75、入水者の救助

 今度は一つ夫婦のいさかいから、危く入水しようとした女のお話を致しましょうか……。大たい夫婦争いにあまり感心したものは少のうございまして、中には側で見ている方が却って心苦しく、覚えず顔を背けたくなる場合もございます。これなども幾分かその類でございまして……。

 或る日一人の男が蒼白な顔をして、慌てて社の前に駆けつけました。何事かしらと、じっと見て居りますると、その男はせかせかとはずむ呼吸を鎮めも敢えず、斯んなことを訴えるのでした。――

『神さま、何うぞ私の一生の願いをお聴き届け下さいませ……。私の女房奴が入水すると申して、家出をしたきり皆目行方が判らないのでございます。神様のお力でどうぞその足留めをしてくださいますよう……。実際のところ私はあれに死なれると甚だ困りますので……。私が他所に情婦をつくりましたのは、あれはホンの当座の出来心で、心から可愛いと思っているのは、矢張り永年連れ添って来た自家の女房なのでございます……。ただ彼女が余んまり嫉妬を焼いて仕方がございませんから、ツイ腹立まぎれに二つ三つ頭をどやしつけて、貴様のような奴はくたばって了えと呶鳴りましたが、心の底は決してそうは思っていないのでございます……。あんなことを言ったのは私が重畳悪うございました。これに懲りまして、私は早速情婦と手を切ります……。あの大切な女房に死なれては、私はもうこの世に生きている甲斐がありませぬ……。』

 この男は三崎の町人で、年輩は三十四五の分別盛り、それが涙まじりに斯んなことを申すのでございますから、私は可笑しいやら、気の毒やら、全く呆れて了いました。でも折角の依みでございますから、兎も角も家出した女房の行方を探って見ますと、すぐその所在地が判りました。女は油ヶ壷の断崖の上に居りまして、しきりに小石を拾って袂の中に入れて居るのは、矢張り本当に入水するつもりらしいのでございます。そしてしくしく泣きながら、斯んなことを言って居りました。――

『口惜しい口惜しい! 自分の大切な良人をあんな女に寝とられて、何で黙って置けるものか! これから死んで、あの女に憑依いて仇を取ってやるからそう思って居るがよい……。』

 平生はちょいちょい私のところへもお詣りに来る、至って温和な、そして顔立もあまり悪くはない女なのでございますのに、嫉妬の為めには斯んなにも精神が狂って、まるきり手がつけられないものになって了うのでございます。

 見るに見兼ねて私は産土の神様に、氏子の一人が斯んな事情になって居りますから、何うぞ然るべく……と、お願いしてやりました。寿命のない者は、いかにお願いしてもおきき入れがございませぬが、矢張りこの女にはまだ寿命が残って居たのでございましょう、産土の神様の御眷族が丁度神主のような姿をしてその場に現われ、今しも断崖から飛び込まうとする女房の前に両手を拡げて立ちはだかったのでございます。

 不意の出来事に、女房は思わずキャッ! と叫んで、地面に臀餅をついて了いましたが、その頃の人間は現今の人間とは異いまして、少しは神ごころがございますから、この女もすぐさまそれと気がついて、飛んだ心得違いをしたと心から悔悟して、死ぬることを思いとどまったのでございました。

 一方私の方ではそれとなく良人の心に働きかけて、油ヶ壷の断崖の上に導いてやりましたので、二人はやがてバッタリと顔と顔を突き合わせました。

『ヤレヤレ生きていてくれたか……何と難有いことであろう……。』

『これというのも皆神様のお蔭……これから仲よく暮しましょう……。』

『俺が悪かった、勘弁してくれ。』

『お前もこれからわたしを可愛がって……。』

 二人は涙ながらに、しがみついていつまでもいつまでも離れようとしないのでした。

 その後男はすっかり心を入れかえ、村人からも羨まるるほど夫婦仲が良くなりました。現在でもその子孫はたしか彼地に栄えて居る筈でございます……。


底本:「霊界通信 小桜姫物語」 潮文社

1998(平成10)年07月31日第九刷発行
底本の親本は心霊科学研究会出版部
1937(昭和12)年02月発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力者: 泉美

かな修正: いさお


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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。