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6 幽界の秘事

2010/10/05

 幽界の事情につきての質問に会いますと、幽魂は屹として答えました。

幽魂。先ず爰に申し置くべき儀あり。そは顕界の事情を濫りに幽界に漏らし難きと同じく、又幽界の秘事を顕界には漏らし難し。幽界の事情は生前に思い居るとはいたく異なるものぞ。この事は各々にても一且死なば忽ちに暁るべし。我は今幽中の者なれど斯く人体に憑り居る間は幽の事いと微かなり之と同じく人体を離れて帰幽せば人界の事頗る微かにして心を籠めし事ならでは明かには知り難しすべて人生に漏らし難き幽界の秘密又人間の知りて却って害ある事は決して答ふることなければその心得もて問を発せられよ

 かく演べて威儀厳然として質問を持てる有様はとても病める市治郎とは思われず、あだかも傑れたる武士の座敷に居る心地して、看病人が湯など汲みて行くときも思わず平伏して捧げ、父も平素市治郎に対して使用せし言葉は口に出なかったそうであります。

宮崎。切腹の後は、其許は常に墓所にのみ居たるか。

幽魂。多くは墓所にのみ居りたり。切腹の砌は一応本国に帰りたれど、縁とすべき地なく、帰心切なりしが故に忽ち墓所に帰りたり。

吉富。本国に帰らるるには、いかにして行かれしぞ。

幽魂。飛行の法には種々あり。百里千里も瞬間に行くを得べし。されど其法はいかに説くとて生者のよく理解し得る限りにあらず。但し汝も死せば忽ち其理法を覚るべし。

宮崎。本国に帰りし外他所にも行きたることありや。

幽魂。七年以前に他所に行きて九ヶ月ほど滞在したれど、ただただ帰りたきまま還り来ぬ。

宮崎。その九ヶ月の間は、ただ一ヶ所に居りたるか。

幽魂。九州に幽魂の集る所あり

宮崎。九州外にもありや。

幽魂。何れの地にもあり。高山の頂点など幽静の浄地には集まること多けれど、其何地なりやは白地には告げ難し。

宮崎。其許の行きしは何地なりしか。

幽魂。白地には告げ難けれど、大凡は豊前国なる彦山ともいうべき地なり。

宮崎。いかなる縁因 にて其地には赴かれしぞ。

幽魂。一人の武士の魂と一つになりて行きたり。

宮崎。一ツに成るとは形を一つになすことか。果して然らばその二人一体となるは如何なる幽理に由るものか。

幽魂。五十にても百にても魂の一つに成る事は自在にて、集合して一体となりしものが、却って元の形よりも小くも成り得るなり。又一人の魂にても怒る時は百の魂より太く成り得る場合もあり。かかる幽理は人智にては解し難ければ言わず。

宮崎。一人の武士と一つに成りて行きたりと言われしが、その武士は如何なる人ぞ。

幽魂。予生前九州に来りし時、豊前国小倉に九十余日滞在せし事ありしが、その時件の武士と兄弟の如く交わりたり。この人予と別れたる後、猟に行きて山中に死し、その魂久しく死所の附近に留まりしが、ある時予は其魂とめぐり合い、誘わるるまま山中に同行せり。されど其所はわが心に染まぬのみならず、我身切腹して死したる故にや、人並みの場所には居苦しく、僅かに九ヶ月程にて辞し去りぬ。

宮崎。然らば其許は数百年間此地に住める筈なり。これより当時の事を問わむ。

幽魂。イヤ幽界に入りたる者は顕世の事には関係せぬものなり。顕世の事は見聞するも穢わしきのみならず、幽魂は顕事に与からぬが掟なり。ただ生きてありし時に心を遺し思いを籠めたる事は霊魂となりて後も能く知り得之を知るが故に苦痛は絶えざる也。凡そすべての幽魂は顕世の成行きは知らぬが常なり。されば予も顕世の委曲は之を知らず。ただ人体に憑きて其耳目を借り得る間は顕事のすべてを知り得らるるものぞ。さて斯く人の肉体を借るに当りて、其人を悩ますは如何なる義かというに、そは之を悩まさざれば人の魂太く盛んなるを以て我魂の宿るべき所なければなり。気の毒なれど予は市治郎を悩まして其魂を傍に押遣り、その空所に己れの魂を充たしぬ。されば市治郎の肉体は今見らるる如く大病人の肉体なれど、内実は我魂の宿なり。されば前にも述べたる通り幽界に入りては人事を知らぬが道なれど、ただ人体に憑きたる間の事は能く知り居れば、何事にても問われよ。又生前に心を籠めし事も知り居るなり。

宮崎。さらば顕世より弔祭などすとも幽界の魂には通ぜぬ道理ならずや。

幽魂。なかなか然らず。よく思われよ。神を祀り、魂を祭る事は、縦令顕世の業なりとも、そは皆幽界に関せずや。かるが故に祭祀は神にも通じ又幽魂にも通ず。金銭の取り遣り、又婚姻等一切の人事は穢はしければ幽魂は之が見聞を避くるなり。幽魂となりては衣食共に其要なきが故に欲しき物もなく、唯だ苦を厭い楽みを思うのみなり。さて祭事を行うに当り、人々俗事を忘れつつ親しく楽める心は幽界に通じ、祭られし霊魂に感応して之を歓ばしむ。歓べば自然に魂も大きくなり、徳も高くなり、祭り呉れたる人も幸福を享くるものにて、人より誠を尽せば其誠よく霊に通ずるものなり。

宮崎。人の幽魂は皆各自の墓所に鎮り居るものにや?

幽魂。常に墓地に鎮り居るは我等の如く無念を抱きて相果てし輩か又最初より其墓に永く鎮まらんと思い定めたる類にして其数至って少し。多数の幽魂の到り集る所は、幽事なれば言うことを得ず。

宮崎。墓地に居らざる総ての幽魂は何地に於て祭祀を受くるや。彼等は祭場にも来るか。

幽魂。顕世にて五百年の間も引続きて行い来れる祭事は幽界にても大体その如く定まれるもの也。されば不図祭りの月日を改め、霊魂に告げずして執行すれば、之が為めに却って凶事を招くことあり。そは霊魂が従来規定の祭日を思い出でて享けに来るに、その事なきが故なり。又顕世にて同時に数ヶ所にて祭祀を行うことあらむには、霊魂は数個に分れて、各々其所に到りて祭を享くべし。縦令百ヶ所にて祭るとも、霊魂は百個に分れて百ヶ所に到るべし。尤も我等の如き者の魂は一つに凝りてさる自由は得難し。

宮崎。墓地に居らざる幽魂は何地に居るものか、大凡にても承り度し。

幽魂。幽魂の到り集る所は此所彼所に多くあれど、そは現界に生を享くる者の知らでも済む事なり、只死後人の霊魂の行くべき所はあるものと心得居て可し。死したる後は生きたる人の考とは大に異なるものにて、幽事は生ける人の耳目の及ばぬものなり。耳目の及ばぬ事は言うだけ愚かなり。死すれば忽ちに知れるものぞ。

宮崎。その儀一応は尤もなれど、仏法にては死後行くべき所を人に知らしめて安心せしむるを主眼とし、儒道も亦之を説かざるにあらず。されば今日の所にては、之を世人に知らしむるの要なきにもあらず。右儒仏の唱うる所何れが実説なりや。

と宮崎氏の質問は次第次第に急所に向って突き込むで行くのでありました。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。