5 武士道の意気地

 宮崎氏は引き続きて質問をすすめました。

宮崎。其許はかかる美事なる文字を筆せる程の武士なれば、定めて文字も多く知りて居るべし。此白紙に、仕えたりし国主の禄高、その家老、中老の姓名、領分の内なる一二の郡村名等を記されよ。

幽魂。前にも申せし如く、私かに本国を立ち出でたる武士は、国内の事を包むが士道なりとの意をきき分けなきや。我姓名を名告るさえ、祖先に対し、又君主に対して申訳なき次第なり。われは武士道を破りてまで私願を遂ぐるを好まざれども、さりとて私願遂げざれば再び人を悩まし我苦悩の止む時なき事の悲しければ枉げてわが姓名のみは記したり。然るに尚お斯くの如く追窮の手をゆるめぬは、心中に疑念ありての事なるべし。凡そ天地の間に斯る事は必らずあるものにて、人間のみならず山川に住むもの又大樹大石の非情物だに時としては人を悩ますなり。されど人は之を疑う。今此疑いを解かざる限りは我願望も遂げ難かるべし。いざさらば何なりとも問われよ。国主に係らぬ限りは何事にても答うべし。

宮崎。さらば其許の主君に係らぬ郡名あるべし。四郡五郡にても宜し、それを告げられよ。

 かく追窮された時幽魂は聞きとがめ、『吾が本国のグンとな。』とて、いかにも訝かしき風情をして吉富医師に向い『グンとは何事にや。』と尋ねたそうであります。吉富氏が畳の上に『郡』の字を書き終らぬのに『コホリの事か。平生聴き慣れませなんだ。』と言い、更に語をついだのでした。

幽魂。わが本国には四郡あるのみにて、五郡なきことは知らるるならむ。若し知らぬが故に問わるればとて、ウカと記して人の前に差出してなるものぞ。皆君父の領内の事なるものを……。されど、さばかり地名を知りたくば五ッ六ッ書くべし。

とて極めて能筆で榎木村、榎木原、原江などと書き記し、更に言葉をつづけました。

 かかる事とも縦令百千書けばとて疑念は解けざるべく、又遠国の事なれば、吾れ之を知るのみにて、人々の疑念を晴らすの証とはなり難からむ。但し我本国の事を知り居らるるとならば書きもすべし。

宮崎。其許の言う所尤なり。さらば他事を問わむ。石碑の正面には、七月四日とのみ記せよとの望みなれど、同月日に死したる者は世に夥多あることなれば、年号をも書き添えられよ。その年号は何と云いしぞ。

と引き出しにかかりましたが、幽魂は容易にその手には乗らないのでした。

幽魂。年号を記さば、直ちに君父の事は知れるなり。記してよき事ならば何として包むものか。法に違い義を失う事は、いかに問わるるとても告げ難し。

宮崎。七月四日とのみ記して建立せむには、若し当家転住することもあらば粗末になること必定なり。又それ等の事なしとて、何人の墓なるかが不明ならば、自から粗略になるべき道理なり。さる折に魂は何地に行き、何地に鎮まるぞ?

幽魂。我は天地の無窮なると共に、永遠に石碑の建てられたる地に鎮まる心底……。

宮崎。単に月日のみを記し置かば行末粗略になるは必定なれど、それが望みとあらば致し方もなし。

 と言いますと、幽魂はやや久しく俯いて居ましたが、やがて低声にて『何とか別に致方は無きか』と独言ち、其気色いかにも荒立ち、物によっては祟りも仕兼ねまじき風情にて、暫く無言で居るのでした。宮崎氏は尚お追窮をつづけました。

宮崎。国主の名、切腹当時の年号、本国内の事。其許が飽まで秘せむとするこそ不審なれ。是非とも書かれよ。悪しゅうは図らわじ。

幽魂、アイヤよく我言を承れ。義を失い、武士道に背きて願望を遂げたりとて何かせむ。武士たる身の書くまじき事を書きて私願を遂げむより、義を全うして弓矢の神法にかかりて煙とならむことこそ本望なれ。イザ御弓矢の行事なされよ。さてさて無念を抱きて果てし身は、何処まで口惜しきものなるか。正しき道を述ぶれども人の疑念を晴らすよしもなし。

と言い放ちて痛歎の模様でしたが、暫時にして語を転じ、

凡そ幽界より霊界に言語を通ずるは尋常人の幽魂の能く為し得る所にあらず我れ数百年の苦痛に堪え難ければこそ斯く人に憑りて頼むなれ。いよいよわが望みの遂げ難しとならば市治郎の死せむは必定なり。若し我が望みだに叶いなば、四五日の中には病気を平癒せしむべし。病気の平癒を証拠に石碑の建立を依むことは協わぬか。若しそれさえ承諾あらば、われは幽界に帰りて石碑の建立されむ日を待つべし。顕世にて一代を閲る間も幽界にては須叟の間と思わるるものなれど十日は愚か瞬間の苦痛すらながなが堪え難きものぞ

宮崎。忠肝義胆の其許の一言一句をきけば、誠にこれ武士の魂なること今は早や一点の疑もなし。いで、これよりは幽界に係る事どもを問
わん。一々わが問に答えられよ。

 宮崎氏は爰に一転して幽界の消息を根掘り葉掘り問いつめにかかったのでした。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

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 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。