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58、可憐な少女

2010/08/12

 母に逢ってからの私は、しばらくの間気分が何となく落つかず、統一の修行をやって見ても、ツイふらふらと鎌倉で過した処女時代の光景を眼の中に浮べて見るようなことが多いのでした。『こんなことでは本当の修行にも何にもなりはしない。気晴らしに少し戸外へ出て見ましょう……。』とうとう私は単身で瀧の修行場を出かけ、足のまにまに、谷川を伝って、下方へ下方へと降りて行きました。

 戸外は矢張り戸外らしく、私は直に何ともいえぬ朗かな気持になりました。それに一歩一歩と川の両岸がのんびりと開けて行き、そこら中にはきれいな野生の花が、所せきまで咲き匂っているのです。『まあ見事な百合の花……。』私は覚えずそう叫んで、巌間から首をさし出していた半開の姫百合を手折り、小娘のように頭髪に挿したりしました。

 私がそうした無邪気な乙女心に戻っている最中でした、不図附近に人の気配がするのに気がついて、愕いて振り返って見ますと、一本の満開の山椿の木蔭に、年齢の頃はやっと十歳ばかりの美しい少女が、七十歳位と見ゆる白髪の老人に伴われて佇っていました。

『あれは山椿の精ではないかしら……。』

 一たんはそう思いましたが、眼を定めてよくよく見ると、それは妖精でも何でもなく、矢張り人間の小供なのでした。その娘はよほど良い家柄の生れらしく、丸ポチャの愛くるしい顔にはどことなく気品が備わって居り、白練の下衣に薄い薄い肉色の上衣を襲ね、白のへこ帯を前で結んでだらりと垂れた様子と言ったら飛びつきたいほど優美でした。頭髪は項の辺で切って背後に下げ、足には分厚の草履を突かっけ、すべてがいかにも無造作で、どこをさがしても厭味のないのが、むしろ不思議な位でございました。

 兎に角日頃ただ一人山の中に閉じこもり、めったに外界と接する機会のない私にとりて、斯うした少女との不意の会合は世にももの珍らしい限りでございました。私は不躾とか、遠慮とか言ったようなことはすっかり忘れて了い、早速近づいて附添のお爺さんに訊ねました。――

『あの、このお児さまは、どこのお方でございますか?』

『これはもと京の生れじゃが、』と老人は一向済ました面持で『ごく幼い時分に父母に訣れ、そしてこちらの世界に来てからかくまで生長したものじゃ……。』

『まあこちらの世界で大きくなられたお方……私、まだ一度もそう言ったお方にお目にかかったことがございませぬ。もしお差支がなければ、これから私の瀧の修行場までお出掛けくださいませぬか。ここからそう遠くもございませぬ……。』

『あなたの事はかねて瀧の龍神さんから伺って居ります……。ではお言葉に従ってこれからお邪魔を致そうか……。雛子、この姨さまに御挨拶をなさい。』

 そう言われると少女はにっこりして丁寧に頭をさげました。

 私はいそいそとこの二人の珍客を伴いて、瀧の修行場へと向ったのでした。


底本:「霊界通信 小桜姫物語」 潮文社

1998(平成10)年07月31日第九刷発行
底本の親本は心霊科学研究会出版部
1937(昭和12)年02月発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力者: 泉美

かな修正: いさお


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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。