3 加賀武士の幽魂

3 加賀武士の幽魂

 宮崎氏はやがて長剣を鞘に収めて信太郎に手渡し、奥の一ト間に退いて密に病人の動作を窺いました。病人は暫時平伏の後、やおら頭を擡げ、弟の持てる長剣にきっと眼をつけ、鍔元より見上げ見下ろし熟覧する様、意味ありげに想いやられましたが、やがて眼顔もて、その長剣を汝の膝に上げよとの風情を示しました。先刻から恐怖の余り、おののき居たる信太郎は、耐らなくなったものと見えまして、そのまま席を立ちて逃げ出しにかかりますと、父の傳四郎が側から声を励まし、『動いてはならぬ。怖くも何ともない。俺が居るぞ』と怒鳴りました。そして今度は病人に向い、眼を嗔らして罵りました。『こりァ怪物、我児を悩ますとは奇怪至極じゃ。この上は大切の神法、蟇目の矢先にかけて打放って貰うからそう覚悟致せ。』

 傳四郎はやがて宮崎氏の前に来て、『かく長らく御加持を為し下されましても、どうしても本体を現はしませぬから、今は蟇目の矢先にかけるか、又鳴弦にて打放ち、射除けて戴くより致方がございませぬ。何分にも御依み申します』と言葉を尽して依頼しますので、宮崎氏も之を諾し早速弓矢及び入用の品々を調え、墨を磨らせて御神号の幡を作らせるなど、万端の準備を整えました。

 宮崎氏は念の為めにモ一度長剣を信太郎の手から取り、抜き放って病人の喉元に切附ける所作をして見ましたが、病人は少しも驚きません、一礼して前なる燭台の蝋燭を右手に取り上げ、左手を膝の上に置き、姿勢を正して、差しつけたる剣の鋒尖を、よくよく念入りに熟視するのです。いかに宮崎氏が神文を唱え又剣もて突きかかって見ても少しも動ずる気色を見せませんのでとうとう宮崎氏は剣を再び元の鞘に収めました。そして其場に居合わせたる医師の吉富養貞に対して『吉富氏、貴下の口から一つ病人に篤と申しきかしてくだされ。今回は止むことを得ず、鳴弦又蟇目の重き法を以て、射放ち打砕かねばならぬ事に立ち到ったが、そもそもこの神法は、天照大神の授け給いし天の羽々矢、天の杷弓の御故実にして、神々守護の弓道なれば、此所に行いても彼所に応じ、顕世に行いて幽界に通じ、仮令幾百千里を隔つとも、此法を修するに於ては、其敵に中らずという事なく、一矢を放てば総身に響き、二矢を放てば四十八骨に徹し、三度四度に及びては、いかなる邪気も人体を離れざる事能はざる神法なり。かくて十矢に至れば、離れたる邪魂は雲霞の如く消失し、人体を悩ませて其望みを達せんと思いたることは却って我身の仇となり、魂魄永く死滅の憂目を見るなり。余敢て生を害することを好むにあらざれど、汝今人体に憑りて之を悩ますが故に、斯道に仕うる身の黙止し兼ねて、爰に此神法を施行せねばならぬが、念の為めに今一応汝が心底を問い糺さむ。一命を失いても汝は此家の一子を滅ぼす心か、それとも他に希望のことありてこの肉体に憑き纏ふか。二者何れか、速かに答えよ。若し飽までも肉体を離れじとの一言を吐かば、止むなく直ちに弓矢の法を修せむ。ゆめゆめ世の追掛の威などと思い侮り、後悔すな、と貴下からそう病人に申伝えてくだされ』

 吉富医師は早速その旨を了承し、病人の前に到り、右の趣を詳かに語ってきかせますと、病人は打被りし夜具を押除け、座を正し、言を改め、両手を膝に置いて一拝して申しますには『斯く正しき理を攻めて懇ろに申さるる上は、最早何をか包みましょう。余は怪物でもなく、又野干の類でもござらぬ。元は加賀国の武士にて、父の踪を追い此地に来り、無念の割腹を為したる者の幽魂でござる。一条の願望を果さん為めに、従来当家の者に崇りしが、残念乍ら未だ叶を得ずに居った次第でござる。』

 一旦言語が切れ出すと共に件の幽魂は年来の積る思いを縷々と述べ出しました。詰まり動くものは市治郎の口でありますが、之を動かすものは武士の霊魂なのであります。乃で宮崎氏は感歎すべき冷静と思慮とを以て件の霊魂に質問を連発しました。一問一答、幽冥界と現実界との間に完全なる連絡がつきましたのは、心霊現象につきての厳密なる研究が出来上って居なかった天保時代の出来事として寔に感歎に値するものがあります。以下幽魂と宮崎氏との間に行われし問答をそのまま掲げることに致します。


浅野和三郎著

底本:「心霊文庫第2篇 幽魂問答」 

心霊科学研究会

1930(昭和5)年06月20日発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力: いさお


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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。