‘2010/10/12’ カテゴリーのアーカイブ

1 火事騒ぎと幽魂の再出現

2010/10/12

 泉熊太郎の幽魂が首尾よく市治郎の躯から離れたのは八月二十四日の夜中の事で、家族のものはもとより、関係者一同もヤレヤレと重荷を降したような気がしました。就中歓んだのは悪霊退散の修法を引受け、見事にそれに成功した宮崎加賀守大門でした。『近頃になく骨は折れたが、しかしこの気持はまた格別じゃ……』彼は心ひそかに北叟笑みました。

 翌くる八月二十五日宮崎氏は唐泊浦下浦の大漁祭の施行を依まれ、そこへ出張中でしたが、二十六日同氏の許に吉富医師からの書状が届きました。それには市治郎の病状がやや軽快の兆あることを報じ、尚お筆末には、自分も今回の事実を記録にとどめる所存であるが、足下も是非そうして置いて貰いたいとの依頼が書いてありました。

 二十八日宮崎氏は大漁祭を終りて帰村し、二十九日に傳四郎氏を訪問して見ると、市治郎は夜具に凭れて床の上に起きて居ました。『ドーじゃ、七月四日以後の事を覚えて居るか』と訊ねますと、市治郎はまだ弱々と微かなる声で『七月四日祖父の墓に詣でし時、総身に悪寒を感じ、頭痛発し胸悪く、甚だ苦しかりし事までは記憶し居れど、帰宅後の事は一切知らず、唯夢に、甚だ大なる台閣ありて、その広庭の殊に奇麗なる中に公卿と覚しき人々の彼方此方に逍遙し居る状を見たり。此夢覚むると同時に心地我れに返りたり』と答えたのでした。

 市治郎は九月十日に至り、いよいよ快方に向いましたが、尚お骨々痛み、四肢の運動不自由なので、当人は大変口惜しがり、『いかなる武士の幽魂なれば、かくの如く吾を悩ますぞ。人も多きに、我れに何の過失ありてのことか』と毎日憤怨の辞を漏らすのでした。『全快の上は墓を堀り返えし恥をかかして呉れる』とまで言うことさえありました。そうする中に再度の憑依霊現象が起りました。其次第は斯うなのです。

 元来岡崎傳四郎は酒造を以て副業として居りましたが、醸造用の大竈を改築せむとて、天保十年夏の初め、土を集め水を注ぎて用意をして居る矢先きに、市治郎の大病騒ぎで暫時工事が中止されて居ました。が、この頃病人も追々平癒に向いましたので、いよいよ古竈を取り崩して其土を浜辺に棄て、予ねて用意の土で新竈を築き、それに大釜を掛けて古酒の火入に宛てました。元来竈の改築に当りては浄めの祓いを行いてから後之を使用する慣習なのですから、かねて山本神職の許に使者を遣わしてそれを依んだのでしたが、たまたま山本氏が馬場宮の遷宮に出勤して不在であった為めに、急ぎの場合、祓いを為さずに竈に火を燃やしたのは九月十一日の事でした。で、去年新造の大桶を竈の側に据え、先ず清酒一石五斗を煮てかの大桶に入れますと、忽ち桶の箍が弾け切れ、酒は悉く流れて竈の内に入ると見る間に、酒は一時に火焔となり、屋内一面に猛火となりました。されば一村の騒動一と方ならず、大鼓を打ち、鐘を嗚らし、東西南北から夥しき人数が火事場へ駆け寄せました。

 この時隣家の桝屋善吉という人が、役宅(即ち傳四郎の庄屋事務所)の方を案じて、走り行きて見ますと、血相を変えて神棚の下に坐し、火焔を睨み、歯を喰いしばりて居るのは例の市治郎なのです。変だナとは思いましたが、火急の場合ですから打ち棄て置きて、馳せ戻って消防に従事しました。

 そうする中に、不思議にも火事は格別大したことにならずに済み、七ッ時頃には全く鎮火して了いましたが、岡崎家では浄めのお祓をせずに竃を使った為めに崇りを受けたのであろうというので、例の宮崎大門氏を船で迎えに行き、竃浄めの行事と神慮を和め奉る御祈祷とを依みました。

 宮崎氏が到着した時には、山本參河氏が馬場宮の勤めを終りて同家に到り、既に竈浄めの式を了った所でした。主人の傳四郎は宮崎氏に向い『竈の方は御蔭様にて最早気づかいなけれど、ただ市治郎こと、今日の大変によりて頓かに頭痛烈しく、鎮火後直ちに打臥したれば、折角のお出ましを幸いに加持をお頼み申し度し』と言うのでした。

 乃で宮崎氏は乞いに任せて加持を修しましたが、病人はただ昏々と眠り居るのみで別段変ったこともありませんでした。其翌日又も宮崎氏、山本氏、吉富医師等が来会しました。吉富氏は市治郎を診察して『脈状甚だ悪しきが、幽魂再び憑くべき理なければ、此度は何症なりや不審なり』とて嘆声を発しました。医者が匙を投げた上はとて、宮崎、山本の両人が揃うて病人の側に寄りて祈祷に取りかかり、父の傳四郎も其席へ入って来ました。

 すると市治郎の態度が急に変り、言葉づかいも厳然として『傳四郎、養貞(吉富氏)杜氏の三人、此所に来よ』と言い放ちました。

 岡崎家に於ける再度の憑霊現象が始まったのであります。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答(付録 長南年惠物語)」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


3 伝家の宝刀

2010/10/12

 先月幽魂が初め現われた時は何人も気味悪さが先立ち、一時も早く市治郎の体から幽魂を逐い出すことばかり考えましたが、人情は妙なもので、今回はそれと訣れるのが、むしろ名残惜しく感ずるのでした。が、さてあるべきにあらざれば、人々は霊代の箱を造るべき大工を呼びにやったり、又石碑を建つべき浄地の相談をしたりしました。すると吉富氏が、不図思いつきて、『今幽魂この肉体を立退くに於ては、再び幽事を尋ぬることは叶わざれば、暫くこのまま留め置きて、先月問い洩らした個所を尋ねようではないか』ということになり、乃で再び問答が始まりました。

山本。曩に宮崎の刀を見て、三振の中云々と言われし由なるが、そはいかなる故ありての事か。

幽魂。別に深き仔細ありての事にあらず。ただただ尊く思う余りに拝見せしまでなり。

吉富。イヤ其許が『さてさて三振の中がいかにして』と低声にて歎息されたる声我耳によく聞えたり。それには必らず意味あるべし。

山本。其許の所持されたる三振の中の一つという事ではなきか。

宮崎。いかに泉氏、其許は予が持てる刀に心を籠め、三振の中云々と言われしのみならず、いかにもその刀を慕わるる様に見ゆるは必ず仔細あるべし。さまで一念の籠れる品ならば吾れ何とて惜むべき。如何なる不吉の三振ならむも知れざるものを、永く我家に留むるも心許なし。望みとあらば、其許の石碑の下に埋めて進ずべし。

 かく述べても幽魂は尚お無言を続けました。暫くして『水をくれよ』といいますので、作次郎というものが水を汲みて出しますと、それを飲み干し、胸を撫り、ようようの事で口を切りました。

幽魂。右の刀は御家に大切に収め置きて下されよ。

宮崎。収め置けと言わるるからは、生前其許の所持せられしものか。

山本。其刀にまだ御心が残っているのでは厶らぬか。

幽魂。イヤイヤ今は刀に心残りは更に無し。さるにしても不思議に廻り廻りて来りしものかな。ああ如何なる由縁のありて斯くは……。

 と独語つつ俯きて考え込みました。

山本。いよいよ右の刀は其許の所有たりし事と考えらる。シテ其刀を三振の中と言われたるは如何なる因由 あることで厶るか。

幽魂。予の所持せし刀ということが判らばそれで宜しかろうに……。

宮崎。何事によらず、知れねばいよいよ知り度く思うものなり。兎角に言い兼ねらるるは必定不吉なる刀で厶ろうがな……。

幽魂。一を語れば二を言わねばならず。さてさて口は禍の門とはよくも言いたり。右の刀決して不吉のものにあらず。本国にて上様より余が父に賜わりし三振の中の一振なり。そを賜わりし因由 は今軽々しく申すべきにあらず。

山本。然ばかり貴重なる刀を何故に此辺鄙の地まで携え来られしぞ。

吉富。君父に係わる事ならばそを包み給うは御尤もに存ずれど、その外の事は語り聞かせ候え。刀を
此地に携え来りし因由 是非とも承り度きものなり。

宮崎。加賀に残し置きたる刀がめぐりめぐりて拙者の家に来りしか、それとも其許が佩きて此地に来りしか、委しく物語りてきかせ玉え。

 三人からかわるがわる問い詰められて、とうとう幽魂は語り出でました。

幽魂。今は包み難ければ物語らむ。余十七歳の時、国内に騒動起りしが、其時父は無実の罪に沈み、上様の御咎めを受けて国退きせり。その砌り、父が母に申し置かれしは、唯一人の伜なれば、必らず泉の家を再興させよ。して上様より下賜の中、此一振りは家宝として大切に彼に伝えよ、とのことであった。然るに余は父の御供申し度く、その旨を母に願うこと度々に及べどその都度母はたッて引き留め、父一人を偲ぶ為めに代々の祖先の家を亡ぼすことありては以ての外なり。若し国を出でなば、この母まで諸共に勘当ぞとの父の遺言なれば、必らず出国無用なりと、それはそれは母から引き留められまして厶る。

 かく述べて幽魂は数行の涙に咽びましたので、満座の人々も皆涙を催し、感歎の声を漏らしたそうであります。

宮崎。それで、其許は、十七歳の時に国元を立出で、何地にて父君とは面会なされしぞ。

幽魂。されば、余は母が引きとむるを聞き入れず、伝家の一刀を携えて国元を出で、諸国を廻り廻りて六年振りに藝州バタという所にて父に行き逢いたり。其時父は余を見て大に怒り、汝が母の命に背きて家出せしは、取りも直さず吾が命に悖りしなり。汝はただ一人の男児なれば、汝を措きて家を嗣ぐべきものなし。早く帰りて母を扶け、家名を再興せよ。我は濡衣の乾くまでは死すとも国には帰り難き身なり。コレよく承れよ。親として其子を思わぬものがあろうや。又子として親を慕わぬ者があろうや。されど今汝が吾の踪を慕うは、孝に似て実の孝ではない……。かく道理を責めて父に戒められ、それを押し切りて跡に随い行かれマセナムダ

 かくのべて長太息を漏らしました。

吉富。それでも其許は強いて随行されたるか。

幽魂。イヤイヤ父は其夜私かに出船し、終に行方知れずなりたり。附近の者に問い合せ候えば、九州小倉に行く船に便乗されしとの事にて、余も亦船にて小倉に着したるに、その時父はまだ小倉には着かざりし。それより余は九十三日小倉に滞留したるに、漸くにして父が着きたれば言葉を尽して随行を願いたれど、父は一言の返辞さえ為し玉わず、程なく肥前の唐津に向いて急がるるにより、余も後より慕い行きたり。

宮崎。小倉より当地までは何という所を通行ありしや。

幽魂。小倉より当地までの間には数ヶ所通行したれど、心にとめぬ所は忘れたり。ただ今も尚お覚え居るはコヤという地の川辺を通行せし事にて、此所には家居も多く、近傍の田圃中にも此所彼所に三軒五軒の民家ありたり。又一入目にとまりしは博多の津なりし。此津には旅船多く軒数も沢山にて、優れてよき所なりし。

 などと懐旧談をするのでした。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


2010年10月
« 9月   11月 »
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。