんが、名前丈は何度となく聞えます。だんだん其方向に従って行くと、未だ地上に居る母の呼ぶ声だと判ったので大急ぎで進むと、母が私のために祈っている処でした。実際此時ほど自分の堕落を恥じた事はありません。母の姿を見て覚えず前へ進もうとしましたが、何の力か、私はグッと引きとめられて前へ出る事が出来ませんでした。失望のドン底に落ちた様に感じて、何と云う当てもなく振り向いたまま、ドンドン馳け出しました。もうクラブへは帰りたくは無い。何となく悪の発生地の様な気がしたのです。と云って別に行く処もありませんから、新規蒔直しの積りで再び戦場へ出かけました。

 職場で運よく士官の救護団の一員に逢いました。クラブに懲りたものですから、初めの中は疑ってましたが、陸軍士官と云う名前が出た時に、前の大尉の悪口を想い起し、あのクラブと反対の団隊ならば、きッと善良なものに違いないと考えました。同時に境遇が淋しいために善くない慾望が、頭を擡げて実に危険に考えたので、誘惑を避けるためにと思って此救護団に身を投じました。

 私はその兵士に士官の処へ直ぐ同道してくれと頼みました。彼は一寸躊躇していましたが、私が熱心なので要求を容れてくれました。士官の前へ出ると私はその強大な感化力を感じました。一目で私の全生涯を見貫く眼力、中から溢れ出る偉大な性格の力、傍に居る丈で自分の力が増した如く感じ、私は恐ろしい誘惑に抵抗する力を与えられるのでした。

 私はこれで覚えて居る限りの事はお話しました、実に慚愧の至りです。此憑依という事は実に怖るべき習慣であります。丁度薬弄りの様なもので全く際限がありません。士官の救助がなかったならば、私は最後の誘惑に打勝つ事は到底出来ず、今頃はどんな堕落をしていた事でしょう――

 これでレックスの少尉に関する物語りは終りました。

時間が大分経過したので、ワアド氏は其所で話を切上げて現界へ帰りました。


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

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37 御母さんの死際の思出

2010/05/27

 同じく十二月三日の訪問日には、レックスは向きを変えて御母さんの死際の時の思出話をするのでした。――

『丁度御母さんの死なれる二三日前でしょうかね、僕は何だが現界へ帰りたくて帰りたくて堪らなくなった。理由が判らないので叔父さんに話すと、「それじゃとにかく一緒に行って見よう。誰か呼んでいるかもしれない。ひょっと地上生活に引つけられても困るが、私がついて行けばついて行けば大丈夫じゃろう。」斯ういった叔父さんに連れられて地上に戻った僕達は、御母さんの部屋の中へ出ましたよ。

『直ぐに御母さんが死にかかって居られるのに気附きましたから、その侭傍にいる事にしました。其中に種々な霊が集合して来ました。悪鬼の様な自然霊も見え、それ等は瀕死体から流出する生気を吸取ろうとしている様でした。悪性の幽界民も居ましたが、こんな手合も悪い目的で群がって来るのです。一方には御母さんが肉体から離れた時、保護するために医者と看護婦達もいました。現界と違って各自の目的が判然と判る処が幽界の面白い処ですね。地上の様に外見を繕って瞞す事は出来ませんよ。

『時間が経つに連れて寄って来る霊もだんだん数を増して、善霊悪霊が病人の両側に分れて相対しました。私達は勿論善人の仲間で御母さんの右側に居りました。臨終の時が近寄ると、物凄い悪相の霊が列を離れて、病床の足部にスックと立上りました。すると御母さんの守護霊が、之と反対に頭部の側に姿を顕し、御母さんの躯の上に静かに其手を差伸べて、保護するかの様に見えました。

『悪霊共が騒ぎ出しました。罵るもの、怒って喚くもの等が劇しく抵抗したが、守護霊の威力に敵わず、だんだんと退去して、最後に御母さんの足の方に立っていた親玉株のみが残った限りでした。此悪霊は相応強力なものと見え、話す度に黒雲の如きものを身体から出しながら、大声を発して言いました。――

「此の女が行った総ての悪行に依って、自分は女が自分等のものである事を宣言する。自分は此場を立去る事はしない!」

 輝いた守護霊がそれに答えた。――

「此女の為した総べての悪行に対しての代償は既に払われて居り、又払われんとしつつあるのである。然しながら彼女の為した善行の総てに依って、自分は此人に対する権利を主張する。此場を立去れ! 汝等が出るべき場所で無い事は明白ではないか。自分が此女を支配する限り、汝等悪霊共は此傍に近寄る事は不可能である。」

「自分は此女の事を覚えて置くぞ。」と悪霊は薄笑を浮べながら云いました。すると善霊も負けずに、「自分も守る事は決して忘れはせぬぞ。」

 と云い返しました。これで黒い悪霊は消えましたが、同時に守護霊も姿を隠して、後は幽界から迎いに出掛けた親切な善霊達ばかりが、御母さんの周囲を取巻きました。

『見て居る中に御母さんの頭の方に蒼白い光りが現われ、其処からだんだんと幽体が抜けて出ましたが、前にも御話した通り御母さんは其侭寝続けていられるので、お医者の一行が担架に乗せて病院へ運んだのです。四人で担ってましたよ。叔父さんと僕とは後から随いて行きました。そうして重そうにもない荷を、四人とはあまり大袈裟ですから、叔父さんに左様いいましたら、東西南北の四点を守護する事が危難を防禦するのに肝要であるとの事でした。

『病院が消えると、我々は雲の中を通って夢の国へ入りました。此処を通る時看護婦の一人が、耳慣れた讃美歌を歌い出したので、僕は一寸里心が附いて現世が恋しくなりましたね。病院へ着いてからの有様は、兄さんももう御承知の通りです。』

 此時御母さんが云いました。――

『悪霊が来た話を聞くとほんとに身の気がよだちますよ。でも私は何にも知りませんでしたわ。』

『御母さんは寝込んでいたからです。』レックスは続けました。『ね兄さん、御母さんは、今じゃすっかり丈夫になられましたよ。病院の頃には僕は殆んど毎日御見舞に出掛けましたから、士官の救護団の仕事は、殆んど出来ませんでした。其間に隊はグングン発達して行きましたよ。もう少し此方面の話をしましょうね。』

 レックスは士官の事業について再び語り出すのでありました。


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

 

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


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36 幽界の社会相

2010/05/26

 レックスは話題を転じて第六層即ち彼の任地に於ける一般社会の有様を語り出しました。――

『僕は時々休暇を貰って、此第六層の内部を研究に出掛けますが、兄さんともいつか一緒に骨董や大庭園を見に行った事がありましたね。僕は時々此町の大図書館へ行きますが、可成り沢山の書物が集っていますよ。館長はピェール・ブランシァードという年老った仏人で、単にピェールと云う名で通っています。其老人が元村長をした事のある兵隊上りの英人を助手にして、英仏図書館と云った様なものを経営していますが、戦火で焼けた現界の図書館が、幽界に現われたのを利用して発展さして居るのです。今ではだんだん拡張して其建物丈では本が入り切らず、近所の十二三軒の家まで合同している盛況です。目下内容を英仏に限らず、世界的なものにしようと企て、独逸部さえも設ける計劃です。何時かよい機会に御伴しましょう。

『勿論美術館とが博物館とかもありますよ。可笑しいのは動物園を設け様とした時の話です。喜んで檻に入って居る様な動物はなかなかありませんから、柵内に納まったのは少数の柔順な動物丈で、猿も三疋程は居たそうですが、他の動物は番人が居なくなると、すぐに鉄棒なんかはお構いなしに、ノシノシと貫通して歩み出して、檻は藻抜けの殼という始末でした。斯うして柵を出た大きなライオンが町中を横行した時等は、格別何んの危害はしないのですが、町中ヒックリ返る様な騒ぎだったとの事でした。

『僕は又芝居へ行く事も講演を聴きに行く事もあります。此処に大学があるのですが、都合のいい点は講師が英国人であっても仏国人であっても、言語に関係なく我々生徒に講義の内容が判るのです。流石に独逸人は居ませんよ。自然周囲から嫌がられるので、独逸人は別に其の仲間で自分等の町を造っています。あの図書館長のピェールが独逸の書籍を館内に置こうとした時も、一寸問題を起した位でした。彼は書物に罪は無い、独逸には書物のいいのがあるのにと、こぼしてましたっけ!。

『今僕は御母さんが此家に来られる前の話をして居るのです。一人の時は方々へ行きましたよ。教会も種々と異った宗派のを見ましたが、それぞれ地上のと似ています。牧師にもあまり感心しない人もありましたね。概して形式ばかり重んじて精神を忘れて居るのです。今の分では残念ながら続けて聴きたい様な説教をする人は見つかりませんね。

『未だ何かあったかな……。ああそうそう、兄さん僕は工場へ行った事がありますが、矢張り地上で使用する物品と大差のないものを造ってますね。尤も未だ現界に姿を出さない品物もありましたよ。化学研究室で科学者連が新発見に夢中になって居るのも見ましたが、僕は此方面にあんまり興味がないから話す材料も少ないですよ。一方美術工芸の大家連が集まって、種々の創作をして居りますが、随分逸品が出来ますよ。硝子と赤銅の細工で兄さんの欲しがりそうなものも見ました。実際家具や陶磁器なんかにはいい物がありますよ。僕がある時売物にはならないのかと尋ねたら、すっかり笑われてしまいました。斯うした連中は御手製の美術品で空屋を飾り、時には家まで建てて、自分達で気に入る様に準備した家を、同じ趣味の人に提供して入って貰うという工合です。僕も三軒の家をどれでもと提供されたのですが、矢張り最初のまま此家に住んでいます。品物丈は気に入ったのを二三貰いましたよ。後から同じものを作るといつてましたが、多分同じ作はしますまい。』

 かく話しながらレックスは、貰ったと云うガラスの水差を棚から取って、得意そうにワアド氏に見せました。ベニシャン型の美しい作で、少し蒼味がかかった透明の厚ガラスで作り、胴は金を鏤めた人魚の姿、手の処は縺れ合った二疋の蛇の形、なかなか立派な芸術品でありました。

 レックスがワアド氏の前に、なほ陶器製の花瓶や鉢等を並べ立てて頻りに講釈をして居る時、叔父さんの声がしました。――

『ジャックの帰る時間が大分近寄ったが、今日は他に話す事は無いのかネ?』

 此時御母さんが横槍を入れました。――

『芝居の話をしてはどんなものです?』

 レックス。『そうですね、以前にも兄さんに御話ししたことですが、此処には劇場があるのですよ。御母さんがお出でになってから、オペラにも他の劇にも、一寸面白いのがみつかりましたから、何れ其中御話しましょう。処で、兄さん、裏に一寸した庭をこしらえましたから、覗いて行きませんか。(レックスはワアド氏に裏庭を示しながら)あの真中の花壇の薔薇の下に猫がいるでしょう。僕が昔し可愛がったあの三毛の名を附けて、タイガーと呼んでいますよ。あのタイガーは何処に居るかと時々思い出しますが、未だ見附かりません。其中にはきっと出て来るでしょう。』

 高塀を廻らした小綺麗な庭でありました。小鳥が庭木の梢に群れているのを見て、ワアド氏が尋ねました。――

『あの猫が鳥にかかる様な事はありませんか?』

 レックス。『ええ初めの中は少し悪戯をしましたが、いくら飛掛っても捕えられないので、此頃は判って来たのか、どうもしなくなりましたよ。』

 ワアド。『花には季節がありますか?』

 レックス。『判然としていない様です。とにかくだんだん影が薄くなって消えるのですが、きっと其時は霊界へ行くのでしょう。兄さんあそこにある棗の樹が、少しぼんやりして見えるでしょう。あれは近い中に消えるにちがいありませんよ。』

 レックスは又話題を自分の事に転じて、仕事関係の話をしたり、妖精国を見て来たから其中に話をするなどと物語る中に、ワアド氏の帰るべき時間が来ました。


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

 

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※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

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※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。