‘幽界行脚(本文)’ カテゴリーのアーカイブ

55 結末

2010/06/14

 ワアド氏の最後の記録は一九一九年四月二十日夜の訪問日の出来事であります。

 この日は丁度レックスの死後三年目に当るので、其話が出ると、レックスが云いました。――

『それじゃ丁度よいから此度の書物の結末をつける事にしようじゃありませんか。今日は幸い一同揃っていますからね。』

 今度は叔父さんがワアド氏に向って、――

『次の月曜日は私の処(霊界)へ来て貰いたいが……。丁度其日に私は第二層へ移ろうと思うのじゃ。私の用意はすでに出来ているのだが、守護神が其折にせよと言われるのでナ。』

 それでワアド氏は其日に叔父さんを霊界に訪問する事に定めました。今度は士官の番です。

 士官。『私も霊界に帰る予定です。私の守護神も、もう充分此処で働らいたから霊界へ戻れと云われるので……。そうなるとこの若い友人(レックス)が一人残る事になりますな。我々の団隊の仕事は未だ未だ沢山ありますから、後の困らぬ様充分手配をして行く積りです。』

 母。『私も御存知の通り此頃は小供の相手で忙しいし、もう可成り幾組もの小供が妖精国へ出掛けたが、帰らない処を見ると、キッと七層に到着したのだと思いますよ。』

 レックス。『僕も熟考の結果、嫌いな人を援け様と決心し、僕の大嫌いな人を一人見附け出しましたよ。それは仲間の士官ですがね……。守護神も適任だといわれました。これが出来ると、僕も其中せめて第七層までへでも進めるのですが……。』

 不意に座中へ神々しい何物かの出現を感じ、ワアド氏の守護神の姿が次第次第に判然して来ると、其処から発する光明で一同の姿は漸次に消え失せ、ワアド氏の眼にはただ光り輝く守護神の霊姿のみが見えるのでありました。太陽よりも眩ゆい其顔容!

 ワアド氏は我を忘れて叫びました。――

『何の御用でございますか?』

 守護神の声は大オルガンの響きに似た権威の充ちたものでした。――

『此の世界に於ける汝の仕事は当分これで終了した。これからは世界に此知識を拡める事が汝の使命であるのだ。世の人々には労苦多く、平和の港に入るまでには幾多の悲痛に出逢わねばならないのである。今や新しき世界が生れ、新しき規律が行われようとして居る。古い信仰は消減するが、ただ知られざる全能の神は永劫不変である。すべて悲みの中より喜びの光は生れる。最後の平和は戦争の結果から実現する。

『あらゆる万物に神の計劃は加わっている。人間の魂は絶えず前進を続け、いささかの沈滞も衰頽も無い。見よ。堕落の中から正義は立ち、死の中から生命は生れることを。

『地上が暗黒となる時こそ一道の曙光を思わしめるものである。来るべき新らしき日は古き日よりのものである事に誤りはない。ただ一人の絶対権力者の光栄と威力の前には、あらゆる強力者も慄い戦くより他はないのである。』

 彼の声が止んだと思うと、ワアド氏は大暴風雨の真只中へ投げ出されたかの如く、喧々囂々の渦中に捲き込まれてしまいました。

.. 幽 界 行 脚(大尾)


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

 

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


54 休戦と幽界

2010/06/13

 其後ワアド氏は相変らず毎週月曜日にはレックスの家を訪問し、皆と会合して精神の休養をするのでしたが、話題が私事に関して居るため発表すべき事もなくて過ぎました。然し其年一九一八年もだんだん暮れに近づき、十一月十五日の幽界行には、レックスの家に稀らしく叔父さんと陸軍士官を見出したのです。

 叔父さんは休戦が布告されたから来たのだと云っていました。そしてワアド氏に霊界での修行の模様を尋ねられ、近い中に第二層に移る予定だと話すのでした。

 ワアド氏が士官とレックスに向って、此度の休戦が幽界へどう影響したかを尋ねますと、――

 士官。『我々には少し前から解っていました。其の理由は最下層に於ける善と悪との戦いに於て善が勝利を得つつあったからです。然し悪の力が全く壊滅した訳ではなく、一時根拠を失ったに過ぎないのだから、又何処かに現出しましょう。御互いに警戒せねばなりません。地上に於てはロシアに見るが如き擾乱が起る事でしょうが、長くは続きますまい。独逸も苦い薬を嘗め、墺国もお相伴をして国が分裂する事になるでしょう。伊太利も気を附けぬと少し危うい様子も見える。とにかく人々は休戦休戦といつて騒いでいますが、これからは世界各地に於て騒擾を見る事でしょう。仮令ば印度とか埃及とか……。

『斯うした争乱の間は相応不愉快な時代が来ると覚悟せねばなりますまい。然し何といっても第一歩の時代は過ぎました。私はあの救済団を続けて、もっと国際的なものにします。先ずロシアから来る憐れな悪鬼共を救おうではありませんか。彼等は生きながら地獄の苦を嘗めて居るから、地獄の生活をするには及ばない位悲惨な連中です……。

『然し悲観的の話であなたの喜びを消そうという訳ではない。此の条約のために幽界への新来者は大分減じました。尤も近来流感で大分やられるが……。然し今の処あまり手を延す事は不可能なので、軍人の救済丈で手一ぱいです。

『兵卒達は何にしても大喜びで、行列をやるやら大騒ぎの有様、まあやりたい丈やれば鎮まるから……。御祝いに一杯飲もうという連中も出来て種々困った事も起ったが、余程鎮まりました。人々はロシアの思想問題を大分気にかけています。中には戦争がやむと仕事がなくなると落胆してる連中もあります。話は違いますが、ロシアの兇悪な奴等は実際手に負えぬ者共ですよ……。私等の仕事も一寸斯ういう手合にかかると困難でしょう。』

 ワアド。『休戦の締結はどんな方法でお判りでしたか?』

 士官。『全欧から流れて来る念波が非常なものでしたから、自然気が附くのです。私は調印と同時に事態を明瞭に悟り、同時に関係者の思想も感受しました。』

 レックス。『何処の教会でも皆な礼拝を行いました。僕等の本営では、教会行列をやりました。その時士官の行った演説の一節は斯うでした。―― 諸君! 善と悪との戦争には休戦がない事を忘れてはいけない! これは我々自身の中にある争闘に於ても、又更に大いなる争闘に於ても同様である事を記憶すべきである! 悪は処を変えたに止まり、決して消滅したのではないのである。今日独逸の勢力は絶滅したが、明日我々は無政府主義の齎す悪思想と再び戦わねばならぬのだ。我々の仕事は未だ終ったのではない。ただ内容に相違を生ずるのみである。然しながら此度の事件が終結を告げた事に対しては、我々は大に喜ばねばならない……。』

 休戦に関する話はこれでやめ、後はよもやまの談話に移り、時間が来た時、ワアド氏は此処を立去りました。


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


53 レックスの帰路

2010/06/12

 一九一八年二月十一日ワアド氏がレックスに会うと、彼は早速前の話を続けました。――

 それから案内者と僕は数多くの庭園や、大学や又立派な町々やを通って、遂に林に這入りました。それがだんだん深林となり、道が急峻となって、遂に山又山という土地になりました。暫らく山越えをした後、狭い谷へ入りましたが、遡って行くと岩の鼻が迫って、下に洞窟が現われました。さて其穴を奥へ奥へと進むに従って四辺は段々に暗くなり、遂に全く闇となりましたが、幸い同行の案内者の躯から微かな光が出るので、岩にも躓かず、穴にも落ちずに歩み続ける事が出来たのです。

 漸次に静かな音楽的な響きが聞えて来ました。最初は快感を覚えたこの音が、_だんだん進むに従って鋭い騒音となり、遂に今迄聞いた事もない様な物凄い叫喚と変りました。

 吃驚した僕は案内者に訊すと、彼は答えました。――

「この物音は第六層から第七層へ移る人々が後に残した最後の煩悩といったもので、斯うした旅人が此処を通る時には、肉感的の情熱を棄て去るまで、相応の期間内は此洞穴に留まらねばならないのです。そうして彼の感情が精練され、霊的のものとなった時、初めて彼は此先きの平和の国へ旅立つ事が出来るのです。中には自分の情熱の響きに怯ぢ怖れて、後へ戻り、再び第六層に帰る人が無くもありません。あなたは今此の道を逆行していますから、変な感じを受けるのです。」

 叫喚は益々劇しく耳も聾れるばかりになりましたが、我々は委細構わず突進して行く中、不意にパッと四辺が明るく感じたので、見ると眼下は絶壁なのでした。狭い岩棚がある丈で、其向うは底知れぬ深谷なのです。谷の向側はと見れば、路が一筋ウネウネと向うの小山まで続いているのですが、どうして此谷を越すかが僕には問題でした。

 よく見ると、向う側の岩壁には橋の造りかけと思われるものが沢山架っていて、中にはもう少しで手前の壁まで達きそうだが、飛ぶには少し間が広過ぎるという位、大部分出来上ったものさえありました。

 案内人が説明しました。――

「どんな人でも幽界の最上界、即ち第七層に入って平和の中に沈思したいものは、自分自身で造った橋を渡らねばならないのです。彼処を御覧なさい!」

 成程! 一人の婦人が谷を越そうと精を出して橋を架けています。暫らく見ていると、随分辛抱づよい難工事で、何度となく石の工事が崩れるのでしたが、彼女は根気よく仕事を続けていました。

「あの女は其中に成功する。」と案内者が云いましたから、僕は質問しました。――

「どうして僕丈は妖精国を抜けて第七層に行く事を許され、又少女達もその道を通ったのに、そのまま戻らずに留まってよい事になったのですか?」

 案内者は答えました。――

「此二つの道の他にも第七層へ行く道はあるのですが、今眼の前にある谷越しが最も普通の行程です。あなたは未だ小供の性質を大分持っているから、妖精国を通過して這入る事が出来たが、他の性質のために少女等の如く第七層に留る事を許されなかったのです。そして一つにはあなたには死後の生活の実相を社会に伝えるという大役がある。それを果さしむるために特に此経験を許されたのであります。即ちあなたの計劃は神の嘉し給うたものというて宜しい。これから私の役目はあなたが戻れる様にする事なのです。」

 そう云いながら彼は不可解な呪文様のものを唱えました。すると谷の手前から向う側へと、見る見る橋が架ったのです。「それでは御機嫌よう!」斯ういわれて僕は大急ぎで其橋を渡りました。渡り切って振り返ると、その橋はだんだんと消えて行く処で、次の瞬間には再び深い峡谷を見るのみとなりました。案内者は一寸の間向うの崖から僕を見て居ましたが、こちらが挨拶をすると、踵をかえして洞穴の口に姿を消し、同時に其入口が掻き消す如く、失せて了いました。

 それから荒れた道を上ったり下ったり、幾回か廻りめぐって、やっとの事で広々した土地へ出る事が出来ましたそして遂に家に達した訳です。

 レックスが物語を終えたので、此度は叔父さんが話し出しました。――

『これで大体幽界の内容も解った事と思う。とにかく一冊の書物になる丈の材料は集まったからこれから当分は内輪の会合としようではないか。時々訪問して貰って連絡を取る事は、我々にとって歓ばしいのみでなく、自然お前が物質の重荷に負けぬ事になるから……。

『お前の希望次第では、将来又霊界の上層をもっと探索する事にしてもよい。私はこれから第二層へ移る準備をせねばならぬから、もう間もなく霊界へ戻る筈じゃ。』

 此時御母さんが云いました。――

『私はどうも無益な暮し方をしている様だから、これから何かしなければなりません。取り敢えず小供達の世話でもしようかと考えていますよ。レックスに訊くと、此処には思いがけぬ程可成り大勢の小供が居るらしいからね。私は小供が好きだし、レックスの話では、妖精国から第七層へ行く道の方が楽でもあり、又いい道らしい。大人は行かれないとしても、小供達に妖精や其国の話をしてやって、導いてやる事は出来そうなものです。今では妖精を信じる小供が少ないから、大ていはただこの幽界で普通の大人になるまで暮しているらしい。だから若し私の話で小児達がベリルやジョイスの様に妖精国を通って第七層へ行く様になれば、ほんとに役に立つ仕事だから、ぜひして見たいものと、楽しみにしているのですよ。私はいつでも小児の良い友達だったもの……。』

 ワアド氏の帰る時刻が来たので、ここで別れを告げました。


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


52 楽園の谷

2010/06/11

一九一八年二月四日の訪問日にワアド氏は、早速レックスに向って前回の話の続きを求めたので、彼は直ぐに其話しに移りました。――

「1字下げ始まり]

 そこで妖精王は一人の臣下を召し出して、僕と二人の少女を連れて、入った時とは全く異った出入口から出城の案内をする様に命じました。自分達は驚くばかり立派な庭園や公園や、広い野原や、それから多くの町や宮殿を通り抜けると、遂に琥珀で出来ているかと思われる美しく輝いた高壁に行き当りました。其城壁についている城門は象牙で、錠前は全部黄金製なのです。番兵がいましたが、其中の重だったのが小門をあけてくれたので、僕達は其処を通り門外へ出ました。僕は其門はもう消えた事と想像して後を振返って見ましたが、依然と白光りに輝いて居ましたよ。

 突然鋭い声で呼び止められました。

「此の象牙と黄金の城門から此谷へただ通る事は出来ないのだ。あなた方はどういう人達であるか?」

 其処で僕は妖精の王から貰って来た紹介状を渡すと、此男は早速読みましたが、其間に僕は充分彼を観察したのです。

 此男は妖精とは違い幽界人に相違ないのでしたが、僕が普通第六層で見る人々とは格段の相違で、遥かに進歩した階級に属する人と見受けました。其証拠は頭の上には薄青のオーラが輝いていますし、時々指の先からも光りを放っていましたもの……。然し其他は我々と同じ人間でした。

 僕の見る処では幽界の他の層では善と悪とが混っていますが、この第七層はすべて進歩した人々ばかりで、叔父さんの話によれば、此処の人達は直ぐに霊界の最上層に行くのだとの事、悪くて第二層より下には行かぬという話しです。

 さて今の門衛が僕の渡した手紙を読み了ると、彼は仲間を呼んで僕達の案内をさせましたが、広々した草地を通り、森を一つ抜けると、見渡す限り美しい庭園となって居る土地へ出ました。其庭の広場には彼方此方と樹木の間に薔薇其他の蔓花で囲まれた小奇麗な小屋が建っていましたが、案内者は一軒の家へ僕達を連れて行き、其処に住む中年配の夫婦に紹介してくれました。僕は其人達の一代記を聴きましたよ。

 それは純な愛情で堅く結ばれた二つの魂が、生前の生涯の義務を果したに過ぎないものでした。死後この二人は真直ぐに此第七層に来たので、幽界に於ける他層の有様は少しも知らないのです。彼等は霊界へ移る日を待ちながらも、若しや別離の憂いはないかとの危惧の念もある状況でした。

 それから僕は叔父さんから教わった通りに霊界の状態について話しましたが、この人達は同じく霊界でも僕があまりよく知らぬ最上層に行くのでしょうから、僕の話も大した役には立つまいとの感もあったのです。

 僕が此の老夫婦に向って、死んだ時、あなた方は一時別々になったのではないかと尋ねたところ、御婆さんが斯う答えました。――

「私が死んだ時、夫は非常に落胆した結果、二十四時と経たぬ中、直ぐに私の後を追って死んだのでした。ですから先きに霊となった私は彼の傍を去らずに慰め励し、いよいよ躯を棄てると同時に、二人は手に手を取って此処まで来たのです。其時二人の美しい天使が道しるべをしてくれましたが、屡々此処で其天使達の姿を見ますから、其後もきっと私達の守護神なのでしょう。」

 此の人々は見るも心地のよい夫婦でしたが、自分達の周囲の事情にさえ、暗い様子でしたから、誰かもっと此社会に詳しい人の処へ連れて行ってくれる様に案内者に頼みました。

 彼が歩みながら僕に話した事は、――

「ああした夫婦生活は此国の特徴とでもいうか、休養と熟考の時期で、次の霊界に於ける生活の準備場所ともいうべき此層内には、ああした境涯が多く見受けられるのです。言葉を換えていうと、此世界は幽界中の沈思の国とでもいうべきでしょう。然し中には他人の生活、他人の利益のために懸命に努力しつつある人々も無い事はありませぬ。これから其方面を紹介しましょう。」

 暫らくしてある町に達しましたが、他の層では見かけぬ特殊な美を発揮している場所でした。其案内人がいうには、――

「此町は地上にあった町の幽体ではなく、全く此処で創造される町なのです、一つ皆なの作業振りを観察して御覧なさい。」

 建築家と思われる一人の指図に従って多数の人々が一つの建物を建てている処でした。異様な機械類がありましたが、それは空中から幽素を引き抜いて幽質の建築材料を造るために運転中なのでした。然しこの様な機械力を借りずに全然意力で材料を作出している人々もあった様です。とにかく皆なが一寸魔術と思わせる様な何か特種の方式に従って働らいていましたが、案内者の説明によると、そうした儀式めいた手段は働らく人の意志の集中を援けるためだとの事でした。

 見て居ると彫刻師は大ていは念力で種々の型を作出していましたが、人によると普通の工具を使って仕事をしてる向きもありました。ですから同時に二つの方法が用いられているので、一方には現界の如く幽体の工具で物の形ちを刻む者があると、他方には単に意志の力で幽質を変化して用を済まして居る人もあるといった工合です。

 其処で僕は質問を発して、何故皆なが意力を使わないかを案内者に訊すと、彼は答えて、――

「此世界に於ても人々は霊的発達の程度及び意力の強さに於て一様でなく、性格が余程しっかりした者でなければ意力を以て自由に物の形態を変化せしむる事は難しいので、勢い生前通り工具を用うる必要を生じて来るのです。」

 僕は工事の監督をしていた其建築家に向って、其建物の目的を尋ねた処、彼は答えて――、

「この建物は科学研究のための大学で、研究室、講堂等といったものが出来るのです。我々の目的は二つあるので、(一)は科学の秘奥を究める事、特に幽質について研究をなす事、(二)は生物及無生物のあらゆる物質に合体しつつある幽質に対し、現界人が研究を深める様に印象づける事。我々は純粋の研究と応用方面とを何れに偏する事なく、相俟って進歩せしむる予定であります、勿論此両方面に従事する人々は自然種類の異なった人物となるでしょうが……。」

 僕達は此建物を去って画室が沢山附属している絵画陳列館に入りました。此処でも人々は二種に別れて、幽素から意力で絵具を製出して居ます。即ちある画家は太陽からそれを取るといった工合でしたが、同時にもっと機械的な方法で絵具を取寄せる人達も見受けました。然し如何なる場合でも、彼等は地上で作製された絵具の幽体を使用して居りません。彼等の話によると普通の幽体で描いた画は光沢や力が欠けて居るというのです。其例証として、一人の婦人が第六層から持って来た一つの絵を彼女自身が第七層で描いた画の傍に置いて、種々と微妙な相違点を説明してくれました。手短かに云うと、第六層の絵には生命がない。然るに第七層のものは生きて居るかの如く刻々変化して見えるのです。不可思議な光線が絵の中に閃めいて、細かい光波が絶えず画面を走っているかの如く思われました。

 それから案内者に連れられて華麗な織物の工場に行きました。仕事は大部分機械力で、大気中から材料を取り、それを糸に変えるという方法をとって居り、この糸は絹より火に似た光輝を持っていました。これが美しい織物になるのですが、乳状の美光を放つものが多く、織って居る最中でも光線の工合で種々の色彩に変化する有様でした。

 其他いろいろのものを見たり聞いたりしました。音楽会へも行けば詩の独唱も聞き、又立派な肖像を見もしました。それから此世界で味わった多くの体験の中でただ一つ、誠に気の毒な感じを持たせたものがありますから、それを御話しましょう。

 ある若夫婦に出合った時、どうもこの二人が四辺の幸福さに似ず何処となく憂欝なので、其理由を尋ねた処が、其若妻の云うには、――

「生前私達は馬鹿馬鹿しい考えに擒えられて、子児を生むのは物質的な下劣な事だと考えていました。其故結婚して同棲生活をして居るのに、私達は強いて禁慾生活を送ったのです。今となって見ると、私達がどんなに愚かであったか、神から授かった本能を無視し、生みの苦を知ろうとしなかった事をつくづくと考えさせられます。私はもう我子を胸に抱く事の出来ない哀れなものとなりました。私達は二人とも不完全な人間といわねばなりません。お恥かしい次第です。若し私がその過失を取消す事が出来、我子というものに母の愛を注げる境遇になれたならば、どんなに幸福になれ様かと思いますが、もうそれも叶いません……。私達は気の附き様が遅かったのです。永久にこの淋しい胸を抱いて暮さなければならないでしょう……。」

 此度は男の方が話しました。――

「馬鹿な奴等とあなたは御思いになるでしょう! 実際ですから仕方がありません。けれど二つの魂が完全に愛し合うという側から見れば、我々二人の愛は純なものでした。肉体的の愛に走って精神的の愛を疎んずるのは確かに愚かな事に相違ないのですが、精神にのみ傾いて肉を軽んずるのも亦誤りであるという事を我々は今始めて悟ったのです。人間が物質界に居る間は矢張り其世界の法則に従う事が必要です。霊的生活を少しも傷つけずに出来るのですから……。然し中庸をとる事は困難なものか、ある人はあまり早く霊的のみに流れ、ある人は肉に溺れ過ぎるという有様です。我々は物質界の法則に支配されている時それに従わなかったため、今日苦しんでいますが、我々が今又此世界の法則を認めない事も亦同じ様な苦しみを生じます。ただ一つの希望は時期が来て我々が再び物質界へ生れ更って、生活のやり直しをする事なのですが、果してこれが叶うものでしょうか?」

 僕の返答は斯うでした――

「判然とは云えませんが、私の考えでは、あなた方は今すぐではないかもしれぬが、将来望み通りになれると思います。あなた方はこのまま霊のみの上層世界に進まれるのには未だ少し資格が足りない様に見えますから……。尤もこれは受合われもしませんが……。」

 此人々が去った時、案内人は少女達の昔馴染の人達の所へ案内したので、ジョイスとベリルは其侭留まる事となり、僕一人は淋しく別れを告げて案内者と前進しました。

丁度此時ワアド氏は地上に戻るよう牽引を感じたので、急いで、幽界を離れました。


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


51 高級妖精

2010/06/10

 レックスの話は先きへ先きへと進んで行きました。――

 それから、僕はその魔術師に連れられて、可成りの長距離を歩みましたが、道々高級妖精について、彼は語るのでした。――

「あなた方がこれから見たいと思われる妖精は、滅多に人間は見られぬもの、俺にもうまく此案内役が果し終せるかさえ疑わしいのじゃ。然し折角遠路を遥々と来られた事故、何とか方法がつきそうなものじゃ。

「処で一寸訊ねたいのじゃが、あなたは一体この妖精国が幽界のどの辺に在るか知って居られるかの?」

「第六層です。」と僕が答えると、

「其の通り! 然し此高級妖精は霊界と幽界との境目に当る第七層に住んで居り、場合によっては霊界にさえ行く事の出来る精なのじゃ。此妖精に限って霊界へ入り得たのは、彼等が地上に於て人類を援けた功績によるので、其徳の報いによって彼等自身の救いを完成したのじゃ。」

 此爺さんの博識振りに感服した僕は、

「僕はこの国であなたほど幽界の事情に委しい人には未だ逢いませんでしたが、どうしてあなた丈特に異って居られるのでしょうか?」

「それは我がもと人間であったからじゃ。あなたの如く俺も此妖精国を探りに来たものだが、元来不可思議な、現代人の忘れ果てた科学に興味を持って居たものじゃから、此国の有様が気に入ったので、そのまま留まる事にして了ったのじゃ。」

 僕はそれから種々妖精の性質について観察した結果を此人に話しましたら、彼は僕の意見に賛成してくれました。

 とかくする中、我々は河に行き当ったのです。此河には橋があり、橋の入口には龍が一疋頑張っていました。

 此奇怪な動物は、鷲の様な頭に、蛇の胴、獅子の足という異形で、背に所謂龍の翼というものを生やしていましたが、僕等を見ると、其翼をサッと拡げて通路を塞ぎ、次の様な質問を出しました。

「何の権利で此門に入ろうというのか?」

 魔術師が答えました。

「少女達は無邪気であり、武士は知識の追求者であるからじゃ。そして我自身は神秘の智慧を持つ者じゃ。」

「少女達の権利は認めるが、武士のは認めぬ。又智慧があるならその証拠が所望じゃ。」

 魔術師は身を屈めて、地上に何やら不可解の記号や円を描き、二重の三角だの、五芒星形だのを画き終えると、其真中に立って呪文様のものを唱え、ある名前を呼びました。すると其龍がウヤウヤしく平伏して、首を下げて敬意を表しながら、

「それでは御三方はどうぞ御入門下さい。然し今一人の方は門外に御残り下さい。」というのでした。

 残されては大変と、僕は高級妖精を見たいのは、兄さんへの報告のためである事、すぐ戻るから一寸丈でも内部へ入れてもらいたい事を種々懇願した結果、龍のいう事には、

「そういう事情であるならば、先きへ入られた三人から王にじきじき嘆願して特に許しを受けて貰うより他はない。」

 其処で僕を残して、三人は門内へ消えました。外から見ると町は黄金色に輝き、聳え立つ円塔は宝石でキラキラと眩い程でした。たった一人ぼっちになって、気味の悪い怪物と鼻をつつき合わして待つのは、あんまりいい気持ちではありませんでした。

 さんざん待った頃、ベリルが橋を渡って戻って来ました。其時彼女と一緒に出て来た人の気高く美しかった事! 姿は僕の守護神ほど大きくはなかったが、人間というより神様に属するものといいたいほど神々しい人でした。

 身に著けた鎧は黄金造りかと思われる程光輝燦然としたもの、肩から下った外套様のものは陽炎の如く薄く半透明なもの、それが日光に映じて絶えず変色し、あらゆる虹の色を出しているではありませんか! 其面を見上げると、ただ立派な顔立というのみではなく、一道の光輝を放っているのです。頭の上に戴いた兜の上には龍の形がついていました。此立派な武士は僕に向って叫びました。

「王命を御伝え致す。貴下には御入門あれ! 城内を御一覧の後、御退去になれば苦しからぬとの事であります。」

 忽ち龍が傍に退いて道をあけました。

 僕はベリルに随ってその美しい都へ踏み込みました。広い道路の両側には梨、桃、蜜柑、其他の花樹が満開の有様で、この美しい道に沿うて歩む中、眼も覚めるばかりに壮麗な宮殿へ着きました。

 一寸見は黄金で建てた如く思われる輝かしいその宮殿を、近寄ってよく観ると、僕等には不可解の物質から出来ていたのです。形容して見ると、銀色の朝霧を固めて金色の日光で照し出したとでも云えましょうか。色は絶えず変化して、金色かと思えは、銀乳白色となり、次にはあらゆる紅色を出すといった工合。透明でもないが不透明でもない。つまり其中間のもので、色も質も瞬間も同じ状態に止らぬ不可思議な物質でありました。然しその建物の形状丈は不変に見えました。円屋根と尖塔の連続、数知れぬ程多くの庭園、櫓或は露台、斯うしたものの総てが地上には見出す事の出来ぬ、理想的妖精国宮殿を思わしめるに充分でありました。

 宮城内に入り、立派な広間を数々通りましたが、奥へ行くほど壮麗さを増し、遂に僕等は先へ来た連中と一緒に妖精王と女王の玉座の前に立ちました。

 王の顔はあまり輝かしいので、正面に見る事が出来ぬ程でありました。けれども彼が口を開いた時、その優しい音楽的な声で、僕は恐怖心を忘れ、実に平和な気持ちになれました。

「知識を求めて来られた人! 何なりと余の知れる限りは御答え申そう。遠慮なく尋ねてよろしい。」

 親切に斯ういわれたので、僕は早速質問に及びました。

「王よ、あなたはどういう御方でいられますか? そして私が此国で見る妖精人等は、どうして幽界の此七層に住む事になったのでありますか?」

 王は答えて云いました。――

「昔しは余も単なる妖精人であった。城に住居を構え、武勲を現わし、人間界に其功名を讃えられる日を待つ騎士の一人に過ぎなかったのである。然るに或日の事余は不可思議なる精神状態に陥り、茫然自失の間に地上の生活及人類の苦しみと愚さとを夢見たのであるが、其時如何に彼等の悲しみが愚かしく、又如何に容易に彼等を救い得るかを悟ったのであった。

「醒めて後、此等の事を考慮した時、余は妖精の生活が如何に目的のない空虚のものであるかを悟った。真の悲痛や罪悪を知らぬ彼等はただ空な芝居気分に魅せられて生きて行く。妖精国には真の悪は影を潜めて姿を現わさぬ。然しながら人間界に於てそれは一の実在なのである。故に人の世では必勝を期し難い騎士も、妖精国に於ては常に栄冠を保証されて居るのである。

「斯くして余は美しき妖精国を後にし、暗き森林地を過ぎて、土の精等の住む洞穴に達した。彼等は其地に留まる様に要求したが、余は耳を貸さず前進して幽界に出でた。それより後は人が避け様と欲する罪と苦しみを故意に求めて下へ下へと下降したものである。然し地上の生活を経験せざる余は幽界に於て如何に努力するも無効である事を知った。

「茲に於て余は更に地上の世界へ赴いた。そして人の子達の悲みがこの心に喰い入り、其嘆きに堪えぬに至るまで彼等の間に人知れず止まったのである。

「然しながら人間とは根本的に性格を異にする自分にとって、彼等を救うという仕事は遂に不可能に終ったのであった。

「憂欝なるある日の事であった。余は人々がエルサレムと呼ぶ町近くのある丘の上に立ち、其処に於て十字架の処刑を受けんとする三人の人を見た。二人は余の存在を知らぬものの如くであったが、中央にある十字架上の人は余の姿を認め、そして言った。――

 オオ空中の精よ! 人の愛を知らぬ人よ。此処へ来て下さい。

 その人の傍へよって、自分は言った。――

 私は人々を援けるために苦難と悲痛を学びたいのです。苦悩の王者とも見えるあなたなら私に苦痛というものを知らして下さる事が出来ましょう?

 之を聞いたその人は微笑んで答えた。――

 それは非常に難かしい要求ではあるが、叶えてあげましょう。先ず私の手及足から此釘を抜き出して、私を自由の身にして下さい!

「自分は立上り、その釘を抜かんと試みた。然し釘は物質、余は非物質、すべての努力は空しく、甲斐なき労苦の間に、余は今迄に知らぬ一種の感情が湧き出ずるを覚えたが、それは即ち余の求むる悲しみというものであったのである。

「沈黙の間に苦しむその人を援け得ぬ無能の状態に於て、余は初めてこの新しき気持ちを味わい得たのであった。そしてこの悲痛の苦しみは刻々と遂に堪え難きほど身に迫るのを覚えたのである。

「此の時その人は再び口を開いた。――

 如何なる手段も無益です。あなたには私を援ける事は出来ない、然し其努力の間にあなたの願望は成就した。これからあなたも私の如く人を愛するものになれるでありましょう!

「不思議にも其時を境として、以前から余の心中にあった処の人類のために尽したいという漠然たる希望が々と烈火の如き勢を以て急激に燃え上ったのであった。余は直ちに其場を去って目的の遂行へと急いだ。

「斯くて余は夜間さえも、労苦のために喘ぐ人々の重き心を慰め、邪道に踏み迷うた者共を正しきに導き、我意を振う奴輩を服し、愚者を誡める等、あらゆる善事を行った後、再び妖精人の間へと立戻り、妖精人等に自己の経験を語った結果、余に準じて、地上へ赴き人類のために貢献しようとする者が多く出でたが、此等の人々の中、ある者は今日も尚地上に留って努力を続けて居る者もあり、妖精界へ立戻って余等と共に現在此所に住む者もあり、更に霊界へ進歩したる者もあり、行く道は各々異るのである。余の思う処では、妖精人等は必ずしも地球上の人間生活をする必要はないかもしれぬ。然しながら、よしそれ程迄に物質的の世界でなくとも、或は他の遊星に於てでも宜しい、とにかくある現実の世界に住むという事は確かにせねばならぬ事の如く考えられる。余は苦しみというものを学んだが、不幸にして未だ死というものを知らぬ。恐らくこの経験なくして人は完全なるものとなり得ぬ事であろう。」

 一気に此処まで語って来た妖精王は、此時一寸言葉を切って再び続けました。――

「余は今恐らく普通人類よりは賢明であると信ずる。そして此世界のあらゆる知識は悉く余の知る処である。故に若しあなたの身の為めにとあらば、昔し地上で為した如く、喜んでこれ以上多くの事を伝えたく思うのであるが、今の処これにてやめねばならぬ。既に多くの疑問が生じた事と考えられるが、ただ此れ丈の事は必ず記憶して貰いたい。それは苦痛なくしては霊魂を完成し得ぬ事、及び愛なき処には平和を見出し得ざる事である。」

 次いで女王が同じ様な物語りを話しましたが、王の経験とただ一つ特に異なった処は、彼女は苦痛というものを愛人に叛かれたある女性の懊悩によって学んだという事でありました。

 帰路は異った道をとっても宜しいというので、第七層を見物して、幽界へ戻れる方向を撰む事にしました。王の云う処によると、少女達は進歩の許す限りいつ迄も第七層に居っても差支えはないが、僕丈は急いで通過せねばならぬという命令でありました。魔術師は此処で仲間を離れて妖精国へと後戻りをしたのであります。

此処でレックスが話を切ったので、ワアド氏は別れを告げました。


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


50 妖精人

2010/06/09

 ワアド氏は例の如くそれから一週間の後、即ち一九一八年一月二十一日夜、幽界を訪問しました。

 兄の顔を見るや、待ち設けていたレックスは妖精国の話を続けるのでありました。

 山毛欅を離れて、森の中を進んで行くと、種々の形をした妖精を見ましたが、赤楊はとうとう眼に入りませんでした。路傍で割き砕かれた秦皮の木がありました。「きッとこれは樫に殺されたものに違いない」――そうジョイスが言いました。成程、その傍を見ると挫がれたデッドリー・ナイト・シェードがありました。

 遂に森を離れて、長閑な平野に出る事が出来ました。小さい家が其処彼処に点々と存在し、向うの方には川が流れ、それを隔ててピカピカと光る円屋根のある賑やかそうな町が見えるのでした。

 あまり遠くない処に中世期風の城を中心とした一部落がありましたから、僕達は先ず其処を目掛けて進んで行くと、不意に背後で疳高い声がするので、振り向いた処が、一軒の家から可笑しな恰好の婆さんが出て来ました。古めかしい着物で、とんと昔噺にある皺クチャ婆さんの様でしたよ。

 僕が出来る丈叮嚀に、「御早う厶います。」と挨拶すると、この婆さんはなかなかハキハキしたもの、早速質問されました。

「あなた方は何処から来られたのじゃ? そしてまた何処へ行かれるのじゃ?」

「私達は人間で――イヤもう死んでいるのですから人間であったといった方がよいかもしれませんが――妖精国を見学して居る処なのです。」

「それは判りますがの……。さてどうして此処まで来られたか? 聞きたいものじゃ。」なかなか小やかましそうな婆さんでした。

 そこでジョイスが代って説明すると、

「此処へ来たからには、来てよいからじゃったに違いはないが……。」と婆さんは漸く得心した様子でした。

「貴女は何んという御方で……?」と僕が訊くと、

「名などは未だないがの……。何れ小供達に発見れば名が出来るじゃろう。だが近頃は妖精が居る事を考える人は稀れじゃから、昔し人の眼について名前が出来たもの丈はとにかく、さもないものは皆な名無しじゃ。あなた方も家へ帰られたら、妖精の居る事を他の人々によっく話して下さらんかの?」

 僕が承知すると、此婆さんは家へ入りかけながら呟きました。――

「妾があなたなら、先ず御城に行くがな!」

 それから城までは何事もなく、僕達はその周囲を廻る広い壕の前へ出ました。見ると城門に向い合った樹木に銀の角笛が掛っていました。

「あの笛を吹いたらどう? どんな事が起るか一つやって見ようじゃないの。」

 ベリルの云う通りに、僕がブーブーと其角笛を吹き嗚らすと、跳橋がスーツと下りて来て、僕等の目前へ架りました。次に城門の櫓が迫り上って、銀の鎧に身を堅め、白馬に跨った立派な騎士が現われました。

「ようこそ、御入来なされました。」彼は頗る叮重です。

「地上からの旅人は久しい事見えませなんだ……。さぁさぁ御入り下さい……。」

「貴下は何誰で……?」僕が訊くと、

「拙者は人間界ではサー・ギアレスと呼ばれ、愚妻はレディ・リオネスという名で知られて居ります。ガウェーン卿とリネット夫人とは彼処の城に居られます。其他の騎士仲間も大勢此辺に住居を構えて居ります。」

 僕には物語りに出て来る騎士と言うのが腑に落ちないので、

「貴殿方の名は昔しの人物に後からつけた名か、さもなければ、単に詩人が考え出した架空のものかと思っていましたが……。」

「それは大間違い、御覧の通り、拙者は妖精であります。そして世の中に伝わる騎士の武勲は皆此妖精国であった事であります。中には此の国での話が地上に住んだ人のものとなって残されたものがない事もありません。アーサー王の物語り等は其一例であります。アーサー王は実際人間でありましたが、歴史上のその業績には、この妖精国のアーサー王の為した事どもが多く織り込まれて居り、従って此国のアーサー王は人間界のアーサー王の名を貰いました。拙者の為した所行は、皆此妖精国であった事で、事実ではありますが、人間界でやった事は一つもありませぬ。然しながら、往時は人間界も妖精界もあまり差別がなかったため、斯ういう事が生じたのでありましょう。処で御訊ね致したい事は、貴殿は拙者に忰があったという事をお聞きになられましたか?」

 僕が首を横に振ると、彼はニコニコしながら、

「妖精国では地上の如く、子児等は生れないので、アーサー王に世嗣がないのもそのためと御思い下さい。あまり斯様な話を致しても如何故、これ丈に致し、先ず城内へ御入り下さい。愚妻も喜んで御迎え申上げるでありましょう。拙者の手柄話も、実の処人間界には半ばも知られて居らぬ有様、騎士の冒険等を喜ばぬ此頃では最早すべてが埋れてしまうのでありましょう。実際妖精国には今日姓名を持たぬ騎士が大勢居るのでありますが、これ等は皆終生無名のままで終る事かと思われるのであります。」

「一体どの様な工合に姓名が出来るのですか?」――其辺のいきさつが僕にはどうも合点が行かないので、質問したのです。

「さればで厶る……。」と彼は言葉を切ってから、「詩人が我々騎士の物語りを書くというのは、彼の霊魂が妖精国に入って、其国での出来事を眼に見、耳に聴くからであります。故に其詩に現われた騎士の姓名は、そのまま此国で其所行を為した妖精騎士の呼名となり、従って此処では一人が多くの名前を所持して居る場合も出来るというもの。妖精人は斯うして名附けられるのを待って居るのですが、中には待ちかねて地上に下り、再び此国に帰らぬものも屡々あるのであります。」

 それから僕達は城内に入り、中央の広間へ来ると、美しいレディ・リオネスが迎えてくれました。エドワアド四世時代の衣裳をつけて居ましたから、一通りの挨拶がすんでから、僕は何故其時代の服を著けているかを尋ねましたら、彼女は斯う答えました。――

「私は種々の作者に書かれましたが、此時代のある詩人が私を一番よく伝えてくれました。――けれども未だ種々と衣裳は換えますので、只今丁度此れを着ていた丈なのでございます。」

 僕は騎士から種々の話しを聴きましたが、そのまま一々御話すると、昔しの世界、即ち墓の彼方のローマンスで一冊の本位は出来てしまいます。

 暫らくしてから、其所を出立しようと、高級妖精へ行手を尋ねました。するとギアレス卿は昔しの魔法使いの様な風采を待った一人の男を呼び、僕達の案内を命じてくれました。別れの挨拶をして居る間に、使者が一人来て、

「騎士殿、直様御出で下さいませぬか? あの龍めが眼を覚しましたによって、御討伐願わねばなりませぬ!」

 一寸「龍退治」の見物にも心を引かれましたが、多分物語りでさんざん読んだものと大差はあるまいし、どの道、大して兄さんの御用にも立つまいと考えたので、思い切って此処を去る事にしました。


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


49 山毛欅の物語

2010/06/08

 一九一八年一月十四日の夜、いつもの如くワアド氏はレックスの家に行き三人に逢いました。挨拶が済むと、レックスは此前話しかけてあった森の中の出来事に移りました。――

 僕達三人が山毛欅の樹の下に休息している間、彼女から秦皮や赤楊の悪行について種々の話を聴きましたが、此二つの木の間には怪しからぬ関係があり、彼等が大嫌いな人間共に危害を加えようと企らんで居るのですが、滅多にそんな深林の中を通る人はないものですから、欝憤ばらしに罪もない花の精を窘めたり、弱い接骨木(にわとこ)を苦しめたりするそうです。

 種々と妖精の話も聴きましたが、僕と山毛欅の会話の一部を、そのまま繰り返して見ましょう。――

「私達木の精の中には妖精力を持ったままある期間丈地上に下るものもあります。」山毛欅は語るのでした。「秦皮や赤楊の中には斯うした方法で地上に現われ、道行く旅人に悪業をするものもありますが、何といっても此処が私達にとっては本当の天地なのですから、永久に此処を去る日が来るまでは皆な此国に住んでいるのです。」

「一体妖精には何種類位ありますか?」

 僕がこう訊きますと、――

「それはそれは沢山です! 私にも解らないほどです。此辺で見かけるのは……花に住む精、地中に住んで金や宝石を掘る侏儒、樹木の精、それから大地、空中、火、水等の精……。まだ其他に妖精人とか高級妖精とかいうものもありますよ。」

「今御話しの妖精人とか高級妖精とかいうものは、どんな妖精ですか?」

 此質問は彼女を困らしたのか、梢が悩ましげに揺れた後、声が聞えました。――

「高級妖精は、高級妖精というより他はありません。あなたが解る様に説明する事は難しい。とにかく他の妖精の上に立つ高位の妖精ですから、私違も滅多に見た事はありません。

「ほんとうに美しい、輝かしい姿で、色は始終変って見えるのですよ。あなたも其中行き会うでしょうから、見れば解るでしょうが……。それから妖精人というのは、人によく似ていて、町があり、家があり、王や女王があって支配をして居るのです。此森の向う側へ出れば、其国へ出ますから、自然と妖精人に逢う事になるでしょう。」

「それでは、火の精だの、大地、空中、水の精だのというのは何処に居るのですか?」

 僕の質問が馬鹿馬鹿しく聞えたのか、枝葉がカラカラと笑う様に鳴りました。――

「何所にでも居るではありませんか! 地上でも此妖精国でも、流れという流れには皆な水の精が住んでいますよ。侏儒(ノーム)は土の精ですわ。尤も他にももっと偉い土の精はありますが……。火の精というのは火の神様の御使ですから、神様の命令で動いています。」

「火の神様」の言葉で僕はスッカリ面喰いました。

「火の神なんていうものがあるのですか?」

「ありますとも! 未だ他にも沢山の神様があります。あなたは知らなかったのですか?」

 僕は一寸返答が出来ませんでした。が、やっと答えました。

「私は神は一人しかないと思っていました。」

 山毛欅は此時枝を静かに動かしながら、改まった口調になって、

「その通り、全能の神はただ一人です。けれども神は多くの神々や、霊魂や、人類又は動物、即ち万物を通じて宇宙を動かして御いでになるではありませんか。森羅万象、既に在りしもの、又これより現わるるもの、あらゆるものの中に神の威と力は示されています。過去、現在、未来を通じてすべてのものが神の中にあるともいえるのです。」

 此時森の中は音も無くシーンと静まりかえっていました。暫らく経ってから、僕は質問をする勇気が出たので、

「あなたはあの憎むべき秦皮や赤楊の中にも神の姿を見ると云われるのですね?」

「左様ですとも! アッシュの中にでも……。彼にもきっと使命があるに違いありません!」

「一体アッシュにどんな使命があるでしょうか?」

「私はつまらぬ山毛欅の精ですもの、どうして神様の大きな御心が解るものですか! けれどもたしかにすべてが善のためである事に疑はありません!」

 僕は質問の方面を変えて、

「それでは一体あの樫の精に殺された、秦皮の精はどうなったのでしょうか?」

「それなら私にも御話する事が出来ます。あの精は地上に行きました。ですから今頃はあの精が入った秦皮の若木が何所かに生えて居る筈です。その木が枯れて其先きがどうなるかは、私には解りませんが、精は決して死ぬ筈はありません。空中の霊、即ち大気の精といったものは此所は勿論の事、地上にでも、何所にでも居ます。宇宙の運行に大役があるのでしょう。人間丈に霊魂があると思う事は大間違いで、地上でも、此国でも又は次の世界でも、あらゆるものに霊は存在しているのです。」

「それでは」と僕が訊きました。「あなたは私達が霊界と呼ぶ世界を御存知ですね?」

「聞いた事はあるのですが、よくは知らないのです。」

 斯う答えた彼女は、そのまま口を噤んでしまったので、僕も少女達を促して此所を去ろうとしましたが、最後に山毛欅に向って、別れを告げ様とした時、

「あなたの御声は伺いましたが、一つ姿を見せて下さいませんか?」

 斯う話しかけると、

「此所に居りますよ。」という声が聞えて、其木の根下に一人の美しい女性が立っていました。

 人間よりは少し丈が高いかと思われる程の、よく均斉のとれた其姿、地に引ずる程長い房々とした其髪は鳶色でしたが、身には山毛欅の葉と同じ緑の中に青銅色の細い縞の入った衣類を着ていました。顔は一寸説明しにくいのですが、何にしても非常に美しく思われました。

「左様なら……。赤楊の木に気を御附けなさい! 彼女も一寸見ては美しいのですから……。」と云いながら、彼女は又フッと掻き消す如くに姿を隠しました。

 少女達に向って、「もう少し先へ行って見ましょうか?」と其意向を尋ねると、ペリルが直ぐ賛成しました。

「エエ行って見ましょう! 此所はほんとに面白いわね?」

 其所で僕達三人は再び前進する事に定めました。

 一段落がついたので、レックスは兄に帰宅の時間が来た事を告げ、ワアド氏は地上の自家へ戻ったのでありました。


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


48 樫と秦皮との戦

2010/06/07

 次の訪間日は一九一八年一月七日夜でありました。ワアド氏が座につくや否や、レックスは前週の続きを語り出しました。――

 森に近づくと、僕はベリルに注意されました。――

「秦皮と赤楊の木に気を附けなければ駄目よ。何故だか人間が大嫌いなんですもの……。ほんとに怖ろしい厭な木だわ……。」

「いくら嫌いでも、僕達をどうする事も出来ないから、大丈夫ですよ。」

「だって解らないワ……。何だか恐い事よ。」

 話しはこれ丈でした。さて、だんだんと森の奥へ進むに従って、花や其の精は少なくなって行き、四辺も自然と小暗くなって来る頃に、フト気が附くと、樹から樹へと音もなくスーッスーッと掠めて通る不可解の黒影があり、注視すると何も見えないのですか、知らん顔をしていると、チラチラと眼に入って来るので、僕は気になって仕様がない。とうとう少女達に訊きました。――

「一体この影の様なものは何でしょう?」

 ジョイスが答えて、

「大抵は木の精よ。大木のも雑木のもあるわ。他の精もいるかもしれないけど……。事によると岩や流れの精じゃないかしら?」

「木の精と岩や水の精とはどんなに違うのですか?」

 斯う僕が訊くと、彼女は答えて、――

「一寸は見分けがつかない事よ。皆なとてもはにかみやで、なかなか出て来ないんですもの……。樫と山毛欅丈は人間が好きだから、時々私達と御話をするけれど……。」

 此時不意に耳許で人声がしました。見上げると傍の樫の大木から聞えて居るのです。

「その通り! 僕は人間が大好きだよ。マァ君少し休んで、話して行き給え。」

 それから繁った樫の枝の下に三人共坐りました。樫は僕に向って、

「君は誰です? この少女さん達には御馴染で、度々話した事もあるが、君には初めてだ。」

 其処で僕は簡単に自己紹介をすると、

「それじゃ君は武士だね。僕も強い武士になって、一働きをしたいんだが……。此処を通る悪漢共をやっつけて、弱い者共を援けたい。中でもアッシュなんかは根絶しにしたいと思っているのだ。」

「どうしてアッシュがそんなに憎いんですか?」

「そりゃ君悪い奴だからさ。君は嫌いではないのか? 憎むのが当然だよ君、向うは人間が大嫌いなんだからね……。赤楊もそうだよ。それからおべっか者のデツトリー・ナイト・シェード(一名ベラドンナー毒茄子の一種)も同類だ。彼奴は薔薇が大嫌いで、絡み附いては、絞め殺しにかかる怖ろしい奴だ。アッシュも左様だ。他の草や木を嫌がるから、大ていの草木は又彼奴を避けて居るよ。何にしろ、枝から毒汁を垂らして窘めにかかるからな……。実際悪い奴だ、だから僕は大嫌いなんだ。」

「木から出て来て、もっと親しく僕と話しませんか?」

 僕が斯ういうと、彼はカラカラ威勢よく笑って、「いいとも、今出るよ。」――その返答が終らぬ中に、僕の眼の前にスックと立ったのは、丈の高い、逞しい大男でした。其風采は僕が若いヘルクレスを想い起したといえば、想像がつきましょう。然しこの若い豪傑は獅子の毛皮を纏わずに、樫の葉を綴ったものを半身に捲き附けているのみでした。その上衣は肩から斜めに掛って居るため、片方の肩及び胸は露出し、両脚も太腿以下は裸体のまま彼の立派な肉体美を発揮していました。其他身に著けて居たものは右手に持った、見るから重そうな樫の棍棒と、頭に裁いた一個の冠――矢張り樫の葉を編んで造ったもので宝石の代りに樫の実を飾ってある――とでした。

 手にした棍棒を、軽々と頭上で振り廻しながら彼はさも愉快げな叫び声をあげましたが、彼の腕や腿の筋肉が隆々と盛り上った工合は太い縄を連想させましたね。僕を眼の下に見て立っている彼の高さはどの位あるかと傍へよって見ましたが、少なくも九尺余はある様でした。勿論幅もそれに準じて広いのです。実際見ても気持ちのよい若々しい、立派な巨人! そして生の喜びに満ち溢れているといった工合でした。

 処が、急にその顔から喜色が消え、彼は血相変えてクルッと向き直るや否や、広場に飛び出したではありませんか! 見ると向うからヌッとした背高ノッポがノソリノソリとやって来たのです。樫の精ほど高くはないが、それでも確かに七尺五六寸はありましょうか。其上イヤにヒョロリと瘠せて居るので、なお更高く見えるのでした。

 樫が小気味よく赭黒いのに反して、此男の顔色は見るから気持の悪い、濁った灰色! 手は特に長いのか、膝の下までダラリと垂れ下った工合といい、何とも不愉快な奴でした。よく見ると血の気のない、死人の様な顔に似ず、其面には眼尻がヤケに釣り上った、杏の様に円らな双眼がギラギラと光って居るかと思えば、口などは全然形をして居らず、ダラリと延びた唇は人間よりは蛭に似ている。此怪物は殆んど裸体で、ただ腰の周囲に木の葉をつづった布を纒っていましたが、それは秦皮の葉でした。それを見た時、僕は少女達が「アッシュよアッシュよ。』と怖ろしさに囁くまでもなく、その男が何んであるかが判りました。

 彼は手に尖端の鋭い、秦皮の木槍を携えていましたが、其骸骨の様に骨ばった手の端には、熊鷹の様な物凄い爪が長くのびているのです。

 不意に疳高い奇声が耳に入りました。

「旦那! 彼処に居ますぜ。」

 斯ういった奴は、丁度豺が虎に従う様に、秦皮の精の背後から随いて来た醜い小さな動物、――一目で僕は本能的にそれが毒茄子の精だと感じました。

 丈が三尺とはない、手足の馬鹿に長い、蜘蛛の様な恰好をしたその怪物は、大体何ともいい様のない、胸の悪くなる様な毒々しい緑色をしていましたが、胴には紫と黄色の斑点がありました。

 彼は歩くというより寧ろ手足を引摺って匍って来たのです。眼は小さくて無様な頭の頂点に、樺色に光って居ました。手にした武器は毒茄子の茎や蔓で編んだ輪索で、所々に真紅な玉が光っていました。

 暫らく樫と秦皮の精は睨み合っていましたが、先ずアッシュが鋭いキーキー声を振り立てました。――

「ヤイ、その人間を三人共此方へ渡せ! 何しに此処らをまごついているのだ。」

「貴様に渡せと……。巫山戯た事をいうな!」真赤に怒った樫はどやしつけました。「愚図愚図していると、木つ葉微塵だぞ……。随いて居る奴も覚悟しろ!」

 樫はイキナリ秦皮に飛び掛りました。

 僕達のために起った争闘をただ見物しては居られない。僕は上にかぶさって居た樫の木から枝を一本折りました――というよりその枝が折れて僕の手に入ったともいうのでしょう。腐っても居ず丈夫な生木なのでした。大急ぎで小技を払うと、丁度三尺三寸位の手頃な棍棒が出来ました。

 これ丈の仕事が、僅か一分位なものでした。樫はと見ると、彼の下した一擲は、敵が素早く飛び退いたため、空を掠めて地面を打った。其処に乗じた秦皮は、槍先鋭く樫の右の胸元を突きましたが、樫葉の上衣が恰も鋼鉄の胸甲の如く、穂先はツルリと辷ってしまったのです。

 此間に立ち直った樫は、新たな一撃を下しましたが、此度は運よく敵の左腕に命中したので、彼はギャツと悲鳴をあげました。秦皮の片腕が打たれたので、一安心した瞬間、眼の前が赤く緑にパッと光ったと思うと、毒茄子の投げた輪索は樫の腕から胸へ絡み附いているのでした。樫が大きいために、肩は出ていましたが、それでも腕や胸をグングン締めつけますから、もう樫は棒を振る事が出来ないのでした。

 片時も猶予が出来ないので、怖れて叫ぶ少女達を残して、僕は其場に飛び出しました。

 此時毒茄子は輪索を使って了ったので素手でしたから、僕が立向うと、秦皮は其危急を救うために、僕を目がけて槍を振り上げました。僕も透さず、其槍を払いのけましたが、其時、二人の間隔は一尺とは離れてはいませんでした。

 次の瞬間、グルツと振り向いた僕は毒茄子ヘピシャリと一撃を加えましたが、丁度頭を抱えた彼の左腕へ当ったので、痛手に堪えず逃げ出しにかかった彼は、覚えず輪索を緩めました。

 エーッという樫の大声で僕は彼が緩んだ緑の輪索を振い落したのだと思いましたが、振り向く暇もありませんでした。秦皮が再び向って来たのです。そして此度はトウトウ左の太腿をやられてしまいました。痛いと思った瞬間、どうしたのか僕は敵のさも憎々しげな眼差しに打たれ、後に倒れたまま動く事が出来ませんでした。が、ピシッという大きな打音にハッと気が附くと、つづいて起ったパリパリと木の裂ける音と共に、眼前の灰色の怪物はグシャグシャに壊れてしまいました。

 樫の打撃がうまく行ったなと思うか思わぬ中に、毒茄子の奴め、いつか背後から僕の首玉に絡まって、息の根を絶とうと根限りの力を出して締めようとする。勿論僕は普通の幽界民で、妖精国の法則は通用しないから、死にッこはないのですが……。然しその結果を見るまでもなく、小さな獣物は間もなく僕の襟元から離れました。どうした訳かと見ると、成程! 樫が其足を一本掴んでぶら下げていました。鰻の様にヌラリクラリと※eきながら、何処までも執念ぶかい彼は片足で好漢樫の冠を※eぎ取りました。僕はどうかして立上ろうと急った。けれども未だ腿に刺さっている槍のためか、躯が自由になりませんでした。

 樫はとうとう毒蜘蛛を地面へ叩き附けましたが、其時未だ彼の毛髪に絡みついていた敵の一本の手は、根元からスポリと抜け落ちて、ダラリと彼の頭上から下っているのでした。

 この小怪物は足を一本失くなしても、地面ヘピシャリとやられても、平気なもので、ゴムででも出来ているかの様に、再びピョンと跳ね上ったかと思うと、森の奥を指して思いの外元気よく遁げ出そうとしました。然し何にしても残った片手も挫れていますし、樫の冠を奪った脚は未だ其れを握ったまま縺れ合っているという状態ですから、跛を引き引き匍うのが関の山でした。勿論樫は見逃しはしません。彼の太い棍棒がドシンと空中高くから振り落されたと思うと、名状し難い、ギューツと物の潰れる音がしました。そして二度三度棒が上下したと見る間に、毒茄子の精の醜い姿は消えて、地上にはただ青いドロドロしたものの塊があるのみとなりました。

 此時若い勇者の頭から下っていた怪物の手が漸く地に落ちたので、彼はそれを踏みにじってから、僕の傍へ来ました。先ず僕の腿から槍を抜いた後、彼れを援けた僕の勇敢さを頻りに賞讃してくれたのですが、何にしても創口がズキズキ痛むので、僕には返答も録に出来ぬ有様でした。どうも毒が入ったらしいので、樫が山毛欅の処へ行って癒して貰おうと云い出しました。

 スッカリ怯えた少女達も共に出掛け様とした時、僕はもう一度秦皮の遺骸を見ると、不気味な姿はもう何処にか消えて、後には其の葉がハラハラと散っていたのみでした。キツとそれが腰布の残骸だッたのでしょう。

「可成り手強い奴等でしたな。」樫はさも愉快げに云いました。

「これで森からアッシュめが一本減りましたよ。僕は一本残さず片附けてしまいたいのだか、何にしろ数が多いんで……。」

 話す中に立派な山毛欅の処に出ました。勿論僕は跛ヒキヒキ来たのです。

 樫の精は優しく話し掛けました。

「山毛欅さん、今日は! 此若い豪傑の傷を包みたいのですが、貴女の葉を少し分けて下さいませんか? このお方の援けで、私は今泰皮と毒茄子を退治して来ました。けれどこの方はアッシュの毒槍に突かれて苦しんでいられます。ビーチさん、どうか其傷が治る様にあなたの葉をあげて下さい!」

 すると山毛欅の梢がサヤサヤと戦いで、返言が聞えました。

「マア御気の毒な御方! サァサァどうぞ御遠慮なく葉を御取り下さい……。早く御治りになる様に……。」

 許しを得たので少女達がその葉を摘んで、膏薬の様にし、僕の瘡の上に当ててくれました。すると不思議にも痛みはケロリととれてしまったのでした。此間樫は山毛欅に向って一伍一什の物語りをしましたが、僕の負傷が奇麗に包まれてしまうと、彼女は斯ういいました。――

[少し此樹の下で御息みになる様にお勧めして下さい。私から又種々御話しましょう、其中には傷もよくなりましょうから……。」

 其処で三人はそのまま休息する事になり、樫丈は自分の棲家に帰るのでしたが、意気揚々歌の声も高々と帰って行く彼は勇ましいものでありました。

 レックスは此処で話を切りました。

『兄さん今日はもう帰る時間ですから、これでやめて置きますよ。』

 其処でワアド氏は暇を告げて現界の人となりました。


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


47 妖精国探検

2010/06/06

 レックスは語を改めて妖精国の物語りを始めました。――

 僕が妖精に興味を待ったのは、僕自身の好奇心から計りでもないので、一つにはブランシ(ワアド氏の愛娘)が頻りに気にするからでもありました。一体妖精は在るか? 否か? という事すら問題なのでした。僕は徹底的に此仕事にかかりましたよ。

 とにかく逢う人毎に質問を出して「妖精は在るだろうか?」と訊いて見ましたが、大抵の人は馬鹿馬鹿しそうに笑って相手にさえなってくれません。一人か二人の僅かな人が「在る」というので、喜んで穿鑿穿鑿]すると、何の事! それは僕が以前兄さんに話した事のある、あの自然霊なのでした。

 此時ワード氏は云いました。――

『ああ、そうそうその事なら自分もよく知って居る! W・A・の詳しい話で「死後の世界」の中に自然霊の説明をした覚えがある。』

 レックスは頷きながら話を続けました。――

 其中ある人が僕に斯ういうのです。「君は馬鹿だな。小供の真似がしたければ、小供と遊んだらいいじゃないか……。」

 笑われた僕は、此言葉から、当人の思いもつかぬ素晴らしい暗示を得たので、早速公園に出掛けました。そして遊んでいる大勢の小供達を片端から捕えては、妖精を見たか、と質問して見ました。

 小供達の返答は矢張り大人と大差なく、中には見た事は無いが、見たいものだと云う小供も少しはありましたが、僕を笑う小供も少なくはありませんでした。然し僕は失望せずに、毎日根気よく日参しては小供の間を探ったものです。

 ある日妙に仲間外れになって、たった二人して遊んで居る少女を見掛けましたが、此子供連から僕は初めて手掛りを得る事が出来ましたよ。僕は例の如く、

「妖精はあるか無いか? 君達は知っているの?」

と訊くと、二人は一寸含羞んだ顔をして僕を見ながら、

「エエ知ってるワ。けれどこんな処には居やしないワ!」

「ジャどんな処にいるの?」

「妖精の国へ行かなけりゃだめよ。」

「その国は何処にあるの?」

「知ってるけれど……。教えてフェアリーに怒られると困るワ。――大変秘密なんですもの……。」

 少女達は中々話してくれないので、僕はそれから毎日の様に彼等の傍へ行っては話し掛け、此方から妖精の話を種々持ち出すと、小供達はつい釣り込まれて「フェアリーはほんとにそんなことをするのよ!」とか、「アラ、フェアリーはそんな事しないワ!」等と、だんだんと馴染みがつくに従って打ち解けて来た結果、とうとう彼等の二人が僕を妖精国に案内してくれるという事になり、そこで三人連れで出立しました。

 暫らく歩いて行くと、僕達はいつか町を離れて、野原に出ましたが、其中道が森の中に入ると、雑木に蔽はれた大岩の前に出ました。少女達が此木を掻き分けると、すぐ眼の前に洞穴の入口が現われたではありませんか! 此岩をよく見ると彼処此処に羊歯や蘚苔の繁茂した美しいものでしたよ。

 その少女達の名は、ベリルとジョイスというのです。此時べリルが「サァ入りましょう。」というので皆して入りました。初めは中が狭くて、僕は屈んでやっと歩きましたが、直きに高さも巾も増して、僕でも真直に立って歩ける様になりました。

 不思議なのは、内部がさして暗くない事で、灯火もないのに道がハッキリ見えるのです。

 間もなく其孔道の端へ来たのか、岩壁に突き当りました。すると、ジョイスが其岩の表面を探っていましたが、瘤の様に突き出た処を引くと、岩壁の一部分がパーンと開いて、眼の前に一つの入口が現われました。僕等が足をその内部に踏み込むと、今度はベリルが又他の岩の突角を引張りましたが、槓杵ででも動くのか其大きな岩の戸が忽ち元通りにピシャリと閉じてしまいました。

 四辺を見廻すと此処は大きな石灰石の大広間で、ピカピカ光った石筍状の白柱がニョキニョキ並んで居り、燐光色の薄明りがボンヤリと室内を照していました。

「綺麗でしょう?」とベリルが叫ぶと、ジョイスが負けずに。「私はピンク、ホール(薄桃色の広間)の方がいいと思うワ。」と云うので、僕は、「ホントに美しいネ。」と褒めましたら、ジョイスが美しい場所はまだ沢山ある事、そして侏儒の王様の宮殿は、どんなにか素晴しいものであろう等と話すのでした。

 喋りながら歩く中に、天井がアーチ形の廊下になり、それからピンク・ホールに入りました。成程此処では同じ石筍状の柱でも柔かい薔薇色を帯びています。僕も此室の方が、前のより美しいと思いました。

 その次はブルウ・ホール(青い広間)で、此処は柱でも、天井でも、壁でも皆トルコ玉に似た青味を帯び、それを越すと、此度は白石英の大広間に出ました。

「黄金を御覧なさい!」とべリルに云われて、気が附くと石英の間に縞状に走った黄金や其他の鉱物が其処此処に光って見えます。今まで通った三つの広間は天然のままらしいのでしたが、この石英の広間は柱の形から見ても、明かに人工を加えたもので、磨き上げてはないにしてもキッチリ真四角に切ってありました。

 其部屋の左手に半円天井の扉がありましたが、ベルリが其処を指しながら云いました。――

「彼処から土の精や、侏儒の住む処に行かれるの。だけど私未だ行った事はないの……。」

「何故?」と僕が訊くと、

「だって何だか恐いんですもの……。」二人して異口同音に答えました。「帰してくれないかも知れないわ!」

「侏儒達は一体何をしているの?」

「地面の中から黄金や宝石を堀出して、綺麗なものを造らえているのよ。妖精から聞いたけれど、それはそれは立派な宮殿があるんですって……。」

 二人共見附けられはしないかと、ビクビクして居る様子なので、大急ぎで此処を後にしました。

 それから通った多くの部屋は天井も床も壁も、皆な同じ材料で出来上って居ましたが、室内の色彩はそれぞれ趣を異にしていました。薄紅の柱があるかと思えば緑のものもあり、又空色もあるといった工合です。其中に行手にピカリと一つの星が輝き出して、それに近づくに従って四辺の燐光がだんだん消え、昼間の白光に近づくのでした。暫らくすると、何処からともなく、チョロチョロと水の流れる音が聞え初め、間もなく道の片側、左手の壁の下端に小さい流水があるのに気附きました。其中羊歯の様なものが見え出すと、次の瞬間、僕達は洞穴の外に飛び出していました。

 見ると其河は小さい流となって、眼の下の谷の中へと、岩角を縫って落ち込んで居り、谷底で大きな大理石の天然の瀧壷へ注いでいました。僕達の立っていた処から谷の中へと、ウネウネした小径が降っていましたが、谷へ下りる前に僕は先ずその又となく美しい景色を一眺めしましたよ。

 どちらを向いても、眼の届く限り、丘の上も谷の中も蒼々と繁茂した樹木、咲き誇る百花の天地でした。瀧を縁取る優雅な羊歯にも、水際で微風にそよぐ葦にも何ともいわれぬ風情が漂うているのでした。

 さてその自然に出来た段々の下り坂を降りて行きますと、両側に咲く野の花も千差万別、時節には一切お構いなしの状態で、満開の野薔薇が水面に垂れ、下には菫や桜草が微笑んで居るといった有様、向うを見ると、大きな樫の木の下に翁草や風鈴草が咲いて居り、桔梗や撫子は青々した牧草の間から並んで咲き、罌粟、雛菊、金鳳花等は到る処に入り乱れて美を競うといった状態でした。

 花の名は此の位にして置きましょう。つまりあらゆる花が一斉に咲いていると思って下さい。あんまり忍冬や麝香草の好い匂いがするので、僕はつい手を延ばして忍冬を一花摘み取ろうとしました。

「アッ……それを摘ってはいけません! フェアリーの住居じゃありませんか!」

 ジョイスに叱られて、吃驚りして手を引っ込めたが、もう遅い! 僕は妖精に睨められてしまいました。何か僕の顔に打つかったものがあると思うと、鼻をイヤというほど抓り上げられてしまった。我知らず手を上げて払いましたが、手の届かぬ中にもう何処かに飛んで遁げてしまったのです。

 ホッとしたと思うと、次の瞬間には、踝の処を手ひどく突く者がある。見ると小さな生物が薔薇の蕾の中に逃げ込む処でした。襲撃が敏活なので驚いて居る中、此度は髪をグングンと引く奴があるので、頭を庇おうとする間もなく、其奴は僕の帽子をとって池の中へ投り込んでしまいました。

「フェアリーが怒っているのよ。」ベルリが云いました。「花をとろうとしたから……。」

「どうしたら好いでしょう?」……と云いも終らぬ中、又もや蝿の様なものが鼻の中へ飛び込んだのでクシャンと嚏が一発出た。すると鼻の穴から地面の上へ転がり出た其生物は、平気なもの、ピョンと勢よく跳び上って、酸模の葉陰へ逃げ込みました。

「歌でも唄って見ましょうよ。」 ジョイスの思い附きで、二人は声を揃えてフェアリーの歌を唄い出しました。

 歌声が聞え出すと、妖精達は悪戯を止めて、花の口から顔を出す様になりました。桔梗の中からは空色の着物を著ている小人が出て来ました。薔薇の葉の間にいる桃色や白色の妖精達の中には、小枝に捉ってブランコをして居るのもありました。脚下の桜草の花が俄かに動き出すのもありました。青草にまでも生物が住んでいる様でした。

 妖精達に取り上げられた僕の帽子はと見ると、睡蓮から飛び出した白と黄色の制服を著た元気な小さい水兵さん達が、其中に飛び込んで行きました。そしてめいめい汀にある水草の尖った葉を引抜くのでしたが、草の妖精がプンプン怒るのを、一切お構いなしの調子で、幾人かが水の中へ突き落されていましたつけ。

 睡蓮の精は水に落ちても一向平気なもの、再び帽子の中へ這ひ上り、満員になった時、とった草の葉の橈でその帽子の船を池の中へ漕ぎ出しました。が、きっと少し重過ぎたのでしょう。直きに飽きたらしく、帽子が岸の岩に打つかった時、皆な飛び下りてしまいましたよ。

 僕はヤッと帽子を取戻しました。然しとられた御蔭で一寸面白い場面を見た訳です。帽子を見ると、成程、妖精達が漕ぎ難かったのも道理です。中に入っていたのでは仕事ができないので、皆な縁へ上って小さいオールを振り廻す。そして大ていは動く拍子に水の中に落ち込むのでした。帽子の底に立ったのでは、緑が高くて何処も見えない程小さい連中ですからね。

 妖精には随分種々なものがありますよ。どれも何処か人間に似ていますが、とにかく小さい! 翼はあるものも、ないものもあります。花の精は自分が住んでいる花の色通りの着物を著ています。そして何処かに其葉色に似た緑色をつけています。

 翼を生した妖精があると云いましたが、其翼には可なりかけ離れた恰好のものがあり、蝶の様な羽根のある妖精は、其翼も着物も同色でした。蜻蛉の様に半透明な細い翼を生したのも沢山見かけましたが、其羽根が宝石かと思われる様にピカピカしたのや、乳白色のもの、銀白のもの、赤、青、緑と千紫万紅とりどりの状態でした。そうかと思うと蝿の一種かと思われる様な形体をしたものもあり、又蝙蝠の様な翼のある大型の妖精も見受けましたが、其翼の色彩も地上のものの様に濁った黒褐色ではなく、赤だとか、緑だとか、或は青だとかいった工合に種々と華美なものでした。

 妖精の躯は一様に小さいのですが、それでも恰好は様々です。花の精は何処か人間らしいとはいうものの、細っそりとした、優美なものがあるかと思えば、ズングリ短かく肥って、無様な、御伽噺に出てくる熊の子の様な、見ても可笑しい顔をしたのもありました。

 着ている衣類には一寸首を捻らされましたよ。普通の衣類の様でもあるのに、棲んで居る花の性質をそれぞれ現わして居るのですからね……。然し獣の毛皮と異って、躯の一部ではなく、上に著て居る事丈は確です。一例を挙げると、変な形の、小さい帽子を被っているのが沢山ある事です。とにかく、見て美しいと思う妖精は、矢張り薔薇という様な美しい花の精で、仔熊の様な可笑しいのは大てい名も解らない雑草のものだという事は判りました。

 さて、少女達の歌がやむ頃には、妖精共は僕を憎んだ事なんかはとっくに忘れて了ったらしく、悪戯もしない代りには、もうソツチのけの体たらく、皆なでベリルとジョイスの周囲に大きな輪をつくって、小さいながら高い声を張り上げて、美しい歌を唄いながらダンスをやり始めました。其時僕は何んだか虫の音を連想しましたよ。すると不意に何処から出て来たのか例の仔熊が三疋ばかりピョンピョンと其中に飛び込んだので、大騒ぎになり、折角出揃った綺麗な妖精連中は、我勝ちに逃げ出しました。池に飛び込むもの、葉の蔭に引っ込むもの、団栗の御猪口の中に馳け込んで、麦の葉の橈を操って、水上へ漕ぎ出るものなど、すべてが支離滅裂になってしまいました。

 それから僕達は此処を出掛けましたが、僕は先ずジョイスに窘められました。「もうあんな事をしては駄目よ!」これは僕が忍冬を摘もうとしたからです。勿論僕はもう再び其失敗を繰返さぬ事を約束しました。

 森の方へ向って進みましたが、其中路傍から啼声が聞えるので、脚下を見ると、菫の精が涙を流しているのです。ペリルが側へよって訊きました。――

「どうしたの?」

「姉さんが死んでしまったの……。此処を見て頂戴!」

 見ると傍に枯れた菫が一本ありました。今度は僕が代って、

「姉さんは何処に死んでいるの?……此処には枯れた花丈しかないが……。」

「姉さんが居なくなったから、花が枯れたんだわ。」

「又連れて来られないのかい?」僕は慰める積りでいったのです。

「解らない人ね! 花が枯れてしまったのに、どうして姉さんが帰れるの? 連れて帰る事なんか、出来やしないわ。……もし出来たって、もう御家がないのですもの……。」

 彼女は又オイオイ泣き出しました。

 通り掛りの妖精の中、一人二人は、彼女の方を一寸眺める位の事はしましたが、誰も足を停めて慰め様とする者はありませんでした。妖精達は自分の娯楽を追うのに忙いのです。僕達も此上どうにも仕方がないので、ソッと此場を離れました。

「ほんとに可哀想ね!」ベリルは菫の精に同情していました。

「妖精の魂は何処へ行くのかしら?」

「僕にも解らない……。」実際僕はこれより外に答えられなかったのです。

 此処まで話したレックスは、一寸憩んだ後、

『兄さん、今日は此の位にして置きましょう。それから先きは森の中へ入って、又異った種類の妖精に逢う事になるのです……。兄さんにも今の菫の精の話で、妖精にも悲みというものがある事が御解りでしょう。』

 ワアド。『然し、概して、幸福な生活をして居るものらしいね?』

 レックス。『エエ、笑ったり、巫山戯たりして、――不真面目な小人達ですよ。そして、彼等が落着いた気分になり、悲しみという事等を味う様になるのは、地上へ出る準備とでもいうのじゃないでしょうか。

『恐らくあの死んだという菫……その精は、もう地上に咲く菫の花になっているのでしょう。若しそうとすれば、あの妹の方も同じ根に咲かしてやりたかった。然し若しそうなっても、彼等自身にそれが判るか否かは疑問ですね。此問題を少女達に訊きましたが、僕の疑問の意味がとれないのか、満足な返答をしてくれませんでした。』

 此日レックスは此以上を語ろうとしなかったので、ワアド氏はここで別れを告げ、その二本の菫がどうなった事かと考えながら地上の住家へ帰りました。


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


46 妖精とは何か?

2010/06/05

 一九一七年十二月三十一日夜から一九一八年一月一日へかけて、ワアド氏が幽界訪問をした時、先ず『新年御めでとう!』と挨拶しますと、皆なは一寸可笑しそうに笑いましたが、やがて叔父さんが云いました。――

『新年という考えが馬鹿馬鹿しいので、可笑しくもなったが、よく考えて見れば、この月並の文句にもなかなか意味がある。その真意は「今年はあなたの運命が従来よりも幸福になる様に!」というのじゃ。……一寸うまい文句ではないか。』

 レックスは早速例の如く話に取掛りました。――

 兄さん、新年の今日から一つ新しい問題に移りましょうか。僕は此の前御約束した妖精国の話を始めたいと思います。――

 妖精国の探険をする前まで、僕は妖精というものは、兄さんも御存知の自然霊の一種で、小供達の観念から創造された、形体を持った幽質に過ぎぬものだと考えていましたが、研究して見ると、案に相違! そうした自然霊とは全く異った独立の生物である事が解りました。然し妖精というものの存在を考える人は殆んど無いといってもよい有様の今日故、僕は先ず調査の結果から得た、彼等に関する概念について御話したいと思います。

 僕の考えでは、妖精というものは創造の過程にある霊魂ではないかと思うのですが……。即ち未だ肉体に宿って、地上生活をした事のない霊的実在とでもいいますか。此幽界から離れる時彼等は人類、獣類、植物等の物質中に入り、地上生活をするのではないかと考えます。ですから彼等の間には種々の種類がありますが、大体は以上挙げた三種の生物に似通った三つの型に分ける事が出来るので、これから試みる僕の体験談の中にも実例が多く出て来ますから、今は詳しい説明をしません。

 彼等の性格はわれわれ人間とは非常に違ってはいますが、其処に又ある類似の点が無くもないのです。一般に人間に比し不真面目であり、無責任は当然といった状態で、悪心は無いが、概して悪戯心に富んでいます。然し中には人間に対して敵慨心を持ち、害を加え様と企む面白くない代物もありますが、又一方には人間に向って友情を持ち、同情深い心で我々を援けようとするものもあるという工合。何処か人類に似た教養を持つものがあると思うと、全く訳の分らぬ下等な奴もあり、実に千差万別ですネ。

 とにかく真面目な態度を持続する事の出来ない生物故、通則として集中力を欠いています。ですから時々集団を形成する事があっても、直ちに本来の目的を忘れて、解散するとか、新しい出来心に擒われて他の方面に走るとかいった状態です。

 妖精には我々人間と同じく幽界から霊界へ行く者もありますが、其時彼等の幽体は消滅します。現界に赴く者は幽体のまま其処に出て、物質の包被内に入って後、其妖精の幽体は地上の新生活に相応しい変化をする様です。

 妖精国から一度地上へ生れ出でた妖精は、現界生活を終った時に妖精国へ戻らず、即ち我々と同じ此幽界の六層へ戻って来るのです。ですから彼等の地上生活は花と生れても、人と変じても、我々人間の生活とは離す事の出来ないもの、即ち人類の歴史の中に彼等妖精の生涯が織り込まれてあるものともいえましょう。

 それでは霊界へ志す妖精連はどうなるか? これは今の処僕には未解決です。いずれ将来解る事と思います。

 一寸考えて置きたい事は、妖精が現世へ出て、物質生活を始めると、勢いある程度までその進歩が退歩した体になります。が、これは恐らく外見丈の事で、実際は退歩しては居らぬのかとも思われます。異なった生涯を送る間に彼等は種々の新しい知識を得、性格上の欠点が補われ、それにより時節が来れば、一時は隠蔽された其才能が一段と高い進歩を遂げ得るのではないでしょうか。然しとにかく花の妖精が地上の花の牢獄に入れられて自我を失い、運動の自由を束縛され、口も利けなくなる等というのはどうも退歩としか考えられませんね……。これからの話を聴かれると、今まで僕のいった事がよく解ると思います。さァそれでは、妖精国の探検譚に移りましょう!


底本:「幽界行脚(A Subaltern in Spirit Land)」 嵩山房

発行: 1931(昭和6)年1月15日発行

J.S.M.ワード(John Sebastian Marlowe Ward)著

浅野和三郎・粕川章子 共

※ 訳者の一人、粕川章子氏の翻訳家著作商用権は2018年まで有効ですが、当サイトは粕川章子氏の御遺族の同意を得て公開しております。なお、本文の転載、商用利用などは御遺族の了承が必要です。

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


2017年4月
« 11月    
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。