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59、水さかづき

2010/08/13

 お客さまが見えた時に、こちらの世界で何が一ばん物足りないかといえば、それは食物のないことでございます。それも神様のお使者や、大人ならば兎も角も、斯うした小供さんの場合には、いかにも手持無沙汰で甚だ当惑するのでございます。

 致方がないから、あの時私は御愛想に瀧の水を汲んで二人に薦めたのでした。――

『他に何もさし上げるものとてございませぬ。どうぞこの瀧のお水なりと召し上れ……。これならどんなに多量でもございます……。』

『これはこれは何よりのおもてなし……雛子、そなたも御馳走になるがよいであろう。世界中で何が美味いと申しても、結局水に越したものはござらぬ……。』

 指導役のお爺さんはそんな御愛想を言いながら、教え子の少女に水をすすめ、又御自分でも、さも甘そうに二三杯飲んでくださいました。私の永い幽界生活中にもお客様と水杯を重ねたのは、たしかこの時限りのようで、想い出すと自分ながら可笑しく感ぜられます。

 それはそうとこの少女の身の上は、格別変った来歴と申すほどのものでもございませぬが、その際指導役の老人からきかされたところは、多少は現世の人々の御参考にもなろうかと存じますので、あらましお伝えすることに致しましょう。

 老人の物語るところによれば、この少女の名は雛子、生れて六歳のいたいけざかりにこちらの世界に引き移ったものだそうで、その時代は私よりもよほど後れ、帰幽後ざっと八十年位にしかならぬとのことでございました。父親は相当高い地位の大宮人で、名は狭間信之、母親の名はたしか光代、そして雛子は夫婦の仲の一粒種のいとし児だったのでした。

 指導役のお爺さんはつづいてかく物語るのでした。――

『御身も知るとおり、こちらの世界では心の純潔な、迷いの少ないものはそのまま側路に入らず、すぐに産土神のお手元に引きとられる。殊に浮世の罪穢に汚されていない小供は例外なしに皆そうで、その為めこの娘なども、帰幽後すぐに俺の手で世話することになったのじゃ。しかるに困ったことにこの娘の両親は、きつい仏教信者であった為め、わが児が早く極楽浄土に行けるようにと、朝に晩にお経を上げてしきりに冥福を祈って居るのじゃ……。この娘自身はすやすやと眠っているから格別差支もないが、この娘の指導役をつとめる俺にはそれが甚だ迷惑、何とか良い工夫はないものかと頭脳を悩ましたことであった。むろん人間には、賢愚、善悪、大小、高下、さまざまの等差があるので、仏教の方便もあながち悪いものでもなく、迷いの深い者、判りのわるい者には、しばらくこちらで極楽浄土の夢なりと見せて仏式で修行させるのも却ってよいでもあろう。――が、この娘としてはそうした方便の必要は毛頭なく、もともと純潔な小供の修行には、最初から幽界の現実に目覚めさせるに限るのじゃ。で、俺は、この娘がいよいよ眼を覚ますのを待ち、服装などもすぐに御国振りの清らかなものに改めさせ、そしてその姿で地上の両親の夢枕に立たせ、自分は神さまに仕えている身であるから、仏教のお経を上げることは止めてくださるようにと、両親の耳にひびかせてやったのじゃ。最初の間は二人とも半信半疑であったものの、それが三度五度と度重なるに連れて、漸くこれではならぬと気がついて、しばらくすると、現世から清らかな祝詞の声がいびいて来るようになりました……。イヤ一人の小供を満足に仕上げるにはなかなか並大抵の苦心ではござらぬ。幽界に於ても矢張り知識の必要はあるので、現世と同じように書物を読ませたり、又小供には小供の友達もなければならぬので、その取持をしてやったり、精神統一の修行をさせたり、神様のお道を教えたり、又時々はあちこち見学にも連れ出して見たり、心から好きでなければとても小供の世話は勤まる仕事ではござらぬ。が、お蔭でこの娘も近頃はすっかりこちらの世界の生活に慣れ、よく俺の指図をきいてくれるので大へんに助かって居ります。今日なども散歩に連れ出した道すがら図らずもあなたにめぐり逢い、この娘の為めには何よりの修行……あなたからも何とか言葉をかけて見てくだされ……。』

 そう言って指導役の老人はあたかも孫にでも対する面持で、自分の教え子を膝元へ引き寄せるのでした。

『雛子さん』と私も早速口を切りました。『あなたはお爺さんと二人切りでさびしくはないのですか?』

『ちっともさびしいことはございません。』といかにもあっさりした返答。

『まァお偉いこと……。しかし時々はお父さまやお母さまにお逢いしたいでしょう。いつかお逢いしましたか?』

『たった一度しか逢いません……。お爺さんが、あまり逢っては良けないと仰っしゃいますから……。わたしそんなに逢いたくもない……。』

 何をきかれてもこの娘の答は簡単明瞭、幽界で育った小供には矢張りどこか異ったところがあるのでした。

『これなら修行も案外に楽であろう……。』

 私はつくづく肚の中でそう感じたことでした。


底本:「霊界通信 小桜姫物語」 潮文社

1998(平成10)年07月31日第九刷発行
底本の親本は心霊科学研究会出版部
1937(昭和12)年02月発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力者: 泉美

かな修正: いさお


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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。