7 幽魂の揮毫

宮崎。其許が切腹せられし年号は深く包まるるに由り重ねて尋ねまじきが、御存生の時の帝都は大和か山城か、将た近江なりしか。

幽魂。すでに山城に定りての後なり。延暦よりは遙かに後なり。

吉富。家康公治世の後か?

幽魂。家康公? その様なる事はまだきき申さず

吉富。頼朝公前後か?

幽魂。それ等は答えませぬ。前にも約束せし通り年号と君父の上は語れませぬ

宮崎。先日其許の揮毫を拝見するに、なかなかの名筆で厶る。然るにその時の書はただ姓名のみにて人に見せるに適せねば、別に人にも見せてよき字を五字にても三字にでも書き残し玉われよ。是非に是非に。

かく云う間にも傳四郎は墨を磨りて揮毫の用意をしました。すると大工の所から、霊魂の鎮まるべき霊璽の箱が出来たれば検査して貰いたいとの通知がありましたので、山本神職が大工の許へ出張し、其後で、宮崎氏がしきりに揮毫を迫ったのでした。しかし霊魂はなかなか承諾を与えようとはしませんでした。

幽魂。霊魂が、何の必要ありて筆蹟を顕界に遺すべきぞ。おかしくも面白くもなき事なれば、その儀は平にお断り申すなり。先月は書かねば疑惑を解き難き為め、止むを得ず書きもしたれ、今更それを望まるるは余りに物ずきに候わずや。

 老巧の吉富医師が傍から加勢に出ました。

吉富。イヤ其許の御剣が久我浦なる宮崎家に伝わり、その剣にて加持を受けられしさえあるに、今又その人より神号をも授けらるるとは、よくよく深き幽縁のあればなるべし。されば是非一字なりと筆を染められよ。それこそ宮崎家にとりて、こよなき紀念物なるべし。

宮崎。枉げて『剣』の一字なりと書し玉え。その他何字にても、御心のまま筆を染められよ。

幽魂。イヤ強い理責めじゃ。さらば是非に及ばず、一字なりと書き遺すことに致すで厶ろう。

 そう言って彼は筆を執りて、その尖を熟視しましたが、少しく毫の脱け出でたるを発見して指で摘み取りて紙に移しました。それから指を拭い姿勢を正しくして『楽』の一字を書きました。折から山本神職は大工の所から帰り、此書を見て感歎しました。

山本。さてもさても見事で厶る。まだ墨痕の乾かざる四五百年前の古筆を拝覧するとは世にも稀れな事柄で

 と言えば居合わせた他の人々も『成程その通りで厶る』と口々に囃し立てたのでした。その書は今も宮崎家に秘蔵されてあるそうです。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第3篇 続幽魂問答 (附録 長南年惠物語)」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。