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55、母の訪れ

2010/08/09

 私が瀧の修行場へ滞在した期間はさして長くもなかった上に、あそこは言わば精神統一の特別の行場でございましたので、これはと言って特に申上げるほどの面白い出来事もございませぬ。私はあの瀧の音をききながら、いつもその音の中に溶けこむような気分で、自分の存在も忘れて、うっとりとしていることが多いのでございました。お蔭様でそうした修行の結果、私の統一は以前にましてずっと深まり、物を視るにも、あれから大へんに楽になったように、自分にも感じられてまいりました。こちらの世界へ来てもすべては修行次第で、呑気に遊んでいたのでは、決して力量がつくものではないようでございます。実をいうと私などは、可なり執着も強く、しかも自分では成るべく呑気に構えていたい方なのですが、魂の因縁と申しましょうか、上の神様からのお指図で、いつも一つの修行から次ぎの修行へと追い立てられてまいりました為めに、やっと人並になれたのでございます。考えて見ると随分お恥かしい次第で……。

 それはそうと瀧の修行中にも、一つ二つの思い出の種子がない訳でもございませぬ。その一つは私の母がわざわざ訪ねて来てくれたことで、それが帰幽後に於ける母子の最初の対面でございました。

 この対面につきては前以て指導役のお爺さんからちょっと前触がありました。『汝の母人も近頃は漸く修行が積んで、外出も自由にできるようになったので、是非一度汝に逢わそうかと思っている。何れ近い内にこちらに見えるであろう……。』――私はそれをきいた時は嬉しさで胸が一ぱいでございました。そして母に逢ったらこれも語ろう、あれも訊きたいと、生前死後にかけての積り積れるさまざまの事件が、丁度嵐のように私の頭脳の中に、一度に押し寄せて来たのでした。

 それにつけても私の眼に特に力強く浮び出でたのは、前にも申上げた、母の臨終の光景でした。あの見る影もなく、老いさらばえる面影、あの断末魔のはげしい苦悶、あの肉体と幽体とをつなぐ無気味な二本の白い紐、それからあの臨終の床の辺をとりまいた現幽両界の多くの人達の集り……。私はその当時を憶い出して、覚えず涙に暮れつつも、近く訪れるこちらの世界の母がどんな様子をしていられるかを、あれか、これかと際限もなく想像するのでした。

 すると、それから間もなく、森閑と鎮まり返った私の修行場の庭に、何やら人の訪れる気配がしましたので、不図振り向いて見ると、それは一人の指導役の老人に導かれた、私のなつかしい母親なのでした。

『お母さま!!』

『姫!!』

 双方から馳せ寄った二人は互に縋りついて了いました。

 現在の母の様子は、臨終の時の様子とはびっくりするほど変って了い、顔もすっかり朗かになり、年齢もたしかに十歳ばかり若返って居りました。母の方でも私が諸磯の佗住居にくすぼり返っていた時に比べて、あまりに若々しく、あまりに元気らしいのを見て、自分の事のように心から歓んでくれました。

『これほどあなたが立派な修行を積んでいるとは思わなかった。あなたの体からは丁度神さまのように光明が射します……。』

 そんなことを言いながら、右から左からしげしげと私の姿を見まもるのでした。これも生みの母なればこそ、と思えば、自ずと先立つものは泪でございました。

 不図気がついて見ると、庭先まで案内の労を執ってくだすった母の指導役のお爺さんは、いつの間にやら姿を消して、すべてを私達母子の為すところに任せられたのでした。


底本:「霊界通信 小桜姫物語」 潮文社

1998(平成10)年07月31日第九刷発行
底本の親本は心霊科学研究会出版部
1937(昭和12)年02月発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力者: 泉美

かな修正: いさお


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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。