40、相摸の小野

 幾年かに跨る賊徒征伐の軍の旅路に、さながら影の形に伴う如く、ただの一日として脊の君のお側を離れなかった弟橘姫の涙ぐましい犠牲の生活は、実にその時を境界として始められたのでした。或る年の冬は雪沓を穿いて、吉備国から出雲国への、国境の険路を踏み越える。又或る年の夏には焼くような日光を浴びつつ阿蘇山の奥深くくぐり入りて賊の巣窟をさぐる。その外言葉につくせぬ数々の難儀なこと、危険なことに遇われましたそうで、歳月の経つと共に、そのくわしい記憶は次第に薄れては行っても、その時胸にしみ込んだ、感じのみは今も魂の底から離れずに居るとの仰せでございました。

 こんな苦しい道中のことでございますから、御服装などもそれはそれは質素なもので、足には藁沓、身には筒袖、さして男子の旅装束と相違していないのでした。なれども、姫は最初から心に固く覚悟して居られることとて、ただの一度も愚痴めきたことはお口に出されず、それにお体も、かぼそいながら至って御丈夫であった為め、一行の足手纏いになられるようなことは決してなかったと申すことでございます。

 かかる艱苦の旅路の裡にありて、姫の心を支うる何よりの誇りは、御自分一人がいつも命のお伴と決って居ることのようでした。『日本一の日の御子から又なきものに愛しまれる……。』そう思う時に、姫の心からは一切の不満、一切の苦労が煙のように消えて了うのでした。当時の習慣でございますから、むろん命の御身辺には夥多の妃達がとりまいて居られました。それ等の中には橘姫よりも遙かに家柄の高いお方もあり、又縹緻自慢の、それはそれは艶麗な美女も居ないのではないのでした。が、それ等は言わば深窓を飾る手活の花、命のお寛ぎになられた折の軽いお相手にはなり得ても、いざ生命懸けの外のお仕事にかかられる時には、きまり切って橘姫にお声がかかる。これでは『仮令死んでも……。』という考が橘姫の胸の奥深く刻み込まれた筈でございましょう。

 だんだん伺って見ると、数限りもない御一代中で、最大の御危難といえば、矢張り、あの相摸国での焼打だったと申すことでございます。姫はその時の模様丈は割合にくわしく物語られました。――

『あの時ばかりは、いかに武運に恵まれた御方でも、今日が御最後かと危まれました。自分は命のお指図で、二人ばかりの従者にまもられて、とある丘の頂辺に避けて、命の御身の上を案じわびて居りましたが、その中四方から急にめらめらと燃え拡がる野火、やがて見渡す限りはただ一面の火の海となって了いました。折から猛しい疾風さえ吹き募って、命のくぐり入られた草叢の方へと、飛ぶが如くに押し寄せて行きます。その背後は一帯の深い沼沢で、何所へも退路はありませぬ。もうほんの一と煽りですべては身の終り……。そう思うと私はわれを忘れて、丘の上から駆け降りようとしましたが、その瞬間、忽ちゴーッと耳もつぶれるような鳴動と共に、今までとは異って、西から東へと向きをかえた一陣の烈風、あなやと思う間もなく、猛火は賊の隠れた反対の草叢へ移ってまいりました……。その時たちまち、右手に高く、御秘蔵の御神剣を打り翳し、漆の黒髪を風に靡かせながら、部下の軍兵どもよりも十歩も先んじて、草原の内部から打って出でられた命の猛き御姿、あの時ばかりは、女子の身でありながら覚えず両手を空にさしあげて、声を限りにわあッと叫んで了いました……。後で御伺いすると、あの場合、命が御難儀を脱れ得たのは、矢張りあの御神剣のお蔭だったそうで、燃ゆる火の中で命がその御鞘を払われると同時に、風向きが急に変ったのだと申すことでございます。右の御神剣と申すのは、あれは前年はざわざ伊勢へ参られた時に、姨君から授けられた世にも尊い御神宝で、命はいつもそれを錦の袋に納めて、御自身の肌身につけて居られました。私などもただ一度しか拝まして戴いたことはございませぬ……。』

 これが大体姫のお物語りでございます。その際命には、火焔の中に立ちながらも、しきりに姫の身の上を案じわびられたそうで、その忝ない御情意はよほど深く姫の胸にしみ込んで居るらしく、こちらの世界に引移って、最う千年にも余るというのに、今でも当時を想い出せば、自ずと涙がこぼれると言って居られました。

 かくまで深いお二人の間でありながら、お児様としては、若建王と呼ばれる御方がただ一人――それも旅から旅へといつも御不在勝ちであった為めに、御自分の御手で御養育はできなかったと申すことでございました。つまり橘姫の御一生はすべてを脊の君に捧げつくした、世にも若々しい花の一生なのでございました。


底本:「霊界通信 小桜姫物語」 潮文社

1998(平成10)年07月31日第九刷発行
底本の親本は心霊科学研究会出版部
1937(昭和12)年02月発行

※ 青空文庫の「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字表記をあらためました。

※ 底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※ また、HTML化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に置き換えました。

※ 底本で使われている「面区点2-12-11 (U+2231E)」]の文字は、辞書によっては異体字として扱われていない「廻」で置き換えています。

※ PHP化に際して、底本中の傍点表記を、下線表記に、白丸傍点表記を、斜字に置き換えました。また、底本中のルビは割愛しました。

※ ルビ付き版はこちらです。


入力者: 泉美

かな修正: いさお


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小桜姫物語について

「小桜姫物語」の再編集完了。

1、ルビなしのPHP化により携帯電話での表示が可能になり、キーワード検索が容易になりました。
2、HTML版は、従来誤字の修正点が未掲載だったものをバルーンヘルプにて誤字の修正点が解るようにし、底本の状態に近づけました。
3、CSSを変更して、HTMLのルビが、IE以外のブラウザでも表示出来るようにしました。

 今後、他のページも同様に再編集して行きます。

次は「新樹の通信」の再編集を行ないますが、9月1日から9月10日まで、私事多忙につき更新おやすみ。