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62、現世のお浚

2010/08/16

 私はうれしいのやら、悲しいのやら、自分にもよくは判らぬ気分でしばらくあたりの景色に見とれて居ましたが、不図自分の住居のことが気になって来ました。

『お爺さんは私の住居について何とも仰っしゃられなかったが、一たいそれはどこにあるのかしら……。』

 私は巌の上からあちこち見まわしました。

 脚下は一帯の白砂で、そして自分の立っている巌の外にも幾つかの大きな巌があちこちに屹立して居り、それにはひねくれた松その他の常盤木が生えて居ましたが、不図気がついて見ると、中で一ばん大きな彼方の巌山の裾に、一つの洞窟らしいものがあり、これに新らしい注連縄が張りめぐらしてあるのでした。

『きっとあれが私の住居に相違ない……。』

 私は急いで巌から降りてそこへ行って見ると、案に違わず巌山の底に八畳敷ほどの洞窟が天然自然に出来て居り、そして其所には御神体をはじめ、私が日頃愛用の小机までがすでにキチンと取り揃えられてありました。

 一と目見て私は今度の住居が、心から好きになって了いました。洞窟と言っても、それはよくよく浅いもので明るさは殆んど戸外と変りなく、そして其所から海までの距離がたった五六間、あたりにはきれいな砂が敷きつめられていて、所々に美しい色彩の貝殻や香いの強い海藻やらが散ばっているのです。

『まるきり三浦の海岸そっくり……こんな場所なら、私はいつまでここに住んでもよい……。』

 私は室を出たり、入ったり、しばらく坐ることも打忘れて小娘のようにはしゃいだことでした。

 今日から振り返って考えると、この海の修行場は私の為めに神界で特に設けて下すったお浚いの場所ともいうべきものなのでございました。境遇は人の心を映すとやら、自分が現世時代に親んだのとそっくりの景色の中にと抱かれて、別に為すこともなくたった一人で暮らして居りますと、考はいつとはなしに遠い遠い昔に馳せ、ありとあらゆる、どんな細かい事柄までもはっきりと心の底に甦って来るのでした。紅い色の貝殻一つ、かすかにひびく松風一つが私にとりてどんなにも数多き思い出の種子だったでございましょう! それは丁度絵巻物を繰り拡げるように、物心ついた小娘時代から三十四歳で歿るまでの、私の生涯に起った事柄が細大漏れなく、ここで復習をさせられたのでした。

 で、この海の修行場は私にとりて一の涙の棄て場所でもありました。最初四辺の景色が気に入ってはしゃいだのはホンの束の間、後はただ思い出しては泣き、更に思い出しては泣き、よくもあれで涙が涸れなかったと思われるほど泣いたのでございました。元来私は涙もろい女、今でも未だ泣く癖がとまりませぬが、しかしあの時ほど私がつづけざまに泣いたこともなかったように覚えて居ります。

 が、思い出す丈思い出し、泣きたい丈泣きつくした時に、後には何ともいえぬしんみりと安らかな気分が私を見舞ってくれました。こんないくじのない者に幾分か心の落つきが出て来たように思われるのは、たしかにあの海の修行場で一生涯のお浚をしたお蔭であると存じます。私は今でもあれが私にとりて何より難有い修行場であったと感謝せずには居られませぬ。尚おここはただ昔の思い出の場所であったばかりでなく、現世時代に関係のあった方々との面会の場所でもあり、私は随分いろいろな人達とここでお逢いしました。標本として私が彼所で実家の忠僕及び良人に逢った話なりと致しましょうか。格別面白いこともございませぬが……。


底本:「霊界通信 小桜姫物語」 潮文社

1998(平成10)年07月31日第九刷発行
底本の親本は心霊科学研究会出版部
1937(昭和12)年02月発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力者: 泉美

かな修正: いさお


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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。