8 幽魂の契約書

 幽魂は日頃看病人の長吉から野干ではないかと疑われたことが余程無念であったと見えましてこの時宮崎氏との問答の少しの切れ目を見て、はったとばかり長吉を睨めつけた。

幽魂。長吉、汝はよくも、我を四足の類と言うたナ! 今も言う通り高貴の人の霊魂とても、無念に死しては時ありて人を悩ますことあり。よく覚え置きて以来つつしめ!

 恐ろしい権幕で叱りましたが、宮崎氏は引きとりてあべこべに幽魂をたしなめました。

宮崎。其許の立腹はさる事ながら、縦令神にもあれ何にもあれ、眼前に人を悩ますを見て、悪魔なり、野干なりと言いたりとて何の無理があるべきぞ。大切の御国人を悩ます上は吾が見る所も長吉と同じじゃ。

幽魂。(聊かたじろぎつつ)今われ不図誤れり……。我願望だけは何卒聴き届け下されよ。

宮崎。過を悔い、善を慕う心は即ち神なれば、われ其許の望みのままに御剣加持を行うべし。それを限りに当家を退散し、自今人を悩ますこと勿れ。石碑も建てて進ずべく、忌日には祭礼を行い、又諡号をも授くべし。

幽魂。(いと嬉れしげなる風情で)わが年来の願望漸く叶い、諡号をも授からば、今後人を悩ますことをせぬのみか、当家を守護し、又諸人をも救うべし。

宮崎。斯く誓いし後に、若し其許が重ねて人を悩ますことあらば、その時は容赦せじ。骨を堀り糞壷に入れて恥をかかせむ。

 と宮崎氏は強く言い放ちますと、

幽魂。武士に二言は候わず。

 と負けずに強く言い放つのでした。

宮崎。然らば後日の為めに、右の旨を記せる一通の証文を書きて渡されよ。

幽魂。証文とな? その儀には及ぶまじ。

宮崎。イヤすでに姓名を書きたる上は、定めて文字を心得つらむ。必らず書かれよ。

幽魂。さほどに申さるる上は致方なし。兎も角も案文を示されよ。

宮崎。案文も其許自から認められよ。

 斯く言われますと頷いて無言のまま筆を執りて左の如くすらすらと認めました。――

此度大門御剣ヲ以、拙者立退ク様、苦心仕趣ニ相見、

天保十年八月二十四日夜、御剣ヲ奉拝

此上仕合過分ニ存、同夕此家立退、

以来此家ニ不限、人ヲなやます儀急度相愼ミ候、

泉  熊 太 郎

幽魂。これにて宜しきや。

 かく言って、宮崎氏が宜しき旨を述べて返しますと、彼は右の草案を燭台の火で焼き棄て、更に清書して渡しましたが、其書風は至って古雅な書体だったそうです。宮崎氏は一見して、年号月日宛名等が書いてないと思い、其記入を求めました。

幽魂、それには及ばぬ事なれど、望みとあれば書き入れて進ぜむ。

 と言って右の一札を受取り、『天保十年亥八月大門主』と書き加えて渡しました。後に思えば文中に宛名、年号月日共に書いてあるので、幽魂のいう通り全く『それには及ばぬ事』なのでした。

宮崎。年号月日はいかにして幽界に判るものか。

幽魂。顕世の事は人の耳目を借らざれば知り難きことはすでに述べたり。われ先月より市治郎の耳目を借りて見るに、彼の通り帳面三つ掛けありて、共に天保十年正月と記せるを見れば、何れも同時の調製にかかり、今年が天保十年なること明かなり。又月日を知るは、七月四日がわが忌日にて、其日は幽界にても能く知らるるなりこは独りわれに限らず他の幽魂も皆其忌日をば知り居るものぞ

宮崎。其許が武士の幽魂なることは確かに認められたれば、今後諡号を贈りて神として祭るべし。永く鎮りてこの上は人を悩まし給うな。

幽魂。その儀は承知致したり。吾等に取て此上の悦びとてなければ、自今人の守護こそすれ、ゆめにも人を悩ますことは為すまじ。

 とて甚だ満悦の体に見受けられました。

宮崎。其許存世の時に何ぞ好めるものはなかりしや。例えば梅とか、桜とか、又玉石とか……。

幽魂。さる類の好みは無かりし。只存生の時、面白しと思いしは高山大嶽などを遙かに望むことなりし。

宮崎。然らば『高峰の神』と諡号せんはいかに?

幽魂。さる優雅なる号を与え神として斎き給わるとは、誠に難有しとも難有し。従来われ当家に崇り、世に害を為したれば、その罪滅ぼしのため、今後は力の限り清浄の神となりてこの家を守護すべし。『高峰の神』の神号は其許の筆にて書き給われよ。

宮崎。それよりは其許の自筆にて書き遺されては如何。

幽魂。諡号を自から書かんは異なるものなるべし。

宮崎。イヤ尤もの御意見――さらば神号は某書きて進ずべし。ただ七月四日の四文字は其許の自筆を碑の裏面に刻ることにすべし。

幽魂。いよいよ神号を賜わり、神と斎わるる上は、最早今の墓地には止り難し。又凡人の墓所に神号の碑を建てんもいかがなり。何所ぞ別に清浄の寸地はなきや。尚主人にも談合し玉わずや。

宮崎。野辺山という村有の山もあり、主人の所有地もあり、又社地もあり。何地に定むべきかは一家と相談の上にて決することとせん。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
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3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。