7 秘中の秘事

幽魂。儒仏の説く所を信ずるは、皆其道に侫する人の為すことにて、要するに其門に入りたる者を治むるの法のみ。

幽魂は儼然として説くのでした。

 儒仏の説は皆実説にあらず真に人魂の行く所は地上にありて空中にあらず尤も空中にも幽界はあれどそは幽魂の直ちに赴くべき所にあらず。大地の上の幽魂界の何所なりと云うことは今白地に告げ難し。

宮崎。さばかり漏らし難き事ならば、何故に豊前の彦山ともいうべき所なりとは言われしぞ。

 と宮崎氏は舌鋒鋭く切り込みました。

幽魂。イヤイヤ敢て彦山なりと取決めて言いたるにあらず。幽魂界は先ず彦山の如き人跡稀れなる清浄の地、或は磯辺或は島にもあるもの也。是等は魔所などと言いて人々の恐るる地なり。幽魂は此所にありて、容易に人々の行う祭祀を享くるものぞ。そは前にもあらあら述べたるが如し。

宮崎。極楽浄土につきての仏説の当否は如何。

幽魂。(微笑しつつ頭を振り、久うして口を切りました)極楽説は人の心を安んぜんが為めの手段方便のみ。前にも述べたるが如く。人の生前の考と死後の実際とは甚だしく違うものなり。死後の事は死後に知らば可ならむ。人間の顕世に処せむには、世の掟を守ればよし。幽事を知るは凡人の及ばぬことなり。

宮崎。貴答は極楽無しとの意ならむ。極楽なしとならば、何故に其許は去ぬる二十二日に、三部経を上げくれよとは言われしぞ。西林寺にて読ましめたる経文は極楽を説けるにあらずや。大地を離れて幽魂界なしと言い乍ら、大地を離れてありとする極楽を説きたる三部経を望みしはいかなる理由ぞ。

幽魂。敢て経が望ましとの業にあらず。我父の為めに読ましめたるにて、心ばかりの父への弔祭なり。弔祭には経を読みても何を用いても良くただ父の為めと思いて誠を尽せば自から通ずる理なり。元来経は空を説けるものにて、毒にも薬にもならず、ただ便宜のものなり。

 と幽魂の気焔は中々猛烈でした。宮崎氏は話頭を一転しました。

宮崎。一体墓所に鎮まる魂はいと穢らわしきものなり。然るに当家の神棚には尊き神々を祭り奉りてあるを、其許の如き墓所に鎮まる霊魂にして憚る所なく爰へ来るは如何なる故ぞ。

幽魂。新らしき墓にて、腐肉の臭気ある所に止まる霊魂は穢れあれども、我等の如く数百年を閲せるは、その骨肉既に大元の気となりて穢れなく、霊魂も清浄潔白なり。我等はただ人並みならぬ苦痛あるのみにて、清浄なる点はさまで神明と異なることなし。故に神棚の下にも斯くは居らるるなり。但し悪行の為めに相果てたる無念の霊魂は神明の前には到り難し。我等とて濫りに他家に行くことはならねども、当家には由緑ありてかくは来るなり。

宮崎。余は知らざる事なれど、今宵当家にて承るに、二十二日の夕に、其許が其夕に限りて墓所に居り難しと言われしとの事なるが、そは如何なる理由ありての事か。

幽魂。二十二日は郷祭なるが故に、古き神霊来臨の事ありて、家々に豊なる清浄の気を受け入るるなり。されば我等の如き無念凝りたる新しき幽魂は其所を避くるが法なり。この事には深き理りあれど人にきかして益なし。

 右の郷祭という言葉は一寸解りかねて宮崎氏が問い返したるに、『そは一郷の祭りなり』と答えたそうです。

宮崎。当家の祖父など祟り殺されし後は何所に居るや。

幽魂。彼等は同気相集りて、地上の一つの幽魂界に居るならむ。我は委しく知らず。

宮崎。神代の神霊と人霊とは幽府にて違いあるか。

幽魂。神霊は勿論優れたれど人霊とても中には百千人に優れたるものあり。無実の罪に罹り、無念に死したる霊などは、右に述べたる如き優れたる霊に添はれて一つの大霊となり、山をも鳴らし洪水をも起すなり。

宮崎。今其許の望みの通り、石碑を建てて七月四日を祭日と定め、祭祀を怠らずば、其許は其所に何時迄も鎮まるや。又は時ありて其地を離るることありや。

幽魂。我願望達しなば、永く其地に鎮まるは勿論なり。しかせば従来の苦痛も消失するに相違なく、又自己に苦痛なければ人を悩ますことの無くなるはいう迄もなく、却って人の苦悩を憐むの情起らむ。これ正法に依りて邪を正に帰せしむるの道なり。

宮崎。邪心を転じて正に帰せば,其許は社々に座す神々と同体にならるるか。

幽魂。祭事は幽と顕とが互に一致せでは効なきものなり。国主より国法に依りて神社と定められ人民も皆之に従えば、神社と同様にもなるなれど、其事なければ神々と同体にはなり難し。

宮崎。無念の事なくして死したるものの霊魂は、崇ることはなきものか。

幽魂。礼を以て葬られたる輩は人並みの幽魂なれば、人に崇りをなすことなく、又常に墓所にのみ居るものにもあらず。

宮崎。石もて畳み上げたる古き大塚などを見るに、何れも礼を厚うして葬りたること疑いなし。然るにたまたま農夫などが此等の古墳を堀り起すに、或者は忽ちに崇られ、又或者は之を発いてより三年も閲たる時崇りを受く。時には墓を取除けても何の崇りのなきことあり。そはいかなる理由なるぞ。其許の言えるが如く、礼を以て葬りたる幽魂が墓に居らずというならば、崇ることはいぶかしからずや。

幽魂。すべての幽魂常に墓に居らざれど、その来るべき時には来て居るものなり。又初より其墓に鎮まらんと思い定めたる魂は常に墓に居るが故に、それ等の墓を発けば忽ちに崇るものと知られよ。又墓を堀りたる時たまたま幽魂が其所に居らずとて、後に来りて其発かれたるを見れば、何人の業なるかは忽ちに知らるる故に、三年五年の後にでも崇りを為すものぞ。又幽魂にして終に貴き霊となり、清浄の境に入りたるもの、又上界の到るべき所に行き了ヘたるもの、或は主宰の神の御計らいにて人間界に再生したるもの、さては又悪事にのみ心を寄せ、獣類に生れかわりたるもの等は、皆墓所との縁を離れたれば其墓を発かれたりとて崇ることなし

 されば今我等とて道を以て神に祀らるれば神となりて長く人世を守護すべく、其暁には縦令墓を発かれたりとていかでか怒らむ。序でに教え置かん。人の霊を祭るは墓又は霊棚にするが享け易し。神々を祀るは神社又は常に定めたる祭場にするが享け易し。又墓所を発きて悩むことありとも、悉く之を崇りに帰せんは非なり。墓の穢れ、鬱滞の気に触れて発病することもありぬべし。

宮崎。幽魂が幽界の集合地より墓所に来ることは容易きものにや。

幽魂。(重複の質問にいささかむつとして)来らんと思えば何時にても来らる。

吉富。彼岸盆会には世俗皆霊を祭る慣わしなるが、かかる折に幽魂は実際来臨するものにや。

幽魂。彼岸盆会は世俗一統霊を祭る時と定めあれば、幽界にても祭を受くべき時と思い、又死ぬ人も盆会には必らず来るものと思い込みて死ぬるが故に、必らず現われ来るなり。されど我等の如く無念にして相果て、死して祭られざるものは、盆会などには臨み難し。ああ生前武士たる身にてあり乍ら、人体に憑きて人の疑惑を受けつつ石碑の建立を希ひ、忌日の祭を頼むとはさてさて口惜しき限りなり。この胸中推量し玉われよ。

宮崎。菅原道真卿、藤原廣嗣又は逸成、早良親王など、何れも高貴なるが、現世に祟り玉ひしことは実記の上に確証あり。儒者どもは之を信ぜず、世の変災は皆自然の為すところとす。いずれが真実なるか。

幽魂。いかなる高貴の人といえども無念骨髄に徹して死せむには世に崇りを為すこと必定なりそは之を世に知らせて無念を霽らさむがためなり。我等かく市治郎の体を悩ますも、其口を借りて積憤を漏らさむと思うが故なり。顕界にて受けたる無念は顕界より解きて貰わねば霽るることなし


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

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3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。